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中国四川省の旅
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タイ国瞥見
中国仏跡巡拝の旅
二つの世界遺産

二つの世界遺産


  土屋北彦



 中国雲南省の省都昆明(人口500万)から東南約100キロ(バスで40分あまり)の石林県にある世界自然文化遺産申請中の「石林」は、その名の通り数万本の巨大な石灰岩の石の柱がそそり立つ奇観を呈している。ここは2億7000万年以前は海底で、地殻変動で盛り上がり、水の浸食作用で岩の表面が削られて現在の様な尖った形になったという。
 そのハイライト李氏篝石林を見学した。8年前に一度訪れたことがあるが、そのときよりも施設は整備されて、多くのサニ族の売り子(雲南省の広さはほぼ日本と同じだが、80パーセントは山林で最高は6740メートル。そこにいろんな少数民族が住んでいる。6パーセントが盆地、昆明はイ族自治区で人口の80パーセント400万のイ族が住む、石林ではその一派サニ族が約50000人)や、国内国外の観光客で賑わっていた。
 巨石の基底部に回路が付いていて、小さな路を上下しながら観光をする。途中動物や鳥の形そっくりの奇岩や、今にも落ちかかりそうな石の門を潜る。あちこちに小さな湖や樹林があり、自然の造形の妙に感嘆した。岩の表面に名称や漢詩が刻まれて彩色されている。いずれも雲南の巨匠の書いた文字だという。 一時間程石道を歩いて疲労は激しい。途中各所に土産物の店があって、けばけばしい色の染めや刺繍の製品を売っている。4枚1000円の手提げ袋が8枚1000円に負けるから買わないかという。雲南の女性は誰もが織物や刺繍の技術を持っているそうだ。見事な織物のテーブルクロスを3000円で買った。
 
 秋の石林巨石の先に白い太陽載っている



 麗江は標高2400メートルの高地に広がる盆地で、人口は104万人。周囲を湾曲した長江の上流、金沙江が取り巻き、その北端に標高5590メートルの未踏峰玉竜雪山が聳えている。標高3600メートルの位置に草原の広場があって、アメリカの会社が設置したリフトが途中まで運んでくれる。広場では少数民族の女性達が観光客を相手に踊ったり、一緒に写真を撮ったりする。因みに料金は5元である(一元は15円)。
 麗江のナシ族は東巴教を信じている。これはラマ教と民俗宗教が合体した仏教の宗派で、その経典は東巴(トンパ)文字で綴られている。東巴文字は世界で唯一現存する象形文字で、現在日本の学者が10人くらいこの文字の研究に携わっているという。昆明の「雲南民俗村」に、トンパ文字を書く26歳のナシ族の女性(拉赫依政)がいた。彼女は5歳の頃から父親についてトンパ文字を学び、現在では数少なくなった伝承者として活躍している。江沢民国家主席と一緒に写った写真が飾られてあった。
 世界文化遺産の「麗江古城街」は市の東端四方街にあり、800年前の元時代の木造の町並みが今に残っている。あまり広くない石畳の道の両側に、広さ5坪〜10坪程のいろんな店が軒を連ねている。玉竜雪山からの清流が小川となって流れ、いくつもの橋が架かって風情を添えている。
 1996年、この地方に震度7.5の地震があったが、多くのビルが倒壊したにもかかわらず、この木造建築は壊れることがなかった。
 文化遺産の趣はあるけれども、何処も観光客相手の売らんかなの様子が見え見えで、興がそがれた。それでも折角の訪問の記念に、民俗人形や藍染め、干し松茸、トンパ文字の印鑑、シャツなどを求めた。すこぶる安い。
 
 雨の麗江古城を歩く響くむかしの石畳
2002年10月27日 17時39分15秒

中国仏跡巡拝の旅
      
土屋北彦


 平成十三年九月二十四日から三十日までの一週間、私は千光寺(臨済宗妙心寺派)旅行団十七名の一員として「中国仏跡巡拝の旅」に発った。寺から福岡空港までチャーターしたバスに乗り、空港から上海(八十五分)を経て北京(百二十五分)へ。添乗員はアショカツワーズ山下宏志さん。出迎えた現地案内人はテキ・エイさん。二十九歳女性、日本の龍谷大学に一年留学、四歳の女の子があるという。夕食後新しく出来た北京北站(駅)(まるで城のように大きく立派な)から二十三時二十四分発の夜行列車で約七時間、山西省の省都大同に着いた。出迎えたのはロ・メイトウさん、三十九歳男性。雲崗賓館に一泊、バスで早速「雲崗石窟」に向かった。
 この石窟は武周山南麓に東西約一キロに亘って彫られた巨大な石窟群で、現存する主要石窟は四十五あり、大小五万一千体(十万とも)もの彫像が残る。最大のものは高さ十七メートル、最小のものは0.0二メートル、下部は多く水分の為崩落しているが、上部は未だ創立時の原色を留めている。この石窟は敦煌莫高窟・洛陽竜門石窟と並んで、中国三大石窟と言われる。五世紀の中頃、北魏の文成皇帝の時代に、曇曜という僧の指導の下に開削が始まり、五世紀末に完成したとされる。
 ここは近く「世界文化遺産」に指定されるとの事で、広場や施設などを建設中であった。
道の両側に出店が沢山並んでいるが、買い物をしようとすると「こんな人たちは刑務所帰りが多いので、危険だ」とロさんが言う。帰り道土産品店によって、石炭の彫刻を買った。大同の石炭は古くから有名である。
 ホテルで食事を済ませ、午後は「華厳寺」の見学。華厳寺は上下あり、上寺は修復中で、下寺だけ大同市博物館として公開されている。遼代(1062)の創建で、山門・鐘鼓楼・祖師堂・禅堂・雲水堂などがある。大同は戦国時代から栄えた古い都で、北魏王朝時代には平城という名の鮮卑族の居城であった。

  雲崗石窟真昼の光影を集める仏たち

 ついで、市の中心部にある「九竜壁」へ向かった。九竜壁は明代洪武二十五年(1392)明太祖朱元璋の第十三子、代王朱桂府前の照壁で、六百余年の歴史を持つ中国最大の九竜壁である。全長四十五.五メートル、高さ八メートル壁厚二.0二メートルもある。壁の前面に長方形の池を配し、九竜が池に映って泳ぐような姿態を見せる。

  四十五メートル九竜壁の竜が踊って水に浮く

 翌朝ホテルを出て五台山まで二八〇キロの長いバスの旅、道の両側に延々と唐黍畑が続く。やがて山道に入り、幾つもの狼煙台を眺めながら山岳地帯を走る。途中止まった泥造りの農民集落では、人々が手に手に小さな土産品の鈴を持って寄ってきた。テキさんが「中国では未だに都市と農村の格差がひどく、戸籍が別々で、農民の家に生まれると、いくら頭が良くても政府の役人や国営企業の経営者にはなれない」ロさんが「しかし最近では農民の中から運送会社を起こして大成功する者も出てきた。彼らは金で都市の戸籍を買って市民になる」と言う。
 やがて五岳の一つ「懸空寺」に立ち寄った。と言っても懸空寺は北魏末に北岳恒山の絶壁に貼り付くように建てられた儒教・仏教・道教の三教信仰の古刹で、断崖に穴を開け梁を差し込んで土台を造って建てられた三〇余りの殿堂楼閣が桟橋で結ばれている場所なので、下からの写真撮影だけにとどまった。売店で古銭や龕仏などを記念に買った。

  壁に突き出た懸空寺伽藍写すカメラの手が震う

 応県に入り、中国最古の木塔である「仏宮寺釈迦塔」を訪れた。遼の清寧二年(1056)の創建、外見は四層だが実際は八角九層で、各層に仏像を祀ってある。三階から上は柵で塞いであった。
 夕刻三.〇八〇メートルの東台を越え、五台山のホテル「錦綉山荘」に着いた。ここは最近出来たホテル、五つ星より上の梅干しホテルだとロさんが冗談を言う。五台山では既に二度ほど雪が降ったそうだ。五台とは東台望海峰・南台錦綉峰・西台桂月峰・北台葉斗峰・中台翠岩峰の五群を言い、文殊菩薩示現の地とされる。明の皇帝が初めにこの地に霊鷲寺を建立して以来、多数の寺院が建てられた。現在でも五十八の寺院と五千を越える殿堂・楼閣・伽藍があり、日本からも多くの名僧が訪れたと言われる。
 翌朝から五台山各寺の見学、先ず南山寺(古くは極楽寺)を訪れる。長い参道と108段の石段があるので、覚悟して歩く事を言われていたが、最初のこととてそう苦労なく上がる事が出来た。広場に馬が三頭いて、馬子がそれに乗るようにしっこく勧める。断ると途中まで馬を曳いて就いてきたが、誰も乗らないので、諦めて帰った。南山寺に限らず中国の寺には大抵数宇の殿堂があり、それぞれ仏像を祀ってある。文珠殿・観音殿などあり、中でも大雄宝殿というのがメインである。どの堂にも如来・菩薩・羅漢など所狭しと並び、左右には毘沙門天・広目天・韋駄天・多聞天などの印度の像が並ぶ。
 雲南の女が茶を売りに境内に来ていたので、試しに買ってみた。二十元(三百円)で三〇〇グラムほども呉れた。家に帰ってその茶を入れてみたが、あまり出が良くない。しかし何度も使えるようだ。日本茶にくらべて味と香りが浅い。

