国東半島の古代文字 土屋 北彦  国東市下成仏八乙の雑木林の小山を10分ほど登った頂上付近に、古代文字(神代文字)が彫られた巨石がある。巨石は約3.5平方メートル、厚さ約1.5メートル、重さは数トンぐらいある。  表面にトミアキタラシナカオキテンノウの刻字があり、裏側に窪みにその天皇の詔勅と思われる三十五の文字が七行に亘って見える。 その文字は豊国文字と言われる古代文字で、深さ約6ミリ、大きさ約10センチの刻字である。「上記」(ウエツフミ)の解読によれば、   其処を焼き   良き地掘れ   霜は融く   日輪の神宣よ (太陽神のカミノリ) 此フキアエズ (し葺不合)此は   子二十五代 (ね)子孫   テムダ (日御子・天皇)  と読める。  発見者溝部安司氏(故人)に依れば、「子供の頃よくかくれんぼをしていて、変な符号のようなものがあるな」と思っていたが、「関東地方に勤めて定年後、よく確かめて見て古代文字であることに気がついた」とのこと。1999年には、日本ペトログラフ会長吉田信啓氏が調査に訪れた。 「上記」に依れば古代日本には神武天皇(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)以前に七十二代もの天皇が居て、それぞれの業績が記録されている。また、漢字渡来以前に国字が用いられたと書かれて二種類の文字が見られる。「上記」は大友本・宗像本それぞれ四十数冊の写本が現存している。 「上記」で概当の箇所を見ると、   この皇后は、御懐妊されて、大地・小地にとりなし、神冴えに地歩き、緩歩きまして、お生みにな  った皇子の御名は、   トアキタラシナカオキノ尊と申す。(富秋足長息尊) (上記宗像本ではトアキ)   この皇子は天津霊嗣ぎの御子にあらせられるので、大御名を、   ヒコナギサタケウガヤフキアエズ二十五代彦天皇(日子波限建武鵜茅草葺不合尊)   と申し上げる。  8000年以上も昔の刻字が判別できる訳は、戦後間もなく山麓の農家に尺間大神宮の行者が来て一週間ほど山に通い、刻字をなぞって深くしたからだという。  巨石の傍に、別の石柱があり、「○(日輪)山陵 富山」の刻字が見られる。その意味は分からないが、富山県(越の国)神通川上流にある皇祖皇大神宮と関係があるとも、富塚山に葬られたとも言う。数十メートル下ったところに「酒匂石」と思われる岩がある。前記巨石と同じくらいの大きさで、表面に上から下に一条の溝が彫られている。恐らく儀式の際、溝に酒を流したものと思われる。
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君が代考・豊後国東郷百姓一揆考  土屋北彦
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豊後国東郷百姓一揆考・君が代考  土屋北彦
    
2004/10/10 於北九州市・千種ホテル 第49回口語俳句全国大会講演資料

「君が代」考
  
  土屋北彦 (新俳句人連盟名誉会員・日本民話の会会員)

はじめに
   
  ただいま、ご紹介いただきましたように、私は、俳句のかたわら民話収集という仕事を、50年以上も続けております。その研究をしておりますと、古い文献を目にする機会があります。そのなかで”ああ面白いな”と思ったのが、本日お話し致します「君が代」のことです。「君が代」のことで、多分皆さんがご存じないだろう、と言うようなお話を中心に、今からお話ししたいと思います。
 子どもに、「『君が代』と言う歌を知っていますか」と尋ねると、「ああ、知っているよ、オリンピックの歌だ」「大相撲の歌だ」「プロ野球の歌だ」という答えが返ってきたということであります。勿論冗句で、現在の小学校の音楽の教科書には、もうずうっと「君が代」の歌詞が掲載されております。先生が教えるか、教えないか、と言う違いはありますが、最近の子どもたちは「君が代」の歌詞や音符は知っています。
 私自身の、子どもの頃を振り返ってみますと、非道な軍国主義教育の許に育ちました。祝日、入学式、卒業式そういった場合には必ず「君が代」が歌われ、「君が代」によって基礎教育を受けてきた、と言う苦々しい歴史があるわけです。それに私は、日本に海軍に一年間入隊致しました。その海軍での生活では「君が代」というのは、教育の根幹に拘わる重大な歌でありました。海軍では、歴史を「忠死の学」(忠義の為死ぬ学問)として、天皇という一個人に、命を捧げることが最高の美徳というように教わりました。海軍には、軍歌演習というものが有り、毎日軍歌の歌詞を頭上に差し上げて歌うのですが、その初めには必ず「君が代」を唱和したのであります。そのように、

・きみがよはちよにやちよにさざれいしのいわおとなりてこけのむすまで

 の歌詞は、我々にとっては、あたかも軍国主義のブラスバンドに似た効果を持っておったと考えられます。
戦後になりまして、学校の先生方の中には、この歌を否定的に考える人が非常に多くなりました。学校の祝日、入学式、卒業式、そう言う時に「君が代」を唱和しよう、と言っても拒否して歌わない。校長や教頭だけが歌うという時代がありました。ところがご存じのように、「君が代」は非常に早く、明治時代から国歌として運用されまして、法案成立以後でも、最近の二月でしたか、生徒と共に「君が代」の斉唱を拒否した先生が訴えられる。そう言う時代に又戻ってきた様な感があります。 「君が代」という歌はですね、約千年昔から日本に存在した歌であります。今私が申しました日本の歴史上、戦争のブラスバンドになった「君が代」というのは、明治以後の約百年です。ですから「君が代」はもっと歴史的に遡って考えてみなければいけないんじゃないかと、そう考える訳です。そこで今から本論に入らせて頂きます。

「君が代」の歴史

・君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで

 この歌詞が初めて文献に登場しますのは、『古今和歌集』です。『古今和歌集』は延喜五年(905)に作られた20巻の勅撰集で、紀友則・貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑等の撰に成ります。その第7巻「賀歌の部」に「題知らず」「よみ人知らず」とあって、      
・我君はちよにやちよにさゞれいしの巌と成りて苔のむすまで
・渡津海の浜のまさごをかぞへつゝ君が千とせのありかずにせむ
・しほの山さしでのいそにすむ千鳥君がみよをばやちよとぞなく
・我よはひ君がやちよに取そへてとゞめをきてはおもいでにせよ
 という4つの歌が載せてあります。これで解るように、この歌は「賀歌」です。
「賀歌」というのはどういう歌かというと、「年寿」を祝う歌、と言う意味です。
「年寿」とはどういう意味かというと、孔子が言ったと言われる『論語』に、
「子曰我十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩」
 と書かれています。これを見ても解りますように、40,50,60,70というのがそれぞれの年寿。ですからこの『古今和歌集』の歌は、自分の知人に対して、貴方が何時までも健康で楽しく暮らせますように、と言う祈りを篭めた贈答歌です。

「君が代」は庶民の年寿を祝う歌

 これですぐ解ることは、今の「君が代」と冒頭が違っていますね。「我が君は」となっています。最も当時は、印刷技術が発達していませんので、殆どが写本という形で今日まで残っております。いろいろな写本があって、この時代より後に出た『和漢朗詠集』(1356年)ですが、この本の中には冒頭の部分を「我君」ではなく「君が代」と書いたものが有ります。そして「千代に八千代に」という部分をひらがなで「ちよにやちよに」と書かれたものや、「千代」という字を「千世」と書いたものもあります。今の歌詞であります「千代」は少ないようです。

 この『古今和歌集』の序文、紀貫之が書いた仮名序を見ますと、 「……さゞれいしにたとへ、つくば山にかけて、きみをねがひ、よろこび身にすぎ、たのしひ心にあまり、ふじのけぶりによそへて人をこひ、(中略)浜のまさごのかずおほくつもりぬれば、いまは、あすか河のせになるうらみもきこえず、さゞれいしのいはほとなるよろこびのみぞあるべき」
と書かれておりますので、この『古今和歌集』よりずっと以前から「君が代」の歌は流布されていた、と言うことが解ると思います。そこで『古今和歌集』の905 年を遡って、古い文献を当たってみますと、和銅5年の有名な『古事記』(712年)に、

・大君の 心をゆらみ 臣の子の 八重の芝垣 入り立たずあり
・さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
 という歌があります。

 少し時代が下がって「万葉集」宝亀2年頃(771頃) 4516首の中に、
・君が代も我が代も知らむ磐代の岡の草根をいざ結びてな
・わが君はわけをば死ねと思へかもあふ夜あはぬ夜二走るらむ
・わが君にわけは恋ふらし給りたる茅はなを喫めどいや痩せに痩す
・わが大君ものな思ほし皇神の嗣ぎて賜へる吾無けなくに
・やすみししわご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の辛崎
・大君は神にしませば雨雲の雷の上に庵せるかも
・今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は
 それから、これは短歌ではありませんが、巻18の長歌の中に、大友家持が作った
・海行かば水漬く屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ

  これは私が軍隊時代に、よく歌わされておりました「守るも攻むるも黒鉄の浮べる城ぞたのみなる」という「軍艦マーチ」の一節が終わった時に、
・海行かば水漬く屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ温(のど)には死なじ
  と歌いました。「温には死なじ」は、温和の意で、陸上での穏やかな死より、我々は海の上でこそ死ぬべきであるという、海軍軍人としての使命感を歌ったのであろうと思います。

  さて『古今和歌集』にありました「我君は」の歌は、同じく紀貫之が撰したと言われる『新撰和歌集』(930年)の中にも見られます。
・我が君は千世にやちよにさゝれ石の巌となりて苔のむすまて
 
  この場合、「千代」という字が、先ほど言いました「千世」と書いてあります。また『和歌體十種』という本も出されてあり、
・わかきみはちよにましませさゝれいしのいはほとなりてこけのむすまて
  全部平仮名で書かれています。

  後白河上皇が撰して、全国に流布された『梁塵秘抄』(1169年)には564首が掲載されていて、
・君が代は千代も住みなん稲荷山祈る験のあらんかぎりは
・君が代はかぎりもあらじ三笠山峰に朝日のささむかぎりは
・君が代は万代までにさしてけり三笠の山の神の心に
・君が代は予てぞ著き春日山二葉の松の神さぶるまで
・君が代は松吹く風の音高く難波のことも住吉の松
・わかきみはちよにや千代にさゝれいしのいはほとなりてこけの無数左右

  などの歌が見つかりました。この『梁塵秘抄』には、童歌の原型と言われる 「遊びをせんとや生まれけむ」「烏は見るに色黒し」「居よ居よ蜻蛉よ」などの民間の歌が載っています。

 それから、嘉禎元年(1235年)に藤原定家が『百人一首』を編纂しています。この中に、君という言葉を使ったのは次の2首です。
・君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ

 これは、光孝天皇が作った歌で、この「君」というのは、相手に対する尊称であります。
・君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
 これは、藤原義孝という人の歌です。この場合の「君」は明らかに恋人の女性を指しています。

 続いて『和漢朗詠集註』(1356年)という本の中に、巧みに「君が代」の歌についての要約があります。
・君が代はちよにやちよにさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで、古今の賀の歌には、わがきみはちよにと有り、古今六帖には、我がきみはちよにましませさゞれ石のとあり、堯惠云く、千代にや千代と重詞也、八千代にあらず、宗祇云ふに、やはてには也、榮雅云く、君は千世に千世をかさね、さゞれいしの岩保となるまで、久しくましませとなり、千代にとよみきりて、八千代とよむといふ説もあり、さゞれ石は小石細石とも云ふ、苔のおふるをむすとよめり、巌となるばかりにては、巌のたよりなければ苔のむすとそへたり

 と解釈されています。このように「君が代はちよにやちよに」は、千代の上に更に千代を重ねるという言い方で、千代に「や」は弓偏の「弥=いよいよ」ですね。その意味は君が代は最初は八千代ではない。八千代というのはこれよりすーつと時代が下がって「千代に八千代に」と歌われるようになったものと思われます。その証拠に、『古今』以前の『万葉』とか、各地の『風土記』に載せられております「君が代」の歌を見ますと、「千代」に対応するものは「万代」(よろずよ)です。

「君が代」は恋の歌

  同じく永正5年(1518年)に『閑吟集』と言って、民間の歌を集めた本があります。作者はよく解っておりませんが、室町時代の巷間に歌われた小唄を集めたものです。この中に、
・めでたやな松の下 千代もひくちよ 千世千世と
 やっぱりこれも「八千代」とは言っていません。千世を重ねて「千世千世」とあります。

 それから『隆達唱歌』天正18年(1590年)という本が出ました。この「隆達」という人は、泉州境の商家に生まれ、後に日蓮宗顕本寺の僧侶になった人であります。この人が、慶長年間に流行った歌を集めたり、自分でも作ったりして本にしています。その冒頭に「君が代」が出てきます。
・君が代は 千代にやちよに さゞれ石の 岩ほと成て 苔のむすまで

 この次が面白いのですが、
・思ひ切れとは 身のまゝか 誰かは切らん 恋のみち

  という歌が並べて書いてありまして、「君が代」というのは、恋の歌であることが明らかになると思います。ですから「君が代」は、天皇を礼賛する歌ではなくて、庶民があなたの生涯が幸福であるように、という願いを篭めて歌った歌だと言うことが明白で、その証拠を更に追求すると、『恨之介』慶長年間(1600頃)という本が出ました。仮名草子の自作で、作者はよくは解りませんが、内容は、旗本と禁裏の女房との密通事件を取材して採り上げております。その中にこういう文章、
・当世はやりけるりゅうたつぶしと思しくて ぎんじ玉ひけるは「君が代はちよにや千世をかさねつゝ岩ほと成りて苔のむすまで」
  ここでも明らかに「ちよにや」千世を重ねてとあります。

  同じく慶長年間に、若狭の小浜藩士伴信友という人が『古詠考』(1830年頃)を著しました。これをめくっていましたら、大変面白いことを書いています。
・若狭の風俗に、春の初めまた節供などいふ日に、盲女のものもらひにありくが、門に立て、「君が代は千世に八千代にさゝれ石の岩ほとなりてこけのむすまて」の歌をうたふが、大かた彼御詠歌のふしと異ならねど、をりからのほぎ歌なれば、うたふ声も、きくこころもあはれににぎはゝし。老人の云、むかしは今よりもみやびてきこえたりといへり。おのれがいとわかゝりし頃聞たりしと今はまたいやしく童歌のかたにちかくなりたり。

  と述べておりまして、ものもらいの女が門付けで「君が代」を詠っておった。そして、この歌は時代が経つに連れて、子どもの歌みたいに幼稚な詠いかたになってしまった、と言うところまで付け加えてあります。

  寛永9年(1632)に 安楽庵策伝という美濃の出身の人が、非常に面白い文章を沢山書いております。その『醒睡笑』に、

・青豆を煎豆につけたる菓子、太閤の御前へ出したれば、幽齋法印に向はせたまひ、何となんととありし時、「君が代は千代に八千代にさゞれ石の巌となりて苔のむす豆」
最後は「まで」を「豆」ともじって、細川幽齋が秀吉を笑わせた、ということです。この本は現在でも沢山の落語のネタとして採用されています。そして更に、「君が代」が恋の歌であるという証拠を示すのが、次の歌です。

『狂言歌謡』 寛永19年(1642年)に発行されました、能楽や狂言の作謡を集めた本に、

・君は千代千代 われはいちご はなれやるまひやるまひなふ にへにかわにても つけた身じゃ物

  という歌があります。あなたの寿命の何時までも続くことを祈り、同時に私の一生の変わらぬことを願います。そして二人の仲は「煮えた膠でくっつけたように永遠に離れることはありません」と詠っていて、恋の歌の最たるものであります。

『吾吟集』慶安2年(1649年)には、
・苔のむすめ子りゅうたつを吟じ、つくば山の七つ石にかけてひょうしをとり、「君が代はちよにやちよにさゞれ石のいはほとなりて苔のむすまで」

  これを流行歌みたいにあらゆる庶民が歌っていたことが記録されています。

『落葉集』元禄7年(1694年)は『松の葉』に洩れた歌などを、大木扇徳という人が集めたもので、
・君千歳山それは昔のさゞれ石巌に生ふる苔の色はとにかくに、君と我が仲よも尽きじ。

  と、明らかに「君が代」が恋の歌であることが解ります。
『山家鳥虫歌』明和8年(1771)に出た本は、「やまがとりむしうた」と読むのかも知れませんが、長常南山が農山村や街で庶民の間に流行した多くの歌謡を集めたもので、後に後水尾天皇によって『諸国盆踊唱歌』として再発行され、たいへん評判を得たそうであります。

・千歳に余るしるしとて君が代を経る春の松が枝
・千世も長かれ此の君のろうぼくの松は栄えゆく
・千世にやちよにみよをさまりてなみもしつかに四つの海
・うすよ回れよどんどと落ちよ君が代うすは何時までも

  このように「君が代」に関連する多くの歌が見られます。

  次に俳句の方を見ることに致しましょう。俳句と言いますと、有名な文人井原西鶴が、「俳諧大矢数」として、一日に二万三千五百句を作り、自分のことを二万翁と称して威張ったそうで、この句の中には「君が代」をテーマにした句も相当有るはずですが、残念ながら調べる機会がありませんで、(発句以外は現存せずとも言う)飛ばしまして、

『俳諧大句数』 
・けつまつく二条通の細少石
・しつかによめやれ君が代の歌
『物種集』
・なけかねをしてわたる君が代
・唐網のいはほと成てさゝれ石
『麦林集』
・君が代や猶も永字の筆はじめ
『七部集』
・我春の若水汲みに昼起きて
・餅を食ひつゝ祝ふ君が代
  などの句が見られます。これも庶民の間に如何に「君が代」の歌が流行っていたかということの証左でしょう。

『江戸古謡』に、 
・君と寝ようか五千石取ろうか何の五千石君と寝る
・君と別れて松原行けば松の露やら涙やら

  このように「君」というのは明らかに相手の女性を意味していますし、恋人との別れの淋しさを詠っているのです。

『古今集遠鏡』本居宣長著(1797)は『古今和歌集』口語文注釈書で、
・コマカイ石ガ大キナ岩ホニナッテ苔ノハエルマデ千年モ万年モ御繁昌デオイデナサレコチノ君ハ

  と、賀歌としての「君が代」を解釈しております。
「亥の子搗き歌」と言うのがありまして、これは関西以西で、陰暦十月の亥の日に猪の害を、土を叩いて固めるという民間の行事でありますが、この時のかけ声を子どもたちが唱和して各家庭を廻ります。

・これの屋敷は良い屋敷 南下がりの北上がり 東方朔は八千代 浦島太郎は九千代 先年も万年も生くるように サンヨウサンヨウ

  この文句の中に「東方朔は八千代」と詠う、この東方朔とは何であろうかと疑問に思って調べてみましたところ、これは中国の前漢時代の有名な学者の名前で、大変皇帝に愛された滑稽文学の雄だと言うことです。彼は西王母の桃を盗んで長命を得、八千代も長生きをしたそうです。こいう人名がどうして亥の子歌の中に紛れ込んだのかは解りませんが、このように「八千代」は「やちよ」ではなく「九千代」に対応する言葉です。

  以上、沢山の例を挙げて「君が代」の「君」が天皇ではないと言うことを証明してきました。まだまだ沢山の記録がありますが、いちいち挙げるときりがないので題名だけでも挙げておきますと、

『栄華物語』『松の葉』『曽我物語』『義経記』「謡曲老松」「同弓八幡」 「浮かれ草」「謡曲養老」「同春栄」「箏曲鶴の巣篭」「同難波獅子」「薩摩獅子」「長唄駿河名所」 「常磐津子宝三番叟」「琵琶歌蓬莱山」『千代田城大奥』『深秘徳川大奥』

「君」という言葉の分析

『話の大辞典』日置正一著を要約しますと、 ・710年4月に陸奥の蝦夷らが「君」の姓を賜りて国民籍に編入された。よって765年「君」の字を付ける者は悉く「公」という字に換えられた。そのくらい「君」というのは価値のある言葉でした。大分の方でも、大分の君「えさか」恵むという字に寸法の尺で「惠尺」。これは『日本書紀』に出ています。ところが、そのように大事にされてきた「君」という言葉は、歴史を見ますと平安朝には「君」は遊女の呼称にまで下落して「辻君」「遊君」などにも用いられた。そして武家時代には「国君」「わが君」「主君」などの尊称として復活。そこで、これに関連しますが、高杉晋作が1863年奇兵隊組織の時、いろんな人が全国から集まったんですが、「きみ」という言葉が非常にまちまちなんですね。「そなた」「そっか」「なんじ」「おまえ」「そのじん」「あなた」「あんた」「きこう」「きでん」「きでん」「われ」「おめい」「そこもと」「なれ」という風に、いろんな言葉を使って相手を表現しておりましたもので、会話が出来ない。そこで晋作が呼び名を統一するためあなたは「君」自分は「僕」を使うように奇兵隊の連中に命じて統一用語として用いることに決めたと言うことです。

 それにしても「辻君」にまで成り下がった「君」が、「主君」に再び格上げされた歴史は面白いと思います。

天皇の代名詞は「大君(おほきみ)」です。「額田王(ぬかたのおほきみ)鏡王女(かがみのおほきみ)長田王(ながたのおほきみ)」等は固有名詞です。

「君が代」の制定

 さて、「君が代」という歌が明治になって日本の国歌として使われるようになった。詳しく言えば一応軍隊で国歌のように扱われたのですが、法律的には一度も国歌として公布されたことはないのです。その経緯を申しますと、

「官報」明治26年8月12日、文部省告示第3号「小学校に於いて祝日・大祭日の儀式を行うの際唱歌用に供する歌詞並びに楽譜別冊の通り撰定す」
明治2年 作曲依頼
明治3年 薩摩軍楽隊がフエントン作曲の「君が代」を天皇御前演奏
明治13年 林広守・エッケルトの楽譜完成 (奥好義の作曲したものを補作)
明治21年 「大日本礼式」として通達
昭和6年 「大日本帝国国旗法案」衆議院通過、貴族院で審査未了廃案 昭和33年 「儀式などを行う場合には、国旗を掲揚し、君が代を斉唱させることが望ましい」(学習指導要領)
昭和64年 「入学式や卒業式などに於いては、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導する」
平成11年 「国旗国歌法」(国歌)第1条 国旗は、日章旗とする。日章旗の制式は、別記第1の通りとする。君が代の歌詞および楽曲は、別記第2の通りとする。 (別記略)7月22日衆議院通過

「君が代」成立の経緯

 薩摩出身の陸軍元帥大山巌の「談話」に、
・頃は明治三年の末、若しくは四年の始めなりしならん。薩長その他より御親兵を出した後未だ久しからざる時であった。自分は薩摩から出た砲兵の隊長を務めていた時の事である。(中略)当時御親兵の大隊長は野津鎮雄で、薩藩より東上していた少参事に大迫某という人が居たが、此の江川与五郎の来た時、偶々野津、大迫両人が来合わせていて共に其の話を聞き、成る程我が国にはまだ国歌というものが無い、遺憾な事だが、是は新たに作るよりも古歌から選び出すべきで有ると言った。その時自分が言うには、英国の国歌、God Save The King と言う歌がある。我が国の国歌としては宜しく宝祚の隆盛天壌無窮ならむことを祈れる歌を選ぶべきであると言いて、平素愛唱する『君が代』の歌を提出した。之を聞いた野津も大迫も、実に然りと早速同意したから、之を江川に授けて其の師事する英国楽長に示した。自分の記憶するところの事は右の通りである。その後如何なる手続きを経て国歌を御制定になりしか、其の辺の事は承知して居らぬ。

『日本勃興秘史』を書いた三角寛は、山窩の研究で知られた人です。その『秘史』の中に、次の記事があります。

・明治5年の夏、天皇陛下が竜驤艦に召されて九州地方に御巡洋遊ばされた時、供奉せる仏国の艦隊から、我が海軍省に、御乗艦の際に奉奏すべき礼楽として国歌を示されんことを申し込んで来たが、当時はまだ我が国に国歌がなかったので、海軍大輔河村純義はこれを海軍教授近藤真琴に相談した。そこで近藤氏は数首の歌を選んで、それを軍楽隊の教師フェントンに見せたが、いづれも面白くないものであった。そこで河村大輔は古歌から「君が代」の一首を選び、これを宮内省の雅楽部に呈示して、一等伶人林広守がこれを作曲し、遂にこれを以て国歌と制定するに至ったのだという。

