私にとっての「真理」
1.はじまり
2.矛盾の無い世界
3.仮定
4.暗中模索
5.ゲーデルの不完全性定理
6.論理的考察の限界 (2001.9.21-)
7.それでも、論理的・客観的思考方法は、捨てきれない。
8.矛盾を含んだまま、人生は存在し、その方が健全であり、そうでなければ生きていけない。
9.そうまでして突き詰めるべきものなのだろうか?
10.人を超えた存在を、果たして人は認識可能か?
11.唯脳論での説明とその限界
1.はじまり
「真理」ってなんだろう?
おそらく、それが私が最初に思った疑問だったような気がする。
「何が正しくて」「何が間違っているのか」
親が常に正しい時代を過ぎ、親の考えに敵対する時期に突入したとき、
「真理」は唯一つしかない。
確かにそう思い込んでいた。
成長過程での、禊みたいなものだったのかもしれない。
「唯一無二」の「真理」を手に入れることが、人類の究極の目的では無いだろうかと、その当時思っていたような気がする。
物理学が、究極の「大統一理論」を目指すように。
2.矛盾の無い世界
「真理」を追求する。
その言葉は、私の脳裏にしっかりと刻み込まれた。
でも、もし、「真理」が存在するならば、その世界は「無矛盾」で無ければならない。
「全てに於いて矛盾無く、心に於いて矛盾有り。」
(無矛盾於全、有矛盾於心)
と、漢詩に似た文章を考えたのもその当時である。
3.仮定
物理数学の大好き少年だった私は、何事を考えるにしても、必ず全ての可能性を否定することは嫌だった。
いわゆる「場合わけ」で、全てを網羅しなければ、気がすまない性格だったような気がする。
たとえば、「神が存在する。」を考えるときには、「神が存在しない。」を必ず対で考えなければいけないと思っていた。
でも、受験数学でもない一般問題を考えるのに、全てを網羅して考えるのは、到底不可能であった。
とりあえず、「神は存在する」として考えよう。
と考えて、結論が出るまでに、15年が過ぎたようだ。
端から「神は存在しない」として考えなかったが、おそらく、私にとっての結果は同じことになっただろう。
ちなみに、私の結論は、
「存在すると思う人には、神は存在し、存在しないと思う人には、神は存在しない。」
である。
横道にそれたが、「全てを統合したとき全宇宙は無矛盾である」という考えをしたとき、
「いや、もしかしたら、全てを統合しても、矛盾は消え去らないかも」
という、ささやきが、心のどこかにあった。対立する2つの仮定は、決して消し去ることができなかった。
思考ゲームの中で、暗中模索していた。
「すべてのものは、矛盾せず。目を閉じずに、すべてを受け入れるとき、矛盾は自ずから消え去る。」
この考えのもと、高校時代を過ごした。
内部矛盾を排除することで成り立っている「数学」「物理」に、のめりこんで行った。
大学に入り、物理化学の教養の授業で、「自然科学のなんたるか」の、根本から開眼させてくれた先生がいた。
その事実が、私の「真理」探求に解決の糸口を与えてくれた。
というよりも、「解決不可能」と言う結果を与えてくれたのかもしれない。
というのも、その授業の中で、ゲーデルの不完全性定理に関する話があり、
「論理的な系で、その系を含んだ記述を論理的にしたとたん、矛盾する記述が発生する」
(正確な記述をした本が手元になく、後日書き換え予定)
でも、あまりにも単純明快な証明方法で、インパクトが強かったのを覚えています。
このことは、すなわち、自分自身で、自分自身全てを含むように、かつ、矛盾なく記述することは不可能。
ということになります。
6.論理的考察の限界 (2001.9.21-)
ゲーデルの不完全性定理は、言葉そのものを記号として扱うことで証明が成り立っています。
すなわち、「言葉は、その意味が厳格に決定されており、無限の意味を持たない。」
ということが前提条件になっています。
すなわち、命題が提示された場合、それは真か偽しかとりえない。すなわち、A=B
or A≠Bといった具合に、あいまいさを含まない命題が対象となっています。
論理的に、あまりに論理的に思考すればするほど、本来言葉のもつ「ゆれ」「ぼやけ」「あいまいさ」「含蓄」
といった「幅」が、その客観的な意味合いの中央値に収束し、人間が本来有している個性は消滅してしまいかねません。(何らかの結論は出るかもしれませんが。)
そして、よく起こることとして
「同じ言葉でも、微妙に意味が食い違ってしまう」
「メタ言語によるメタ言語への応報」
といった現象を、招くことになります。
まず、お互いに、言葉の定義をしてから、土俵をどのレベルに設定するかを決定してから、論争を行わなければならない。ということです。
おそらく、証明されていないと思いますが、(証明するほどのことで無いのかもしれません)ゲーデルの不完全性定理を「無限の意味を持つ言葉が存在する」系に適応した場合、あるいは、「矛盾を含むこと自体が真である」系に適応した場合、どうなるのでしょうか?
