関連性があるのに、「科学的に」独立事象としてしか扱えない事象に関する考察

これは、「来生自然の。。。」での投稿内容ですが、あまりに当たり前すぎて、もしかしたら、みんな気付いていないのではないだろうかとか、いろいろ思いましたが、私にとって、非常に重要な考え方になりますので、こちらに別にアップすることにしました。

元の題名は

確率における従属・独立と共時性・シュレーディンガー方程式。。。

です。

主観と客観を切り離し可能だと仮定した場合の確率(従属・独立)は、通常扱われる「確率」の概念である。
しかし、事象が根本的に連続していて切り離し不可能という仮定の下では、全てが「従属」という関係におかれる。
ただし、観測事象に対して「私」と「あなた」との交換可能性というレベルにて、確率の計算上「無視しうるほど」影響が小さいという程度であれば、科学的に「客観的として扱いうる」とされる。逆に、そういったレベルでの「交換可能性」が成り立たないものは、「科学的」に扱い得ない。

ユングの言うところの「共時性」が非常に扱いにくいというところも、実は、この点にあると思われる。すなわち、「主体」と「対象」と「間の関係」とを「総体」として扱わねば「無意味」という状況(すなわち、確率論的に見て、「独立事象はない」という前提条件が既に付与されている状況)になる。

もし、仮に、そういった関連性があり、サイコロを投げるとき、「1」と念じることと、出る目との間に関連性があったとしても、複数の人間(生物・物質・空気・地球・太陽・宇宙etc)が関与すると、それだけで「ランダム性」が付与されてしまいうるため、観測として引っかかってこないだろう。

逆に言えば、そういったことにおいて切り離し不可能(すなわち関連性があるはず)なのに「ランダム」だ(ノイズレベルだ、法則性になりえない)ということ自身が、逆説的に「あらゆる事象の関連性」の影響を裏付けているともいえる。

すなわち、関連性があるにもかかわらず、法則性が不可能というレベルでしか、情が関与する側面としての「私・関係・対象」という「総体」は扱い得ないということになる。
このあたりの微妙さは、ユングが共時性についての言及をためらうほどであったということ自身、驚くに値しない程度のものであろうと思います。

そういう意味から、「総体としての情」(心の一部)の「全体」への影響は計り知れないにもかかわらず、皆が意識しえないという陳腐な状況になっているといえる。

上記考察において、事象が全体からの「切り離しが不可能」ということは、非常に重要なことである。
これは、いかなる状況下においても成立していることが前提条件になる。
もし、そういう条件が崩れる、ないし、揺らぐとき、仮に、対象となる事象が「精神世界」として認識されるものであれば、そこに「奇跡」といったものが発生する可能性を秘めている。
逆に言えば、精神世界のある一方向への傾倒が、世界全体をそちら方向へ押し流してしまう力を説明できるかもしれない。

上記考察は、あくまで「無矛盾な説明可能性」であって、それを越えるものではない。

しかし、この42年間の思考において、これほどまでに、完成された考えに到達したと感じたことが無いのも事実である。