  と書いてありますが、これは間違いで、国歌には決まってないのです。只外国人が来た時の手前、天皇を祝福して演奏するというものでした。このことについて作家のなかのしげはるが痛烈に批判しています。

「君が代」のこと。

・我が日本で「君が代」が法律上国歌であった事は一度もない。つまり「君が代」は法律上は日本の国歌でははじめからなかったのだった。それだから「君が代」を国歌として法律上「復活させる」ということはありえない。それは法律の問題ではなくて政治の問題になる。

と、政治の上で間違ったことが罷り通っていた実体を暴いていますが、現在では国会を通過して正式に『国歌』となってしまったのは残念なことです。さらに

『君が代の歴史』山田孝雄著で、「君が代」の曲成立のいきさつが述べてあります。

・薩摩藩の軍隊から始まり、海軍に伝わった「君が代」の曲は、ラッパの譜もしくは広くしても器楽に留まっていたのであるが、明治13年11 月3日、唱歌の譜を選び、後和声を施して器楽としたものである。海軍では御雇い教師独逸人フランツ・エッケルト氏を中心として一々これを調査し、一等伶人林広守の名によって作曲提出せられた。林広守は天保2年大坂生、慶応元年従五位明治2年雅楽部副長、29年歿,65歳。エッケルトは明治12年御雇教師、20年宮内省楽部課兼雇,32年帰国。

「ちよにやちよに」

 用例として「ちよにやちよに」「千世にやちよに」「千世に八千世に」「千代に八千代に」「千代にましませ」「千代にや千代に」(千代に対応するのは万代)「弥千代」などいろんな形で「君が代」の歌詞は書かれています。これについて、 『古今餘材抄』で釈契沖が次のように書いています。

・発句、朗詠には君が代はと有、第二句、六帖には千代にましませと有、顕注にも千代にましませと有、定家卿蜜勘に無不審とのみあれば同じか、(中略)千年に八千年にになり、やもじことばなりと言説あれど、六帖に我ならぬ人にや人になどいふやこそあれ、ちよにやちよにといふことわりたしかならず、拾遺集に能宣朝臣の長歌に、すべらぎのちよもやいよとつかへむとよまれたるにても准へて知るへし。

工藤高治は物集高世の甥に当たる人ですが、次の歌を残しています。
・君が代は千代にや千代にをいつのよに誰か誤りて八千代とぞ言ふ
・君が代は千代にや千代を八千代にと誤りたれど心通へり
・君が代は千代にや千代にを誤りて八千代とかきし後の世の人

  前にも述べましたが、「千代」に対応するものは「八千代」ではなく「万代」なんですね。それは『万葉集』を見ても、

・万代に語り継げとしこの嶽に領布振りけらし松浦佐用比売
・万代に今し給ひて天の下まをし給はね朝廷去らずて
・千万の戦ならねどことあげせずとりて来ぬべき男とぞ思ふ
・妹之名者千代爾将流姫島之子松之末爾菰生萬代爾
(いもがなはちよにながれむひめしまのこまつがうれにこけむすまでに)
・たちばなのとをのたちばな弥つ代にも我は忘れじこのたちばなを
 (やちよ・やつよ=弥千代・弥津代)
などで明らかです。

 今再び「君が代」の「君」を「大君」として、天皇礼賛を復活させようとする動きがあり、大変危険です。
・「君が代」の「君」は日本国および日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇を指す」(政府見解)

  それでは外国の国歌はどうなのかと、興味を持って調べました。

世界の国歌

○アメリカ 1931 制定 アメリカ国歌は、南北戦争の憎しみの連鎖修復がその背景にあるようですが、曲はいいですね。
・見よや 朝の薄明かりに たそがれゆく 美空に浮かぶ われらが旗 星条旗を 弾丸降る 戦いの庭に 頭上高く ひるがえる 堂々たる 星条旗よ おお われらが旗のあるところ 自由と勇気共にあり
○中国 1949 を見ますと、作詞は田漢、作曲は聶耳。アメリカ以上にいい曲ですね。これを作曲した聶耳のエピソードがあります。この曲を作ってすぐ、日本に来ていたらしく、逗子の海岸で溺れて死んだそうです。中国昆明市の中央に彼の像が建っています。
・起て! 奴隷となるのを望まぬ人々よ われらの血と肉で新たな長城を築こう 中華民族の最も危険な時が来た 誰もが追いつめられ最後の叫びを上げる 起て! 起て! 起ち上がれ! 我々民族は心を一つに 敵の砲火をものともせず進もう!  ものともせず 進め! 進め! 前進だ!

○ロシヤ 2000 ロシア国歌は、ソビエト崩壊後すぐ作られ、更にプーチンによって改訂されました。
・鍛えられし我がつわもの 攻め来る敵うち破り 断固と守る尊き国 我が祖国に栄えあれ

○イギリス 1743 イギリス国歌は、ジョージ二世の戴冠式の時に歌った歌が元になっています。その後エリザベス女王になって歌詞も女王に置き換えられました。男王の時は、女王を王と替えるそうです。
・神よ 我らの慈悲深き女王を守り給え 
我らの気高き女王 万歳 神よ女王を守り給え
女王を勝者たらしめ給え 幸福たらしめ給え
永く我らを治めよ 神よ 女王を守らせ給え

○フランス 1839 フランス国歌は、民衆がバスチーユ監獄を襲撃した後共和国が成立して出来たものです。
・行け祖国の国民 時こそ至れり 正義の我らに 旗は翻る 旗は翻る
聞かずや 野や山に敵の叫ぶを 悪魔の如く敵は血に飢えたり 
起て国民 いざ矛をとれ 進め進め 仇なす敵を葬らん

○インド 1950 インドはノーベル賞受賞者の詩人タゴールの作詞です。彼はパキスタンの国歌も作りました。
・そなたはすべての民の心を支配する そなたはインドの運命を支配する
そなたの名はパンジャブ人 インド人 シンド人 ゲジャラート人 マサラ人
そしてドラビタ人 オリッサ人 ベンガルの心を奮起させる(後略)
そなたはインドの運命を分配する 勝利 勝利 そなたに勝利を

  他にも沢山の国がありますので、これ以上は挙げませんが、今挙げた全てが戦争礼賛の歌です。それに比べて日本の国歌は、決して戦争賛歌ではなくて、二人の仲が何時までも続きますようにと言う念願、年寿の歌、賀の歌であるというのが本当の意味の「君が代」の歌詞であった、それを資料に基づいて検証したのですが、明治以後の日本の教育、特に軍がこの歌の「君」を「大君」に置き換えてしまった。しかし、歌詞の文言では決して「大君」と言ってない、「君が代」と言っている。「君が代」というのは「天皇の治める世の中」と言うことではなく、「民衆であるあなた、わたし」の年寿に拘わって、祈りを篭めて長生きを祈念する歌であったというのが「君が代」の本当の意味でありますので、「君が代」を今こそ元の意味に捉え直す必要があるのではないか。そうしますと、100年くらい使われなかった「君」という言葉の意味が甦ってくる。そう言うふうに考える訳です。
  以上で私の話は終わりますが、日本の国旗「日の丸」についてちょっとお話ししておこうと準備しておりますので、こちらはただ読むだけにしておきます。

「日の丸」の歴史

「続日本紀」文武天皇大宝元年正月乙亥朔、天皇御大極殿受朝、其儀於正門樹鳥形幡、左日像、青龍、朱雀幡、右月像、玄武幡云々
「太平記」元弘の始帝笠置に幸ありし時、錦の御旗を建てられ、その後此の旗に日月像を金銀にて打ち着けて賜る。
「梅松論」足利尊氏の時、明院殿の院宣を申請ひ筑紫より上りし時、錦の御旗に日章を金にて打ち着けて上る。
「集古十種」後醍醐天皇の御旗、四幅に布の旗に日章を描く。弘安四年(1281)蒙古襲来の際、征夷大将軍惟康親王が日蓮に命じて、八代竜王が旭日を囲んだ旗を筑前今津に建てた。
「源平盛衰記」義経が鷲尾義春に皆紅に日の出の軍扇を与えた。
「平家物語」那須与一が、平家の舟にかざした「皆紅に日を出したる扇」を射落とした。
「太平記」錦の御旗に、日月を金銀にて打ち着けたるが、白日に輝きて光り渡る。(後醍醐帝笠置行幸)
「長篠合戦屏風」「関ヶ原合戦屏風」
○川中島の合戦の時、上杉謙信・武田信玄の両軍とも日の丸の旗印を用いた。
○朱印船の旗印
○伊達家の大馬印
○文禄元年、小西行長朝鮮出兵の馬印
○寛永11年幕府有司が相計って日の丸を公儀の徽章とした。
○文化8年朝鮮通信使聘礼のため幕府対馬に出張の時、白地に赤の日章旗を用いた。
○元和年間、山田長政が、シャム国王の女婿となり、軍艦に日の丸の旗を掲げた。
○嘉永6年、島津斉彬が昌平丸・大玄丸に日の丸の標識を用いた。
○安政元年幕府布告「大船製造については異国船に紛れざるやうに日本総船印は白地日の丸を相用い候よう仰せ出され候」
○明治3年太政官布告により日の丸を国旗に制定。

  このような記録があります。かなり面白い歴史を辿ってきている、と言うことが解ります。この「日の丸」はデザインとしても優れております。「日の丸」を明治時代に用いたところ、いち早くこれを聞きつけた某大国が、大金(五百万円)で譲ってくれと申し込んできたことが、『日本勃興秘史』の中に記してあります。

  以上長々と『君が代』について考えて参りましたが、これで終わります。ありがとうございました。
(テープ起こし 堀八重子)

email=土屋北彦 豊後国東郷百姓一揆考・芭蕉の暗号・君が代考  土屋北彦
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豊後国東郷百姓一揆考  土屋北彦

第一章
 第二章
第三章
第四章


 慶応二年、豊後国東郷に起こった3000人規模の百姓一揆について、その背景と経緯、史料をあげ、被処刑者『安岐村伴作』を主人公に、小説風に展開する。(250枚)<長いのでコピーしてご覧下さい>


芭蕉の暗号ー俳句「古池や」の新解釈-
「愛猫記」マロとパイ
思い出の海外旅行記



豊後国東郷百姓一揆考


--庄屋内儀の紅裏(もみうら)小袖地下(ぢげ)の百姓の血の涙--
          



第一章

 伴作は生まれつきの小男だ。背丈は四尺五寸に満たない。幼年時代から「ちび」と渾名され、三十歳になる今日でも同じである。
 伴作は、天保七年、豊後国杵築藩安岐郷に水飲み百姓の子として生まれた。自分の背の低いのは貧乏のせいだと、今でも伴作は思っている。顧みて今日まで腹一杯飯を食ったのは、盆・正月ぐらいだったから、成長が遅いのはその為だと半ば諦めてもいるのだ。
 父も母も伴作には殆ど愛情を示すことがなかった。兄が夭逝し一人息子になった伴作は、ただ労働力の対象としてしか育てられなかった。それでも物心が付くまでは伴作も人並みに幸福だったと言える。その間だけは人は兎も角、伴作自身は己の背丈の低いことを気にせずに生きて来られたからである。
 伴作は、今でも時折じっと目をつむって、幼少の頃の自分の姿を思い浮かべることがある。伴作の生涯の中で、最初の六・七年だけが薔薇色に輝いている。
 だが、それ以後の伴作にとって、思い出には常に嫌な記憶がまつわりついている。みんな背丈の低いことに関することばかりだ。
 親の遺してくれた田三反は、伴作独りの生活を支えてくれた。三十歳になった今でも嫁の来てが無い一人者の伴作にとって、三反歩の田圃はそれこそ伴作の総てだ。土を愛する伴作は土の声を聴き、土の心を汲み取ることが出来た。踏みしめる伴作の足裏で、土は喜びの声を上げ、苦しみの涙を流す。
 伴作は、土に呼びかけ、土と語る。麦を育て、稲穂を孕んで、土は伴作の愛情に答えてくれるのだ。土は正直だ。伴作が愛情を注げば注ぐほど、土はその度合いに応じて恵みを返した。たわわに稔った稲穂を胸に抱くとき、伴作は切ないほどの生き甲斐を感じた。土は人を選ばないのだ。人がいくら「ちび」と嘲り蔑もうとも、土は決して差別はしない。
 
 鳶が中天に大きく輪を描きながら舞っていた。
 伴作は、稲穂の重みをいちいち量るように丹念に狩り進める。稲の一粒一粒が、伴作の喜びを映して黄金色に輝く。一粒たりとも無駄にしてはならない。
 汗ばんだ額を、ざらざらした稲穂がくすぐる。例えようのない幸福感が伴作を支配する。
 がさがさと、伴作の足元で小さな音がした。一匹の赤蛙である。身体中がかさかさに乾いている。好天続きに湿地を求めて稲田に逃げ込んだものだろう。突然ねぐらが刈り取られたのに驚いて、小さな四肢を懸命に踏ん張って逃げ出そうとしている。跳ぶことを忘れたのか、それとも跳ぶ力が尽きたのか、その様子は哀れであり、しかも滑稽である。
 伴作は、赤蛙をつまみ上げると、掌の上に載せた。蛙は伴作の掌の上で観念したかのようにじっとしている。首を傾げて、喉元の皮膚を膨らせたり縮めたりしている。
 伴作は、しみじみと掌の蛙を見つめた。孤独でおどおどとして、その上多分に醜悪である。伴作は、何となく自分自身を見つめているような不快な気持ちに駆られて、思わず蛙を投げ捨てた。
「伴作、精が出るのう!」
 突然背後から声を掛けられて振り向くと、庄屋の次郎治が畦道に立っていた。
「へい、お庄屋様」
 伴作は、庄屋に気づくとあわててぴょこんと頭を下げた。
「今年は出来が良いようじゃのう」
「いいえ、お庄屋様、見かけはこのように大粒でも、干し上げてしまえばいっこうに………」
「そうでもあるまい。去年に比べると二割方は多いようじゃのう」
「滅相もない、お庄屋様、去年並みでございますよ」
 伴作は、稲穂を自分の背でかばうようにしながら、哀願するような目を庄屋に向けた。
 つい先だっての毛見の際にも、伴作の稲は安岐村一の反収一、六石と言う折り紙をつけられたばかりである。免七つとして十一、二石、これ以上とられてたまるかと、伴作は必死だ。
 藩の定めでは五公五民だという。それだと反収一、六石の上々田としても、八斗は手許に残る勘定なのだが、それが実際には、口米、蔵出、六ノ口などという名目で、次々と手数料を取られてしまい、結局手許に残るのは全収穫のわずか三割あまりである。
「伴作、お前は一人者じゃから、食い扶持は余るじゃろう。働くにも励みがあろうというもんじゃ」
 次郎治は、伴作のおどおどした様子を見ると、ついからかって見たくなるのだ。
「とんでも御座いません。親の代からの借金で首が廻りませんので………」
「そうでもあるまい。のう、伴作よ。お前もそう働くばかりじゃ楽しみがあるまい。どうじゃ、嬶をもろうては………」
「かか!」
 伴作は、どきりとして思わず声を出す。その言葉は伴作の心に、まるで腫れ物にでもさわったような傷みを引き起こすのだ。ここ十数年来、伴作はその言葉の持つ妖しい響きに胸をさいなまれつづけ、その度ごとにその辛さに耐えてきたのだ。だがまたしてもその言葉は、伴作の胸に針を刺すのだった。
「女は嫌えでございます」
 伴作は、吐き捨てるように言うなり、庄屋に背を向けて稲を刈り始めた。
 とりつく島を失って、次郎治が立ち去った後、伴作は独り涙を噛みしめていた。
「かかが欲しい!」
 人前で思いっきりそう言うことが出来たなら、どんなに気がせいせいすることだろう。だが、伴作はどうしてもそれを口にすることは出来なかった。
(こんな背足らずの貧乏な男の嬶になる女など有るはずがない)
 伴作の理性は常にそう語りかける。だが、三十歳の伴作の五体は、女の幻の前で何時もきりきり舞いをしているのだ。
 せめて村中を大手を振って「女は嫌いだ」と触れ歩くことが出来たらと思うことがある。だがそれは出来ないことだった。「ちび」の伴作が歩いている、それだけで村人は冷笑するに違いないからだ。
 目の前を、先程の赤蛙がよろよろと力無く這っていた。
「畜生!」
 伴作は、思い切り強く赤蛙を踏みつけると、足を捻じた。
 足の下で、蛙がぐしゃりと気味悪い音を立てて潰れた。
 
 庄屋の次郎治が言ったとおり、稲収納を済ませてみると、確かに二割がたの増収だった。伴作は、干し上げた籾を枡で量りながら、今年はどうやら一石ばかりは隠匿しなければなるまいと考える。
 いくら藩主様の言いつけだからと言って、この米を根こそぎ取られてなるものかと思うのだ。
 例年こうして干し上げると、納戸の下の秘密の穴に蓄えてきたのである。伴作の家は野中の一軒屋だが、幾分高所にあるためか、納戸下の土の中は、都合良く何時も乾燥していて、天然の倉庫となっている。釣瓶落としという秋の日は、もう西山に傾き始めた。
 伴作は、枡に新籾を盛ると表面を丸太で綺麗に均した。籾のいっぱい入った斗枡を胸に抱くと、どっしりと抱きごたえがある。納戸の穴にざあっと流し込むと、香ばしい新米の匂いが辺りに充満する。数回運んだとき、ふと気づくと、野中の道を誰かが急ぎ足にやってくるのが見えた。
 伴作は、慌てて再び籾莚を庭先に拡げ、集めてあった籾を筵の上に延べた。
 やってきたのは、岩屋村の三代松だった。
 岩屋村から安岐村までは約三里、その遠路を三代松はわざわざやって来た。
「伴作さん、早仕舞いじゃなあ」
「珍しいなあ、三代松さん、何用で?」
「ううん、別に………」
 三代松は、言葉を濁して、しきりに伴作の身体を舐め回すように見るのだ。伴作は、自分の背丈を測られているようで、腹立たしくなった。
「何だって、そうじろじろ見るんだ?」
 と、語気を荒立てて言うと、三代松はぎょろりと目を光らせて、
「伴作さん、今年は何石穫れたな?」
 と、粘り着くような言葉を吐いた。
「何でえ、お庄屋様じゃあるめえし、物成でも決めるつもりか?」
「そうじゃねえ、なあ伴作さん、お前さん腹がたたねえか?」
「何で腹が………」
「今年はどうやら免がまた一つも増えそうだという噂だ。大きな声では言えねえが、殿様もいよいよ御輿を上げるんじゃねえか。長州への出兵も近いと言われている。ここ二・三年前から毛唐の船が盛んに現れて、開港を求めたり、砲弾を撃ち込んだりして、将軍様も毎日頭を抱えていると言うことだ。お前さんも知っているだろうが、去年の夏にはついこの目と鼻の先の姫島にまでも、毛唐の船が十八隻も現れて二・三人の者は上陸までしたそうだし、あの時は藩から数十人もの役人が来て、竹田津の港に台場を作り、大砲を備える苦役にわしたちは狩り出され、一カ月以上も働かされた。それに殿様は今度寺社奉行に成られたと言うことだし、これに伴う出費も大変なものだ………。これから先、俺たち百姓にふりかかってくるものは………」
「おい、三代松さん、お前さん、そげなこと言うて、俺に何をしろと言うんだい」
「別に何をしろと言う訳じゃねえ。ただなあ伴作さん、お前さんこれ以上免が増しても平気で居られるかと聞いているんだよ」
「馬鹿を言え、平気な筈はねえじゃねえか。しかし、腹が立つからと言ううて、お上のすることだ、どうしょうもねえじゃろう」
「それで、せっせと運び込むと言う訳か………」
「何!」
 伴作はぎょっとして、三代松に身構えた。
「慌てるんじゃねえ。いくら隠しているか知らんが、それをどうしようと言うのじゃねえ。考えても見ろ、俺だって百姓だ。することに変わりはねえ」
「………」
「ただなあ、伴作さん。俺たちが隠匿してみたって知れたもんだ。お前さんは一人者だからそれでもいい。だが俺たちのように食べ盛りの餓鬼を多人数持っていちゃ、隠そうにも隠す米はねえ」
「そりゃ、自業自得というもんじゃ」
「そうかもしれん。しかし伴作さん、お前さんも百姓じゃ、自分だけのことを考えるんでなくて、百姓みんなの身になって考えてみたことがあるか?」
「よけいなことだ。俺は俺だ。人の心配まではしておれん」
「そうか………。えらい邪魔したな」
「用は何だ?」
「いや、もう用は済んだ。まあしっかり貯めることだな」
 三代松は、皮肉な言葉を残して帰って行った。
 人のことなど考えておれるかと、伴作は思う。子どもが多くて食えないと言うのなら、始めから子どもなど作らねば良いのだ。勝手に作っておいて、今更くらしが苦しいなどと不平を言っても始まらないではないか。それにしても三代松の奴、一体何を言いに来たのだろう。ご政道向きのことなど偉そうに言いやがって、三里の道をわざわざ皮肉を言うために来たわけでもあるまいに………。
 待てよ、ひょっとしたら三代松の奴、俺の隠し米を嗅ぎつけてゆするつもりかも知れないぞ。そうだとしたら納戸の穴では危険だ。すぐ場所を変えなくては………。
 伴作はそう思い立つと、急に不安になってきた。伴作は物置から鍬を持ち出すと、家の裏手に廻って、適当な場所を物色した。裏手は少し坂になっていて、道が二つに分かれるところに庚申塚が建っている。塚の辺りは、椿の木が葉を広げてこんもりとした茂みを作っている。
 納戸の下の穴に比べると、多少条件は悪いが、家から多少離れている方が、見つかる気遣いは少ないだろう。三代松は納戸の穴のことを嗅ぎつけたかも知れないが、ここなら判るまい。
 伴作は、一晩中かかって庚申塚の下に深い穴を掘った。穴の周囲を厚く藁で多い、納戸の穴から運んだ一石あまりの籾を流し込んで、その上を莚で覆い、土を元通りに被せて、更に草を丁寧に植え付けた。
 総ての作業が終わったときは、東の空がはやしらじらと明けかけていた。伴作は、昼過ぎまでぐっすりと眠った。
 
 伴作はこの頃、何か訳の分からぬ淋しさを感じるようになった。朝目を覚ました時、夜中ふと目が覚めた時、或いは一心に仕事をしている時でも、突然底知れぬ淋しさに襲われることがあった。
(年のせいだろうか?)
 まだ三十になったばかりなのに、と苦笑してみるのだが、この頃は急に年齢を意識するようになったのは、我ながら淋しかった。
 これまでは、多分に自虐の思いをこめて、世間に反抗することで己の姿勢を保って生きてきたのだが、もうそうした虚勢を張り続けることにも気疲れを感じる。(弱くなったなあ、伴作)
 独りで呟きながら、しみじみと自分自身を顧みるこの頃である。
(子どもがあったらなあ)
 思わずそう口にしてみて、伴作は、この淋しさの正体が実はそこにあったことに気づいた。女房が欲しいと一途に思い詰めていた時分は、何か挑戦的な荒々しい感情が支配していた。しかし今、子どもが欲しいと言う願いは、それとは違って何かしら柔らかく切ない感情を伴って、伴作を襲うのだった。子ども、子ども、そうだ。子どもがあったらどんなに楽しいことだろう。今の生活なら、子どもの一人ぐらいは養って行ける。子どもを貰おう。
 そう思いつくと、伴作は急に心が軽くなった。女房は別だが、子どもだったら貰えそうだ。どうして早くそれに気づかなかったのだろう。そう言えば、七兵衛も良平も元助も、子沢山で悩んでいるではないか。
「この子さえ生まれなければ………」
 と、何時も口癖のように言っている連中だ。掛け合って見れば、きっと旨く行くに違いない。
 そこまで思いつくと、伴作は、矢も楯もたまらなくなった。伴作は、納戸の箪笥の抽出の奥の方から、古びた小箱を取り出した。十年間こつこつと貯めた穴あき銭がぎっしりと詰まっている。伴作はその半分ほどを掴み出した。
(待てよ、人一人貰うのだ。少なすぎるかも知れぬな)
 一枚出し、二枚出ししてみている内に、その一枚一枚が、子どもを貰えるか貰えないかの堺であるように思えてくる。
(ええい、全部だ)
 伴作は、崖から飛び降りるような気持ちで、小箱をひっくり返した。数えてみると、五百枚、銀が五十枚近くもあった。伴作は、その銭を風呂敷に包むと、家を飛び出した。
 短い秋の日は、もうとっぷり暮れていた。
 