数学、哲学の専門の諸先生方、もし、証明があればお教えください
人間は、人類という一つの種と認識されています。
でも、人種というカテゴリーや、男女という分類、さらには、子供、大人、老人といった分類がなされます。
最終的には、個人個人が異なります。
近代科学は、没個性の内に、客観性のみを重要視し、人類に共通の項目を明らかにすることを目指してきたといっても過言ではありません。
その結果、たとえば、「血液型には、O型、A型、B型、AB型があり、輸血する場合には、注意が必要である。」
といった、「輸血」を中心とした分類が発見され、応用されました。でも、血液型は、ABO式以外にも、Rh式など、さまざま有り、真の意味では、個人個人ごとに異なることは、周知の事実です。
ここで、大きな分岐が生じました。
(1)科学をそのまま推し進めようとする
(2)科学以外の分野に解決をもとめようとする
さて、どちらをとればいいのでしょうか?
わたしは、どちらでもありません。
「科学」という概念をどう捉えるかで異なるところでもありますが、
人類の抱える諸問題は、
(a)「論理的」「客観的」思考のみでは、解決できず
(b)「主観的」思考のみでも、解決できないはずです。
(1)は(a)であり、(2)は(b)に対応します。
「論理的」「客観的」「主観的」etc.etc. に捕らえることで、個々の問題を解決していっているのが、人間です。
本当に、解決しなければならない問題には、「全身全霊」を傾けて望むことでしょう。
これは、広義の「哲学」に分類されるべき問題です。
狭義の「哲学」は、「論理的」「客観的」思考分野にて、「科学」にその座を明渡した残りの分野を占めている。
(←ですよね??? 哲学者の皆さん ←問題があれば、掲示板にて)
8.矛盾を含んだまま、人生は存在し、その方が健全であり、そうでなければ生きていけない。
自分自身の「真理」を突き詰めようとしても、思考対象に自分自身を含めてしまう以上、「論理的」に攻めても「矛盾」を克服できないことが判った以上、「真理」たるもの「矛盾」を含むと認めてしまえば、何ら、悪あがきをする必要もなくなってしまいまいました。
一応、「真理」の問題は、薄々思っていたとおりの結末を迎えたのですが、それでも、「私は何のために生きているのか?」という問題については、受験戦争中の真っ只中にて真剣に悩みました。
さて、「生きる」とは何ぞや、とか「真理」とは何ぞやなどと、考えざるを得ないきっかけがあったからこそ、哲学の道にはまり込んでしまったのですが、ふと周りを見ると、「そんなことに悩んでる時間が有れば、英単語や歴史の暗記をしなければ、明日はテスト」という状態がほとんどでした。
そして、「そんなことを考えなくても、生きていけるのに・・・・」と、思ってしまう日々もありました。
「果たして、哲学をして、結論がでたあとと、結論がでないままの現在と、生活は変わるのだろうか?」
「朝に道を聞かば、夕べに死すも可也」というけれど、本当なのだろうか?
「いくら悩んでも、何をどう考えていようとも、私と接する相手は、私の言動以外からは、私を理解するすべが無いというのに。。。」
「お気楽に生きればいいのに。。。」
と、思う日もありました。
でも、悩まざるを得ない環境に存在した場合、悩みを解決することは、真に人生を生き抜くことだと感じていました。
(2001.9.26途中)
10.人を超えた存在を、果たして人は認識可能か?
=
人は、なぜ、「生きる」ことを、こんなにまでして、苦しまなければならないのか?
人は、生まれたときから、肉体的にも、精神的にも、とりわけその頭脳は著しく成長を続けます。
成長過程において、必ず陥る「誤謬」ともいえる認識があるように思われます。
「昨日の自己よりも、今日の自己は確実に優れている。」
成長過程において「真」足りうる、この命題。
でも、そのときにはそれ以外の「真実」はありえないのです。
「人を超えた存在」
それは、「自己を超えた存在」と、当面定義しておきましょう。
学生時代、(就職してからも)、学ぶべきこと、学びたいことがある以上、「自己を超えた存在」は、必ず存在し、それは、「人」の中に多数存在しているはずです。
メタ理論であれ、何であれ、とにかく議論をして、相手を打ち負かしたときの気分は爽快なはずです。
ここで問題です。
「自己を超えた存在」として、「人」を指すとき、どういうことをもってして、「超えた」と感じるか?