  五台山には四十七寺登る石段百八つ

 次に訪れた竜泉寺は、ここも百八の石段がある。登って山門の見事な石の彫刻に目を奪われた。仏具・文具・供物などがリアルに彫られている。竜は九十七匹とか。寺を少し上がると、竜泉がある。二メートル四方くらいの湧泉である。土地の人がポリタンクで水を汲みに来ていた。参道に沢山の露天が出ていて、盛んに声をかける。古い硯と文鎮を買った。
 午後は先ず菩薩頂までバスで行き、石段を下って顕通寺・塔院寺へと向かう。菩薩頂は五台山最大のラマ教寺院、チベット仏教の代表的な寺だという。北魏時代孝文帝時代の創建で、清代の康煕帝・乾隆帝が度々訪れた記念の竜の彫刻が壁面を飾っている。顕通寺は五台山の中で最も古い寺院で、五台第一の寺と呼ばれる。最初は大宇霊賢寺と呼ばれ、次に孝文帝が花園寺と名付け、唐則天武后の時に大華厳寺となり、明の太祖の時再建されて大顕通寺となった。寺領は八万平方メートル。境内の中央線上に観音堂・文珠殿・大雄宝殿・無量殿・千体殿・銅殿・蔵経殿の七堂伽藍が並び、左右に鐘楼と鼓楼、東西に楼坊が左右対象に配されている。堂宇の殆どが明・清代に建立された。銅殿は台湾の信者が寄進したという金箔で埋め尽くされている。無量殿の梁のない堂宇のなかに高さ約二丈の木塔がある。
 塔院寺はもとは顕通寺の一院であったが、明代に大白塔(釈迦牟尼舎利塔)が修復されてからは独立して塔院寺となった。高さ約六〇メートルの塔には印度のアショカ王の造った舎利容器と文殊髪塔があるという。基盤の無数の摩尼車を廻して歩いた。一度廻せば一巻の経文を読んだ事になると言う。

  伽藍見下ろす巨大な塔に仏骨納める塔院寺

 翌日、金閣寺に向かう。金閣寺は五台山南台の峰にある寺院で、唐の代宗が不空三蔵(論蔵・経蔵・律蔵を修めた高僧)の願いに応じて「常に仁王護国経及び密厳経を転ず」と言う勅命を下し、国家鎮護の大寺院として建立。銅で造った瓦に金箔を貼り、仏閣にも金箔を貼ったところから金閣寺と命名されたという。隣接して霊仙三蔵の顕彰碑(1987年建立)がコスモスの花の海にひっそりと建っている。霊仙は三蔵を修めた日本人ただ一人の僧である。滋賀県北鈴鹿の霊仙山で修行し、延暦二十三年に最澄・空海・橘逸勢等と遣唐使に従って入唐し、日本に帰ることなく五台山で一生を終えたと言う。
 唐黍畑の中を延々とバスは走って、仏光寺に着いた。北魏の孝文帝がある時仏光の瑞祥を見て創建した寺だという。樹齢千二百年の松が堂宇の前に二本聳えている。東大殿の前に「仏頂尊勝陀羅尼経」を刻んだ石の経鐘がある。バスの回りに可愛い子供たちが集まってきた。近くに集落があるらしい。
 バスは更に進んで、中国最古の唐代木造建築の南禅寺に向かう。ロさんの説明に、昨年この南禅寺に盗賊が進入して、大仏殿の本尊の脇の下を壊して中の宝物を盗んだ。仏像の中には、教典や宝石や貨幣などが納められているという。ここには十七体の塑像が安置されている。本堂の床に収穫した玉蜀黍が沢山干してあった。テキさんの話では、文化大革命以後中国では仏教が復活したが、信者が少ないので、殆どの寺は僧侶たちの自給自足で運営されている。特別の文化財級の寺は、政府の文化財の指定を受けて保存修理費が出ているそうだが、一般の寺は苦しい経営だそうだ。入口で四元から十元ほどの拝観料を取っている。僧侶は戒律が厳しく、生涯独身を守らなければならない。バスで通り過ぎた五台山の尼寺は、四百人もの尼がいて修行に明け暮れていると言う事である。

  古い仏が立つ南禅寺庭に唐黍干してある

 ここを離れて、高速道を一路河北省の省都石家荘へ向かった。人口六百万の大都会である。戦前は保定が省都だった。石家荘は今は急速な繁栄を続けているらしく、夥しい車の渋滞で、なかなかホテルまで行き着かなかった。ホテルは新しい高層の河北世紀大飯店、ここで一泊して翌朝は近くの河北烈士園に行った。日中戦争や国民党との内戦の遺品が陳列してある。汚れた日の丸とさびた軍刀が無惨な戦争の跡を物語る。特に国民党が八路軍の兵士の首を切ったという押し切り型の刃物が印象的であった。広い公園には高い記念塔が建っていて、毛沢東・江沢民などの刻字が塔の四方に配されている。中国に協力したアメリカ人の記念碑もあった。
 郊外へ出て趙州橋に立ち寄った。隋朝大業年間(605-616)李春という石工の設計・監督になる中国で最も古く大きい石橋である。長さ五十.八十二メートル幅九.五メートル。(今は復元され、本物は博物館に陳列)ついで趙州寺へと向かう。七層の趙州塔(柏林寺塔)の台座で記念写真の後寺を見学。寺の和尚はヨーロッパに出張中とのこと。副住職が出てきた。

  千三百年趙州橋が川に影置くとこしえに

 正定にある隆興寺は、是まで訪れた寺の中でも最大の寺である。隋代の創建で、初めは竜蔵寺と称したが唐代に興隆寺となった。現有面積八二五〇〇平方メートル直線上に天王殿・大覚六師殿・摩尼殿・牌楼門・戒壇・慈氏閣・転輪蔵閣・康煕乾隆二御碑亭・大悲閣・御書楼和集慶閣・弥陀殿・竜泉井亭などの堂宇が並ぶ。各堂に見事な仏像や壁画があるが、暗くて良くは見えない。火災の危険を恐れて照明は使用しないとの事。仕方がないので、写真集を買う事にした。

  歩き疲れて入る隆興寺暗い伽藍に竦む足

 最後は九層の臨済塔(臨済寺澄霊塔)である。日本の臨済宗の人々の篤志によって建立されたとの事。千光寺閑栖和尚念願の地である。生憎小雨が降り始めたが、一同般若心経を捧げて記念とした。

  仰ぐ高さの臨済塔の上に動かぬかちがらす

 高速道路を北京まで走り(因みに北京からの高速道路は、空港から市街、大同、石家荘、天津までの四本有るそうだ)二十数階建ての京瑞ホテルについた。夕食は天安門近くの全聚徳の北京ダック。珍しい蠍(さそり)の唐揚げが出た。テキさんも食べたことがないとのことで、おそるおそる毒味、食べない人が多いので、私は三匹食べた。蝗のような感じ。十月一日は国慶節と中秋節が重なって、天安門付近は厳重な警戒態勢であった。迎えのバスが一寸駐車したのに罰金を二百元取られた。毛記念館・大会堂・天安門・古城壁などライトアップ。長安街は幅員五十〜八十メートルの道路が百キロ続いているという。 2001年11月09日 08時39分54秒