 七兵衛の家の戸は重く軋んだ。梁が傾いているのだ。それに、開けなくても戸の破れ目から中の様子は丸見えなのだ。十二になる女の子を頭に五人の子が、七兵衛夫婦と狭い六畳の部屋に犇めいていた。
「七兵衛さん、ちょっと話があるんじゃ」
 破れ戸をこじ開けて外に出てきた七兵衛の鼻先に、伴作は穴あき銭の束を突き出した。
「物は相談じゃが、なあ七兵衛さん。あんたの子どもを一人わしの子にさせてくれまいか」
 七兵衛は、伴作の顔と銭とを当分に見比べながら、あっけにとられた表情である。
「なあ、七兵衛さん。お前さん何時もよく言うちょるじゃねえか。餓鬼の穀潰しばかり多うち困ったもんじゃと。その餓鬼を一人わしに面倒をみさしちくれられめえか?」
「この銭は何じゃ?」
 七兵衛はやっと口を開いた。
「わしが十年かかっち貯めた銭じゃ。子どもを一人わしにくるれば、そのお礼にと思うち持っち来た銭じゃ」
 七兵衛は暫く考え込んだ。
「なあ、七兵衛さん。頼む、考えち見ちくれ」
「かかの奴に相談しち見ろう」
 七兵衛は、慌てて家に走り込んだ。伴作も続いて中に入った。
 隅の方で、七兵衛の女房が継ぎ物をしている。針箱の上に置かれた油皿から、小さな焔がゆらゆら立って、汚れた畳を照らしている。狭い部屋に所帯道具や炊事用具が雑然と置かれ、その隙間にやっと割り込むように子どもたちが坐っていた。
 伴作は、その一人一人を舐め回すように眺めた。どの子も煤けた顔をして、一様に痩せて目ばかりが大きい。
「みんな手を出しな、ほーれ」
 伴作は、その手に穴あき銭を一つずつ握らせた。
「おおきに」
 その時、七兵衛から話を聞いていた女房が、突然振り向いた。
「みんな、おあしをおじさんに返しな。伴作さん、この話はお断りだよ」
「おかみさん、そう言わんで何とか………」
「伴作さん、あんたは子どもを持ったことがねえから、簡単に考えちょるかも知らんが、子どもは銭じゃ売れねえ。滅多なことは言わんもんじゃ」
「おかみさん、わしは子どもを銭で買おうと言うた覚えはねえぞ。ただ、もしわしの願いを叶えてくれたら、そのお礼にと………」
「同じこつじゃねえか。何にしたって、子どもは遣るわけには行かねえ。いくら貧乏したっち、わしら夫婦は子を売っちまじ楽をしようとは思わねえ。もうこの話は止めにしておくれ」
 話の様子を察した五人の子どもは、女房の許に集まっていた。女房は、その一人一人を抱き締めて頬づりした。
「済まねえ」
 伴作は、居たたまれなくなって、表に飛び出した。
 
 迂闊だったと伴作は思う。子どもを銭で買おうなどとは、毛頭思ってないのだったが、七兵衛夫婦にそのような印象を与えたことは、否定できなかった。銭など最初から見せるべきではなかったのだ。今更思っても後の祭りだが、返す返すも残念だった。かと言って、更に良平や元助の家に足を運ぶ気にはなれなかった。
「馬鹿!」
 俺は何という馬鹿なんだ。伴作は自分自身に唾を吐き掛けたい気持ちだった。
 伴作には、心の暗い日々が続いた。その年の暮れ、藩から村々に増免の沙汰があった。
 伴作は、ふと三代松の言った言葉を思い出したが、今では三代松の言葉を肯定するでもなく、なるようになれと言った捨て鉢な気持ちが支配していた。親もない、女房もない、子もない。行く末のことを考えると、目の前が真っ暗くなるような気がする。年貢米割り当ての寄り合いで、伴作は一言の主張もせずに割り当てに服した。
 伴作は、自虐めいた気持ちで、安岐郷中嶋の庄屋の許へ年貢米を運んだ。八俵の俵を車に積んで曳いて行くと、道々会う人々から憎しみの目で見られ、時には皮肉な言葉を投げつけられた。
 何とでも言うがいい。お前たちに俺の苦しみが判るものか。車は轍をきしませ重く廻った。伴作は、一歩一歩悲しみに挑戦するように歩を踏みしめた。
 庄屋中嶋の家には、藩米蔵に納めるための雪笹の定紋が張り巡らされ、年貢米受付のために、多くの下男たちが忙しく立ち働いていた。ここから藩の米蔵に納めた後、「年貢米皆済目録」を、庄屋から郡奉行所に提出する事になっている。
 伴作が、門内に俵を運び込むと、数人の下男が一斉に駆け寄ってきて、俵の口を開くと、米を莚の上にざっと流して、枡で量り始めた。毎年の事ながら、伴作は嫌な気持ちだ。他人は兎も角自分に限って、量目をごまかしたりなどするものか。
 庄屋の多兵衛が現れた。庄屋の側には両刀をたばさんだ武士が着いていた。
「おう、伴作か。ご苦労じゃのう。増田様、この男は伴作と申し、毎年成績の良い男でございます」
「うむ、神妙の至りじゃ」
 増田と呼ばれた武士は、伴作を一瞥した。氷のように冷たい目だった。伴作は、ひやりとした。恐らく目付役でもあろう。しかし、藩から直接役人が出向いているところを見ると、いよいよ年貢の取り立ては厳しくなったのだ。
 今年は去年より一層、年貢米が上納出来ずに親類五人組預けになる者や、縄を掛けられる百姓が増えるだろう。だがそれが俺にとって何だというのだ。俺はこの通り立派に完納したのだ。伴作は、そう自分に言い聞かせてみたが、何となく後ろめたい気がしてならなかった。寄り合いの席での人々の顔、途中で逢った人々の言葉が、心に重くのしかかっていた。
 
 空車を曳いて外に出ると、物陰から一人の男が不意に出てきて行く手を遮った。元助だった。
「伴作さん、話がある」
「何だ、いきなり。びっくりするじゃねえか?」
「すまん。まあ歩きながら話そう」
 元助は、伴作と並んで歩き出した。
「なあ伴作さん。実はもっと早くお前に話して協力して貰うつもりだったのだが、お前はもう年貢米を納めてしもうたんで、今更どうにもならんが………」
「何だ、はっきり言ってくれ。俺に遠慮はいらん」
「うん、つまり俺たちは今度の年貢の割り当てには不服なんじゃ。俺だけじゃねえ。良平も七兵衛も加十も、みんながじゃ。どだい無理な話じゃ。この上免を上げられては、食って行かれる訳はねえ。いくら藩からの割り当てじゃと言っても、無い物は出せねえ。寄り合いの時、みんな心を合わせて反対しようと思うちょったのじゃが、あのときお前がすぐ承諾したもんで………」
「俺が仲間割れをしたと言うのか………。道理でみんなの様子がおかしいと思うた。だが元助さん、お前たちがたとえこぞって反対したからと言って、それが通ると思うのか。そんな甘いもんじゃねえ。今も俺はこの目で見てきたばかりじゃ。庄屋の家には藩から目付の役人が来ている」
「そうかも知らん。だが無い袖は振られん、出せねえもんに出せと言う方が無理だ」
「では、どうしようと言うのだ。この俺に何を言いたいのだ?」
「なあ、伴作さん、実はみんなでお前を待って居るんだ。騙して連れて行くと言う事だったが、どうも嘘が言えねえもんで………」
「そうか。道理で………。よし、行くとも、俺は何もやましいことはしていない」
 みんなが集まっているのは、村はずれにある元助の家の裏手の山の窪地だった。十人ばかりの百姓たちが集まっていた。その中に岩屋村の三代松が居た。三代松の他にも、他村の者らしい男が二人居た。
「伴作さん、いきなりこんな所へ引っ張ってきて済まなかった。実は頼みがあるんだ」
 年長者の茂市爺さんが口を切った。
「何の用か知らぬが、みんな大仰だな。それに三代松さんまで………。そちらの人は?」
「こちらは赤松村の吉助さん。こちらは横手村の勝三郎さん。二人とも三代松さんと一緒に来てくれた人じゃ。でな、伴作さん。頼みというのは他でもねえ、米を五斗ばかり融通して貰いてえのじゃ」
「何に使うのだ、だいいち俺は今年貢を納めて来たばかりじゃ。余分な米など有るわけはねえ」
 すると、勝三郎が口を挟んだ。
「それを承知で頼むのだ。お前さんだけじゃねえ、年貢を納めた人たちみんなに頼むことにしているんだ」
「断る!」
 伴作は腹が立った。何という勝手な言いぐさだろうか。
「三斗でもいい、どうだろう伴作さん」
「ただでくれと言うんじゃねえ、貸してくれと頼んでいるのだ」
「殿様のために出す米は有っても、百姓仲間のために出す米はねえのか」
 人々の言葉には、露骨な敵意がこめられているのが感じられた。伴作は怒鳴り出したい気持ちをやっと制しながら、皮肉に言葉を返した。
「俺に頼むまでもなく、お前さん同志で融通すればいいではねえか」
「それが出来るくれえなら、わざわざ伴作さんを呼びはしねえ。なあ、考えてくれんか?」
「誰に融通しろと言うんだ」
「誰と言うのではねえのじゃ。なあ、三代松さん、伴作さんに説明してやってくれんか」
 茂市に言われて、三代松は待ちかねたように口を切った。
「伴作さん、この前俺がお前さんの家を訪ねたのも、これが言いたかったためだ。こう言うわけだ。お前さんも知っての通り、この二・三年、年毎に年貢の割り当ては厳しくなる一方で、俺たち百姓のくらしは日増しに苦しくなって来ている。この分ではどこまで悪くなるか先が知れねえ。現にご領内のあちこちで年貢の出せねえ人が次第に増えてきている。本当に藩ではこんなひどい免を決めたのだろうか。どうもおかしいという気になったのだ。何とかそれを知る手だてはねえもんかと………。俺の方の村じゃ有志が相談し、実はこの二年ほど、ここにいる吉助さんが、庄屋の集まりの度に小山田の床下に忍び込んで、密談を盗み聞いたのだ。案の定、庄屋たちが悪知恵を働かして、枡に細工したり藩の通達を偽ったりして、俺たちの米をくすねていたのだ」
 今度は、吉助が後を続けた。
「それも、調べてみると、庄屋たちは代官の友成様と結託しているのだ。松平の殿様のあずかり知らぬ事なのだ。つまり、俺たちの納めるお年貢は、代官や庄屋の懐に入って行くという仕組みだ」
 伴作は、あまりの意外な話に茫然としてしまった。
「本当だろうか………。しかし、免を決めるのは殿様の筈じゃねえのか?」
 すると、勝三郎が言った。
「俺たち百姓にはそこんところは良くわからねえ。だが殿様は寺社奉行になって江戸に詰めっきりだと言うし、時々帰っても、領内を見回ったり免を決めたりする訳じゃ有るまい。俺たち百姓の実状が殿様の耳に入る途中で、曲げて伝えられることも有ると思う。まして庄屋たちが代官と結託しているとなると、尚更だ」
(恐ろしいことだ)
 伴作は、聞いているうちに、事の真偽よりも百姓たちが一揆を計画している事実に身が震えた。
 藩に刃向かって、十に一つの可能性へ賭けることよりも、伴作には今の平穏が大切だった。たとえ収穫の七割を召し上げられても、一人者の伴作には、なお一年を賄って余りあるほどの手持ちの米が残るのだ。それに万一をおもんばかって隠匿してある米まである。何を好んでこの平穏を乱すことがあろう。
 百姓には、土と闘う手だてはあっても、藩を向こうに回して何を武器とすることが出来ようか。鋤、鍬、鎌は所詮刀や槍の相手ではない。無謀な計画は結局百姓自身を滅ぼすものだ。
 伴作は、それを言おうと思った。だが、伴作を取り囲んでいる百姓たちの殺気だった顔を見ては、迂闊に反対もできなかった。
「俺にはそげな難しい話は良く判らねえ。それよりも一体何のために、俺に米を貸せと言うのだ」
 伴作は、口ごもりながら話を逸らそうとした。しかし吉助は承知しなかった。
「伴作さん、俺たちにここまで言わしておいて、判らねえとは言わせねえ。お前さんも百姓なら、百姓の魂は持っている筈だ。どうだろう、つまり俺たちの計画に加わって貰いてえのだ。その為には、力のある者は力を、物のある者は物を、知恵のある者は知恵を出し合って、みんなが結束しなければならねえと思っているのだ。どうだろう、伴作さん」
 伴作は、窮地に追い込まれた自分を感じた。この場は相手に反感を与えぬように、旨く繕って置くより仕方がない。
「考えさせてくれ。何しろ急にそう言われたって………」
 伴作が言うと、一同は急に色めき立った。
「伴作さん、同志と頼んで秘密を漏らした以上、是が非でも血判に加わって貰わねば………」
 茂市が、そう言いながら、伴作の前に進み出た。
「血判?」
 言いかける茂市を、吉助が止めた。
「茂市さん、そう無理強いしてはいけねえ。伴作さんは考えさせてくれと言うちょる。暫く考えてもろうてはどうじゃろう」
「しかし、一揆は法度じゃ。この計画を打ち明けた以上は、このまま帰って貰う訳には………」
 その時である。見張りに立っていた元助から、合図の礫が飛んできた。
「いけねえ、誰か来る。ばらばらになって逃げろ!」
 吉助の声と同時に、人々は八方に散った。伴作は、何事が起こったのか判断が付きかねて、茫然と立ちすくんだ。その身体を吉助が抱きかかえるようにして、立木の茂みに連れ込んだ。
 暮れ際の山間は妙に湿っぽく、黴臭い匂いが鼻をついた。しーんとした静かな空気の中で、吉助の呼吸音が伴作の耳に正確に響いた。吉助の逞しい掌が、伴作の口を強くふさいでいた。
 伴作はその時、生まれて初めて人間への近親感を抱いた。吉助の掌の中で唇が激しく震えた。伴作は、吉助の手を強く握りしめた。
 
 床下に入ると、湿った空気が鼻を刺した。ようやく闇に慣れた目に畳の隙間から洩れる灯が、ところどころに細い日矢を作っているのが見える。
 吉助は、辺りに気を配りながら、腹這いになった身体を静かに動かし始めた。晩秋の冷気の中に、時折プーンと黴臭い匂いが流れ、蜘蛛の巣がところ嫌わずまつわりついて来た。広い庄屋屋敷は、今吉助の頭上に広がっている。
 今夜この小山田の屋敷に、近郷の庄屋たちの集まりがあるという聞き込みを得てから吉助はこの計画を樹てた。それとなく屋敷の周りを回って忍び込む場所を見つけて置いたのだが、さて、こうして屋敷の中に忍び込んだものの、どの部屋が何の間であるかは一向に知る術がなかった。ただ、年貢を納めに何回か門をくぐったときの印象を頼りに、これからは独特の勘を働かせて、会合の場を嗅ぎつけなければならない。
 突然頭の上で足音がした。吉助はギクリとして思わず首をちじめた。息を凝らして様子を窺うと、続いて男女の声が漏れてきた。
「嫌だよ、伊助さんは、お前さんたら、ついこの前も平造さんところのおかみさんにちょっかいを出したって、専らの評判だよ」
「嘘だよ、お美代ぼう、この伊助はな、こう見えたって頼りがいの有る男なんだぜ。何なら腹を立ち割って見せてやりてえくれえなもんだ」
「そんならいいけんど、………静かにしなくっちゃ駄目だよ。鷹の間は近いんだから」
「おっと合点承知の助」
 それからヒソヒソと小声になった。吉助はホッと大きく息を吸い込んだ。とんだ濡れ場を見せつけられたものである。だが、下女の話からすると、今夜の会合は鷹の間と言う部屋らしい。それもここからあまり遠くはない。しめたと思わず声に出そうとして慌てて口を押さえた。用心、用心。
 なおも進んで行くと、幼児の声が聞こえ始めた。どうやら内儀の部屋らしい。襟元がひんやりと冷たくなった。もう何刻であろうか。長く経ったようでもあり、ほんの僅かの間のようでもある。額一面蜘蛛の網でベトベトである。このあたりから少し床が高くなって、進み良くなった。すると、右手の方でかすかに人の話し声がした。そこが目指す鷹の間であった。
 四・五人の声がボソボソと洩れてきた。確かに庄屋たちである。吉助の胸は激しく高鳴った。
「この度御領主様御出府なされるについて、代官様よりお達しがあったのじゃが………」
「そう度々申されても、我らにとっては迷惑至極」
「ご出府には何よりも出費が大変じゃ、御参勤の際でも大坂表で雇うお供衆百人ほどと聞く、まして寺社奉行様ともなれば、それ相応の供揃えが必要じゃ」
「左様、しかしこれ以上百姓どもを絞って見たとて、我らが恨まれるばかりじゃ」
 それからまたブツブツと小声になった。どうやらこの秋の年貢取り立てについての相談らしい。毎年収穫の殆どを根こそぎ取り上げられている吉助にしてみれば、この上更に物成が増すことは生死の問題である。果たして藩ではそのような課税を考えているのだろうか。農民を飢えさせてしまっては元も子も無くなってしまうではないか。「虫よ虫よ、五無し草の根を絶つな、絶たば己も、共に枯れなん」巷間秘かにささやかれている歌の文句を思い出して吉助は身震いした。庄屋たちはきっと何かの手段を考えているに違いない。
 年貢取り立ての手続きは、庄屋が持っている「田畑名寄帳」に基づいて「取立帳」を作り、農民各戸に「配付書」を配り、納米の際「御蔵納米庭帳」でチェツクする。納金の場合は庄屋が集めて藩庁に納入した。納米は玄米に仕上げ、原則としてその年の新米で納めたが、古米の場合十パーセント増しになった。
 米の調整は極めて厳重で、完熟稲を刈り取り、十分乾燥して摺った玄米を唐箕で風選し、篩にかけて青米・茶米・砕米・異物を除くのである。こうした過程では、庄屋の才覚で余剰米を出すことは難しい。増免は庄屋たちにとっても頭の痛い問題に変わりはない。
 だが、肝心の問題になると、庄屋たちは一段と声を落とした。時折「免」だの「口米」だの「代官」だの言う言葉がとぎれとぎれに耳にいるばかりである。吉助は全身を耳にして一言も聞き漏らすまいと精神を集中した。やがて、
「今晩はこれで、御苦労でございました」
 と、内儀が茶を入れに入って来たのをしおに、吉助は退散することにした。
 庄屋屋敷を抜け出ると、中天にポッカリと大きな月が架かっていた。吉助は思わず月に向かって手を合わした。全身に新しい勇気が漲ってくるのを覚えた。
 翌朝早く、吉助は三代松の営む岩屋村の小酒屋の店先に姿を見せた。
「おお、吉助さん、早う上がってくれ」
 待ちかねていた三代松が、曳きずるように吉助を奧の間に連れ込んだ。
「三代さん、やっぱりわしの思っていたとおりだ、よんべ忍び込んでみてよう判った」
 吉助は、三代松に昨夜の様子を詳しく語った。三代松は聞きながら、要点を記帳して行く。
「ふーん、そうすると、今度の御出府を口実にまた免を上げようと言う寸法だな」
「どうもそうらしい、だがこれ以上免を上げることは藩としても公には出来ないだろう。してみると、何か小細工をすることが考えられよう。証拠がつかめるまでは、忍び込んで盗み聞くつもりだ」
 吉助は、自分の決意を語った。三代松が言った。
「吉助さんさえその気になれば、今からすぐそのつもりで、わしたちの味方を作って行こう。勝三郎や千代三郎はすぐ力になる男だが、そのほかに、わしたち庚申講の仲間たちもいいと思うが」
「そうだなあ、わしのところにも近所の者がよく集まるから、その中で口の堅いものを引き込もう」
 こうして、吉助・三代松を中心に一揆の計画は初めて根を下ろしたのである。それから約三年の長い間、庄屋屋敷の会合の度ごとに、吉助は勝手知った小山田の屋敷の床下に忍び込んで、庄屋たちの話を盗み聞いた。
 庄屋たちは、最初は個々別々に私腹を肥やすことに意を用いていたが、その後になって代官友成を抱き込むことに方針を変えていった。友成孫次は博学の士として藩中の聞こえも高い。この男を利用すれば成功間違いないと踏んだのである。
 庄屋たちの悪巧みは、年貢の取り立てにあた
って細工をすることである。「年貢皆済」と代官に報告はしても、個々の百姓がそれぞれキチンと割り当てを完納したわけではない。庄屋が奔走して米・麦・大豆などをとりそろえ、銀札を商家などから借りて、数量を整えて上納するのである。当然割り当ての出せない百姓もあるわけで、それらの場合庄屋が保証人になって、農地を抵当に借金させたり、売り払ったりもした。
 ある夜、吉助が庄屋の床下に忍び込んでみると、その日はいつもと違って、人数は三人、それも岩屋・赤松・横手の近郷三村の庄屋たちだった。吉助は一段と聞き耳を立てた。
「どの庄屋も多かれ少なかれ、枡に仕掛けはしてあるものだ」
「うん、してその二重底の手だては?」
「左様、御城下にわしの昵懇にしている大工がいる。こやつは腕の立つ男だ。わしが請け負って、立派に作らせて見せよう」
「それは重畳」
「どのみち相手は愚鈍な百姓ども、万が一にも発覚する気遣いはない」
 庄屋たちは、増免の手段に窮して、遂に泥棒にも等しい二重底の枡を用いようと相談しているのであった。吉助は滾り立つ胸を押さえて聞き漏らさぬよう細心の注意を払った。 次の日、三代松にこのことを話すと、三代松は憤慨するより先に、これこそ人々を結集するのに絶好の好資料と大いに喜んだ。吉助は幾分意外でもあった。三代松があまりにもすべてを大衆組織への資料としての面からのみ見て、素朴な百姓魂をむき出しにして、共に泣いたり怒ったりしないことが不満だった。
 実際、三代松は当時の農民としては珍しく博学であった。いつ何処で学んだというわけでもないのに、政治経済のことにも詳しく、弁舌にも長けていた。特に字が書けることが重宝であった。
 吉助は、三代松ほどの知性はなかったが、その意志の強さ、度量の大きさで、早くも村でも指導的な人物として人望を集めていた男であった。知性派の三代松と行動派の吉助が結びついたことは、その後の運動にとって極めて好都合であった。
「類をもって集まる」と言う言葉があるが、農事の傍ら、小酒屋を営む三代松の許へは、常に近所の男たちが集まっては議論をしていた。横手の勝三郎、行入の千代三郎などは、その中でも特に親しい友人であった。
 勝三郎は、猟を業としていたが、生来剛胆で、血気盛んな男であった。直情径行的であっただけに、一部では非難された面もあったようだ。千代三郎は村でも物知りとして聞こえ、三代松同様読み書きが出来た。これらのほかにも、吉助の長男千代吉、狭間村平助、行入村与三郎、九衛門等が集まって、一揆の密談を重ねた。    
 
