我が心の智に送る言葉。

人が、自我に目覚めるとき、自分の人生を否定したくなるときがあるかもしれない。

あなたの存在が、あなた自身のためだけでなく、あらゆる存在に影響していることを知るべきなのに。。。

心の中の叫びは、虚しく、誰にも聞き取られることもないだろう。
でも、心の中で何かを叫んでいることは、誰の目にも明らかだ!
いくら、隠そうと思っても、体からにじみ出る叫びは、その本心から発せられたとき、
何がしかの影響を与える。

あなたの、何気ない行為や、何気ない言葉の端々に現れる。

私は、学生時代、「いくら心の中で叫んでみても、何の解決にもならない」
と、思い続けていた。いや、つい最近までそう思っていたかもしれない。
でも、そうし続けることで、気付かないうちに、言動に表れてくるようになる。

人は、自分の存在を否定したくなるとき、そう判断する自分の存在を虚ろに見守っている。
絶対的な判断者としての「影の自己」を隠し持ってしまう。
その「絶対的な判断者」としての「影の自己」とは、自分の心を、物言わぬ「他人」に投影し、その「他人」が自身をそのように判断しているかのごとく、「断定」している存在。

「影の自己」の「絶対的な優位性」は、いったいどこからくるのだろう。
誰が、あなたの「存在価値」を決定できるというのだろう。

あなたの「存在価値」を否定するところに居続ける位なら、あなたの「存在価値」を肯定するところに行くべきである。

「影の自己」が存在し、「自己」を否定するのなら、「影の自己」を否定する「自己」も、必ず存在するはずである。

「自己」を認識する主体である「脳・心・生命」は、「自己」よりも大きく、「自己」が決して完全に認識したり、完全に把握したりできない存在である。

自分自身を、自分自身で、知り尽くすことは不可能である。

可能性がある限り、いや、なくても、
「死ぬまで生きる!!」 という意思。


それこそが、「人が人の思想を超えようとし続ける存在」であることの証なのかもしれない。

生命とは、「たとえ希望がなくとも、明日に向かって飛び続けようとする鳥のようなもの」(「風の谷のナウシカ」:から、改変 --- 注1)
なのかもしれない。

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注1:原本では「私達は 血を吐きつつ くり返し くり返し その朝を こえて とぶ鳥だ!!」と、なっています。