タイ国瞥見

土屋北彦



 一九九六年一月二十三日から二十八日まで、私は千光寺(大分県杵築市・臨済宗妙心寺派)檀徒二十四名の一員としてタイ國仏教遺跡巡拝の旅に立った。千光寺からバスで福岡空港に着き、タイ国際航空TG−六四九に搭乗して約五時間半で、バンコック国際空港(ドン・ムアン)に到着した。成田空港の何倍もの広さの大きな空港である。二階の歩く歩道から、昨秋に完成したばかりの一階ロビーに降りて、その広さと美しさに目を瞠った。
 荷物を持って外へ出ると、いきなり灼け付くような暑さが襲ってきた。三〇度を越している。数時間前日田・玖珠地方の雪の中を通って来たことが嘘のようである。ピサヌロークと言う地方空港へ乗り継ぐので五〇〇米ばかり荷物を持って移動してくれと言う。添乗員と交渉して小型バスを雇うことになった。すでにみんな汗だくである。
 国内線で一時間ばかり、ピサヌロークへ着く。ピサヌロークは十四世紀から十八世紀にかけて三十三人の王が統治したアユタヤ王朝の古都で、北部タイの商業・輸送・通信の中心地であり、遺跡スコータイへの観光の入り口の都市である。ここからパイリン・ホテルまで約一時間のバスの旅、バスはいすゞの大型バスである。殆ど一直線の平坦な道を走る。夜に入って道の左右には延々と街路樹が続く。ときどき豆電球に囲まれた場所がある。自動車の展示場らしい。小さく灯りがついているのは、仏像を祀った場所である。バスは日本と同じ右ハンドルで、猛烈なスピードで飛ばす。一時間あまりでホテルに着いた。日本の天皇・皇后が泊まったというホテルで、ロビーにその写真が飾られていた。四階建て二百四十三室の大きなホテルで、中央に五〇メートルのプールが青々と水をたたえている。これでもBクラスだそうだ。早速初めてのタイ料理の夕食を味わう。昨年マレーシアで食べたのと殆ど同じ味である。胡椒の利いた料理が熱さに疲れた口によく合う。給仕のタイ人の男女の若者にボールペンをやって写真を撮った。ノートに名前を書いてもらう。タイ文字はローマ字の先端に小さな丸がついていて、その上下に波形の母音がついている。三十三の音があるそうで、外国人にはその微妙な発音の違いを聞き分けるのは難しいと、現地ガイドの話である。
 翌朝数人でホテルの外に出た。ホテルの庭には象に囲まれたブッダの祠が飾ってある。タイ国では国民の九十五%以上が熱心な仏教信者だという。それも日本と違ってスリランカ直輸入の小乗仏教である。仏は釈迦ただ一人、たまにマイトレーヤ(弥勒菩薩)も祀るが、それも釈迦の生まれ変わりだそうだ。
 ホテル前の道路を渡る。ここはスコータイの郊外で、閑散としている。小店で米の粉をふかしたものを植物の葉に巻いた粽のようなものを買ってみた。二バーツ(一バーツが四円)と言うあまりの安さにビックリ、椰子の実が三バーツ、ウィスキーが四十バーツ、店の台の上に一升瓶にはいった赤い液体が置いてあるのでコカ・コーラかと思っていると、バタバタと単車がやってきて、ガソリンタンクを開けて、その液体をそそぎ込んだ。ガソリンであった。ガソリンがリッター三十円とのこと。
 小店の隣は散髪屋さん、壁にベタベタとヌード写真が貼ってある。客と主人とをヌードをバックに撮らせてもらった。店で本物のコカ・コーラを飲む。コーラは世界中どの都市にも売られている。アメリカの巨大な資本の力に驚かされる。百メートルほど足を延ばして、骨董品の店に行く。香入れと鼈甲の亀の壁掛けを買う、千五百円ほど。立派な壺がたくさんあったが割れる危険があるので買って帰れない。
 ホテルに帰って、スコータイ遺跡の見学に向かう。スコータイは十三世紀にタイ最初の独立王国が生まれた所、「幸福の夜明け」を意味する地名である。スコータイ史跡公園は南北二キロ、東西一.六キロの広大な都市遺跡で、王宮初め数十カ所のワット(寺院)が城壁の内外に点在する。主要な数カ所を回ることになる。まず城外のワット・スリ・チュムに着いた。遺跡の中央に十五メートルの巨大なブッダの座像がある。黒と白のまだらな顔や手足が異様である。長い年月で塗りが剥げたものらしい。入り口で記念写真を撮り、ブッダの前で般若心経を晃山和尚の先導で唱える。それから遺構を見て回った。現地案内人のモンコルさんは二十代の若者、一年半で日本語をマスターして、チェンマイの旅行社に勤めているという。彼の話によると、タイでは嘗ては成人すると必ず仏門にいることになっていたが、今では僧侶の数が増えすぎたため、抽籤で決めているそうだ。軍隊にはいるのも同じで、籤に当たるかどうかで兵役が義務づけられたり、免除されたりする。「今は平和ですから」と、モンコルさんは笑った。黒い顔に白い歯が印象的である。売店で石の象を二つ買った。胴体の中に子象が填め込まれている。どうして作ったものか。そう言えば中国でも同じような竜の彫り物の中に別の竜が彫られていた。特に竜の玉は何重にも中が削られて回るようになっている不思議な石であった。
 観光案内所で、遺跡の全体の説明を受け、外に出ると、白人の観光客の一団が馬車で通っていった。遺跡の中はバスでは通れないそうだ。バスの重みで遺跡が崩れるのを防ぐためである。我々は電車風の乗り物で回ることになった。運転手と車掌は若い女、止まる度にアイスクリームを食べる。アイスクリーム屋はオートバイの前に大きな箱を積んでいる。羨ましいけれども日本人には禁物、忽ち下痢してしまうとのこと。
 ワット・スリ・スラ、ワット・スリ・サワイと回ってワット・マハタートに着く。ここは代々の王侯に擁護された重要・最大のワット、百八十五の仏塔や十八の堂が二百メートル四方に点在している。ちょうどシンガポールのテレビ局がタイガービールのコマーシャルの撮影に来ていて、高いところに上がって撮影していた。仏塔の高さは六十数メートルに及ぶという。赤い煉瓦のようなものを積み重ねて作られている。十三世紀の建造物とは思えない堅牢な塔である。どのようにして建てたものか。王の絶大な権力と、仏教信者の異様な執念の結晶である。一日の見学を終えてホテルへ帰る途中、晃山和尚の希望で、一般的な庶民の寺院を見ることになった。路傍の遺跡の前に華やかな門があり、二十メートルほどはいると、寺があった。木造の本堂では、ちょうど葬式が行われているようで中に入れなかったが、十人ほどの縁者が集まって食事や祈りをしているところであった。我々は別棟の高床式住宅の堂に上がって経文を捧げた。すぐ隣に僧たちの日常生活の部屋が並んでいる。茶色の衣をつけた僧たちが静かに動いていた。衣の色による階級の差はないそうである。本堂の向かいに立派な鐘楼と三階立ての客室が立っている。裏手には数基の仏舎利塔が建っていて、数人の僧が掃除をしていた。その奥に焼き場がある。けばけばしい色の建物である。タイでは墓はなく、人が死ぬと粉にして仏塔に納めるのだそうだ。
 ホテルを朝五時に出発して、二百八十キロ先のアユタヤ遺跡へ向かう。道の沿線には所々に集落がある以外は、左右とも広大な稲田が広がっている。米は二毛作で、右手に青田、左手に刈田とはっきり分けて作られている。序でにタイの米の味についての感想は、機内食の時から実に旨い。日本に輸入して評判の悪かったタイ米は古米だそうだ。もっともタイ人はあのバサバサした方を好むのだそうだが、我々に出されたタイ米はおいしいものであった。
 行く先何処までも平野が続く。途中一カ所だけ雲の上に聳えている険しい山の姿を見た。バスは二カ所で給油をした。スタンドはどれも大きく広い、マートを併設しているのも多い。マートでタイの果物、マンゴスチン・パパイヤ・メロン・バナナ・椰子などを味わう。ちょっと生臭いが味はよい。果物の缶詰が七十五バーツとやすい。
 バスに乗り飽きた頃、やっとアユタヤに着いた。昼食はレストランでタイ風の麺料理を味わう。調味料を入れなければ殆ど味のないラーメンである。暑い国だから辛いものが多い。辛さは暑さを和らげてくれる。
 アユタヤ遺跡は、首都バンコックの北約六十キロ、アユタヤ王朝のプラサート・トォン王によって建てられた王宮と寺院群で、千三百五十年から千七百六十七年の四百十七年間三十三代の王が支配したが、ビルマ軍の進入で廃墟と化した。ワット・プラシー・サンペットと言う巨大な王宮付属寺院には、ビルマ(ミャンマー)軍によって首を落とされた石の仏像が何百体も転がっている。仏像の中に金や宝石が入っていたらしい。ビルマ兵は先を争って仏像や仏塔を破壊した。一つの仏像の首が木の根に巻かれて残っている。端正な表情の仏である。
 次いで、プラモンコン・ポピットに入る。この寺もビルマ軍に破壊されたが、一九五六年に再建されたという。内部には十六世紀に作られた十二メートルのブロンズの仏像が納められている。何バーツかの賽銭を上げると、腕に赤い紐のお守りを付けてくれた。参拝はそこそこに土産物店へ急ぐ、まず四バーツで冷たい椰子の汁を飲む。サファイヤの上にコインを置いて上から金槌で叩くとコインに宝石が食い込んだ。本物だろうと記念に買う。友人への土産にタイ製のお茶セットを買った。円で七千円と言うのを六千円に値切って買う、この辺りの店の売り子は上手に日本語を話す。そう言えば、観光客の大半は日本人のようである。
 アユタヤと言えば、嘗て山田長政が千六百十年頃、千五百人の日本人の頭領として王朝に仕え、軍功により爵位を得て活躍したが、王位継承の争いに巻き込まれ、この地に客死した。今は日本人町跡を示す石碑が一つヒッソリと公園の中に建っている。
 次いで、アユタヤ朝最古の寺院ワット・ヤイ・チャイ・モンコルへと向かう。一五九二年ビルマ軍との戦いに勝利した記念に、ウートン王が建てたものという。ビルマ戦の壁画や、先代の僧の蝋人形が人目を引く。庭には二十メートルもあろうかと思われる白い涅槃像が横たわっている。ここでまた心経を捧げた。ワット・ロカヤ・スタには全長二十八メートルもの涅槃像があるというが、そこは省略することにした。
 首都バンコックまでは南へ約八十キロ、人口六百万。近づくにつれて六車線の道は、次第に車の渋滞が始まった。世界でエジプトのカイロ、メキシコのメキシコシテイそれにバンコックが三大渋滞地区だという。見るとどの車も立派なものばかり、ベンツ・B/M・ワーゲン・ボルボからトヨタ・日産・ホンダなど新しい車ばかりが走っている。軽四は見かけない。案内人に聞くと、車の価格は日本の三倍もするのだそうだ。ただ車検がないから、その分安くつくという。しかし収入が日本の三分の一から五分の一というこの国で、どうしてこんな立派な車がもてるのかは、依然として謎である。
 首都高速道路に入ると、あちこちに警察官が立って交通整理をしている。タイでは警察官と士官学校の軍人になるのが若者のあこがれらしい。士官学校にはタイ人でしかも成績優秀でなければはいれないという。入れば軍人か政治家になって将来が約束されている。警察官は給料は十万円位だが、賄賂が月に百万円ほどもあるのだそうだ。交通整理はその賄賂をもらうための手段だとか、そんなことがわかっていてなぜ不正がまかり通るのか聞くと、政治を動かしているのが一部の大金持ちと、軍人と警察官上がりの者が占めているので、どうにもならないそうだ。日本人で現地の人と結婚しているという八重子さんは、しきりに歯がゆがっていた。
 とにかくものすごい交通ラッシュである。その中をバスは這うように動いて、やっと中心部のアンバサダ・バンコック・ホテルに着いた。インド人経営のこのホテルは、九百四十九室の大規模ホテルで、レストランやショップも併設されている。だが一同くたびれ果ててそこそこに部屋に入った。
 翌朝、バンコック市内を眺めながら、チャオプラヤ河へとむかう。タイ語で河はメナム、日本人がメナム河というのは間違いで、それだと河河ということになる。メナム・チャオプラヤは南北に流れる大河で、運河に入り込むと、有名な水上マーケットがある。バンコックとは天使の都の意、タイとは自由の地の意味である。水上には小舟を操って土産品や果物や日用品を売りつけてくる、我々の船の横に取り付いて執拗に品物を差し出す。根負けしてマンゴスチンを買った。ちょっと酸っぱくて甘い。船は外人専用の土産物店へ着ける。中は相変わらず日本人ばかり、シャッターを押してくれと観光客から頼まれたので、どこからかと尋ねると、岐阜だという。
 運河を行くと、百メートルぐらいごとに、立派な建物が見える。全て寺院である。寺院の間を縫って、河沿いのワット・アルン(暁の寺)へ着く。トンブリ王朝のタクシン王が建てたこの寺には、高さ六十七メートルの大塔が聳えている。塔の周りは美しいタイルの守護神や模様で飾られ、明け方にはこの世のものとは思えない華麗で荘厳な姿をチャオプラヤ河に映すという。塔の中腹まで登って、バンコックの町を眺め、土産物の店に行く。象や亀のキイーホルダー三十個千円。次いで、胴回り三十センチほどもある錦蛇を首に巻いて記念写真を撮る。四十バーツ。大きな荷物を担いだようなズシンとした重みを感じた。
 川を渡って、王宮寺院ワット・プラケオ(エメラルド寺院)へはいる。千七百八十二年に建てられ、ラーマ王により一代おきに修復されているというこの寺は、一キロ四方もの広大な敷地の中に、紀元前四十三年、北インドから運ばれたといわれる高さ六十六センチのエメラルド仏を中心に二十あまりの仏塔や伽藍が配置され、全て金や宝石で飾られている。回廊の壁に描かれたラーマキエン物語は圧巻。その豪華さは目を奪われるばかりで、使われている何百キロもの黄金の価値を考えると気の遠くなる数字になる。中に王宮や迎賓館もあって、着剣の番兵が身じろぎもせずに立っている。
 すぐ隣にワット・ポー(涅槃仏寺)がある。四十九メートルの黄金の釈迦涅槃仏があり、いくつものカラフルな仏塔が天を摩している。千七百九十三年にラーマ一世が建てたもので、ワット・プラオケよりさらに広い敷地を持つ。学校や図書館もありタイ医学の総本山として知られている。釈迦の足の裏に黒地や白地の真珠母貝の螺鈿細工の須弥山や供物の模様が描かれている。
 仏教遺跡の見学を終えて、感動と同時にこれほどの施設の建設にかり出された民衆の労苦は如何ばかりであったろうかと思うと、我が身に置き換えて慄然とする。ここでタイの仏教と王家について触れておきたい。タイの仏教は日本の「大乗仏教」と違って「小乗仏教」または「上座部仏教」といわれるもので、インド・スリランカを経てミヤンマー・ラオス・カンボジア・タイなどに広まった。「欲望を断って悟りに至る」という釈迦の教えを信奉する点は同じだが、戒律の厳しいことにおいては日本と大きく違っている。五戒(殺すな、盗むな、姦淫するな、嘘をつくな、酒を飲むな)を厳しく守ることは勿論、僧侶は正午以後は食事をすること女に触れることも禁じられ、まして結婚などは生涯不可能、女性は僧侶になることが出来ない(ただし修行することは可能)らしい。僧侶は民衆からの「タムブン」(喜捨をして徳を積み、来世を願う)を受ける。それも要求するのでなく相手の方がタムブンさせてもらうのだそうだ。朝早くから茶色の衣を着けた裸足の僧侶の一団が歩いているのを何度も見かけた。托鉢の僧に跪いて食べ物を差し出している人々の姿も私の目には異様に映った。「宗教は恐ろしいものだ、二千年もの時を経ても、これほど人間の心を左右してしまうとは………」。
 タイのラタナコーシン王朝は、千七百八十二年のラーマ一世から現国王ラーマ九世プーミポンに至っている。プーミポンは在位五十年だそうで、街路樹のあちこちに国王の写真が貼られていた。恐らく各家々には戦前の日本のように床の間にご真影が飾られていることだろう。最初に行ったピサヌローク空港のロビーには現国王の母である皇太后の霊室が飾ってあった。九十余歳でスイスに避暑中に死んだのだそうだ。ワット・プラケオにも皇太后の華やかな喪室が造られていた。タイは十三世紀以後は戦争の経験もなく、植民地になることもなかったので、王室への畏敬が未だに続いているという。千九百九十二年の国軍クーデターの時も、国王の鶴の一声で忽ち沈静化したことは記憶に新しい。
 ほんの数日のタイ旅行だったが、遺跡と民衆の生活をかいま見て、「いくら遺産がすばらしく、生活が安定していても、このような絶対者の支配する国には住みたくないものだ」と言うのが偽りのない私の感想である。         2001年11月06日 14時11分55秒