 何日も雨が降らなかった。植え付けたばかりの田の表は、泥がこちこちに乾いて亀裂を生じた。瓦のように反った泥の裂け目から、先端の辺りにわずかな緑を残すだけの黄色い早苗が、弱々しく風に揺れた。ぎらぎらと輝く太陽の下で、何も彼もが乾ききっていた。
 記録によると、幕末の元治から慶応、明治初年にかけて全国各地に度々旱魃が襲っている。それは恰も幕政の終焉を象徴するもののようだ。
 慶応初年、豊後一円を襲った大旱魃も、村によっては収穫皆無と言う大被害を残している。それも田植え時の五月初旬に、植え付けを促すように大量の雨を降らせて後は、天意を解せぬ人間の無力をあざ笑うように、一滴の雨も与えなかった。
 喜雨の中で、総ての田に水を張り、いち早く植え付けを済ました百姓たちは、嘘のように打ち続く旱天を眺め、茫然と為すすべを知らなかった。十日たち、十五日経つうちに、驚きは次第に焦りに変わった。稲穂は、じりじりと百姓の足裏に灼け着く土の温みに耐えきれず、既に枯死し始めた。
 あちこちの峰々で、連日雨乞いの行事が続けられた。天に祈る篝火は日夜村々の空を焦がしたが、太陽は、限りなく逞しい姿を峰に現し峰に消えた。
 伴作の肩の筋肉は、痺れて全く感覚がなかった。左右に担いだ手桶の重みがまるで感じられないのだ。ただ機械のように両足を前後して、井戸から田までの距離を縮める。
(水を、水を!)
 伴作には、土の叫び声が聞こえる。
(待っていろよ、今行ってやるからな)
 乾ききった白い土に手桶の水をあけると、水は黒い地図を描いて土の割れ目に滲み込んだ。虚しい努力だった。しかし、その徒労を承知で伴作はこうした作業を繰り返した。
 田圃の白い土を目にすると、伴作はまるで自分の皮膚がじりじりと灼かれているような渇きを覚えるのだ。それを見ると、水を与えることなしには一刻もじっとして居れない。幾日も朝から晩まで、伴作は白い土に挑戦するのだった。
 だが、手桶の水をあけて、次の水を井戸から運んでくる間にも、容赦のない太陽はじりじりと地表を焦がし、滲み込んだ水は既に小さな汚点を残すに過ぎなかった。
 くたくたに疲れた伴作が、何回目かの水を運びに井戸まで帰ってみると、七兵衛が待っていた。
 しょんぼりと肩をすくめて、口ごもりながら七兵衛は言った。
「伴作さん、こんな事を今更言えた義理じゃねえが………」
「何だい、七兵衛さん、遠慮はいらねえ。言うて見なせえ」
 伴作は、七兵衛の様子に、米の無心ではないかと察して嫌な気がしたが、今はもう何となく投げやりな気分になって答えた。
「実は伴作さん、子どもを一人貰うてもれえてえのだ」
「えっ?」
 伴作は、我が耳を疑った。同時に先日の嫌な記憶が甦った。思いがけない七兵衛の言葉にびっくりし、次いで怒りがこみ上げてきた。
「子ども、冗談じゃねえ七兵衛さん。お前さん、何を言い出すのだ。俺をかつぐつもりか?」
「そうじゃねえんだ。かつぐどころか本気なんじゃ。俺だけじゃねえ、嬶も承知の上じゃ」
「馬鹿を言え、騙されるもんか」
 伴作は、吐き捨てるように言った。
「伴作さん、済まねえ。お前さんが怒るのも尤もだ。だが今度は儂からこの通り頭を下げて頼むんだ。どうかあの子たちを救ってやってくれ」
「救ってやる?」
「うん、面目ねえが、この四・五日というもの、儂たち親子は一粒の米も食ってはいねえんだ。俺も嬶も自業自得と思って諦めもするが、諦められねえのは子どもたちじゃ。腹を減らして泣き叫ぶ子どもたちを見ると、俺は居ても立っても居られねえ。後生だ伴作さん。甲斐性のねえ親について、みすみす餓え死にさせるのが、俺はたまらねえ」
「そんなにまで困っていたのか?」
 伴作の目から、怒りが消えた。
「うん、恥を言わねばならねえが、この春から嬶の奴に寝込まれてなあ、それに餓鬼の奴は五人とも食い盛りと来ている。なんぼあっても足りるもんじゃねえ。医者の払いも溜まってなあ、もう種籾も食い尽くしてしもうた。…………お年貢がひどすぎるんじゃ、お年貢が………」
「それで、もう四日も食うていねえのか?」
「葛の根や零余子を摺り潰して食うちょるんじゃが、餓鬼の奴はこの頃じゃ食わしても直ぐ吐き出しちしまう。米が食いてえと贅沢ばかり言うてなあ」
 伴作の目が次第に潤んできた。唇が震えた。
「七兵衛さん、ちょっと待っちくれ」
 言うなり伴作は、呆気にとられている七兵衛を残して家の中へ消えた。
 伴作は鍬を取ると、家の裏手に廻って庚申塚の下を掘り返した。その中から一斗余りの籾を取り出して風呂敷に包むと、それを提げて七兵衛の前に現れた。
「七兵衛さん、これを持って帰ってくれ」
「こ、米!」
 七兵衛は、とっさに口も利けなかった。目の前に置かれた風呂敷と、伴作の顔とを当分に見比べた。
「子どもたちに腹一杯食わせてやってくれ」
 伴作は、それだけ言うと、身を飜して家に走り込んだ。
「伴作さん、違う、違うんだ。俺は米をねだりに来たんじゃねえ、こんなもの貰う訳がねえ」
 伴作は、戸を立てたまま、家の中から大声で言った。
「馬鹿、何を言うんだ。速く持って帰れ、子どもが、子どもが腹を減らして待っていると言うのに………」
「済まねえ、伴作さん。もう何も言わねえ、この通りだ」
 七兵衛は、地に両手を着いて深く頭を下げた。涙が止めどなくその両眼を濡らしていた。
 
 翌日の朝早く、七兵衛は末子のトメを連れて伴作の家の戸を叩いた。
「伴作さん、お願いだ。更めての頼みだ。どうかこの子を貰うてやって下され」
 痩せて色が黒く、目ばかりが大きい末子のトメが、七兵衛の腕に抱かれていた。
「断る」
 伴作は、そっぽを向いた。
「この子はまだ三つじゃ。儂たちにとっても大事な子じゃ、手放したい筈はねえ。だがなあ伴作さん。貧乏な儂たちがこの子を手元に置いていたところで、食わせることさえ十分に出来はしねえ。悪くすると食わねえ目に逢わせるのが落ちじゃ。女の子は大きくなれば、何れどこかへ片付けなければならねえ、そんなら今伴作さんの所へこの子を遣っても同じことじゃ。この子の幸せを考えるなら、そうすることがむしろ親の本当の情けじゃと、今頃になって気がついたんじゃ。なあ伴作さん、気を悪くしねえでくれ。あんたなら、儂たち夫婦が育てる以上に、この子を立派に育ててくれるじゃろう」
「七兵衛さん、そんなら俺も言わして貰おう。俺はこの通りの小男じゃ。未だに嫁の来てくれ手もねえ。この子が大きくなって、こんな親を持ったことを、何と思うか………」
 伴作は、自分でも意外なほど神妙な気持ちになっていた。
「滅相もない、伴作さん。あんたは心の美しい立派人じゃ。儂は口では旨く言えねえが、心の中では手を合わしているんじゃ。そりゃ今までは疑うていた。あんたが子どもをくれというて来たときは、てっきり何か魂胆があるものと考えたし、儂も欲得づくで考えていた。しかし、今は違う。儂は真からあんたの美しい心に打たれたんじゃ。儂は貧乏じゃ、米を恵んでもろうたから、お世辞を言うと思われても仕方がねえこつじゃが、そうじゃねえんだ。信じて貰いてえ。心底からトメを貰うて欲しいんじゃ。トメはこの通り不細工な子じゃ、儂たち夫婦の仲に出来た子じゃから、今更どうにもならねえ。こんな子でも、もし良かったら貰うて欲しいんじゃ。なあ伴作さん、この子が大きくなって、伴作さんの気持ちに背くような事は、儂が決してさせねえつもりじゃ」
 伴作は、七兵衛のしゃべる口許を見つめていた。七兵衛の顔には真心が溢れていた。伴作の心に温かいものがこみ上げてきた。
「七兵衛さん、済まねえ、疑うていた。もう何も言わねえ。どうかその子を育てさせてくれ」
「伴作さん、判ってくれたんだな。有り難え、そうと決まれば、今からあんたと儂は親戚同士じゃ」
「七兵衛さん……………」
伴作と七兵衛は、トメを中にしてしっかりと抱き合った。二人の目から涙が止めどなく流れた。驚いたトメがいきなりワッと声を上げて泣き出した。二人は弾かれたように離れると、七兵衛は伴作の腕にトメを渡した。伴作は、トメの重みを手に感じると、言い様のない幸福感に身が痺れた。
「おお、よう泣きおる。元気のいい子じゃなあ、七兵衛さん」
 伴作は、涙で潤んだ目に笑いを浮かべて、七兵衛に言った。七兵衛も泣きながら微笑んで言った。
「トメよ、お前は今から伴作さんの子じゃ。良かったのう、良かったのう。もっともっと泣くんじゃ、力一杯泣いてくれ、泣いて泣いて今までの苦労を洗い流すのじゃ」
 二人は堅く手を握りあい、いつまでもトメの泣き声に耳を傾けて立っていた。
 
 子どもというものは、こうも可愛いものなのか。伴作は、腕にぐっすりと眠っているトメの重さに、言い様のない喜びを感じる。色は黒く、鼻は低く、口は尖って奄閧蛯gメは、いくら贔屓目にみても可愛いという顔ではない。だが伴作の目には、トメの顔から後光が差すのだ。この子は、七兵衛夫婦の子ではなく、初めから伴作の子として神が約束してくれていたように、伴作には思える。
 トメが伴作に馴れなかったのは、ほんの二・三日で、それからというものは、片時も伴作のそばを離れぬほどになつくようになった。伴作が口をゆがめてトメに笑いかけると、トメもニッコリと笑いを返す。今では伴作は、トメの前に全身を晒すことで、しみじみとした開放感を味わうのだった。
 その上、七兵衛とは兄弟同様のつき合いをするようになって、毎日双方で行き来することも、今までの伴作には想像することさえなかった新しい喜びだった。孤独と悲哀にさいなまれて生きてきた過去が、まるで人ごとのように思える今日この頃だった。
 
 


第二章

 しかし、伴作のこうした幸福を余所に、村々では冷酷な現実が人々を見舞い始めていた。
 植え付け時から約一カ月、全く雨らしい雨をみなかった青田は、今や完全に廃田と化して、乾いた土の隙間から枯れ色の苗が折れた葉を青嵐に吹かせていた。
 百姓たちの顔から笑いが消え、言葉が絶えた。田の畔に朝から晩までじっと立ちつくしている百姓の姿が随所に見られた。
 雨乞いも祈祷もこうのないことを知った百姓たちには、もはやとるべき方法はなく、ただ枯死する稲を前にして何とかしなければと言う焦燥だけが百姓たちをいたずらに田へと駆り立てるのだった。
 伴作が、赤松村に吉助を訪ねたのは、夏もすでに終わろうとする頃だった。
 吉助の家に行ってみると、たくさんの村人たちが集まっていた。見ると、みんな手に手に小さな袋を下げているのだ。村人たちの真ん中に吉助がいて、数人の人とともに、袋の中に少量ずつの大豆を分配していた。
 伴作の姿に目を止めると、吉助はすぐ近づいてきた。
「おう、伴作さん。やっぱり来たな」
「吉助さん、いったいこれはどうしたんだ?」
「いや、なに、みんなの家から大豆を集めて、均等に分配しているところだ。何せこの凶作で、もう食う米はねえからなあ。何なら伴作さんにも…………」
「いや、それには及ばねえ。しかし、みんなよく分配に同意したなあ」
「普段の時なら出来ねえこつだ。だが人間どん底に落ちると、互いに助け合う気持ちが自然にわいてくるもんだ。それが人間というもんじゃねえか」
 伴作は、人々を見回した。誰もが一袋の大豆に満足したような表情を浮かべていた。
「ようしたもんじゃ。日照りが続いたお陰で、大豆は近年にねえ良い出来でな………」
「田圃に大豆を植えたのか?」
「そうじゃ、大豆を植える時にはさすがに諦めきれなかったが、こうなってみると、思い切って大豆を植えて良かったと思うよ。大豆は米より免は割高じゃが、それでん米の分だけよけいに作ったもんで、少しばかり手元に残った訳じゃ」
「偉えお人じゃ、吉助さんは………。俺などどうしても諦め切れねえで、とうとう枯れ苗を育てただけじゃ」
 大豆の分配が終わると、吉助は伴作を家の中に招き入れた。
「血判に加わってくれるか?」
 吉助は伴作の顔を見つめて、力強く一言言った。
「頼む、吉助さん。俺は正直なところあの頃までは疑うていた。多少の余裕もあったし、自分勝手なことばかり考えていたんだ。俺は馬鹿な男だった、許してくだされ。実はなあ吉助さん、俺は子どもを貰うたんだ」
「それは良かったなあ」
「子どもを育ててみて、俺は初めて人と人との繋がりの大切なことが身に沁みたんじゃ。笑うて下され、今では伴作は、百姓の為なら一命を投げ出してもと………」
「有り難う、伴作さん。よう言うて下さった。あんたの尊い気持ちは決して無にはしないつもりじゃ。実はなあ、いよいよ決行する手筈が整うて来たところじゃ」
「えっ、ではもうそんなに………」
「そうじゃ、領内各村々に数人ずつの同志もできた。この赤松村、それに隣の横手村、岩屋村、行入村などでは、百姓の半分以上が血判に加わっている。事を起こせば少なく見積もっても三千人の人が動く」
「三千人?」
 伴作は、驚いてしまった。そして、今更ながら吉助たちの永い努力の跡を思うのだった。
 窓の外に、人がウロウロしていた。伴作はギクリとした。吉助はそれを見ると、小さな声で笑って、
「大丈夫じゃ、伴作さん。今の人は見張りじゃ、儂の家では何をしゃべっても大丈夫なんじゃ」
「そうか、あんたと言うお人は、ど偉えお人じゃ」
 伴作は、吉助の顔を見つめながら呟いた。
 
 慶応二年の秋が過ぎ、やがて家々の軒を震わして、冷たい木枯が吹きすさんだ。豊後杵築藩領内二万五千石の田圃は寂として静まり、干害の跡は歴然だった。多少とも水利に恵まれた条件の良いところでも半作、村によっては収穫皆無というところさえあった。
 連日五人組の集まりが持たれ、庄屋の家には次々と悲惨な報告が寄せられていた。牛馬の売買、小作権の譲渡が頻繁に行われ、やがては才覚尽き果てての人身売買が続出し始めていた。そのうちに、あらゆる日用品、農機具類の価格が急激に暴騰し始めた。百姓の窮状につけ込んだ富豪たちの悪辣な手段だった。油、塩、蝋燭???基本的な生活物資の値上がりは、百姓の生活権を奪い始めた。
 その頃になって、吹きすさぶ木枯とともに、人々の口から口へ一つの言葉が伝えられ始めた。風のように速く、石のように重く、その言葉は百姓たちの心に食い込んだ。それは誰もがしこりのように永く心に蓄えながら、口にすることをはばかっていた言葉だった。
 安岐村でも、茂市、元助、七兵衛、伴作等数人の人々によって、それは村の隅から隅まで密かに伝えられていった。
「庄屋は私を営み、富豪は利を占め、大いに農村は疲弊し、小民は日々困苦している。しかるに有志之を正すこともない。この上は挙村相合し、衆力をもって私利を貪る者を懲らし、且つ之を藩邸に愬ることを期す。戸々相伝え、十二月二日未明鷹の巣に集まれ、期に後るる者は罰せらる。百姓有志一同」
 一揆………今こそ人々は吐息とともにその言葉を吐き出し、その興奮は不気味な沈黙となって増大し、巨大なエネルギーと化し始めた。
 
 慶応二年十二月二日未明、国東郷笹子の辻に一発の狼煙が上がった。蜂起の合図である。それとともに村々の家の戸は一斉に開け放たれた。
「みんな出て来い、出て来ぬ奴の家には火をつけるぞ!」
 主要な道を、大声で叫びながら、人々が走り交った。その声に応じて、あちこちから手に手に鍬、鎌、山刀、鳶口、竹槍、鉈などの得物を携えた男たちが飛び出した。
 方々で鉦や太鼓が打ち鳴らされ、道端の山林や草むらには火が放たれた。
「鷹の巣へ!」
「鷹の巣へ!」
 興奮で顔をギラギラさせた百姓たちは、口々に叫びながら、集合場所の鷹の巣山へと雪崩のように殺到して行った。
 伴作は、トメを背中にくくりつけて飛び出した。伴作にすっかりなついて片時も離れぬトメを、置いて出ることは出来なかったのだ。いや、それ以上にトメは伴作の生命なのだった。
 何時にない時刻に起こされたトメは、伴作の背でまだ眠ったままだった。背中にトメの重みがかかると、伴作は激しい闘志がわき起こるのを感じた。納戸から鳶口を持ち出すと、伴作は一散に集合場所である元助の家へと走った。
 村道に出ると、向こうから七兵衛が駈けてきた。
「伴作さん、お前はトメを?」
「そうじゃ、一緒に連れて行くのじゃ!」
 伴作は、七兵衛と肩を並べて走った。あちこちで太鼓が響き、鉦が乱打され、すぐに村道は人々でいっぱいになった。
 狭間村庄屋滝口忠三郎の家が真っ先に襲撃の対象となった。数十人が忽ち邸内に乱入し、て、柱や鴨居に斧や鉞を打ち込み、竹槍で天井を突き破り、畳建具家具を次々と路上に運び出しては、それに火を付けはしゃぎ廻った。庄屋はひたすら平身低頭して、身に危険が及ばぬよう哀願するばかりだった。
 熱狂した一揆衆は、小原手永に入り、嘗て大庄屋だった麻田村の綾部忠造方へ押し寄せた。綾部は酒造業を兼務し、代々庄屋役を務める名門で、代官との私曲の噂が絶えなかっただけに、いち早く一揆衆の動きを察し、家財を知り合いに分散し、井戸の荒らされるのを恐れて、井戸蓋の上に道具類を山と積み上げ、藩から雇った少禄の武士十数人が、玄関横に幔幕を張り、床几に腰掛けて防備していたが、一揆衆は臆する色もなく進撃し、幔幕を破り床几を蹴倒して屋敷へなだれ込んだ。一部は裏手に廻り、石垣を乗り越え、塀際に堆く積まれた燃料用の割木を取っては、手当たり次第に投げつけた。伴作はこの一団に加わっていた。背中のトメガ大声で泣き出したが、それにかまってはおられなかった。
「グズグズするな、こいつらが生き血を吸う元凶だぞ。叩きのめせ!」
 忠造は色を失って逃げまどい、酒蔵に隠れたところを見つけて引き出され、怒った数人が三十石入りの大酒樽の箍を切ったので、酒が川をなして流れたという。しかし、一揆衆はこうした興奮の中でも、庄屋屋敷の社倉や武士には危害を加えなかった。藩を敵に回すことは不利だとあらかじめ吉助等に諭されていたからである。
 明けて十二月三日になると、農民蜂起の報は近郷の村々に知れ渡り、庄屋や富豪たちは戦々恐々として、少しでも難の軽くなることを願った。赤松・横手の庄屋たちは、使用人に酒樽を担がせ、糧食を携えて、一揆衆の群がる鷹巣・笹子の辻を訪れ、平身低頭して無難を嘆願した。
「今になって、何をほざく、帰れ、かえれ!」
 石を投げられ、棒で追い立てられて、庄屋たちはスゴスゴ退散した。
 群衆は雪崩を打って山道を下り、田深を襲い、古市を蹂躙した。鶴川今在家の酒屋新屋や島屋の親族縁者たちは、かねてから慈悲深い分限者として知られていたので、一揆衆は素通りしたという。これに反し、古市の酒屋塩屋は、はげしい被害を被った。
 両子手永では、富永村庄屋三浦喜十二、三浦梅園の後裔三浦安斎等が農民を指導し「一揆には加わるべからず、事情已むを得ず参加するときは、破壊行為はしない」と言う協定が出来ていた。三日夜、麻田から押し寄せた群衆の松明は山々を赤く彩り、喚声は谷々へこだました。若者たちは竹槍を持って一揆衆に合流し、老人や女・子供は布団を担いで藪の中へ避難した。盟約が功を奏したのか、二・三の酒屋が軽い被害にあっただけで、庄屋の被害はなかった。
 諸田・明治・弁分等の西谷郷には、三日に代官生地棟蔵が藩士を伴って警戒したため、農民の参加は少なかった。
 越えて十二月四日、一揆衆は安岐地区に入った。行く先々、人々は大声で触れ回った。
「みんな出てこい、参加せぬ奴の家には火を付けるぞ!」
 その声に応じて、西安岐近在、下原・塩屋・西本・横城方面から竹槍や鉈・鎌などの武器を持って集まる者数知れず、松明を赤々と燃やして長蛇の列が長々と続いた。その数は無慮数千人を数えた。
「盗人倉は何処か、ぬしと倉はどこか!」
 人々は、富豪や庄屋の屋敷を求めて大声に叫びながら突き進んだ。沿道の豪家では握り飯を山と積み上げ、四斗樽の鏡を抜いて柄杓を添え、主人は土下座して一揆の労をねぎらい、頭を地にすりつけて無難を懇願した。
 古市から小城を経て西安岐に入った一隊は、田口に下って庄屋後藤太丸家を襲い、建具を打ち壊し、衣類家具を畑に運び出して火を付け、喚声を上げて押し下り、瀬戸田村庄屋中嶋忠左衛門・中園村庄屋小俣兵助の両家を襲った。中嶋家には柱・鴨居に斧の傷跡が生々しく残っている。
 大道の酒屋備前屋も、酒肴や握り飯を戸板に積み上げて表へ出し、ひたすら慰撫懇願に勤めたが、党民はそれらに見向きもせず乱入し、縦横無尽に狼藉を尽くしたあげく、井戸に籾殻を投げ込んで使用不能にし、更には仕込みを終えた大樽の箍をうち切ったため、酒が洪水のように流れ出し、人々はそれを手で掬っては口に入れ、勝利の快感に酔い痴れた。
 同じく大道で呉服商を営み、油・蝋燭等を製造していた小川真蔵の家は、日頃の恩情に報いるとして、打ち壊しを免れた。
 余勢を駆って、一揆衆は下原へ下った。中村の酒屋玉屋の表には、番頭が裃を着けて平伏し、首謀者の一人が立ちふさがって、
「恩顧の家ぞ、ふるるな、ふるるな!」
 と、大音声に唱えたので、災難を免れた例もあった。福力屋・上海老屋・下海老屋は大損害を受けたと言われる。
 横城村庄屋次郎治の屋敷の前まで来ると、次郎治初め下働きの男たち一同が、門の前に地に手を突いて、襲いかかろうとする百姓たちに哀願していた。
 次郎治は、伴作を見つけると、縋るような目を向けた。伴作は一瞬戸惑ったが、すぐ気を取り直して、大声で叫んだ。
「何をグズグズしている、私ごとの怨みじゃねえんだ。遠慮するな!」
「そうだ、やっちまえ!」
 躊躇していた人々は、庄屋たちを突き倒すと、ドッと門内に殺到した。忽ち戸、障子は蹴倒され、梁は傾いた。人々は庄屋の家財道具を手当たり次第庭に放り出すと、それを土足で踏みにじり、火を掛けた。
 炎々と燃え上がった焔の中で、百姓たちは互いに手を取り合って、笑ったり泣いたりしていた。
 伴作は、不思議な陶酔を味わっていた。今まで人から蔑まれ、自分自身も極度に卑下していたこの自分という者が、一揆の群衆の中では、いつの間にか人々の意志の代弁者のような役割を果たしているのだ。
 伴作がこうだと言えば、人々もそうだと答え、伴作が右に動けば人々も右に動く。そして伴作自身気がついて見れば、常に群衆の先頭を駈けているのだった。
「我らの生き血を吸う庄屋や分限者どもを叩きのめせ!」
 伴作は、痺れるような興奮に駆り立てられながら、大声で叫んでは駆け回った。
「鷹の巣へ急げ!」
「みんなに後れるな!」
 口々に叫びながら、大群衆と膨れ上がった村人たちが、伴作の後を追った。
 
