「私が考える認識論」(唯脳論的モデル)
追加(2002.7.31):分かりやすくするための,図を追加しました。(あるいは余計に分かりにくく^^;なるかも)
参考図1
参考図2
さて、随分と間があいてしまいましたが、
「自己」とは?
「こころ」とは?
ということに関して、最新の脳科学の発展は、人間の認識を飛躍的に高めていくようです。
「私が理解した」ことに基づいて、これら関係を図にすると、以下のようになります。

ここで、「言語的・非言語的 思考・認識」と言う領域は、「意識」の領域です。「意識」と「無意識」を区別する向きもありますが、「意識される領域」は、常に変動しており(←生きている証)、瞬間的には「無意識の領域」とオーバーラップする部分があると思います。
「言語的・非言語的 思考・認識」は、以下、単に「思考・認識」とします。
興味深いことは、この「思考・認識」領域で、「自己」そのものを「思考・認識」しようとすることです。
でも、「自己」の全てを認識しているわけでないことは明らかであり、『自己』という言葉(記号)で、不完全に認識している「自己」をメタ的にあらわしています。
さて、上記モデルは一見「唯物論」のように思える「唯脳論」に基づくものですが、この図の中には「こころ」という領域をあえて記入していません。
「こころ」や他の事柄を考える前に、「唯脳論」が如何に強力かを考える上で、いわゆる「多重人格」のモデルは有用だと思われます。先日、養老氏の「生命38億年スペシャル 人間とは何だ!!III」にて、解説されていたことを上記図に当てはめると以下のようになります。「思考・認識 主」は、長期記憶の連綿たる流れによって形成されていますが、「思考・認識 従」は、長期記憶の断片によって形成されています。これは、「思考・認識 主」を「意識下」とすれば、「無意識」に属することになります。この「主・従」の関係が逆転するとき、他者から見れば「多重人格」と判断されるわけです。
自分が「多重人格的」だと考える場合には、左の図の状態ではなく、右の図の状態になっていると思われます。


そして、この状態は、誰しもが有しうる状態だと思われます。
例えば、以下のような状態です。

さて、それでは、「こころ」はどこにあるのでしょうか?
脳の中でしょうか?
脳を含むのでしょうか?
それは、「こころ」の定義によります。
と、逃げておきます(^^;)
同じく、「聖なる存在」についてもです。
これらは、「認識された」存在としてその個人に「認識」されます。
これらについて「考えたり」「議論したり」できるのは、この限りにおいてのみです。
逆にいえば、「形而上学的存在」は、

という状態で、認識されていることは間違いないですが、その実態がどこにあるのかを問うことは「唯脳論」では、「不可能」といわざるを得ないと思われます。
なぜなら、外からどのニューロンが活動しているかを知ることが出来たとしても、たとえば「こころ」のみに意識を集中したところで、「認識されたこころ」に相当する「認識ニューロン」が活動することになり、その実態に迫ることが出来ないからです。
それゆえ、「唯脳論」は、二元論を否定しない一元論です。
さて、「言語」は日常生活に於いてほとんど無意識のうちに用いられていますが、「論理的」「記号的」に思考できる限りに於いて、ほぼ厳密に「記号的な言語」にて人間同士コミュニケーションできます。
これは、そのままコンピュータ言語に焼きなおすことも可能になってきています。
prologといった「ゲーデルの完全性定理」にもとづく処理系がその代表です。
ちなみに、prologでは、自己言及的記述が出来ないようになっており、「ゲーデルの不完全性定理」を表現できませんが、prologをも記述できるLisp処理系では、自己増殖可能な記述もでき、「ゲーデルの不完全性定理」を表現できるとされています。(再帰プログラムでなく、プログラムをプログラムするプログラムを記述可能)