孔子廟を訪ねる
   
   土屋北彦



  生ある内に一度孔子廟を訪ねたいというのが、かねてからの私の念願であった。一昨年あたりから、度々旅行社に問い合わせていたが、参加者が少なくて行く機会がなかった。それがこの四月になって急に実現することになった。
 迂闊なことだが、私は孔子という人物はB・C五五一年というそんな遠い昔の人だとは思ってもいなかった。ところが世界の四大聖人といわれる人物の生まれた時代を調べてみると、釈迦がB・C四七八年、キリストがB・C四年、マホメットは西暦500年の終わり頃である。孔子が一番古いのである。それほど私は無知だったのであった。
 孔子の説いた「論語」は、四書(大学・論語・孟子・中庸)の中でももっとも大切な学問の根本体系とされ、中国は勿論、日本・韓国・アジア各国から世界へと広がっていった。特に日本では江戸時代四書・五経は学問の必須条件とされ、多くの儒学者が輩出して、日本人の思想形成に絶対的な役割を果たした。勿論功罪は半ばするだろうけれども、孔子の影響が我々の精神構造を形作ったことは、紛れもない歴史の事実である。
 上海站(駅)から特急列車で十三時間あまり、広漠とした大地を走り続ける。車両には硬座車と軟座車とがあり、軟座の寝台車の料金は、硬座の八倍とか、三段ベットに薄い毛布一枚で震えている硬座寝台の人々を見て、申し訳ない気がする。途中十数カ所に停車したが南京・蘇州などの他は名前も知らない駅なので窓から眺めただけ、ただ徐州駅だけには降りて写真を撮った。火野葦平の「徐州徐州と人馬は進む、徐州居良いか住み良いか」の歌の文句が思い出されたからである。
 目的地の霤州は、周の時代に六人の兄弟が支配した土地だという。現在は人口三十五万の都市である。ここからバスで約一時間、路上に立派な楼門が建っている。人口六十万、孔子生誕の地曲阜である。孔子の子孫は現在約七十万人、その内約十万人がこの地に住んでいるという。直系の子孫は漢の高祖の時代から高位につき、宋の仁宗の時代には、孔子四十六代目の子孫に「衍聖公」の称号を貰い、その後八百年間世襲されたという。衍とは孔家を継ぐこと、聖とは孔子のことで、公とは貴族階級(公・伯・子・男)の最高位を意味している。現在の子孫は七十七代孔徳成氏で、台湾に居住する。
 曲阜の町には至る所に「孔府家酒」の広告看板が見られる。「どんな味の酒だろうか」と一行十三人口々に話しながら、闕里賓舎というホテルに着いた。ホテルは孔子廟の隣にあり、面積十三万平方キロ、客室百六十四の曲阜最大のホテルである。因みに曲阜市では孔子廟の大成殿より高い建物は建てられないとのことで、ホテルも中国式の瓦屋根である。
 