 この日、鷹の巣山麓に集まった百姓の数は二千名を超えた。山麓にしつらえられた急拵えの壇上から、三代松、勝三郎、千代三郎の三人が、交々人々に呼びかけた。
「近年我々百姓は、藩から種々の新法を押しつけられ、その為に百姓の窮乏はもはやその極に達した。今我々に残された道は、飢え死にするか、或いは武器をとって立ち上がるかの二つに一つだ。みんな、どちらを選ぶ!」
「決まっている、立ち上がるより他に何の道がある」
「そうだ、そうだ!」
「我々は虫けらじゃねえぞ、馬鹿にするな!」
「藩に要求を突きつけろ!」
「年貢五つ物成を三つにせよ!」
「夏上納大豆十四延を差し止めにせよ!」
「六の口を廃止せよ!」
「上納大豆の乾目減を計算するのを廃止せよ!」
「牛馬市の口銭を廃止せよ!」
「助郷を止めさせろ!」
「庄屋を全て罷免しろ!」
「代官を追放せよ!」
「庄屋を叩きのめせ!」
「金持ちをぶっ潰せ!」
「………!」
「………!」
「そうだ、そうだ!」
「やっちまえ!」
 人々は口々に叫び、竹槍を上げ、莚旗を打ち振って気勢を上げると、四方に分かれてどっと村々に繰り出した。
 一揆の人々が各村々に入ると、道の両側に老人や女子どもがギッシリと並んで出迎え、口々に応援しながら隊列の後を追った。時間の経つごとに群衆の数は増える一方だった。
 村に入った一揆衆は、次々と庄屋や富豪の邸を襲った。一揆の通り過ぎた後は、まるで大波にさらわれたように、多くの家々が潰えていった。
 
 一揆行動の直接の指揮には、三代松、勝三郎、千代三郎らが当たり、吉助は総指揮として赤松村にあって、刻々報告される情勢に対応する行動の立案をした。伴作は、吉助と一緒に行動できないのが寂しかったが、混乱の最中にあっても、常に吉助の目を背後に感じて、不思議と力が湧いた。そして、自分の行動が吉助に繋がり、同時に多くの人々に繋がっていると言う自覚が強い支えとなっていた。
 十二月四日、一揆の主勢力は安岐村に入り、実際寺に屯した。杵築城を隔たることわずか三里の地点である。赤々と燃える篝火の下に、二千名を越す大群衆が犇めいていた。
 連日の寒さと疲れ、それに空腹が重なっていたが、人々は一様に勝利の快感に酔い、武器を天に気勢を上げ、肩を抱いて喜び合っていた。
 血気にはやる人々は、実際寺へ着くとすぐに余勢を駆って、一気に藩城を襲う気配を示し始めた。
 その時、吉助からの指令が届いた。一応実際寺に駐屯して、藩と交渉を開始せよと言うことだった。首謀者たちは、早速各村々の代表者を集めて対策を練った。藩と交渉せよと言う意見と、このまま更に東上して藩城を叩けと言う意見が半々で、なかなか纏まらなかった。
 
 一揆が起こった時、藩主松平親良(ちかよし)は寺社奉行として江戸に在り、世子親貴(ちかとう)が城を守っていた。暴徒蜂起の報を受けると、親貴はすぐに代官友成孫治に命じて一揆鎮圧に当たらせた。
 友成は、側近の従者数名を引き連れて、馬で安岐郷まで赴いたが、村の入り口付近に差し掛かると、隊伍を組んで待っている百姓の一隊に出会った。
 百姓たちは、代官と知るといきなり喚声を挙げて襲いかかってきた。従者たちは代官の周りに槍襖を作ったが、その槍は忽ち百姓の鉈の一撃に折れて飛んだ。友成は、馬の首を立て直すと、従者たちを残したまま慌てて逃げ出した。
 友成からの報告を聞いた親貴は、色を失いすぐに銃手百名をもって城の徹宵警護に着かせる一方、家老中根源右衛門に事件の収拾を命じた。
 藩からの使者として、中老矢野哲三郎が銃手十名を伴って、百姓の説諭に訪れたのは、十二月四日の真昼だった。
 矢野が銃手に囲まれて実際寺に近づくと、忽ち百姓たちの攻撃にあった。百姓たちは、竹槍を天に喚声を挙げて矢野に対した。バラバラと小石が飛んで来た。
「静まれ、静まれ。予は中老矢野哲三郎じゃ。藩の名代として参った。代表に会いたい!」
 矢野の声は、群衆の喚声に消えた。殺気だった群衆は今度は竹槍を構え、役人を遠巻きにして騒ぎ始めた。
 咄嗟の思いつきで、矢野は従者に命じた。
「砲を上へ向けて撃て!」
 十挺の銃口から、ドドドッと一斉に空へ向けて弾丸が放たれた。一瞬静かになった時を見計らって、矢野は大声で叫んだ。
「藩主親良公の名代、矢野哲三郎じゃ、代表者と話がしたい!」
 矢野の策が功を奏し、初めて群衆は囲みを解いた。矢野は役人に命じて五間四方に幔幕を張り巡らした。
 幕府から下賜されたという雪笹の定紋入りのこの幕は、矢野たちと百姓たちとを見事に隔離する役割を果たした。百姓たちの目に、それは藩という権威の象徴として映った。 
 もう怒声を浴びせる者もなく、石を投げる者も無かった。矢野は会心の笑みを漏らした。そしていよいよ説諭を始めるべく、幔幕の外に出て定紋を背にして立ち、百姓代表の現れるのを待った。
 その時である。突然百姓たちの群の一角からざわめきが起こった。と見る間に、そのざわめきの中から子どもを背にくくりつけた小柄な汚れた男が、人垣をかき分けて出てきた。伴作である。
「何だ何だ、このざまは………。役人が何でえ、殿様が何でえ。俺たちの血を絞り上げた張本人はこいつらだぞ、びくびくするな!」
 伴作が、大声で言うと、暫くしてあちこちから、
「そうだ、そうだ!」
「やっちまえ!」
 と、声があがり始めた。その声に力づけられた伴作は、いきなり幔幕に近づくと、幕の一端をピリピリと引き裂いた。
「狼藉者め!」
 矢野が叫び、それに応じて数人の銃手が伴作を取り囲んだ。
 その時、百姓たちの間から、一斉に叫びが起こった。
「伴作を殺すな!」
「伴作、しっかりやれ!」
 ドヤドヤと数十名の竹槍が、銃手の周りに円陣を作った。激しい殺気がみなぎり、一瞬双方が沈黙して睨み合った。伴作の背中のトメが、火のついたように泣き出した。その泣き声の間を縫って伴作の声がした。
「俺を撃てるものなら撃って見ろ、ふん、火縄が怖くて黙ってしまうような伴作じゃねえぞ。畜生、どうするか見ておれ!」
 伴作は、再び幔幕に近づくと、裂いた布の端をつかんで力一杯引きちぎった。
「こいつが………、こいつが!」
 伴作は、幔幕の千切れを地上に叩きつけると、足で踏みにじり、更には尻をまくって、その布で拭う真似をして見せた。
 役人も百姓たちも、意表を突いた伴作の行動を、呆気にとられて見つめた。
「撃て、撃て!」
 矢野が、狂気のように叫んだ。気を取り直した銃手たちが、再び伴作に銃口を向けようとすると、百姓たちの間から一斉に声があがり、幾百ともしれぬ石が役人めがけて飛んできた。
「追い返せ、追い返せ!」
 群衆が、黒い塊のように動き出した。
 矢野たちは、ほうぼうの態で逃げ帰った。
 
「大変なことをしてくれたなあ、伴作さん」
 振り向くと、三代松が立っていた。
「これで藩との交渉の道も塞がれてしもうた。もうどうしようもねえ………」
 三代松は、ボソリと呟いて腕を拱いた。
「何故だ………。俺がしたことが間違っていると言うんか。見ろ、あの通りみんなの力は盛り上がっているじゃねえか。それをどうして………」
「みんな思いがけぬ成功に酔うているだけじゃ。みんなの気持ちは、今ではてんでんバラバラじゃ。もう先は見えている」
「馬鹿な、三代松さんともあろう人が、そんな弱音を吐くとは思わなかったぞ。今こそ一気に城まで押し寄せて、百姓の力を示す時じゃねえか」
「武器はどうするんじゃ、食糧はどうするんじゃ。旗揚げしてもう三日、みんなこの寒さと飢えに困り抜いている。城には刀や鉄砲が俺たちを待っているんだ。今までとは違う」
「違いはせん、あくまで進むんじゃ。それより他に百姓の生きる道はねえ!」
 伴作は、キッパリと言い切った。三代松は、黙って目を伏せた。百姓たちの喚声が、二人の沈黙の間を縫って響いた。
 事実誰も彼も疲れ切っていた。庄屋、富豪を次々と襲い、その数は百をはるかに超えたが、数が重なるに従って、最初のような興奮は無くなった。路上に積み重ねられて火を掛けられる家財道具や、鏡を破られて流れ出す酒や油は、百姓たちの心に次第に羨望の気持ちを植え付け始めていた。そして、庄屋や富豪たちの哀願の声を耳にすると、何か後ろめたい気持ちになって来るのだった。
 百姓たちのこうした心理の動きは、やがて首謀者たちへの反発となって現れようとしていた。伴作は、つまりは百姓たちの憤懣の端的な代弁者として登場し、戦闘的な扇動者としての役割を果たしてきたのだが、所詮それは蜂起直後の瞬間的なものでしか無く、何時までも続く筈のものでは無かった。
 賢明な三代松は、そのことに既に気づいていたが、有頂天になった伴作には、自分が単なるロボットであることを自覚する知恵は無かった。
 
 その宵から降り始めた雪は、夜に入って吹雪となり、露営の人々の身体に寒さが容赦なく忍び込んできた。吹雪は翌朝になっても止まなかった。鉛色の空から白い風花が無数に舞い降りて、視界を遮った。強風に莚旗が飛び、人々の叫び声は雪に吸われ、手足は悴んで自由を失った。
 半里と進まぬうちに落伍者が現れ始め、次第にその数を増していった。
 伴作の背で、トメが低い泣き声を挙げていた。連日の疲れで、もう声も涸れていた。その低い泣き声も吹雪の音にかき消された。
「トメ、もう少しの辛抱じゃ、泣くんじゃねえぞ!」
 トメに言うより、むしろ自分自身に言い聞かせながら、莚旗を握る手に力を入れる。しかし、今では伴作でさえ次第に心細さを覚え始めていた。
 目指す杵築城までは一里ばかりを残すほどに迫ったが、一揆の人々の数は目立って減っていた。そして、寒さと飢えとに疲れ切った人々が、吹雪に吹きまくられて進む様は、まさしく敗残の兵そのものであった。
 しかし、そんな群衆も、庄屋邸や富豪の家を襲うときには、急に活気を取り戻した。人々は、飢えた狼さながらに門内に乱入し、食物をむさぼり、衣類をはぎ取って着用した。
 今や、当初のような規律ある行動はなく、一揆衆は野党の集団と化したのである。
 蜂起後五昼夜を経て、一揆は止んだ。
 
 十二月十五日、家老中根源右衛門は、銃手数十名を従えて一揆後の村々を巡察し、逮捕した百姓の数は三百名を超えた。中根は次いで村々の代表役百名を、横手村に集めて訓戒を施した。
 中根は、まず藩公の絶大な恩恵を説き、このたびの一揆は百姓の分際として許し難い振舞いではあるが、格別の思し召しを持って、首謀者及び特別の振舞いのあった者以外は、罪に問わない旨を述べた後、一揆の原因になった租税のことに言及し、藩の租税項目を示し、その間に介在した代官、庄屋の私曲を挙げて、藩としての課税の正当性を主張した。
 しかし、これも百姓たちにとっては、きわめて一方的な詭弁であることは今更言うまでもない。絶大な権力が再び自分たちの上に大きくのしかかってしまっていることを、人々は一様に感じたが、一揆失敗の虚脱感がそれを肯んじた。
 次いで、目付役増田萬太が立って、中老矢野哲三郎の謹慎、代官友成孫治の罷免、岩屋、赤松、横手三村の庄屋の姫島への流罪、その他十数名の私曲のあった庄屋の処分を発表し、百姓首謀者、赤松村吉助、横手村勝三郎、岩屋村三代松、行入村千代三郎、安岐村伴作、以上五名の死罪を宣告した。
 こうして、百姓一揆は結末を告げた。そして、踏み荒らされた田圃、壊された家々の上を、再び荒涼とした冬の風が渡って過ぎ、慶応二年の冬はもう終わろうとしていた。
 
 


第三章

 トン、トン、トン、納屋で藁を打つ音が、先刻から響いていた。ウメは上がり框に雑巾をかけながら、こみ上げてくる悲しみに堪えていた。さっきから同じところに何度も雑巾をかけている。黒く光った木肌は、苦しい生活の歴史を物語っていた。何十年来の百姓の汗と油が滲み込んだ色である。
 炉端で老婆が煙にむせたのか、二.三度軽く咳き込む音がした。
「ウメさや、三代松はどうしているぞな?」
 老婆が弱々しく声をかけた。ウメの目からこらえかねた涙がハラハラと落ちた。耳を傾けるまでもなく、納屋からの音は確実に、少しの乱れもなく響いていた。
「納屋で藁を打っていますがな」
 ウメはそう言うと同時に、ワッと声を挙げて泣いた。
 三代松は、黙って藁を叩いていた。彼は既に観念していた。役人が自分を召し取りに来るのは必定である。彼は藁を打ちながら、役人の姿を心待ちにしていた。彼には大事を成し遂げた後の安堵感があった。しかし、後に残る妻子や老婆のことを考えると、心が曇った。
 母は七十歳に近かった。早くから連れ合いに先立たれて、三代松一人を頼りに生きてきた母である。近年頓に衰えが目立って、炉端に坐った姿が痛々しかった。
 ウメとは、連れ添うて二十年、長男一人がある。苦しい家計のやりくり算段に、苦労ばかりさせてきた妻である。ああもう思うまい、三代松は沈む心を打ち消すように藁を打った。
 類吉も一揆後はすっかり沈んで痛々しい。それが三代松の身を案じてのことだと判るだけに、一層切なかった。もし類吉の目の前で捕らえられたなら、親の縄目を何と見るだろうか。
 藩から御目付役笠置磯右衛門が、五人の役人と共に姿を見せたのは、昼近くであった。役人は、家の左右と裏手の三方に別れて張り込み、磯右衛門は正面から踏み込んだ。三畳の炉端に老婆が屈み込んでいた。
「三代松はいるか?」
 老婆は怪訝そうな顔を上げた。
「ウメさや、三代松にお客ぞな」
 台所にいたウメが、飛び出して来た。磯右衛門は再び問うた。
「三代松は何処にいるか?」
 ウメは、昏倒しようとするのをやっと自制した。遂に来るべき者が来たのである。
「な、納屋におります」
 ウメは、そう答えると、その場にくずおれた。ドヤドヤと役人が納屋に踏み込んで来た。
 三代松は、藁を打つ手を止めて静かに腰を上げた。
「お前が三代松か?」
「へい、私が三代松でござります」
「御用じゃ、杵築より参った。神妙にいたせ}
 磯右衛門が言うと、三代松は、
「お待ち申しておりました。すぐ参ります。その前に老婆にちょっといとまごいをいたしとう存じます。しばらくの間ご猶予をお願いします」
 と、落ち着いて答え、着物に着いていた藁屑を手で払って、三代松は立ち上がり、母屋に来て老婆の前に手をつかえた。
「おかあ、ただいまの御役人は杵築より来られたお方じゃ。いずれ一揆のお調べじゃろうが、でも心配ねえさ、いまから御役人について杵築の御城下まで行き、申し開きをしてすぐ帰ってくるからなあ」
 三代松はそう言って、老婆に安心させ、役人に向かって言った。
「さあ、お連れ下さりませ」
 磯右衛門は、三代松の気持ちを察して、縄を打つことを控えた。
 ウメが駆け寄って来た。涙に濡れたウメの顔と見たとき、三代松に目に初めて涙が溢れた。
「ウメ、行って来るぞ、後を頼む」
 三代松は、役人の先に立って歩き出した。
 家が見えなくなる曲がり角まで来たとき、三代松は後ろを振り向いた。大嶽山がクッキリと浮いていた。この岩屋村に生まれて四十年間、朝夕眺めてきた山である。いよいよこの山の姿も見納めかと思うと、三代松は思い切り声を挙げて泣きたい衝動に駆られた。
「御役人様、お縄を頂戴いたします」
 三代松は、両手を後ろに回した。
 
 十二月の初めというのに、まるで春のようにポカポカと暖かい日になった。 
 吉助は、土間に茣蓙を敷いて、藁莚を編み始めた。一揆解散以後、村は急にヒッソリと静まり返って、誰一人尋ねてくる人もない。倅の千代吉が集めてきた情報によると、各家とも後難を恐れて、すっかり謹慎しているらしく、吉助の家から小川一つ隔てた道にも、殆ど人の行き来がない。
 吉助は考えた。
(実際寺で役人が、罪人を一人も出さぬと約束したと言うが、どうもおかしな話である。これだけの大きな騒動を起こして、何の咎めもない訳はない。今にきっと何かが起こるだろう。しかし、今度という今度は百姓の力が馬鹿にならない事を藩の役人たちも肝に銘じたであろう。実際みんな良くやってくれた。数千人という大群衆が動いたようだが、自分でも不思議なほどの成功だ。どの村も苦しかったのだ。立ち上がらざるを得ないギリギリのところまで追い込まれていたのだ。だからこそ、こういう結果になったのだ。それはそうと、三代松や勝三郎はどうしているだろう、昨夜も一昨夜も家にいなかったようだが………あの二人はどう考えてもこのままでは済まないだろう。何しろ実際寺では百姓を代表して役人と掛け合ったのだから、このわしは、表面に出ていないから、もし二人が捕らえられたなら、自首して出るとしよう………)
 その時である。ふと戸外に目をやった吉助はギクリとした。数人の役人が小川の丸木橋を渡って足早にこちらに近づいて来るのが見えた。妻のツ子と長男の千代吉が、足音を忍ばせて寄って来た。
「お前さん、御役人だよ」
「うん、判っている。千代吉お前は隠れていろ}
 吉助はそう言うと、居住まいを正した。
 ガラリと表の戸が開けられた。吉助はゆっくりと立ち上がった。
「吉助はいるか?」
 役人の声がした。 
「はい、ここに居ります」
 吉助は、役人の前に立った。見ると、数人の役人の後ろに、熊市がブルブル震えて立っていた。
(熊市の奴が、密告したのだ)
 吉助はすぐそう思った。熊市は哀願するような目で、吉助をチラリと見た。
(無理もない、百姓みんなが同じ心であるわけはない。まして一揆が終わってみれば、保身に動くのも無理はない)
 吉助は、熊市を恨む気にはなれなかった。むしろそんな熊市を哀れに思った。
「わしが吉助でござります。お騒がせいたしました」
 と、静かに頭を下げた。
 召取り役の目付増田萬太は、吉助の悪びれない態度に、意外な気がした。この度の一揆の発頭人と言うから、定めて強情な男だろうと、多少の手向かいは覚悟していたのである。
「ツ子、御役人様にお茶を差し上げな」
 ツ子は、奧からブルブル震えながら、盆を捧げて出て来た。
「粗茶をどうぞ」
 役人たちは、呆気にとられて、人形のように吉助のなすがままに任せ、怪訝な顔をしながらもツ子の差し出す茶を啜った。
「では御役人様、お連れを願います」
 吉助は、自分でもツ子のさし出すお茶をグッと飲み干して、門口に立った。
 
 一揆の日とは打って変わって小春日和が続いていた。伴作は納屋の片隅で藁を叩いていた。側の莚の上でトメはスヤスヤと眠っていた。夢を見ているのか時折小声で何か呟くのが伴作の耳に入った。村は何事もなかったかのように物音一つ聞こえなかった。静かだった。
 ふとその静けさを破るように、数人の足音が近づいて来るのが聞こえた。伴作はギクリとして立ち上がり、鎧窓を開けて外を見た。思った通りだった。五人の役人の姿が大きく伴作の視野を遮った。
「伴作か?」
「はい、左様で………」
「ご用の筋じゃ。一緒に来るがよい」
「お待ちしておりました。どうぞお連れ下せえまし」
「神妙の至りじゃ、お縄を頂戴いたせ」
「一つだけお願いがごぜえます。この子を親戚へ預けたいのでごぜえますが………」
 伴作は、トメを揺り起こした。トメは役人の姿を見ると、大声を挙げて泣き出した。泣いているトメを背にして、伴作は役人の先に立って歩き出した。役人たちは伴作の周りを取り巻くように歩いた。
 七兵衛の家の戸は、相変わらず大きく傾いて隙間だらけだった。気配を察して、すぐに七兵衛夫婦が外に出て来た。
 トメは、母親の胸に激しく飛び込んで行った。
「おお、伴作さん!」
「七兵衛さん、残念じゃが、この子をお返しせにゃならんこつになった」
「伴作さん、有り難う、有り難う、僅かの間でもトメはいい夢を見せてもろうた。あんたが帰ってくるまでトメは預かるが、トメはあんたの子じゃ。それは忘れんでな」
「勿論トメはわしの子じゃ。忘れる訳がねえ。でもなあ、帰れるかどうか………」
 側から女房が口を挟んだ。
「帰れるとも、帰れるとも。伴作さんは私たちの宝じゃもん」
「もうよかろう」
 役人の一人が、伴作を促した。伴作は七兵衛の許に駆け寄り、その両手をガッチリと掴んで、小声で言った。
「裏の庚申塚の下を掘れ」
 伴作は、きびすを返して役人たちの方へ近づき、両手を差し出した。
「お手数をかけました。さあ、参りましょう」
 
 獄屋の中は、昼でも薄暗い。広さは六畳敷きほどもあろうか、森閑として静まり返っている。時折、牢番がコトリコトリと警杖の音をさせて近づいて来るばかりである。
(吉助はどうしているだろうか、勝三郎は、千代三郎は………)
 思いを巡らせば、一層三代松にはこの暗さ静けさがやり切れない気がした。何という変化であろう。つい先日まであの一揆の先頭に立って、数千人の群衆の力を背景に、心の燃え上がる日々を過ごして来たのに比べると、これはまた何という暗黒と孤独の静寂な世界であることか。
 一度、形通りの簡単な吟味があったばかりで、その後何日立っても一向に呼び出される気配はなかった。その間季節はドンドンと移り変わっていったが、獄中の三代松には、朝夕単調な錦江の潮の音を耳にするばかりである。髪や髭がぼうぼうと伸び、手足の爪は何度も伸びては折れた。
 やがて、秋風が立ち始めた頃、ようやく三代松は白州へ引き出された。白州の砂は三代松の素足に冷たく触れた。久しぶりの獄外である。青々とした松の葉、高い空、吹く風、どれもが心地よかった。 
 奉行村上藤右衛門は、三代松の痛々しい姿を見て、心の中では憐憫の情を催していたが、調べを進める内に三代松の弁舌と、そのふてぶてしい態度に憎しみを覚えるようになった。 藤右衛門の調べに、三代松は胸を張って答えた。
「わしら百姓は、今まで御役人といやあ立派なことをなさるお方とばかり思っておりやしたが、今度のことで全くあきれ返りやした。お前さん方は大嘘つきだ、大かたりだ」
「だまれ、上役人に向かってなんたる雑言、黙れ、黙れ!」
「いや、黙らねえ、実際寺での約束は男同士の約束だ、それをすぐ掌を返すように捨て去るなんざあ、呆れてものが言えん。百姓だから牛馬のように言うことを聞くと思うたら、大間違いだ」
「者ども、早々にこ奴を引き立てろ!」
 藤右衛門は、ブルブル震えながら怒り立った。
 事実、実際寺での交渉の時は、この場で一揆を収拾するなら、これまでのことは不問に付して、農民から一人の罪人も出さぬことを、藩の対面に賭けて約束するとのことであった。いくら農民たちに伴作のような過激な振舞いがあったにせよ、城を襲うことなしに一揆は解散したのだ、条件は少しも変わっていない筈だ、三代松は極力そのことを主張した。しかし権力に対して、敗残者の立場は無力に等しかった。無謀な重い壁が以前にもまして百姓たちの頭上にのしかかってきた。
 十月も終わりに近くなった。今頃は故郷の村々では収穫の最中であろう。忙しく立ち働く人々の姿を思い浮かべながら、三代松は瞑想に耽っていた。その時、珍しく牢番が外から優しい声をかけた。
「三代松、お前の村の者から差し入れだ、食べるか」
 格子の下から差し出されたのは、一皿の寿司であった。
 三代松は、ゴクリと生唾を呑み込んだ。もう十ケ月近くも口にせぬ古里の米の飯である。毎日臭いもっそう飯を掻き込んでいる身にとって、寿司の一皿はそれこそ地獄に仏の甘露である。それも懐かしい故郷の人々の温かい情の篭もった差し入れである。思わずポロリと涙が頬を伝った。
 三代松は、ムズと寿司の皿を掴むと、頭上に押し頂いた。この米のために男の一生をかけて起こした一揆である。故郷の人々は自分を忘れてはいない。ああもあろうかこうもあろうかと、想像を巡らしていた毎日に、急にすっきりと筋の通った気がした。今までともすれば疑おうとしていたのだが、何時か牢番が洩らした代官や庄屋の罷免・流罪は真実であるらしい。すると、村も幾分か暮らし好くなったに違いない。
「皆の衆、有り難うよ。腹一杯食わしてもらうぜ」
 三代松は、まるで餓鬼のようにその寿司を頬張った。旨い、実にうまい。頬張りながら、涙がわいて仕方なかった。
 寿司を食い終わって、ホッと一息したとき、三代松は、牢番がさっきから覗いているのに気が付いた。三代松と視線を合わすと、牢番はニヤリと笑って言った。
「特別仕立てだ、さぞ旨かったろうが」
 その言葉を聞いた瞬間、三代松はヒヤリとした。と同時に、腹の中が急にムクムクと動き始めた。
「毒入りだ!」
 そう思ったときは既に遅かった。強烈な毒素は生き物として三代松の腹の中でのたうち始めた。腸や胃の粘膜を引き刺すような激しい痛みが起こった。次いで、喉の中を暖かいものが噴水のように溢れたと見る間に、忽ち口の中一杯になった。
 どす黒い血であった。ゴボゴボと不気味な音を立てて、三代松の口から血が吐き出された。
「畜生、計りやがったな!」
 そう叫んだ口の下から、新しい血がドクドクと噴き出した。牢番もあまりのむごたらしさに顔を背けた。
 もう三代松の呪いの言葉は声にならなかった。何か言う度に、言葉の代わりにどす黒い血が溢れ出た。その血は忽ち六畳の牢の壁を彩り、床を濡らした。
 三代松は、その血の海の中にのたうち回りながら息が絶えた。  
 