脳内で思考したことを、「言葉や図・記号」として、「外部」に保存し、それを「読み解く」ことで、次世代へと伝えていく。しかし、「外部」に記憶されたものは、「学習」や「経験」や「努力」なくしては、得ることが出来ないのも事実です。でも、「言外」に隠された「意味」や「表現のしようのない感覚」などなど、その当人でしか「認識」しえない事柄を伝えることは不可能に近いと思われます。
さて、ここからが問題です。
この「唯脳論」では、現時点でのさまざまな「思考」に関する「説明」が出来るように思えますが、以下の疑問点が沸いてきます。
@自律的に「自己」を認識し続けたらしめているものは、なんなのか?
Aどうして、「他者」が「自己」と「同様な」認識が可能で、「認識を共有しうる」のか?
Aについては、「人体および脳の解剖学的・形態学的・構造的な相同性」が、大きな意味を持つように思われます。このことは、「共感」と言う言葉に代表される、「共通の認識」が、脳の同一部位あたりのニューロンの活動によって説明されるとのことからも分かります。(毎日放送:「生命38億年スペシャル 人間とは何だ!!III」)
@については、後ほど・・・
私は、このような観点から、そして、ジョーカーさんをはじめ、いろいろな方とインターネットを通じて得られた「私なりの現時点での認識モデル」を以下に示します。この内、狭義の哲学的智と科学的真理の両者を含めたもの(よりも広い領域)が広義の「哲学」になるものと考えます。これらは、主に記号としての「言語」によって、語り伝えられる対象物でもありえます。
←伝えられない段階で、「学問」たりえないため。
※「モデル」はあくまで「モデル」であり、自然の中の私の現在の脳の中に描かれた「認識」を、「視覚」というフィードバックを通して「再認識」しながら、描くという行為によって生成された存在。
で、考える主体が「ヒト」である以上、この呪縛からは逃れられないにもかかわらず、常に「外へ」と思考する「科学者」と常に「内へ」と思考する「哲学者」と、その両方への思考を常に行う「人間」が、生まれては去ってゆくのだと思います。
「その思考が自然を俯瞰する目を有していたとしても」、その俯瞰そのものが、自然に含まれてしまい、無限の螺旋階段を上っていくが如くあるのです。
そして、この上昇への知らず知らずの意思が、保留にしていた@への解答の一つ足りうると思っています。
(2001.11.25)
補足:そして、この「唯脳論」は「認識論」に他ならず、「対象物」を規定していないこと、それによって、「対象物」が「存在しようと存在しまいとに関わらず」、当人にとって「認識されているか否か」にて、当人にとっての存在が規定されるという特異な面を有しているということに注意する必要があります。
(2001.11.26)
それゆえ、「神は信じる人にとって存在し、信じない人にとって存在しない」と言えるのだと思います。
このことは、「その人にとっての真理は、他の人にとっての真理足り得ない」ということを意味します。(価値観の多様性)
しかし、「共感」に代表される「共通の認識」が、どこまで可能で、どこから不可能かを、注意深く(他者とのコミュニケーションから)得ることで、ヒトは人間として生きていけるのだと思います。
この価値観の共通基盤の広さ・深さ・永続性は、それを共有する人々の結束力にも結びつきますが、その中に、「異質なものを排除する意思」が含まれたとたん、人々は「永遠の争いから解き放たれない」状態になるのだと思います。
この共通基盤の時空間的な密度は、家族>地域>民族(国)>。。。となっているのだと思います。(参考→「私の悩み」内、神の考察。その1、1994.9.26の思考より)
(2001.11.29)

(広義の)哲学=(狭義の哲学的智)+(科学的真理)+Σ(○○学的真理)
自然⊃科学的真理 --- 「論理的」かつ「無矛盾」かつ「客観的」に説明可能な領域
自然⊇哲学 --- 人間の思考限界(かな?)
∵自然∋人間
なお、表現上の制約から、重なりの大きさと、それぞれが含有する「質・量」とは、まったく無関係です。