 ・花の散り敷く孔子の廟を歩く静かな人の群れ

 好天に恵まれ、孔子廟は花と緑に埋もれていた。ここを訪れる人は年間数百万人、外国人はその一割、日本人は数千人だろうと言う。孔子廟は広さ二十二万平方メートル、南北二百三十四メートル、東西五十メートルあり、高さ三メートルの赤い城壁に囲まれている。黄色の瓦の建物数十棟、部屋の数は四百六十六室という。その創建はB・C四百七十八年と言うから万里の長城よりも二百年も古い。廟中に九つの庭園がある。(明朝では九と言う数が尊い数とされた)。楼門・屋根・瓦・壁とそれぞれに趣向を凝らし、竜・鳳凰・獅子・天馬・海馬・狛犬・押魚・仙人などの彫刻が飾られている。これらの形や名前や色はそれぞれ象徴的な意味を持っている。赤は尊さと豊かさ、黄は五行説で中央を表すとか。現地案内人の李慶忠氏は孔子についての著書を書いているほどの研究者で、詳しい説明に感嘆するばかりで、なかなか覚えきれない。
 まず南から孔子廟にはいる。「万仞宮墻」の城門がある。明時代の建物で、文字は清朝の乾隆皇帝が書いたものだという。説明によれば、魯の叔孫武叔という大夫が他の大臣に「子貢は孔子より偉い」と言っているのを聞いた子貢が「人間の学問は壁のようなもので、私の壁は私の肩の高さです。人々が背伸びをして見ると、私の壁の中の全て(自分の学問)を見つけることが出来ます。しかし、私の先生の孔子の壁は高さが数仞あり(一仞は約三.四メートル)普通の人は先生の壁の中のものが見えない」と言ったという。この話にちなんで、この門を「万仞宮墻」と名づけたと言われる。その意味は孔子廟を見学する人は、まずこの門を通らなければならない。そうしなければ孔子廟の中の建築のすばらしさが分からないと言うことである。
 曲阜の城壁は、文化大革命の時紅衛兵に壊され、現在はこの南城門と北城門だけが残っている。

 ・「金声玉振」孔廟門を潜りゃ身内が引き締まる

 「金声玉振」の門は明代(嘉靖十七年)に造られたもので、鳥居には蓮華に獅子が座した魔除けのお守りがある。「金声」とは初めの音楽、玉振とは終わりの音楽を意味する。孟子が嘗て孔子を賛美して「孔子の学問は学問全ての集大成で、集大成は金声と玉振です」と言った言葉から取られた。孔子の学問は人類の歴史を貫く最高のものだとの意味である。
 続いて「霪星門」を潜る。これは廟の玄門で、明の嘉靖二十三年のものだという。元は木造だったのを、清の乾隆帝によって石と鉄で造り直された。柱の上に持国天王・広目天王・増長天王・多聞天王の東西南北四天王を置き、天上に文化の星を頂いている。孔子とその弟子たちは全て天上の星が下界に降りて俗世間の天才の心に宿った姿であると言われる。
 更に「太和元気坊」の門が聳える。嘉靖二十三年の創建。「太和」とは「易乾」から取った言葉で、宇宙を表し、「元気」とは万物生成の根元を意味する。つまり孔子の思想は宇宙の根本・文化の源であることを示している。
 次の門は「至聖廟坊」である。「至聖」とは孔子の称号で、宋の真宗から大中祥符五年(一〇一二)に賜ったもの。最も高い聖人という意味である。そのほかに「徳霹天地」「道冠古今」「聖時門」「仰高門」「弘道門」「大中門」「同文門」「大成門」など幾つもの門がある。
「奎文閣」という蔵書楼、「杏壇」という学問所を見る。孔子の弟子は有名な顔子・子思・曽子・孟子の四配・十二哲以下三千人と言われる。孔子の著作は「詩」「書」「礼」「楽」「易」「春秋」で、「論語」は弟子たちが孔子の言葉を纏めたものである。その基本思想は「仁」と「礼」にあるといわれる。「仁」は親愛または慈愛の心を示し、李慶忠氏によれば「仁」は「人間らしさ」「まごころ」「思いやり」であり、「礼」は「社会的なきまり」であり「官職ある者は才能がなければならぬ」「道徳を使って人を治める」「教育には貴賤の差別がない」事に要約されるとする。孔子の師である老子は「道」を最高の規範として、人間・動植物は勿論、無機物にも「道」があると説いた。孔子はそれを整理発展させたものという。孔子は七十三歳で死んだ。


 ・巨人孔子の大成殿を撮れば写真の手が震う

 いよいよ孔廟の中心「大成殿」に向かう。宋の天禧二年に建てられてから四回落雷に逢い、明の弘治十三年と清の雍正七年に改築された。東西五十四メートル南北三十四メートル、高さ三十三メートルの皇宮で、北京の紫禁城太和殿・泰山の岱廟天睨殿と並んで中国三大建築の一とされる。大屋根を支える二十八本の石の竜柱は見事、手すりや欄干や石段にも竜の彫刻が見られる。竜は最高の位を表す想像上の動物で、専ら皇帝が用いる物だが、孔子の地位は皇帝同様であったことが分かる。あちこちに建てられている巨大な石碑も、亀に似た竜の八番目の子の「贔屓」が支えている。
 殿堂の中心に三.二メートルの孔子の像が祀られている。孔子は背の高さが百九十三センチあったと言われ、赤顔・出目・出歯の大男だったそうだが、堂々としている。宝座にも見事な竜の彫刻がある。周囲には香炉と祭祀の道具や楽器が置かれている。孔子は神様でも仏様でもない。学問の最高を極めた人間である。拝んでよいものか、それとも両手を合わせたらよいのか、私は孔子との出会いを自分の胸に納めるだけにした。だが、塑像の前には「至聖先師孔子神位」とあり、左右の顔子(顔回)初め弟子たちにも「後聖顔子神位」とか「先賢朱子神位」とか書かれている。時代は孔子たちを政治の具に利用した歴史を持っている。日本でも、朱子学の台頭によって孔子の学問を厳格な「礼」を中心としたものに変えられた歴史がある。
 大成殿の両側には、先賢・先儒を祀っ場所があり、明代に造った木造の位牌があったが、紅衛兵に壊され、現在は「書道石碑」「漢画像石刻」が置かれている。「曲阜漢碑林」は「西安」「南門」(台湾)と並ぶ三大碑林の一つで、まさに古代書道の宝庫である。何枚もの写真を撮った。「孔子廟堂碑」として書道家の垂涎の的である。
 大成殿の後ろに「寝殿」があり、三人の孔子夫人を祀っている。周りを鳳凰柱に囲まれて、大成殿の竜柱と対比している。
 明代に建てられた「詩礼堂」を潜ると、「魯壁」がある。秦の始皇帝がB・C二百十三年に発した悪名高い「焚書坑儒」の際、孔子九代目の子孫孔鮒は、「尚書」「論語」「礼記」「孝経」などの竹簡を壁の中に塗り込めて隠匿した場所だという。

 ・焚書坑儒の歴史の色を残す魯壁に震う風

 ・孔府七十七代続く孔宅古井の風の色

  その側には「孔宅古井」という古井戸がある。伝説によれば、この井戸は孔子廟の中でも一番古いもので、孔子はこの水を飲んでいたと言われる。
 孔子廟に並んで「孔府」がある。宋の仁宗時代に建ったもので、時代と共に増築され現在の規模になった。総面積十六万平方キロ、部屋の数四百六十三室、九つの庭園がある。ここは孔子一族の住居である。
 玄関には二匹の獅子の彫刻が置かれている。玉を持つのが牡、子と戯れているのが雌だという。鴨居の上に「聖府」の額があり、天下第一の家柄を唱った対句がある。玄関を潜ると「門房」があり、清代には二百四十四人もの役人が居たと言われる。次いで「聖人門」がある。更に「重光門」がある。蓮の実が上から下がった形の入り口が三つあり、中央は皇帝だけの通路、左右は大臣クラスの通路である。
 廷内に入ると、「六庁」「大堂」「二堂」「三堂」「前上坊」「前堂楼」「後堂楼」と次々に役所や住宅が現れ、その内部の調度品の豪華さには目を瞠るばかりである。あまりの広さに疲れて、案内人の説明もそこそこに「孔府」を後にした。