 竹矢来の外のどよめきが、まるで水を打ったようにピタリと止んだ。小松の下の、まだ霜柱の残っている小径を踏んで、首切り役人のテボ(七島藺で作った駕籠)に担がれた四人の罪人たちが姿を現した。人々の視線はいっせいに彼等の上に注がれた。
 一年あまりの獄中生活は、彼等の容貌をすっかり変えてしまっていた。髪も髭も伸び放題に伸び、頬骨が高く突き出て、目元には深い憔悴の隈があった。後ろ手に縛り上げられた身体は、テボの中に坐ることさえ困難なほど弱り切っていた。テボの周囲の四本の綱がその顔や肩を支えて、やっと転落するのを免れていた。
「三代松がいねえぞ!」
「三代松は獄中で毒殺されたそうな」
 見物人の中からささやきが起こり、溜息が洩れ、嗚咽の声が挙がった。
 静かに、しかし乱暴に、罪人たちのテボは刑場に運び込まれた。中ん原の刑場は不気味に静まり返り、再び沸き立った。
 伴作は、しきりと一つのことを考え続けていた。トメのことだった。トメの行く末はどうなるのだろうか。その事ばかりが気にかかった。死の直前にまで追いつめられていながら、、自分自身のことより先に、トメのことが気になって仕方がないのだった。生きていたい………。伴作は切実にそう思うのだった。
 トメのことを思い続けている伴作には、人々の騒ぎも、役人たちの姿も目に入らなかった。胸元からこみ上げてくるトメへの愛情に、伴作の心は疼いた。瞼を閉じれば、直ぐ目の前に可愛いトメの姿を描くことが出来た。一年近くの獄屋での生活の間に、伴作は眼前にトメの姿を描くことを覚えたのだ。目、鼻、口から、果ては柔らかな手足に至るまで、画家が画面に描くように、一点一画を克明に空間に描いて作り上げられたトメの像なのだ。
 太鼓が鳴り、一瞬静かになった。
「安岐村伴作!」
 副検使の重々しい声が、辺りの静けさを破って響いた。いよいよ処刑が始まるのだ。
 役人の一人が、そばに寄って来て、伴作の肩に無言で手をかけた。その時、伴作は突然自分の立場を実感した。
 途端に悪寒が背筋を走った。
(殺される!)
 そう思った次の瞬間、伴作は反射的に飛び上がって喚いた。
「嫌じゃ、いやじゃ、死ぬのは嫌じゃ!」
 処刑の直前になって、死への恐怖は強く伴作の心を襲った。最早伴作には思慮も分別も無くなっていた。少なくともそれまでの伴作には、今日の処刑を、男らしく、一揆の首謀者らしく、潔く受けるつもりだったし、その覚悟も早くから出来ているつもりだった。人生の最後の場面を、取り乱すことなく従容と死に就くことを、自分にも言い聞かせ、その為の修練も十分に積んで来た筈だった。
 だが、いよいよ処刑の場に直面して、全て一転した。藤右衛門の声を聞いた途端、伴作の魂は宙を駆けた。
「助けてくれ、殺さねえでくれ!」
 伴作は、大声で叫びながら、刑場を逃げ回った。役人の太い腕が、左右からがっちりと伴作を捉えて、喚くその口に猿轡が噛まされた。
 目隠しと猿轡で完全に面を包まれた伴作は、それでも身体をよじって暴れ回った。役人がその肩を押さえつけながら、土壇の上に伴作を引き据えた。副検使安藤三郎が書状を読み上げた。
「安岐村伴作、百姓共徒党致せし去歳十二月、其方儀騒動の議を組み通達に及び、他の数人共と発頭に相当たりし段、極悪重罪の者に付き、首胴を刎ね、獄門仰せ付けられ候也 慶応三年十一月十一日 杵築藩主松平親良」
 その声が終わる一刹那、首切り役人の手にした白刃がひらめいた。
 ガチッと鈍い音を立てて、刃は伴作の首筋に止まった。長い労働で鍛えた彼の首の筋肉は、牛のように硬く、役人の刀を跳ね返したのだった。
「ヒューッ」
 と、伴作は猿轡の隙間から玉切るような悲鳴を上げた。みるみる首筋から真っ赤な血がドクドクと噴き出した。血まみれになった伴作は、そのまま横っ飛びに二・三間走って地に倒れ、起きあがろうと必死に身体を捩った。目隠しと猿轡が外れて、もの凄い形相になった伴作の顔が見えた。
「斬れ、斬れ!」
 安藤三郎がオロオロしながら叫んだ。
 見物人たちは、あまりのむごたらしさに声を呑み、顔を背けた。女たちは顔を両手で覆っていた。誰もが極度に緊張して、小刻みに震えていた。昼先の太陽の木漏れ陽が、静かに刑場を照らしていた。
 首切り役人が駆け寄って来て、刀を振り上げた。伴作は、犬のように身体を丸め、激しい息を吐きながら、下から役人を睨み上げた。血だらけになって、唇から白い歯をむき出した伴作の顔は、この世のものとも思えぬ怖ろしさだった。
「何をグズグズしている、斬れ!」
 役人の背に、三郎の叱咤が浴びせられた。
 その時である。それまでおとなしく役人の足下に蹲っていた吉助、勝三郎、千代三郎の三人が、一斉に起ち上がるなり、側の役人に体当たりをくれた。それに呼応するように、見物席の竹矢来がメリメリと音を立てて破れ、群衆がドッと刑場になだれ込んだ。
「撃て、撃て!」
 正検使平井作之丞が叫ぶと、検使席の後に控えていた鉄砲組の銃口が一斉に火を噴いた。
 数人の人が傷つき、群衆は竹矢来の外へ押し出された。吉助たちも、すぐ役人に縄尻をとられて引き据えられた。
 刑場は再び静かになった。土壇の横で、血達磨になって転がる伴作の姿が、何か奇妙な物体のように見えた。
 首斬り役人は、気を取り直すと、伴作に向かって刀を振り下ろした。
 伴作の首は、胴を離れて、二・三度コロコロと転ぶと、枯れ萱の草むらにガブリと噛みついた。
                        
 


第四章

 慶応二年十二月二日、豊後杵築藩に起こった百姓一揆を、『国東半島史』『国東町史』『武蔵町史』『安岐町史』『杵築市誌』『杵築史考』『杵築郷土史』『一揆考』『千慮一得』などを基に、安岐村伴作という人物の視点から描いてみたのだが、当の伴作については調査もせず、専ら記録を想像で膨らませるだけで物語を構成したのだった。というのは、伴作が安岐郷のどの地区の出身なのか、子孫は現在どうなっているのか、皆目手がかりが無く、まして伴作が藩の幔幕を引きちぎり足でふんずけたり、尻を拭く真似をしたりの狂態を演じたとされ、あまつさえその幔幕が徳川家からの拝領物だったので、伴作は一揆の首謀者ではないのに打ち首獄門の刑に処せられたと記録されているために、調査に当たって二の足を踏む戸惑いもあった。
 
 昭和三十二年七月に、私は「大分合同新聞」に、次の記事を書いた。
 
 今でも里の古老たちの中には、彼等が幼い頃、その父や母などから話を聞かされて、その怖ろしさ、生々しさに身震いした記憶を持っている人がある。慶応二年と言えば、そう遠い昔ではないのだから。
 この年の冬、豊後杵築藩に起こった百姓一揆は、かなり大規模なものであった。速見・国東にまたがって、杵築藩の全農民が蜂起し、五昼夜にわたって各村々の庄屋・富豪を襲って、これを徹底的に壊滅させ、その数は百を数えた。これは藩の悪政や庄屋・富豪に対する貧しい農民の悲壮なレジスタンスであった。
 一揆は成功半ばで、藩の圧力と内部の結束の乱れから鎮圧されたが、この事件の首謀者として、翌年の冬、中ん原(ばる)正寛寺の刑場で打ち首・梟首の刑に処せられた五名の百姓たちの話は、聞く人の耳をそば立たせ、襟を正させるに十分である。
 五名の中、安岐村伴作を除く四人の首謀者、赤松村吉助・横手村勝三郎・行入(ぎょうにゅう)村千代三郎・岩屋村三代松のいずれもが、従容として死についている。ことに三代松は、検使の役人に向かって、目隠しの布を外して、前の者の仕置きの有様を見せてくれと申し出たという。
 彼等の首は斬られると同時に鮮血を一メートル以上も噴き上げ、中には首のない胴体がすっくと立ち上がるというもの凄さで、見物していた人々は、目のあたりに見たこの怖ろしい光景に、その後数日間も食事が喉を通らなかったという。
 打ち首の後、彼等の首は、三日間同刑場の入り口に晒されたが、いずれも生きているように、かっと目を見開き、人を寄せ付けぬほどの威容を保っていたそうだ。
 われわれは、杵築藩の農民の中からこれほどの人が数人も同時に現れたと言う事実に驚くと同時に、彼等をここまで追い込んだ当時の藩の領主をはじめ役人それに庄屋や富豪たちの横暴に対して、心から憎しみを覚える。
 郷土史家の調べるところによると、当時藩の租税取り立ては三公一民、もしくは四公一民などという苛酷さであって、農民たちは根限り働いてわずかに収穫の三分の一から四分の一を手許に留めることを許されるに過ぎず、さらに不作の場合などは九公一民という全く信じられないほどの高税を課されている。
 これを考えると、前記の義人たちの起ち上がった所以も十分考えられるが、それにも増して彼等の死に際の見事さに驚くのである。腕一本斬られても、足二本無くなっても、生きて行きたい絶対の生の執着を持っているのが普通であろうに、最後までそれを表面に出さずに、静かに首をさしのべた彼等の心境はいかほどであったであろうか。
 現在でも彼等の子孫は杵築地方に残っているであろう。機会を得て是非ともこれら義人たちを顕彰したいものである。
 
 これに呼応して、元西安岐小学校長の松木菅人氏が『国東町史』に「一揆の地元」の題で次のように書いている。
 
 慶応の百姓一揆に関することは、幼時これに馳せ参じた古老の口より炉辺物語にずいぶん聞かされた。しかしそれは極めて断片的なことばかりであった。
 二十台で出動した人でも、現存すれば百十幾歳で、この年すなわち慶応二年生まれの人でも九十二歳になる。
 明治の頃、杵築の郷土史研究家、前田多三郎氏により『杵築史考』に記されたのが最初で、その令弟工藤覚治氏が、幾度も現地豊崎村に来たり、首謀者の家を訪ねても「うちの先祖にそんな人はない」などと社会的に恥じ、空しく帰ったことも屡々あった由。然るに氏は根気強く、各所各人ににより多くの資料を集めたが、出版に至らず死去。
 その後、その遺稿は井上厚男氏(元西安岐小・杵築小校長)の手により『杵築郷土史』が昭和八年出版された。これにより杵築城下に非常なシヨックを捲き起こし、処刑の有様、城下若侍の士気を鼓舞したこと、首謀者の一人一人が死に際しての男らしい行動など、極めて当時の史書としては、賞賛の筆をもって記されている。また当地の河野清実氏の『国東半島史』(昭和七年刊行)にも、相当の枚数を以て報じられている。戦後新憲法下民主主義時代となるや、西安岐小川の上坂氏も、民主主義より見た百姓一揆の研究をやりたいと、現地調査に来られたこともあった。
 かくして昭和三十二年某日、杵築市の土屋北彦氏が、この一揆の記事を大分合同新聞に掲載したため、既に忘れられつつあった郷土民も、新たに記憶を呼び覚まされる者、初めて知る若い人達が朝夕の話題を賑わしておるとき、たまたま執筆者の土屋氏が、詩友の南・清永氏に案内されて、九月の或る日現地調査に来られたので、私は諸氏を案内して、墓碑を調べ、それぞれの旦那寺を訪ねて過去帳を繰り、子孫の家を訪ねて言い伝えを聞き、古老の言に耳を傾け、委しく調べた。ことに南氏はその後何回となく弁当がけで東奔西走した。 
 この時私は思った。人間死して百年の後、その墓を訪ねたり、在世中の行動を調査研究される者が、果たして幾人あるであろうか。極刑に処せられた首謀者、および之に連なる血縁の者も、今こそ瞑して可なりというべきであろう。
 灯台下暗しで、地元よりも杵築方面の人が研究するのが主であったが、地元豊崎村としては、昭和十年ごろ義民四名の七十年供養塔を、泉福寺に建立しては、との議もあったが、実現を見なかった。 
 昭和二十二年、校庭の忠魂碑を泉福寺に移した、これに左記の人々を郷土功労者として合祀した。
 一 義民  赤松村  吉 助
       岩屋村  三代松
       横手村  勝三郎
       行入村  千代三郎 
(後略)
 
 曹洞宗妙徳山泉福寺は、無着禅師開山の九州大本山で、開山堂と無縫塔は国指定重要文化財である。
 ここで『杵築郷土史』と『三餘随筆』から、この一揆の大要を述べておこう。
 
 十二月二日、国東郷農民等一揆の旗を狭間高巣に挙ぐ。之に応ずるもの多し。
其勢数千人と称し、赤松村吉助、横手村三代松、勝三郎等首魁たり。田深及古市の町家を犯し、或は之を焼き或は破壊し、乱暴狼藉至らざるなし。商家は酒樽を開き握飯を備へ労を慰し、其災を免れんとするに至るも顧みられず、安岐郷も亦煽動せられて渦中に加はり、勢甚だ猖獗なるに足らんとす。事藩庁に聞す。藩主即ち須田、中根、友成等を麻田に遣はし惇々誠諭す。此時に於て北浜口、清水寺口、砲門を備へ警備を厳重にす。
 暴民等初は容易に説諭に服せずして藩旗に瓦礫を投じ、或は罵詈の言を弄し、喧噪其極に達せしも、是非曲直の判然するに及んで、遂に敵すべからざるを知り、党を解きて家に就く。藩即ち罪の当る所を論じ、首謀者吉助、三代松、勝三郎等数人を獄に投じ、其余を赦して問はず。
 翌年首謀者を杵築中野原にて馘し、其首を梟すこと三日、死骸は其近親に返せり。蓋し藩にても征長の挙あり、小倉の出兵あり、馬城峰奇兵隊の騒憂あり、為に財用不足し、公租は益々高まり、加之物価騰貴し、農民は重斂苛税に苦しみ、その結果遂に此挙に出しなり。 
 
 慶応二年十二月(二日)杵築藩城農民乱を作す、横手、赤松、岩屋、首謀者有り偶語言を構えて曰う、庄屋私を営み富豪利を占め農村は疲弊し小民は益困苦す、而して有司之を正す無し、乃ち挙村相会し衆力を以て私利を貪る者を懲らし且つ之を藩廷に訴える事を期すと、戸々相伝え即時来たり鷹巣(今の中武蔵村狭間の高峰)に鳩り、期に後るる者は罰せらる。首謀者(赤松村吉助、横手村勝三郎、行入村千代三郎、岩屋村三代松)蹶然として起ち、喧噪宣言す、其の声忽ち流布す、是に於いて各村驚起呼応し、烏合幾百千人団結蜂の如し、竹槍席旗炉を焚き銃を放ち騒動乱暴す、至る所庄屋富豪を襲ひ其の家屋及び器物を破毀す。
 郡奉行磯矢匡代官友成孫治等十数人急遽説諭し、百方之をふせぐ、遂に遏む可からざるなり。家屋を破毀する一百、吏員皆手を束ね、為す所を知らず。暴徒勢いに乗じ進んで四日安岐に入り、実際寺山に屯す。時に藩主松平親良君江戸に在り、世子親貴君留守を為す、民政兵を用いるを忌み、唯威厳を以て之を鎮めんと欲す。家老中根源右衛門(諱は真澄)旨を受け警備し便宜策応す。中老矢野哲三郎藩主に代はり出でて実際寺に到り、民徒を引致し親しく旨を諭し、且つ其の言ふ所を聴く、民徒多数にして雑沓暴言し騒憂已まず。哲三郎帰り報ず、郊内雑閊し、忽ち訛言有り。民徒突進し将に城下を襲はんと藩議以為らく、果して此の事有らば即ち兵を以て之を掃蕩するも不可とする所無きなりと、近侍村上藤右衛門(諱は遠)旨を承け銃手一隊を率い夜郊外を巡視し、以て其の来襲を候。然れども卒に其の事無し。
 而して民徒横暴五昼夜を連ね、疲労倦怠し且つ寒気に堪へず、勢力頓挫して各々村に帰る事平ぐ。藩主乃ち矢野哲三郎を以て失態と為し其の職を解く。磯矢匡友成孫治等皆職を解かる。因って更に有司に命じ、民政を戒飾し、一に暴徒の罪を納め、一に庄屋の私曲を縄し、以て課役の減省村治の改良を期す。十二月十五日中根源右衛門警手数十を率ゐ、郷村を巡察し、農民一百餘名を横手に会し訓戒最も厳なり。先づ下情上通の意を告げ、次ぎに課税の款目を示し以て其の疑惑を解く、目付役増田萬太監視たり、傍ら矢野哲三郎以下免職は暴徒に因るの由を諭す、場粛然たり。郡奉行平井作之丞主事たり、直愿(筆者)刀筆を以て事に其の間に従う。尋で村上藤右衛門三浦多一郎(諱は安之)民政奉行に任ぜられ、乱後の事務を管す。処理多端にして糺弾錯雑なり、明年の秋に造り事終る状を具して藩主に上る。
 藩主乃ち之を裁決し、横手、赤松、岩屋、三村の庄屋の職を解き姫島に流す。其の他庄屋の私曲有る者は皆職を解く。暴徒巨魁五人を死刑に処し、其の首を梟す事三日、与党三百余人懲罰有り、雷同附和せる者数千人皆其の罪を赦す、是に於て農民屏息す。此の時に当り村上藤右衛門、古原山太等局に民政に当り、鋭意措弁し、殖産勤倹を以て急務と為し、奨励切に至る代官を選任し、其の事を理す。三隅清助、専頭弥四郎、山本謙治、前田壮左衛門、竹田津琢右衛門等其の選なり、而して藤右衛門以下皆実践躬行し、村落を巡視し、戒飾周到にして徒歩自ら飯す、其の労多とするに足る者有り、農家稍望を属す。
 
 体制側からの記事ではあるけれど、実状はかなり克明に描写されていて、その惨状を目の当たりにする感がある。一揆の対応に苦慮する杵築藩の混乱振りがよく判る。
 
私は、一揆調査に訪れた時の印象を後に俳句にした。
 
  檗や天日昏き豊崎村
  義人の墓に生きて血を吸う藪蚊どち
  語るに泣くに柿茶の渋さ舌に残す
  夕焼けて慶応一揆の雲の色
  古塔より冬の蜂出づ一揆村
 
 私の調査を手伝ってくれた南成人(なると)氏は、次のように書いた。
 
 この一揆が、単に短い月日の煽動や盲動によって起こったものではなかった、ということである。三代松・吉助・勝三郎・千代三郎らは、確かに衆に抽んでた人であったろうことは、『杵築藩史』『国東半島史』その他の例を見るまでもない。
 しかし、この人達を首謀者として動かした、時の力と衆の力とを、見逃すわけには行かぬ。前記の首謀者達が、衆に優れていればいるほど、私はある時期までは、盲動しょうとする大衆を説得し、どうにもならなくなってから、敢然と発頭人となって闘った、と見る方が正しいように思う。
 
 私もそう考える。長い時間と現実の接点で一気に爆発する条件が生じたものであろう。こうして民衆の英雄が生まれ、世間話の材料になったのであろうが、人々が日常の話題にするには、結果はあまりにも悲惨であった。
 
 昭和三十二年六月に、一揆首謀者の墓を尋ねたことは前に述べたが、それから四十年を経た平成九年の夏、俳句作家河野輝暉氏と豊崎地区を訪れ再調査した。たまたま地元の郷土史研究家利行孝士氏が協力してくれることになった。氏は八十歳を越える高齢であるが大変お元気で、自ら車を運転して先導された。横手村勝三郎の墓には子孫の藤原家の若い奥さんが案内してくれ、十分余りも坂を上った。以前はなかったが、昭和四十六年十一月十日に町が史跡に指定した「百姓一揆犠牲者の墓」の木碑が建っている。前の調査で判ったことだが、墓の主は「大雄常栄信士」吉武勝治良の俗名が刻まれてあり、没年が慶応二卯年十一月二十一日となっている。慶応二年は寅である。これだと一揆の十一日前に死んだことになる。寺の過去帳には「慶応三卯十一月二十一日、吉武勝三郎」とあった。周囲の目をおもんばかって、このような改ざんをしたものらしい。
 赤松村吉助の墓は「霜雲明影信士・春岸妙相信女」の夫婦の戒名が刻まれている。吉助は斬首の際「殿様はお慈悲の雨を降らせども大寒(代官)凍りて霜(下)に漏らさず」と辞世の歌を残したと伝えられるので、この戒名はそれによったものらしい。
 行入村千代三郎の墓は「佐藤金平夫婦墓」とだけ刻まれている。千代三郎は通称で本名は金平だったらしい。不思議なことに戒名がないし、没年もない。前記の歌は千代三郎の作で、この歌のために千代三郎は斬首を免れたという口伝も残っている。町の木碑は無い。利行氏が調べてくれた寺の過去帳では「佐藤金平之事、六十四歳、明治二十一年八月八日、旧七月一日」とあるとのこと、赦されて生き延びたのか、子どもの襲名なのか今のところ不明である。
 岩屋村三代松の墓は「鉄坐道意信士」と刻まれてある。死後も体制に服従させようと言うのであろうか。因みに三代松は斬首ではなく、獄中で毒殺されたという。
 こうした世間話をただ伝承の面だけで捉えてはならない。時代を裁く目と立場を持たなければ、それは単なる回想に終わる。長い歴史は、ある時代だけを切り取って否定したり、肯定したりしてはなるまい。
 この一揆が、話の種になったのは、専ら彼等の処刑後の見聞記であった。昭和八年刊『杵築郷土史』から引用する。
 