(1)知識が豊富
(2)人間関係が自分より優れている
(3)異性にモテモテ
(4)発想が優れている
(5)肉体的に優れている
(6)その他
いずれかの領域で、他人よりも優れていると感じることが、「生きる」ことへの自信にもつながります。
もともと、「生きる」とは、「他に対する優位性」と、密接に関連しているように思われます。
親に代表される、「自分を庇護する環境」はさておき、食料ひとつ手に入れるにしても、本来は、さまざまな競争が存在し、それに勝つことこそ、「生きる」ということにつながっていたはずです。
本来、人間は、「優位でなければ生きていけない」
複雑化、専門分化し続けてきた社会において、すべての領域に「優位性」を保つことは不可能になってきています。
学生時代、「生きる」ことに悩んでしまう人々にとって、優位性を見出す領域が「勉強」か、「運動」か、「芸術」か、「それ以外」かの選択肢は、あまりにも酷な選択肢であるように思います。
「自信を失う」とは、「他に対する優位性を見出すことができない」と、同義になっているはずです。
「生きる」ことが「困難」に思える社会になってきているとは、すなわち、「他に対する優位性を継続して持ち続けることが困難」になっている社会ともいえます。
さて、ここで考えねばなりません。
「自分よりも優れている人」を「認識」できる「自己」は、相手よりも、本当に「劣っているのか?」
この文章には、実は、隠されたパラメータが存在します。
「時間」および「可能性」のパラメータです。
ある意味、非常に卑怯な手法ではありますが、多くの人間が、「生きる」うえで行っている思考でもあります。(ほとんど気づかずにそうしている事でしょう)
いわゆる、メタ思考の一種でもあります。
肉体的に(or 頭脳的に)優れた相手でも、想像の世界では、やっつけることができます。「2年後には、体を鍛えて(orゲームの腕を上げて)、あいつをやっつけてやるんだ」という考えにも含まれています。
自己の認識の内部に相手を捕らえることができるならば、いくら自分よりも優れていても、「いつの日か」、相手を超えることができるかもしれない。それを「想像」することが可能ですし、実際に超えることも可能です。
このレベルで悩んでいる限り、なんら問題なく人生を過ごせそうです。
(そうでもない場合があるかもしれませんが。。。^^;)
でも、問題は、「自分よりも優れている人」ではなく、「自分よりも優れている存在:X」を考えるようになったとたん、はじまります。
先ほど保留にしておいた一般的な文言に戻します
「人を超えた存在」X。
「X」、いきなり、「神」と置き換えてもいいですが、一般的には「形而上学的存在」です。
この段階で、一気に問題がややこしくなります。
逆に、対象が「形而上学的存在」でない場合、素直に喜び、素直に苦しむことが、生きていくことにそのままつながっていくことでしょう。そして、それは、好ましいコミニュケーションを誘発することでしょう。(でも、問題としては、あくまで上っ面の話題に限局しすぎる嫌いがあることでしょう。)←こういうことで、悩んでしまうこともあるはずです。
さて、「人を超えた存在」:Xは、「人によって認識可能か」です。「認識可能」であれば、標的として十分な領域に入ってくるので、いつの日か、「超えることが可能」なはずです。でも、そうすれば、「人を超えた存在」は、(想像の世界で)、「人に超えられてしまう」存在となってしまいます。
科学は、「理論的思考」と「客観性」を武器に、従来Xの領域であった、さまざまな領域を「人が認識可能な」領域に引きずりおろして来ました。
でも、「純粋に形而上学的な存在」については、捕まえることができないでいます。これは、ゲーデルの不完全性定理が関与しているとおもわれます。
⇒人を超えた存在を追い続けることは、目標に到達することが不可能で、永遠に問題を解決し続けようとすることになる。
一方、あらゆる「優位性」を失ったかのように感じる人々は、この事実を暗黙のうちに了承し、「自己の優位性」=「生きるための支え」を、形而上学的存在の「(人に対する絶対的な)優位性」の内に、求めてしまう。
これが、いわゆる「宗教」とでも言うべきものだと思います。
(2001.10.18途中)
(2001.10.26一部改変)