・墓石十万孔林走るバスに古代の陽が当たる

 最後は「孔林」である。ここは孔子一族の墓地で、広さが二百ヘクタール、墓石の数が十万以上というとてつもない規模である。四メートルの壁に囲まれたこの墓地を見て回る。周囲十四・五キロ、諸国から集められた檜・松・櫟・榎・楓・槐・楡・柳などの古木約三万本の中に延々と続く石塔群に圧倒される。因みに中国では皇帝の墓を「陵」聖人の墓を「林」大臣は「墳」庶民は「墓」という。
 「孔林」には代々の衍聖公はじめ子孫たちの墓が動物や人の埴輪に守られて建っているが、その中心に孔子の墓が、その子孔鯉と孫の孔仞の墓と共に鼎状に建てられている。孔子の碑文は「大成至聖文宣王」とあり、子は「泗水侯」孫は「沂國述聖公」で、「携子抱孫」(子を連れ孫を抱く)と言う形式だそうである。孔子の墓の側に弟子の子貢が六年間喪に服したと言われる「子貢蘆墓処」がある。

・店の女も孔子の子孫交わす筆談「很好」と

         2001年11月06日 12時51分20秒

中国四川省の旅
       
土屋北彦



 三月十三日から六日間の行程で、私は中国四川省の旅に行ってきた。臨済宗千光寺主催の「楽山大仏と峨眉山参拝の旅」、一行十三人(男七人・女六人)に添乗員(男)である。
 臨時バスで朝九時に千光寺を出発し、昼前に福岡空港に着いた。途中高速道路はスイスイと通過したが、太宰府インターから先は一般道路でノロノロ運転、聞けば月末には空港までの都市高速が開通するのだそうだ。
 午後二時過ぎ中国東方航空MU五一八便で上海へ向かった。最近の中国の飛行機はどれも新しくて快適である。綿のような雲が翼の下に広がって、降りて寝てみたいような気持ちになる。スチュワーデスに歳を聞いたら十九歳と答えた。みんな背が高くて美人揃い、注いでくれる飲み物もことのほか美味しい。

・春の綿雲翼の下にふわり浮かんで乗られそう

 一時間半ほどで上海国際空港に着陸。次いで国内線に乗り換えて、約二時間半で成都空港に着いた。成都市は四川省の省都で人口約八百万、省全体は日本の一.二倍もあり人口は日本よりも多いそうだ。有名な「三国志」の蜀の都で、府河・南河・岷江の三本の河に囲まれた肥沃温暖な土地で(平均気温十七度C)、今は桃の真っ盛り、竜仙山桃は中国一の名品と言われる。夕食を四川省博物館内の食堂で摂り、嘉州賓館と言うホテルに泊まった。十階建ての立派なホテルで、ロビーの柱は金ピカ、嘉州とは成都の古い名だそうだ。劉備玄徳が蜀の都を定めたとき都と成したのが成都の謂われとのこと。
 翌日から成都観光が始まった。現地案内人は杜徳利さんという三十四歳の女性、四川大学で日本語を学び、福岡に来たことがあるという。まず「杜甫草堂」を見学、ここは唐の玄宗皇帝に仕えた杜甫が、安禄山の乱でこの地に逃れ、仮小屋での質素な生活を送った場所という。彼は七百五十九年四十四歳の歳から四年間ここで生活し、その間二百四十七首の詩を作った(全作品千四百首)。肅宗の時外郎となり五十九歳洞庭湖で死んだ。李白と並ぶ詩聖である。草堂に園式の建物が三つ、その中に杜甫の像や石刻がある。入ると直ぐに、左右の壁に数メートルの岳飛の書になる「前出師表」「後出師表」が目を奪う。岳飛は宋代宗沢の武官で、大尉に重用されたが、最後は讒言により捕らわれて獄死した。能書家としても有名。

・岳飛の筆跡出師の表が壁に踊って桃の花

 次いで武侯祠を訪ねた。「武侯」とは劉備の名軍師諸葛孔明のことである。元々この場所には劉備玄徳の墓と廟があったが、君臣は合祀されるべきとのことで、明代に孔明の他張飛・関羽も合祀された。しかし家臣とはいえ、後世孔明に人気が集中して、武侯の名前が有名になり、各地に武侯祠が建てられた。
 武侯祠は成都の観光名所のトップで、入り口には多くの店が軒を連ねている。中に入ると、鬱蒼と柏や竹が茂り、幽玄なたたずまいを見せている。祠には人の三倍ほどもある座像が賑やかな着色で、我々を迎える。私は玄徳の前で記念の写真を撮った。脇殿にある張飛の顔は真っ黒で、如何にも豪傑と言った風情である。関羽は三国志とは違って穏やかな風貌であった。
 諸葛孔明の像は別の部屋にあって、知勇兼備の名将らしく堂々としている。祠は主君の玄徳よりも立派である。武侯は息子と孫の像に囲まれて、静遠堂に静かに立っている
 竹林が長々と続く赤壁の道を通って、劉備の墓地へ足を運んだ。壁の屋根には数百の鬼瓦が人を睨んでいる。墓地の前の建物の壁に「漢昭烈之陵」の額がかかっている。陵は幅十メートルほどの小山で、小さな樹木が屹立している。 

・春の風吹く劉備の陵の木々の震えの三国志

 武侯祠を後にして、昨日晩餐を摂った四川省博物館見学に赴いた。四川省出土の土器や石器などが陳列してある。表面の文様が面白く、何枚もの写真を撮った。後に気づくと「撮影禁止」の張り紙があった。ここで三国志の彩色画と杜甫の詩集を買った。
 館の隣りに、宝樹堂という製薬会社がある。四川省は中国一の漢方薬の産地だという。日本語の上手な女店員の説明で、高い漢方薬を買わされた。壁に世界中からの礼状が貼ってある。漢方薬は続けて飲まないと効果は出ないので、注文すれば送るからと上手に勧誘された。
 成都を後にバスを四時間ほど走らせて、峨眉山市に着いた。運転手の肅さんは杜さんと大きな声でしゃべり詰め、バスは韓国製の大型車で十五人ではゆっくり過ぎるくらいである。中国は左ハンドルである。価格は円で日本製の半額の二千万円ほどだそうだ。それでも二百キロほど走ってスタンドでトイレ休憩したとき、タイヤに水を掛けるとシュッと音を立てて湯煙が上がる。クラッチ板が焼けているらしい。スタンドのトイレは扉もなく開けっ放し、中国の青年がこちらを向いて大便中だった。こちらも遠慮なくその横で小便をした。昔の小学校の便所を思い出して懐かしい気がした。
 途中の道はあちこちで道路工事中、鉄筋入りの分厚いコンクリートの道が造られている。古いトラックが綿や石炭などをこぼれるくらい積んで走っている。道には中央線が無く、対向車が来ないときは平気で反対車線を走る。一度車の陰から自転車が飛び出して、運転手が急ブレーキを掛けた。道の両側は延々と続く菜の花畑や野菜畑である。手入れが行き届いているが、畑で働く人の姿は殆ど見かけない。所々に農家や小店があって、必ず数人が屯している。道には小さな篭を持った女や背広姿の男が歩いている。喰うのには困らないけれども、近くに工場が無く、現金収入がないのでなるたけ腹が空かないようにしているらしい。そういえば四川省の人口の八割以上は農民だと聞いた。豚や牛は見かけたが、犬や猫や鳥の姿は全くない。成都では舗道にたくさんの人が集まって、ペットの交換会が催されていた。