 中ん原刑場の付近正寛寺の入り口の西一・二十間ほどの道路の北側に木架を作り、それを獄門台とし、その上に五人の首を載せ、三昼夜晒した。だが盗み取られる恐れがあり、また昼は鳥につつかれ、夜は狐狸に食わえられる懸念もあるので、見張り人をつけて昼夜監視をさせていた。
 
 五・六歳くらいの時で、人に負われて行ったくらいだから、良くは覚えぬが、青い首に毛が被っていて、ただ怖ろしいばかりであった。(前田光利談)
 
 実姉れん子や、付近の婦人達に誘われて、見物に行ったが、青い首が五つも棚の上に並んでいて、怖ろしいやら気味が悪いやらで、直ぐ帰った。一時はご飯も食べられず、夜は便所にも見送ってもらわねば行けぬ有様であった。(宇都宮捨五郎談)
 
 愚老其時十一.二歳の頃なり、現場に至り、始めて斬首を見たり。頃は十一月の候名利権、午前六時の頃なりしかば、そぞろ寒かりしなり。又記憶に残るは申し渡しの役人即ち検視は御供徒士安藤三郎氏なりと、又小串為八郎氏が首を掲げて言う、昔戦場にて敵首を二.三も腰に着けて働きたりと言う事を聞きしが、此の重量にては一箇も腰に着けて働き難しなど語り合いしなりと、処刑当日の条に記してある。(生地冬至氏談)
 
 私たちの青年時代には、胆力修練の一法として、よく肝試しと言うことが行われた。それで、正寛寺に一揆発頭人の首を獄門に上げたと聞くや、藩士子弟の多くは競うてあの十五・六町もある正寛寺まで行き、意気揚々として肝試しをしたものである。その方法は、初めに籤を以て行く者の順序を定め、その一番に当たれる者が、先ず正寛寺へ行き、獄門台上にある首の向きを後ろ向きに、或いはその位置を例えば右より一番目を三番目に、五番目を二番目に転換するとか、または或る首の頭髪に紙片或いは藁などを結びつけるなどして(監視人は藩士子弟の夜間の肝試しは、殆ど何時の獄門にも慣例の如くなれるを以て、暗に之を黙認して居ったそうである)帰りて之を他連中に報告し、次いで二番籤の者また正寛寺へ行き、獄門台上の現況が一番の報告と相違なきに於いては、一番の肝試しは初めてパスされるのである。斯の如くして二・三・四・五………番は、鶏鳴の時まで正寛寺往復を繰り返して、肝試しパスを得々として居ったものである。もしも少しにても卑怯未練の振舞いでもあったならば、卑怯者よ未練者よと一般の青年から爪弾きされたのである。(吉田丑三・照光談)
 
 たまたま上坂旭氏の『千慮一得』の「慶応一揆遺聞」を読んでいると、伴作は下西本の人だと書いてある。西本には一揆衆と藩とが交渉した曹洞宗実際寺がある。友人の南寛一氏(元安岐町収入役)に頼んで実際寺の過去帳を調べて貰ったが、伴作という名の者は見つからないとのこと。安岐郷といっても当時は二十四カ村有り、寺院の数でも二十を越える。調べるのは不可能に近い。そう思いながら『安岐町史』のページを繰っていると、「農民の抵抗」と題して慶応一揆についてかなり詳しい紹介がされている。その中に横城村(よこぎむら)庄屋手嶋次郎治編『横城村誌』に「藩主定紋付(これは徳川将軍家より拝領せし葵の紋所なり)陣幕、提灯を、横城村荒巻の痴漢国平なるもの、衆に煽動せられ破壊せしを以て死罪に処せらる、云々、」の記事が目に着いた。以前からこの一揆を調べるため『安岐町史』は何度も読んでいたのだが、伴作と言う俗名にとらわれていたために、見落としていたのだった。そう言えば、首謀者の一人とされる国東郷行入村千代三郎も俗名で、本名は佐藤金平であった。
 
 安岐村伴作が、横城村国平だと言うことが判ったので、杵築市の元助役田代美成氏に頼んで、国平のことを調べて貰うことにした。横城村は当時東国東郡奈狩江村だったが、昭和二十九年の町村合併により、現在は杵築市の一部になっている。横城村は戸数二十戸足らずの村落で、その殆どが天台宗横城山東光寺の檀徒であった。早速田代氏に調べて貰うと、地区の長老手島巧氏や永松三治氏へ連絡が付いた。東光寺は元正天皇の養老年間、仁聞菩薩の創建になる国東六郷満山の一院である。源頼朝の鎮護国家の祈祷を毎年行い、満山の惣政所として寺領四百坪の寄付があり、嘗ては堂塔・僧坊も豪華を誇っていた。本尊薬師如来・十二神将・不動妙王の他、日光・月光菩薩・愛染明王・制咤迦各童子を祀り、国東塔一・供養塔五があり、大般若経六百巻が現存する。しかし、天正年間大友宗麟の兵火で建物が焼失し、寛文年中に良俊法印によって再興された。戦後は正岡住職が取りしきっていたがその没後は無住で、その間安岐町の天台宗瑠璃光寺の住職がかけ持ちで行事を取り仕切っていたが、最近その息子の僧が受け持ってくれることになり、近く修復の成った寺で法要が行われるとのことであった。
 瑠璃光寺へ電話して、慶応時代の過去帳があるかどうか調べて貰ったところ、
「ボロボロになっているが一冊残っているから、法要の時に持って行って見せましょう」と、快い返事だった。
 法要の当日、私は逸る心を抑えながら横城地区の東光寺に車を走らせた。朝九時半、既に住職はじめ地区の人々二十人ほどが寺に集まっていた。現在檀家は十二戸の由。法要の時間を借りて、私は別間で東光寺の過去帳をめくった。三十ページほどの古い和綴じの帳面で、各戸別に安政から大正までそれぞれの戒名・死亡年月日・俗名が三段に亘って記録されてあった。末尾近くに国平の名前があった。私は心を躍らせながら何枚もカメラのシャッターを押した。
 過去帳には、末廣作太郎の項目で七人の過去が記されていた。
 
 安室永壽信士 安政二年三月十日 末廣半助代 俗名與藏
 秋崖妙空信女 万延元年正月十二日 同 俗名ツチ
 秋冷西念信士 安政十年九月六日 同 俗名鹿太郎
 寒水道音信士 慶応三年十一月二十一日 俗名国平
 円崖離正信士 明治六年二月三日 末廣與吉代 俗名半助
 円寂道悟信士 明治十年十一月十六日 末廣作太事父親名 俗名與吉
 清涼寂蓮信女 明治二十八年閏五月二十八日 末廣作太郎母 俗名キミ
 鷲應長月信士 大正三年 (二本線で抹消)
 
 四人目の「寒水道音信士」が安岐村伴作事横城村国平であった。それにしても「寒水道音」とは何と非情な戒名であることか。「凍った水の中で言うことを聞け」とでも言うのか。そう言えば国東郷赤松村三代松の戒名は「鉄坐道意信士」である。驚くべき奇妙な符合である。死後も体制に服従させようとする為政者と、それに屈従している寺院の姑息な姿がこの二つの戒名を通してマザマザと現れてくる。
 墓に供えられた卒塔婆の文字は「仏無上下」と書き、和讃では「あまねく照らす太陽の、慈光のごとき観音は、貴賎上下の別ちなく、地獄畜生餓鬼の苦や、生老病死の苦しみを、救わせ給う尊さよ」と唱えている仏に仕える僧が、一方ではこのように檀家の信者に対して冷酷な仕打ちを行っているのである。悪名を過去帳に遺し、墓に刻み、未来永劫に「寒水・鉄坐」に据えて置こうとする。
 法要が終わって、手島、永松氏らと歓談した。国平が藩の幔幕を破り、それを足蹴にし、それで自分の尻を拭う真似をしたと言うことが、藩主の怒りに触れ、中ノ原刑場で第一番目に処刑された為、それをおもんばかって地元では久しく国平のことを口にする者もなかったようだ。戦後評価が変わって、百姓一揆そのものが民衆の抵抗の証として正しく評価されるようになったが、百年以上も時間が過ぎると、歴史の認識にも多少のかげりが見えてくる。今日の時点で判る限りの調査をして記録に留めておく必要が有ろう。
 国平が狂態を演じたと言うが、国平の行動を狂態と記録したのはあくまで杵築藩という体制側なのである。そもそも一揆自体が反体制的行動であって、藩は農民の敵と位置づけられた上での行動である。敵に対して精一杯の反抗を示し、権威におびえて後込みしようとする農民たちの士気を鼓舞しようとした国平の行動を、狂態と批判することは農民自らの立場を否定することになる。藩の権威の象徴としての幔幕に手をかけ、殺されることも恐れずに、敢然と権威の前に立ちはだかった国平の勇気こそ、農民魂の典型として賞賛されなければなるまい。国平の墓を見つけ、出来れば農民の恩人として顕彰したい。衆議は一決した。
 過去帳には嘘があった。「秋冷西念信士」は安政十年没と書かれているが、安政は六年で万延と改元されたから、十年はあり得ない。最後の抹消部分は書き間違いかそれとも故意のことなのか。私はそれを確かめたいと思った。杵築市役所の民政課に行き、末廣作太郎の戸籍簿の縦覧を申請すると、市には末廣家の戸籍が無いという。昭和三十年旧奈狩江村が杵築市に合併したとき、横城村の一部の荒巻地区が安岐町に編入されたとのことで、安岐町役場に紹介してくれた。「戸籍は親戚縁者以外の他人には見せられない」と言うのを、学術研究のためと理由を付けて見せて貰った。
 戸籍簿には、「大分県東国東郡奈狩江村三拾四番地、前戸主亡弟末廣與吉、戸主末廣作太郎(亡夫半六長男、嘉永六年四月八日生)、明治十年十二月二十一日相続、大正貳年七月七日矢野寅五郎と養子縁組届出同日受付、大正貳年七月八日午後貳字死亡同月九日届出同日受付、大正貳年七月拾六日法定の家督相続人養子寅五郎家督相続届出に因り同日戸籍編製に付き除籍」とあった。なお作太郎の母ミキは過去帳と違って閏ではなく「七月二十日死亡」となっている。このように国平の子孫は無く、末廣家は父半六(不思議なことに過去帳には半六の名前はない。明治六年二月二日死亡の半助が作太郎の父親となってい る)の次男與吉に継がれ、與吉が明治十年十一月十六日に死亡してのち兄の作太郎が継ぎ 、大正二年七月七日矢野寅五郎・セツ夫婦を養子として家督を継がせている。夫婦には長女イチがあった。「鷲應長月」は書き間違えらしい。おそらく国平の墓は建てられなかったのではないだろうか。しかし、念のため荒巻地区の墓地を尋ねてみた。末廣の名字は数軒有り、それぞれ立派な墓が建っていたが、「寒水道音」の墓は見つからなかった。  
 
 安岐村伴作が、この一揆に荷担した近因は、恐らく酷悪な貧困の故であっただろうが、当時の世相が遠因として大いに関わっていただろう事も否定できない。幕末を背景とする百姓一揆は、全国で二千件を数えると言われ、大分県でも約百二十件、杵築藩に限っても数件発生している。時代背景として終焉に向かう幕藩体制が遠因として挙げられる。
 
 元治元年六月二十二日、姫島沖にイギリスの軍艦二艘が投錨して開港を迫ったのを皮切りに、八月五.六の両日英・米・仏・蘭の四国連合艦隊十八隻が馬関を砲撃した。杵築藩では急遽海岸警備防御のために、藩兵五十余人付属士五十余人を姫島対岸の竹田津へ派遣した。彼等は港に台場を築いて大砲を備え、敵艦の移動に応じ隊長の命令により、農兵数人がかりで棒を使って砲身を浮かしたり捏ねたりして、砲口を上下左右に動かす重労働であった。その為命令通り砲口が動き、照準が定まった頃には目標の敵艦は既に遠く海の彼方へ消えているという笑えぬ現実であった。なお僚艦の移動に備えて、石炭凡そ百二十万斤を五棟の倉庫に備蓄した。このときは幸いに艦隊は放火を浴びせることなく沖を引き揚げたが、慶応元年には薩摩の艦船が現れて石炭を要求した。慶応二年三月になると、長州への出兵のため、長崎丸・順徳丸・富士丸等幕府軍艦の石炭積み込みの作業で忙しかった。
 このような事態の急変に、藩では非常人足の徴発に取りかかり「当人(あてびと)」の差し出しを郷内各村々へ割り当て、順次一番手・二番手・三番手と編成していった。人足の仕事は、荷持ち・具足持ち・高張提灯持ち・陣小屋懸け・中間・若党・小使など殆ど武士たちの下働きであった。割当てを承けた村では、籤引きで人選して徴発に応じた。その為、庄屋はあらかじめ「百姓面付」帳を作り「御茶屋番郷士並びに村々居住の郷士及び庄屋の当主・嫡子・次男・三男まで」十五歳から六十歳までの健康者を送り出した。
 倒幕の勢いが高まると、農民の徴発だけでは対応できなくなった。慶応二年八月には、杵築藩でも農兵の募集が始まった。「五十歳以下十五歳以上の強壮大躰に有之侯者、望み次第申し付く可く候」「十人に一人組頭申し付く可き事」という触れが廻り、城詰めの間の給料は一人扶持(一日玄米五合)、各郷月に五十人宛十日ずつ三交代で城下へ詰め、詰め中の雑費として、組頭に一日銀札五匁、組子には三匁五分を支給し、武具を貸し与え、「農兵勤め中は御軍役並びに水理の他銘々作高三石づつ諸役御免」という好条件を提示して非常時への防備を計った。農兵は武術を知らないので、詰め中は操練と砲術の業を教え、閑日には城内に整備する急造施設の普請手伝いをさせて、敵軍来襲に備えた。
 
 慶応二年六月、幕府は全国の親藩に呼びかけて長州征伐を行った。幕軍は兵を分けて安芸・石見・豊前の三道から進んだ。杵築藩は幕命により討伐軍に参加し、樋口吉左衛・十市を隊長として小倉に出兵したが、安芸・石見二道の幕軍は忽ち敗退。豊前口の小倉・熊本・唐津・久留米・柳川の諸藩は、始めのうちは力を合わせ良く戦ったけれども、後には藩毎に意見が対立して統一がとれず、ついには長州軍を前にして戦うことなく、各々兵を率いて帰藩した。後に残った小倉城主小笠原侯は、暫くは孤軍奮闘したけれども遂に力尽きて支藩豊津城へと敗退し、長州軍は悠々と小倉城下に侵入した。幕軍の敗退に、府内・杵築の連合軍も急遽小倉を落ち、樋口・十市等重臣は兵をまとめて逃げ帰った。小倉を引き揚げ三里ほどを退却して振り返ると、北九州一円は炎に包まれ、黒煙が天を覆い見るも凄まじい光景であった。
 噂に依れば、小倉城を落とした長州軍は戦勝に乗じて、一挙杵築城を屠り、更に豊後七城を席巻するだろうとのこと、藩では大いに驚き戦々恐々、範士を総登城させて謀議を重ね、十五歳以上の士分の男子を悉く籠城させて、城を死守する事を議決した。一発触発の事態を迎えた杵築藩の命運は、風前の灯火同様であった。藩主松平親良は寺社奉行として江戸にあり、藩議を重ねた結果薩長と和睦を結ぶこととし、姫島里正古城虎二を使者として三田尻へ派遣し、盟約書を交換した。だが、偶々徳川将軍家茂が逝去したために、幕府は長州討伐の計画を突然変更した。それに応じて長州も杵築進撃を中止したので、藩は漸く難を逃れた。だがこの間の藩の出費は莫大で、町方郷中怨嗟の声が充満した。
 
 当時の杵築藩の歳入を調べてみると、石高は三萬二千石(実測五万五千石余)であった。
この実収高を、上々田高一石六斗 上田高一石五斗 中田高一石四斗 下田高一石 下々田高九斗の五階級に分類して平年作とし、不作の際は検見の末参酌した。田畑にかける税を物成と言い、そのほかに、
 小物成(田畑以外の地主) 山・藪持ち主、塩農具販売者
 運上(営業税) 船・鉄砲・投網・筵・商人・他所商人・農具・魚売り
 塩浜年貢(塩田税)
 冥加金 (自的納金)などがあった。
 杵築藩の行政区域は、杵築城下町・八坂手永・安岐手永・小原手永・来浦手永・竹田津手永・両子手永の一町六郷に分けられ、それぞれの手永(手を伸ばせば支配の及ぶ範囲の意)に郡奉行、代官、庄屋を置いて管理させた。郡奉行、代官は城内の御郡所に勤務し、キリシタン宗門改め(一月)、根付け改め(六月)、検見改め(九月)、出米勘定届け(十一月)などの際各手永に出張して庄屋宅に休泊した。検見の際は、坪検見と称して村役が下見をし、「野目録下見帳」を検見奉行に提出した。
 手永には大庄屋が置かれ、事務所の会所には手代、聞番、常番を置いた。文化元年(1804)大庄屋が廃されてからは、六郷の庄屋が一年交代で大庄屋役を務めた。庄屋の配下には弁指、組頭(五人組班長)村年番、村中総代、肝煎、役頭、村用銀米根方役、帳本などの村役があり、年貢その他上納金品の徴収の事務を司り、更に年貢の個人別割付け、藩への報告書の策定から、村中のもめ事の調停、喧嘩の仲裁、結婚の仲立ちまでも行った。  
 一般農民は五人組に編成され、組頭・組下に分かれ、必ずどこかの寺に所属することで管理された。庄屋・弁指には村会計から夫米が支給されたが、庄屋で六斗から七斗、弁指は一斗五升ばかりの僅かなものであった。
 杵築藩幕末の租税を調べてみると、名目は五公五民であったが、手永によっては免七乃至三と開きがあり、平均して二公一民と言う重い負担となった。この他に六の口(収穫の六歩)、蔵出(二歩五厘)、口米(二歩五厘)、種子利息(藩が種子を貸し付けたと言う名目の利子)、出来高米などが課せられ、豊作でも二割六分、平年で七割四分(四公一民)、不作年では八割二分(九公二民)もの上納となった。豊後の碩学三浦梅園が『丙午封事』の中で綿密な計算をしている。それによると、
 
 一、 上田一反 高一石六斗
    籾 三石三斗六升 七つ一盃の作(免七の場合)
    此米 一石六斗八升
 一、一石一斗二升  物 成
 一、六升七合二勺  六之口
 一、一升五合    種子利
 一、八升      出来大概
 一、二升八合    蔵 出
 一、二升八合    口 米
 一、五升      翌年の種子籾一斗分
   〆 一石三斗八升八合二勺
   残て 二斗九升一合八勺   
 
 一、中田一反 高一石三斗
    籾 一石一斗七升 (免七つ)
    此米 五斗八升五合
 一、三斗九升    物 成 
 一、二升三合四勺  六之口
 一、一升五合    種子利
 一、六升五合    出 来
 一、九合八勺    蔵 出                           一、九合八勺    口 米
 一、五升      種 子
   〆 五斗六升三合
   残て 二升二合
 
 一、下々田一反 高九斗
   籾 八斗一升 (免七つ)
   此米 四斗五合
 一、二斗七升    物 成
 一、一升六合二勺  六之口
 一、一升五合    種子利
 一、四合四勺    出 来
 一、六合八勺    蔵 出
 一、六合八勺    口 米
 一、五升      種 子
   〆 四斗八合八勺
   不足 三合八勺
 
 郷中の蔵より御城下へ小廻し仕候得共、遠近により一様ならず候、安岐より竹田津にいたり段々苦労相増し寒風相成り難儀仕候、水揚げ夫罷り出候儀、風次第諸替りと相成り候事、まいまい之有るあまり難儀に御座候故、只今にては杵築は大かたやとひと相成り候、是等も出米の一つにて御座候」
 
 これを見ると、「六の口」(付加税)の他に「出来米」「口米」「蔵出し」を徴収していたのである。「口米」はこぼれを補う為のもので、現米一石に付き三升宛が割り付けられ、更に「出来米」(雑税)「蔵出し」(遠近加算)が加わった。三浦梅園の『丙午封事』(意見書)に「封国の富は山澤に有之、山澤の要は田地に在り、田地を造らしむる為に多く百姓を蓄へ、百姓少なく候へば農業手後れ年々不熟と成り、国用足り申さず、大国も小国と成り申し候、之に依って免合を以て土地の位を見、検見を以て下々衣食農業仕る可き程を残し、御入をつもりて諸入用を定め」とあるが、一概に免が低ければ農民の負担が少ない訳ではない。作高と免合との関係により、免七つでも不足を生じることが、この計算例によって明らかである。
 更に『丙午封事』には「本免ほどの作り足にては或いは間合い或いは不足仕候、何れ其の余分を以て牛馬を求め、鋤鍬鎌まぐわ蓑笠、根付けの粮米を仕入れ、其の他にて父母妻子を育み、家財衣服等仕り、葬祭嫁取り、家のとり結びも仕り候、是も田畑無之者は此の上に利米を納め候へば、唯藁と麦とを心がけ候、然れども年回り悪しく候へばそれにもあひ申さず候、不便なる儀に御座候、扨て一統上よりの御法は三分の内弐分上に納まり壱分百姓に下さること立て候者に御座候へ共右の通りの算用に御座候へば、有りのままにては百姓立つべき様無く御座候、さるに依って何卒出精仕御免のうへを作り出し、猶くろはし一鍬にてもいじり出し申さず候えば、渡世仕難くさるに依って鍬先余畝と申すはなくて叶わざる物にて御座候、この故に御免程能く候へば民力出来渡世も仕られ候」と悲惨な農民の実体を描き出している。
 同じく豊後の碩学脇蘭室も『黨民流説』の序文で「民心の従違はすなはち治亂の係る所、かの黨民父母に離れ、妻子を棄、家居田産をかへりみず、長上に抗し、禁令を犯し、生を軽んじ、刑に触る。實にやむことを得ざるに出るのみ、悲しまざるべけんや。斯民をしてこの極に至らしむるもの、委細其人に非るを以ての故なり。侯家もとより其實を辭する事を得ず。しかりといへども、今の列国おほむね流説の弊風に習ひて、本に復り自修ることを知らず。稱貨の夥しき、租税の数を盡して財主に輸送す。ここをもって狡猾の徒を用ひ、聚斂の術を行ふに非れば、ほとんど國費を辨ずることあたはず。君臣或は其非を知るものあるも、固より苟且あやまちを改めず。下怨の衆背き、遂に變亂を生ずるに至る。傷むべきことの甚だしきなり。嗚呼治亂の機察し難きに非ず。列国の困かくの如し。これを濟ふの道なかるべけんや」と、民政の過ちが一揆の主要な原因であることを説いている。
 更に、豊後岡藩の学者で南画家の田能村竹田が、文化八年の百姓一揆の際藩主に出した建言書には「一、此度の病根、今委細に申上げ候。第一には総体、侍と申す者は生まれながら貴き者と存じ、自信の自慢のみにて、百姓共が国家第一の宝と存じ候儀少なき故と存じ奉り候。まづ平士より以上、総じて自身は両刀を帯して生まれながら貴き者にて、百姓は鋤鍬を取り申し候て、至って卑賤の者と思ひ、又お上のお威光を挟み候て抑へ申し候へば、善悪共に百姓は恐れ入りて従ひ申す者と思ひ、又自身は立身出世仕り、富貴になるべき者、百姓は一生田圃の中に年寄り申す者と思ひ申し候て、実は百石よりは二百石、十人扶持よりは二十人扶持、一格より一格上り申し候程、苦しみ多く敬しみ多き者と言ふ事を弁へ申さず候事と存じ奉り候。もしその相応の智御座無く候て、その格禄を下し申され候は、先祖に対し面目と申すにては御座なく候。百姓共一年中出精仕候て作り出し申し候五穀を、居食を仕様に相成り候て、百姓共より大に浅間しき者に相成り申し候。左様に御座候へば、世の申す位牌知行と申す者にて、先祖に却って恥を与ふる筋に相成り申候。此処を思慮仕り候へば、初め申上げ候通り、百石より二百石、十人扶持より二十人扶持、持一格より一格上り候程、苦しみ多く敬しみ多き者に御座候。中々自慢どころに御座なく候。之儀かんべんの輩少なく候て、頻りに下を虐げ上にへつらひ、一格にても立身し、一石にてもお褒美を得申度とばかり心掛け、終日お用を勤め申候も、実は忠臣に御座なく候。只自分勝手のために御座候。かかる弊多く御座候故、この節の大変も出来申候やと存奉候。此外お隣藩の気受け、町家の儀なども追々お恩の万一を忘れ申さざるために、成りたけ申上ぐべく存じ奉り候に付き、まず此節は指向き候御急務ばかり、あらましの所を申上げ候」と諄々と士分の有りようを諭し、百姓の苦衷を訴えている。
 
 慶応の資料がないので、同じような飢饉に苦しんだ享保十七年『杵築実録』の記事を参考として引用すると、
「二月中頃より、宇佐宮より大豆小豆降り始め、四月頃止む。麦半作、五月及び閏五月の両月に、十三日ほど照り、四十七日ほど降る。六月中旬まで稲腐る。九州中国四国より日本国に賭けて、十八ケ国飢饉なり。内筑前は皆無。豊前筑後肥後肥前は、九分の腐なり。幕府よりも囲い米を出し、諸藩主に渡して救はしむ。当時九州にて餓死の者、七百万人という。杵築藩に於いても、稲腐り、蠅虫すぬげて色黒くなる。之を実盛虫という。村々は夜に入って松明をとぼし、数万人同音に唱え、田井中を走り廻り、海岸に追い出たり。七月二日頃より稲白け、中折れになりかかり、十五日頃に至りては、冬野の枯るるに等しくなる。早苗の分は少しづつ実る。一反に付き七.八斗、一石位も籾あり。畑は実りよし。十月十日頃より餓死始まり、一日に村中にて五人七人に及ぶこと毎日、米の代一升八十目より九十目、藩主より年末に年越しの為、一人一日に三勺賜う。翌年正月より使者一村に十人より十二・三人に及ぶ。藩民の食物は、冬中より毎日、畑のイビラ・カンネ・トコロ・蕨の根等を掘りに行き、タブの皮、ニレの皮(水に浸して餅とする)ビワの木の皮の粉を食す。カンネ・ワラビ・ハクリの餅は上々餅なり。青木の葉・マサキの葉・桑の芽立ちを食す。城下に仮屋をかけ、是に出る者三千人、日々藩より粥を賜る。………やがて之に出す米も無くなり、藩主の江戸のお袋様より金千両窮民救とて渡す。男一人二合、女一人米一合当り賜る。米一石七十八匁、十二月に入って百二十三匁にはね上る」
 文久・元治と打ち続く凶作の挙句の元治二年「当年秋劣(あきおち)に付、嘆願相綴り御願いに及び、惣代年番林来助、当十月十四日罷り出で、御代官所初め両御奉行様へ手永の様子委細申し上げ侯処、もっともの事に御聞取り、歎書差し出し侯様御沙汰相成り、引き取り候」(『丑年御用向萬日記』)
 このように安岐郷では、代官所へ嘆願書を出しているが、藩は実状を知りながらも、農民を救済するどころか、逆に説諭をもって是に応じた。「村々取り締まり、御法度ならびに飲食等まで質素節倹相守り侯様、近々祭礼も後座侯間、親兄弟は格別、懇意先、朋友往来相止め、すべて樽酒等は取り扱い申さざる様、きっと取締り侯はば、銘々の為筋と相なるべく、天災、飢饉の廻り来る事心頭にかけ、昼夜農業出精、飢えに及ばざるの段、肝要の事に侯、聊かの不作にも嘆願差し出し、大業に申し上げ、御上に御心労かけ奉り侯儀は恐れ多き事に御座侯、御国恩を忘却致さず、御上納心がけ、御上を大切に心がけ家内睦ましく、すべて村中人気おだやかに押し移り、御安心遊ばされ侯様相成りたく、云々」(同前)これでは全く踏んだり蹴ったりで、手永年番や村庄屋たちは農民説得のお墨付きとして珍重したかも知れないが、底辺の農民たちがこれを聞けば、眉をつり上げ、切歯扼腕したことは間違いない。封建の時代とは言え、何と勝手な言い草であることか。
 
 こうした飢饉に対して、藩が採った対策と言えば、僅かな「お救い米」や「お救い金」で、旱魃への認識も実に非科学的なものであった。
「天保三年辰の夏、旱魃に付き七月十六日より御上より若宮江二夜三日雨乞、神楽神奏仕候、童二十三日御領分惣寺社自分雨乞仰出され候、同二十七日手永惣願若宮に神楽之有り、同二十七日二十八日高山河原に御上より御領分惣願え雨乞芝居仕候、同二十八日横手泉福寺和尚をなかし、竹ノ尾は井上若狭雨乞、丸山にては山伏雨乞、二十八日夕方少し夕立雨すばへ、同晦日町塩汲みにぎにぎしく致し、六月十五日大雨降り十六日より照上がり七月四日迄四十八日ぶり、七月四日五日六日〆三日夕立雨ふり申し候」(若宮八幡文書)
 に見るように、専ら神頼みの奉納神楽や芝居の上演とか雨乞い祈願に終始している。
 年代は違っても、飢饉の現状は大同小異、このような状態の中で、安岐村伴作たちが蜂起したのも宜なるかなである。
 幕末の杵築藩に於ける主な天災・飢饉を挙げてみると、
嘉永 四年 十月四日、大地震。
  十二年 七月二十五日、大風雨。
元禄十五年 八月二十八日、大雨洪水、秋収の時を憂うもの多し。
  十六年 地震。
宝永 四年 大地震、倒家多し。
享保十三年 天候異変のため、農作物稔らず。
  十四年 五月以降順雨無く、旱魃のため農民苦しむ。
  十七年 七月、うんか発生し、田畑作物を害す。前代未聞の凶作にて、領内の百姓飢      餓するもの多し。
延享 四年 凶作、藩より粥米百石を給す。
寛延 元年 台風通過、作物大被害を蒙る。
天明 三年 四月から八月にかけ、長雨のため不作、大飢饉となる。
   四年 大飢饉にて、領内の極貧者六百余人城下へ集まる。蔵本において米穀を給す。
   六年 多雨のため、麦不作。
寛政十一年 悪年にて農作物不作、小麦の値段暴騰。
享和 元年 この年、小麦不作で石に付き九十六匁と市価相場高値。
文政十一年 八月台風通過、田畑の作物倒伏し、被害多し。
天保 八年 大飢饉、小作料上がり、米割引令を出す。疫病流行。
嘉永 三年 凶作、小作割引令を出す。
安政 元年 十一月十五日、大地震。
慶応 二年 秋劣(あきおち)、穀類値段高値。
 
 一揆後の処分を文書で見ると、
  矢野哲三郎 浅井主殿 宮部善三郎 磯矢 匡 友成孫治
   右の者此の度郷中騒敷候に付き、取り押さえ方不束に付き、退役被仰せ付け候      間、其の段可申し触れ候、以上
  横手・赤松・岩屋・三村庄屋 姫島へ流罪
  与党三百余人・付和雷同者数千人 無罪
  各村へお救い銀の交付(恐らく各村々へ同様の交付がなされたと思われる)
   安岐郷の例  銀札 六百十匁 杉山村
           三貫五百三十匁 久末村
           七貫二百八十匁 両子村
           三貫百四十匁 諸田村  (安岐町史)とある。
 明治三年九月の『杵築藩官制』を見ると、増田萬太は大参事に、友成孫冶は小参事に、村上藤右衛門は権大属に、生地棟藏は史生に、磯矢匡は藩庁少属にそれぞれ出世している。退役とは名ばかりで、たちどころに重用されたことが判る。それに反して、一揆首謀者らの処刑は余りにも片手落ちではないか。
 更に、庄屋に対しては次のような処分もなされた。
 
 去る十二月四日夜、安岐庄屋宅ならびに町家打崩しの節、その村々の者共党民に加わり罷り出で、実際寺山に集会いたし強訴いたし候始末、徒党の儀はかねて国禁に候処存じながら、相犯し候段不埒に付き、村方の者共一一取り調べそれぞれ咎申し付くべきの処、格別の宥免を以てその儀無く、村中一統追込過料出銅申し付く。
  卯(慶応三年)十一月
 右追込は、三日にして、過料千は一戸に三百文ずつ、辰巳(明治元・二年)二ケ年に徴収せり。
 
  横城村庄屋 手嶋次郎治
 去る十二月、党民乱妨の砌、其の村の者共、きっと差押置き申すべきの処その儀無く、却って出立儀??候の趣、役前等閑に相心得候段、不埒の事に候、依ってお目通り差留め、追込申し付く。
  卯十一月
 
 と、藩から伴作(国平)の村の庄屋宛の文書が残っている。
 
 当時の物価は、
 ・玄米一升 三匁三分     分=文
 ・白米一升 三匁四分五厘  (文久元年1861)
 ・酒一升  七匁八分
 ・豆腐一丁 九分
 ・油一升  二十二匁
 ・酢一升  二匁八分
 ・醤油一升 三匁七分    (慶応二年1866)であり、
 物価の高騰がいかに激しかったかを、例えば米について見ると、百年間で実に十倍もの値上がりであり、特に幕末に激しいことが分かる。他の物価にしても日常生活必需物資の酒・醤油・油・酢・豆腐などは四.五倍に跳ね上がり、それに反して給銀や作料などはほんの少ししか上がらなかった。
元禄十四年(1701) 米一石 七十三匁
享和元年(1801)  米一石 七十匁五分
文政十一年(1828) 米一石 八十二匁七分一厘
嘉永六年(1853)  米一石 九十四匁五分九厘
文久二年(1862)  米一石 三百二十五匁
 銭遣いは、
 一文銭(穴あき真鍮製) 
 一貫文=銭千枚
 十貫文=1両
 銀一匁=銭六十文〜九十文と『三田村鳶魚全集』に記録されている。一揆衆がいかに過酷な日常生活を強いられていたかは、これによっても一目瞭然であろう。
 
 一揆後、巷間に数え歌が流布した。
  一町作りの百姓よ
  二あわぬ高につくりたて
  三さん今年は秋となり
  四あわせもせぬご上納
  五穀は実らず値に安し
  六な裁きは一つもなく
  七を置くにも何もなし
  八方歩いても何しても
  九れる所があればこそ
  十とう屋敷も家も売る
 
  一つ 人も嫌がるわしも嫌
  二つ 不満で一揆を起こしたが
  三つ 見破られたが運の尽き
  四つ 四つ足縛られて
  五つ 痛い拷問に
  六つ 無理やりかけられて
  七つ 泣くやらうどむやら
  八つ 八つ裂き首斬られ
  九つ この世の地獄火あぶりで
  十で とうとう殺された
 
  一つには 人の評判打ち崩し、今度の騒動は三代松が起こそうかいな
  二つには 両子手永もかかり合い、西谷ばかりが逃れようか嬉しいわいな
  三つには 三代松もろとも吉助が、(以下不明)
  四つには 横手の菊市呼び出して、硝煙買い上げ鉄砲玉はなそうかいな
  五つには 五日の評議に相そろうて、松明灯して高巣に籠もろうかいな
  六つには 昔のことから引き出して、悪い世情をしたためて願おうかいな
  (以下不明)
 
 安岐村伴作の調査をし、その行動を記録している内に、私は自分自身が伴作であるかのような錯覚に陥るようになった。もしこの時代に私が生まれていたなら、恐らく伴作同様な行動をしたに違いない。
 封建時代の領主は、庶民にとっては絶対的な神であった。心でなく形としての支配者のそれである。その神は庶民の日常のすべてを律した。
 領主やその一族の名前と同字同音の名前を庶民は用いてはならない。既に名づけている者は改名する。殿様に若君が誕生し、「金之助」と命名されたので、領内で「きん」あるいは「かね」の名前を持つ者は改名せよとの通達が出る。長い間使い慣れていた「金八」は「善八」と改名したものの、いくら新しい名前を呼ばれても、すぐには自分のことだとは気が付かないと言う笑えぬ悲劇が起こった。
『杵築藩諸用扣』から例を引こう。
                           豊永四年八月四日 民部少輔様御名を改め豊前守様となられるによって、町方豊前屋は四日から替えるよう申し付く。
正徳五年九月二十三日 重休公の御養子吉五郎様へ差し合うに付き、町中男女とも「吉」の字を替えること、吉の字が下に付くのも替えること、五郎は差し支え無し。
享保三年正月十九日 殿様御叙官市正様と奉称、「市」と名付けたる男女共に改めるようお触れ。
宝暦六年一月十日 御姫君「おきよ様」と命名に付き、この御名に差合有之向は改名のこと。
宝暦六年十一月二十三日 江府にて若君御誕生、「竹千代君」と申し奉る、竹の字を男女に限らず禁じ、当町竹屋も家名を替えるよう申し付く。
 領民は、領主関係者の死亡や法事、将軍家の忌事に際しては一定期間、歌舞・音曲をはじめ普請・繕い等一切の音の出るものを禁止する通達が出た。娯楽はともかく、生業もままならぬのである。
 改名の事例。
天保六年十二月二日
 御出生様和歌様と被進候、和歌の字並びにわかと唱え候字共に相改めの事。
 若屋三郎助改め和久屋
 岩木屋源七改め三木屋
 若狭屋四郎兵衛改め幸屋
 若狭屋清吉後家改め福松屋
 若松屋萬蔵改め福松屋
 若狭屋吉蔵改めふくさ屋
 若狭屋勇吉後家改め幸屋
 若狭屋八兵衛後家改め幸来屋
 若島屋寿助改め三徳屋
 若木屋後家改め綿屋
 若島屋善助改め三崎屋
天保八年十二月二十日
 和歌様御逝去、各家共旧屋号に復する様申し触れ、それぞれ届け出。
 
文明六年九月十二日 公方様御不例之処、去る八日薨去遊ばされ候段、大坂町振より申 し来たり、当日いずれも早速出仕御先例調べられ、例の面々呼び出し左之通り慎み申し聞かす。
 鳴物音曲停止
 普請停止
 渡世の猟差し留め 日数追って申し聞かす可候
 町方下店     日数三日
安政三年八月六日 新待賢門院様、先月六日薨去、慎み左の通り、
 鳴物 昨五日より明七日迄日数三日
 普請 構い無し
万延元年九月十七日 水戸前中納言様、去月二十七日御逝去
 鳴物 昨十六日より二十一日迄
 普請 昨十六日の一日間
元治二年二月二十一日 徳川寿千代様、去る五日御逝去に付き、慎み
 鳴物 昨二十日より二十六日迄七日間
 普請 昨二十日より二十二日迄三日間
天明三年三月二十三日 慈光院様(杵築藩四代親純の側室)御逝去遊ばされ候に付き、町中停止左の通り、
 一鳴物音曲 一桶屋鍛冶屋 一仕掛普請 一荷物浜出 一油〆から臼綿打  一船だて
 一漁留 一魚類触売無用但其他外売触声無用 一町中下戸建可相慎 一昼番并夜添番壱人宛差出尤添番五つより明六つ迄六度の火触可致
 右の通相慎都て万端穏便に相心得候様仰付けられ候日数の儀は追って仰せ出さる由仰せ付けられ候此段町中に申聞せ候様書付けを以て組頭へ申し触れ候
 なお、その後の通達で、鳴物は五十日、普請は二十日、浮世の猟は五日の停止が言い渡された。
 
 このように、藩主の係累や将軍家の一族の喪に対して慎みが命じられたが、藩主自身の死亡の際は、更に厳しい掟が課せられた。四代松平親純は三十六歳で江戸屋敷に没したが、『諸用扣』から当時の町方の記録を見てみよう。
元文四年二月二十六日
 殿様今月十六日の夜七つ刻御逝去被遊候、御飛脚昼八つ過到着、依之町宿老三人早速御城御台所迄御悔に罷出候。夫れより御老中御用所町奉行へ罷出候事、町方御目見之町人医師中ケ真同前に御悔に罷出候事。組頭中は御奉行所迄罷出候事。
  町方御法度触之次第
一、火の用心第一念を入れ、組頭夜廻り昼廻り致すべき事。
一、自身番昼夜共念入り致すべく候事。
一、殺生堅く停止の事。
一、鳴物音曲右同断。
一、普請一切仕間敷事。
一、材木、取石、取越等の儀致す間敷事。
一、見世戸、口戸、打戸斗開け諸商売仕間敷候、尤不叶用の買物に参り候はば内々にて秘かに売可申候、惣而魚鳥の類商売仕間敷候。勿論競り売一切仕間敷候。
一、油搾申間敷候。
一、唐臼踏申間敷候、但扶持米搗候事難儀可致候間秘かに踏申候儀は一丁など苦しかる間敷候。
一、荷物浜出し浜揚げ仕間敷事。
一、鍛冶屋細工仕間敷事。
一、桶屋右同断。
一、綿打右同断。
一、女の機右同断。
一、船たで申間敷事。
一、船出入仕間敷事、但不叶儀有之候はば申出指図次第出入可仕事。
一、旅船の宿仕間敷候、尤岡問屋共商売仕間敷事。
一、旅人宿一切仕間敷事、但参込居申者の分明日中に早々差返可申候。尤一年切に宿手形差出置候者併年季奉公人の儀も此節相改一町切りに手形相整差出可申事。
一、町人宿へ出申間敷候、尤飛脚取遣堅無用可致事。
一、他所より飛脚参り候はば御番所より知らせ有之候間、御口屋外に出迎用事相達可申事。
 右之通堅相守可申候、惣而何事に依らず随分物静かに仕り、相慎可申候、子供家来等に至る迄堅相守様に与頭中へ可被申付候。
  未二月二十六日
   普通以書付申触判形取 町宿老組頭中
 
 このように、藩主の死によって町方の営業活動は一切厳しく禁止された。資料がないので即断は出来ないが、郷方でも恐らく同様の通達がなされ、厳しい規制が敷かれたに相違ない。こう言う特殊な例はともかく、領主は庶民の日常生活にまで容啄した。次ぎに挙げるのはささやかな例である。
 
御目附より
一、口達
 御領分之外、茸狩遊猟被罷越申さざる様仰せ出され御座候処、近来罷越候者も有之哉に相聞候間、重ねて罷越申さざる様御目附財津文十郎より口達有之、
 右之通口達に付支配下并町家えも申聞かす。   
 
文久四年二月十四日
 住吉に松露出来候故、奥方様被入候間、末々迄不参候様与頭中へ申入れる。
文久四年二月十八日
 住吉の松露採り先日御差止の処、奥方様御出なさざるに付、勝手次第たる可き事。
 
文久四年七月四日 渋柿御用に付き、町方買方御差留め仰せ付く。 
 
 など、ほんの一部の例を挙げてみても、いかに権力が庶民の日常生活にまで介入していたかがよく判る。 
 幕藩体制の農民への対応は、「いかに搾取するか」であり、士農工商と農民を武士に次いで高い序列に置くことで、巧みに反抗を封じ、徴税を合理化しようとしたが、現実には圧政と不況の風をまともに受けて、生活は破壊され、消極的には堕胎・殺人・離村・転業などで対応するか、強訴・逃散・一揆などの積極的手段に訴える他はない状態に追い込まれて行った。人口のわずか七パーセントに過ぎなかった武士が支配階級として重んじられ、六パーセントの町人共々、八十パーセントもの農民が彼等の消費生活を支えた。農民の生活は、藩からの厳しい「法度」により規制され、生活の隅々に及ぶ禁止事項が示された。だから農民は粗衣粗食に甘んじて田畑の耕作に従事しながら、夫役にかり出されて藩政に奉仕させられたのである。
 因みに、万延二年八坂内「御条目」を抜き書きして見ると、
 
  郷中諸法度
一 公儀よりの仰出に従い、高札の趣平生読み聞かせ、堅く之を相守るべし。凡そ仁愛の心を本としよく孝悌の道をつとめ、村中の輩互いに和睦し、別して鰥寡孤独を相助くべき事。附召使の譜人たり共、私に罪科申し付くべからざる事。
一 力を労し用を出すは農政の職分たり。耕作紡織の業男女内外相はげみ、年貢諸納滞り 無く相納め、各持来る所の田宅亡失すべからず。尤も豊年の節凶年の用意分限に従い怠るべからざる事。附高分の儀は民家衰微の本たり、弥停止せしむ事。
一 先規の通り庄屋ならびに小百姓五人組合を定め置き、吉凶患難相互いに力を合わすべし。或いは公事をたくみ或いは一味徒党の儀之あるに於いては、組合の者意見を加ふべし。相改めざるに至りては訴人致すべし。外よりあらはるるに於いては同罪たるべき事。
 附願い訴訟の儀は吟味を遂げ、障儀之無きに於いては、庄屋方より滞り無く申し出づべく、依怙贔屓致すべからざる事。
一 農民の風俗は、錺なきを以てよしとせり。近来治平の風に習ひ、結構古代にこへたり。
 是分を忘れ身を失う処なり。尤も戒め慎むべし。凡そ一村の風儀は庄屋の下知に本づく事顕然たり。専ら粗食粗服を用ひ、質素の風俗をなさしむべき事。附諸役人郷中え罷り出べきのと刻、振舞い音物堅く停止の事。
一 奉行役人の儀は申すに及ばず、侍分の者に対し無礼致すべからず。群奉行ならびに代官等の指図に従ひ、聊かも軽し怠るべからず。もし非道の儀申し付くに於いては、幾度も其の子細を申し断ずべし。承引之無きに至りては、書付けを以て大目付え之を申し達すべし。然共荷担同類を催したくみ成る儀訴出るに於いては、たとひ理分の申出たりとも曲事たるべき事。
一 謀反隠地火付盗賊類は急度訴人に出づべし。褒美を与へあだをなさざる様之を申し付くべし。惣じて私の利欲を構へ、上下の間を偽り、役人の下知に従はず、博打酔狂人のを為す者は、大法のゆるさざる処也。速かに申し出づべく隠置くべからざる事。附無 理不法の儀申し懸くる者有り共、一円堪忍致すべし。黙し難き子細之有るに於いては組頭庄屋え之を訴へ、其の取扱いに任すべし。互いに理非を論じ喧嘩闘論に及ぶに至りては、同罪たるべき事。
一 年貢皆済以前他借致すに於いては、返済者其主曲事申し付けず、庄屋五人組迄科怠申し付くべき事。
一 笠くけひも、併はきもの乃緒絹ならびに革類停止の事
一 下帷子着用停止の事
一 衣類染め色紫紅桔梗鳶色之類停止の事
一 雨羽織停止の事
 など、私生活の隅々にまで厳しい数々の制約が課され、密告による相互監視が行われた。
 この一揆が幕末全国に多発した世直し一揆の線上にあり、一揆の主眼が庄屋・富豪たちへの私憤に置かれ、各村で暴動・打ち壊しが行われた反面、藩や代官・奉行などの上層支配者に対しては、多分に遠慮や躊躇が見られた。吉助ほどの深慮遠謀の知恵者でも、処刑の際に「殿様はお慈悲」と辞世の歌にまで藩主を別格にあてがって、代官の非をなじるに留まっているが、百姓たち誰も、藩主・奉行・代官という縦に繋がる支配体制そのものに目を向けることは出来なかった。
 そうした中で、伴作だけが、正面切って藩政へ目を向け、精一杯抵抗し、その結果処刑される事になり、子孫の代まで冷遇されたのだが、本人が意識したかどうかは別として、伴作のとった行動こそが、その後の歴史を回転させる軸心となったのは確かである。百三十年の時代を経て今、伴作と自分を重ね合わせることによって、私にはこの慶応一揆の真の姿が見えて来たような気がする。民衆の歴史は、書き遺されることはなかったが、着実に時代を押し進める原動力となったのである。安岐村伴作こと横城村国平が、その潤滑油の役割の一端を担ったと言っても過言ではあるまい。
 歴史は、必ずしも善が悪に勝つことを示してはいないが、消すことのできない過去の事実を学ぶことによって、我々はそれを教訓とし、百三十年前の出来事を反芻して、未来に繋げるよすがとしたいものである。


Icon 氏名/ニックネーム
土屋北彦
Icon 職業/会社名/学校名
著述業 
Icon 役職/学年
 
Icon 誕生日
十月二十日 
Icon 性別
Icon 出身地/出身校
大分県 
Icon 住まい
杵築市八坂 
Icon 趣味
民話・俚謡・小説 
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2001年05月11日 13時41分43秒


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