・走り続ける菜の花道の遙か彼方に日が落ちる

 峨眉山市に入ると急に道や建物が立派になった。近年観光化と共に発展しているという。峨眉山大酒店と言うホテルに着いた。ここは蒟蒻が名産だそうだ。蒟蒻の煮付けは五十二度の白酒と良く合って、久しぶりに痛飲した。
 翌日は峨眉山観光、先ずホテル近くの報国寺を訪れた。入り口に「震旦第一」と彫られた数メートルの石碑が建っている。たまたま側にいた猿回しの老人に尋ねると、震旦とはインド人がチニスターンと呼んだ中国の古名だという。報国寺は十六世紀建立の臨済宗の古刹、四つの殿堂があって弥勒・普現・観音・釈迦を祀ってある。特に過去・現在・未来を表す釈迦三尊は中国独特のものだそうだ。
 峨眉山頂上へは、道が狭いので二十人ほど乗れる小型バスで行くことになった。運転手の隣りに奥さんが乗っている。奥さんの役目はあまりないらしい。山道を登って行くと、三々五々子供たちが歩いている。二つほど小学校があった。登るに連れてあたりは次第に冬景色に変わって行く。峨眉山入り口に到着すると、一旦車から降ろされて入場券を買わされる。その時一人ずつポラドイド写真が撮影され、入場券に刷り込まれていた。そこから十分ほど走ると駐車場があり、そこで一般車は行き止まりだが、我々のバスはゲートを開けてもらってロープウェーまで行った。軍隊のオーバーのような防寒着を貸してくれる。新品十元、古手五元(一元は十五円)添乗員の山下さんは古手を借りたが臭くて着られたものではないとのこと。
 ロープウェーは二十人くらい乗れる箱形で、約二十分で頂上まで行く。辺り一面樹氷の花が咲いている。二度ばかり滑りこけながら登る。道の両脇に何千もの錠前がぎっしりと綱に掛けられている。恋人同士が結ばれた記念に鍵を掛けて飾るのだそうだ。頂上には臥雲禅寺や華蔵寺があり、弥勒や普現を祀る。標高三千七十七メートルの金頂で記念撮影。遠くに雪を被った七千メートル級のヒマラヤ・チョモランマの勇姿が見える。
 帰り道、数匹の猿を連れた猿回しが何人もいて、記念撮影を勧める。猿一匹が一元、私は五匹を肩や頭に乗せてもらって記念撮影をした。「チンリイ」(敬礼)「ダオリー」(倒立)というと猿は右手を耳のところまで挙げて敬礼したり、逆立ちをしたりした。身体には黄色の塗料が塗られている。後で思いついたのだが、金糸猴(孫悟空)に似せたのであろう。

・肩に止まった五匹の猿が寒い目をして空を見る

 帰りのロープウェーは中国の女性たちでいっぱいだった。トーンの高い言葉でしゃべり止めない。耳がガンガンするようだった。杜さんに聞くと雲南省あたりの方言らしい。彼女にもよく判らないと言う。中国は広いので、方言も多く、北と南では同じ中国語と言ってもまるで外国語のようだそうだ。
 山の中腹まで降りて、昼食を摂り、再び六人乗りのリフト式ロープウェーで二.五キロの万年寺を訪ねた。宋代九百八十年創建の寺でここの磚殿にはインド様式のドームの中に象に乗った普賢菩薩の像がある。千光寺の閑栖和尚の先導で般若心経一巻を唱和した。寺の住職を入れて記念撮影。大雄宝殿には明代鋳造の三身銅仏(報身盧遮那仏・応身釈迦牟尼仏・法身毘盧遮那仏)。寺領に琴蛙池がある。伝説に依れば、昔詩人李白がこの池の畔で詩を吟じたところ、池の蛙が琴の音のような声で唱和したと言われる。

・詩聖李白の面影浮かぶ風が流れる琴蛙池

 見学を終わって再び臥眉山大酒店に帰り、大型バスに乗り換えて楽山市へ向かった。二時間ほどで世界一大きい楽山大仏に着いた。市の東にある大仏は大渡河・岷江・青衣江の合流地点凌雲山の断崖に刻まれた弥勒坐像で、高さ七十一メートル・肩幅二十四メートル、片足の甲に百人が乗れる大きさである。千九百七十九年壊れた一本の指を修理したが、三千あまりの煉瓦を使用したと言われる。唐玄宗皇帝の七百十三年、凌雲寺の僧海通が三江の遭難者の多いことを憂い、航海の安全のため大仏建立を計画し、三代九十年を掛けて完成したものである。最初海通の募金に疑いを持った役人が、建立を中止させようとしたところ、海通は自分の両眼を刳り抜いて役人に示して説得したと言われる。海通の没後この事業は二人の役人に受け継がれた。現在寺に三人の功績をたたえる立像が祀られている。大仏は巨大なため直下からは見えないので、河に観光船が用意されて適当な位置まで離れて、甲板から全体像を見る、船賃四十元。「山是一尊仏、仏是一座山」と詩人が謡ったと言うが、船から見ると頭が鳥竜山、胴が凌雲山、足が亀城山の寝釈迦の姿になっている。凌雲山の麓の東方仏都には百七十メートルの寝釈迦があるそうだが、今回は訪れなかった。
 次いでバスで凌雲寺の駐車場に登り、そこから八十段の石段を登って寺に着く。大雄宝殿・天王殿・弥勒殿・蔵経楼等を見て寺を抜けると大仏の頭に出る。頭は高さ十五メートル・幅十メートル・耳の長さ七メートル・目の長さ三.三メートルと巨大である。螺髻約千個、髷は互いに連なって巧妙な排水システムになっている。大仏の頭をバックに写真を写していると、観光に来ていた十人ほどの若い中国人の男女が寄ってきたので序でに撮影した。背広にネクタイ、スーツ姿の皆あか抜けた服装である。見学を終えて嘉州賓館に泊まった。

・楽山大仏足から見れば鼻の穴しか拝めない

 翌日は大足まで四時間半の長距離バス旅行である。暫く畑沿いの道を走った後成都・重慶間を結ぶ高速道路を時速百四十キロで飛ばす。道には時々トラックが走るくらいで殆ど車の姿はない。日本のようなドライブインもない。トイレ休憩で降りた広場には新しい便所が建てられていたが、やはり扉のないニイハオ厠所である。
 道は一直線に限りなく続く。退屈を紛らわそうと、案内人の杜さんがチベットの話をしてくれた。現在チベット族は六百万余り、その多くが西蔵自治区に住んでいる。彼らは先祖が猿だと信じている。昔魔女と猿が結婚して六人の子を生み、五百人に増えたが、食べ物がないので、観音に乞うたところ、観音は彼らに麦の種を渡した。それが現在も栽培されているチベットのチンコ麦である。唐時代の七世紀頃、ソンサンカンポがこの地方を統一し、しきりに東方を窺うので、二世太宗は和睦の証として娘の文成公主をソンサンの息子に嫁がせたが、息子は落馬して死亡したので父と再婚した。父のソンサンはネパールからも后を迎えた。八世紀になり、チベット王はインドからパトマサンババという高僧を迎えてラマ仏教を広め、ヤルサンボ川の辺に昌珠寺やサムイエー寺を建てた。ラマ教は小乗仏教で、先生から弟子に教義を口伝する。九世紀に一時ラマ教は滅亡したが、十一世紀には復活した。明代の千四百四十七年ケドウンドウプがラマ一世となり、その後歴代のダライ・ラマによってポタラ宮・大昭寺・セラ寺・デーフン寺など次々に造営された。
 チベット族は現在でも一夫多妻・一妻多夫である。人が死ぬと、高僧は塩づけのミイラにして塔に安置し、普通僧は火葬する。一般信者は鳥葬である。人が死ぬと、三〜五日部屋の隅の煉瓦と土で囲った場所に置き、適当な時期を見計らって、死体を白布に包んで背負い十字路に置く。是は死者に方角を悟られない為である。捨てられた死骸は四肢を切り骨を外して細かく賽の目に切り、バター茶とサンバ粉を混ぜて山へ持って行き鳥に餌に供する。
 杜さんの話を興味深く聞いているうちに、バスは大足の北山賓館に着いた。四階建てのこじんまりしたホテルである。大足は重慶市の一県(中国では市の下に県)で人口三十万人。案内人のスーさんは由幾三に似た日本通。聞けば十年あまり日本に留学し、名古屋学芸大卒だという。大足には十数カ所の石窟に六万余りの石刻があるそうだが、今回の旅は二カ所の見学である。彼の案内で北山石窟に向かった。ここは唐代末期の八百九十二年から二百五十年かけて彫り続けられた一万あまりの石仏が、五百メートルに亘って唐・五代・宋とそれぞれの変化を見せる。如来・菩薩・観音・羅漢(明代までは十六・以後は十八)・地蔵・明王・力士などその種類も豊富である。別の場所には道教・儒教の神々も彫ってある。

・孔雀明王四本のみ手に抱えきれない世の苦悩 

 東北に約十五キロ、野菜畑や養魚池の間を通って宝頂山石窟に着く。谷を迂回して馬蹄型に一万体の石刻が極彩色で並ぶ。南宋の千百七十九年から七十年間に亘ってその規模は二.五キロに及ぶという。近く世界遺産に指定されることを見越して、崖に余白を残してある。ここには道教・儒教・仏教が混在しているが、中でも六/九/十二の関数に依って制作された円覚洞は、竜の口から雨水が点滴し、水が地下の排水溝に集まる仕組みや、光線が洞内に差し込み、次第に壁の釈迦三身仏や脇侍仏を浮き上がらせる構造になっている。その隣には高さ七メートルの如来・文殊・普現の三聖が飾られ、普現の手は一.八メートル重さ五百キロの鉄製の七層宝塔を捧げている。千年を経た今でも落ちないのは、袈裟が塔の重みを巧みに分散して地に導いている為だという。優れた建築力学である。
 少し下った洞内には、八十八メートルの岸壁に千七本の手が孔雀のように広がる、宋代の千手千眼観世音の姿が目を奪う。その手は様々な宝器を持ち、掌にはピカピカ光る目が描かれている。
 更に下ると長さ三十一メートルの釈迦牟尼仏涅槃像がある。手前の地に曲線の結界が彫られ、彼岸と此岸を隔てる。その隣の九竜浴太子は、竜の口に集まる水の力を巧みに加減して、破壊を防ぐ知恵が用いられている。
 更に進むと地獄変相図・経変相図が延々と続く。スーさんの説明は佳境に入るが、一同さすがに疲れて柵に凭れて見上げるばかり。地獄の仏教説話像は、手かせ・首かせ・窯ゆで・腹裂き・鉄輪・毒蛇など極彩色でリアルに描かれている。

・大足石刻頭上に仰ぎ首が疲れる変相図

 その晩は北山賓館に泊まり、翌朝はいよいよ帰国のために重慶空港に向かう。重慶市は人口千六百万の世界一の大都市で坂の街、自転車は一台も無いという。ダイハツ製のアルトがタクシーとしてたくさん走っている。飛行機までの少しの時間鵝嶺公園を訪れた。ここは国民党臨時政府が置かれたところで、蒋介石の別荘や防空壕が保存されている。街にも道沿いに防空壕の跡が散見され、現在は小店になっている。長江大橋は霞んで見えなかった。
 昼食は人民大礼堂の食堂で摂った。久しぶりに美味しい四川料理を味わった。大礼堂は北京の天壇を模した丸屋根を飾ってある。何万人も収容できそうな立派な会議場である。石段に腰を掛けて記念写真を撮った。昼食を終えて空港まで飛ばす。運転手とはここでお別れ、彼はこれから成都までの二千五百キロを一人で帰るのだそうだ。
 重慶空港から上海空港までは約二時間の空の旅、ちなみに航空料金は千元、それでも満席だった。平均賃金が六百元くらいの庶民が、どうして飛行機に乗れるのか不思議である。上海での夕食は貿易センタービルでの海鮮料理。さすがに豪華で美味であった。センタービルは各階エスカレーター付きの立派なビル。上海は年々すばらしい発展振りで、高速道路が縦横に走り、数十階建てのビルが林立している。昨年出来た体育館は八万人収容とのこと。上海の人口は千四百万、しかし昼間はそれ以外に何百万人もの流入者があるという。北京・天津・重慶・上海は中国四大直轄市である。人口は何処も一千万人を超す。三十階建ての虹橋飯店ホテルに泊まって、翌日帰国。一時間半で福岡空港に到着した。あっという間に過ぎた六日間だった。 

・四川旅行は命の証探る旅です心です 2001年11月06日 12時46分50秒


  • オーストリア・イタリアの旅

      
    土屋北彦



     一九九八年十月三日から十二日までの十日間、私はオーストリア・イタリアの旅に行って来た。イタリアは三度目だが、オーストリアは初めてである。
     十月三日の夕方、大分空港を立ち、大阪伊丹空港内のエヤーポートホテルで一泊、翌朝空路成田国際空港へ、午後の二時五十五分、日本航空四百三便でイギリス・ロンドン・ヒースロー空港へ着いた。その間の所要時間約十二時間。ビールを飲んだり、機内食を食べたりしている内に、思ったほどの苦痛もなく過ごせた。
     今回のツアーは二十四人、北海道二人、九州五人(私の友人)残りは関西と東京の人だった。男五人(私が最年長)女十九人、女は大学生四人とO・L六人(内二人は東京からの中国人商社ウーマンのファンさんとタンさん)四人の妻と主婦六人と言うメンバーだった。添乗員は大久保崇子さんという新婚六ヶ月の人。
     夜の七時にヒースローに着き、オーストリア航空機に乗り換えて九時出発、三時間足らずでウィーンに着いた。ホテル・アルティスは市内の中心部にあり、六階建ての古いホテルで駐車場もない。「格安料金だから仕方がないか」と誰かが呟いていたが、古いのは此処だけでその後はデラックスなホテルだった。
     翌朝早く起きてホテルで朝食のパンを食べ、早速ウイーン市内観光に出かけた。現地案内人は大津さんと言う四十才くらいの日本人、声が良く歴史に詳しく、特に音楽に造詣が深い。おそらく音楽関係の人であろう。市内環状線をバスでゆっくり廻って観光した。ウィーンはかねて聞いていたとおりの美しい静かな都である。嘗てはオーストリア・ハンガリー帝国の首都として六百数十年栄えたヨーロッパ有数の大都市である。国会議事堂、王宮、新王宮、中央官庁、美術館、図書館とすばらしい建物ばかり、あいにく月曜のためお目当てのクリムトの絵がある美術史博物館は閉館していた。
     千百六十四年に建立されたというゴシック様式のシュテファン大聖堂は、マンモスの骨を連想させる巨大な尖塔で、年月の汚れが重厚さを添えている。ウィーン観光用の馬車が何台も止まっている。それを見て、メインのシエーンブルーン宮殿へ向かった。十四世紀、王の狩猟場だった広大な土地が十六世紀にハプスブルグ皇帝の手に渡ってから、三百年以上の年月をかけて造営され、有名な女帝マリヤ・テレジアにより一七四九年に完成したと言う。私が嘗て訪れたフランスの有名な宮殿ベルサイユを凌ぐ大きさと立派さだった。宮殿の内部は十八世紀後半のロココ様式で統一され、女帝の財力と異国趣味が見る人の心を捉え、驚嘆させられる。東洋の漆器と東アジアの金漆工芸が見事に調和した中国の部屋、ムガール朝インドの黄金の細密画の部屋、ゴブラン織りの壁に覆われた謁見の間、金に縁取られた巨大な天井フレスコ画の大広間、無数のシャンデリヤが夢幻の空間を演出している。
     息苦しくなって戸外に出ると、バチカン王国の四倍の広さという大庭園が広がる。オベリスク・ネプチューン・ローマの廃墟などを配した放射状の生け垣の遙か彼方に、グロリエッテ(凱旋門)の勇姿が霞んでいる。説明に依ればこの向こうにもう一つの宮殿を造営する計画だったが、一八〇五年ナポレオンの侵略により中止されたと聞く。

    ・これが名だたるオペラ座なのかさびた石塀撫でてみる

     見学が終わって、オペラ座の前でバスを降り、町で昼食のウィーン名物子牛のカツレツを賞味してから、午後は解散、自由行動になった。朝方環状線を廻ったとき、ドナウ河の運河の土手に、野菜や果物・日用品などの市場が並んでいた。「葡萄の一粒からでも売っていますよ」の言葉が印象にあったので、友人二夫婦と私の五人は川沿いを歩いてみることにした。三十分ほども歩いてみたが、市場が見あたらない。諦めて今度は旧市内の見学に向かったが、途中小雨が降り出してきた。
    「ホテルの近くにスーパーがあると案内の人が言っていたから、そこへでも行くことにしよう」広場でタクシーを拾った。タクシーのドライバーの若い兄ちゃんが「兄が日本にいる」と片言の日本語で語りかけてきた。こちらはからっきしドイツ語は駄目である。料金の一割をチップとして渡した。
    夜六時希望者でオプションツワーに出かけることになった。最初はプラター公園の大観覧車。千八百九十七年に出来たという由緒のある高さ六十四.七五メートル、車軸の直経六一メートルと言う巨大さ、一台に二十人ほども乗れる箱が十以上も廻っている。フランス映画「第三の男」のラストシーンにこの場所が出たことで、いっそう有名になった。

    ・憧れの土地ウィーンを歩く空に流れる秋の楽

     次いでウィーンの森にある夕食の場所ホイリゲに向かった。ホイリゲは地元の葡萄栽培農家が最初は自家用に製造していた原酒が評判を得て広がり、今では何百軒もの農家がホイリゲを経営してヨーロッパの名物になっている。日本のどぶろくのような絞り立ての葡萄の原酒がコップに一杯だけ、それに野菜サラダと肉のカツレツと言う割と粗末な食事である。下手な素人音楽師がテーブルを廻って演奏する。これで料金一万五千円は高すぎる。
     翌朝はいよいよ私にとって今回の目的だったザルツブルグへ向かう。ウィーンからは西へ車で五時間、ドイツ国境の町である。バスは左ハンドル、大型で座席に一人ずつ掛けても余るほどである。運転手のジュッペ さんは若い陽気なベネチア人。「ボンジョルノ マカロニ スパゲッティ」と大声で挨拶して皆を笑わせる。オーストリアもイタリアもガソリン税に高速道路の料金が加味されているそうで、立派に整備された高速道路を時速百キロ以上快適に飛ばす。途中わずかに見られる料金所も、バスに取り付けた光センサーでゲートが上がり、速度を落とすことなく通過する。
     途中アメリカ映画『サウンド オブ ミュジック」の舞台となったザルツカンマーグートの山岳・湖水地方を走る。一面葡萄畑やトウモロコシ畑が広がっている。昔はこの地方は岩塩の産地だったそうで、「ザルツ」とは「塩」のこと。ザルツブルグも塩の主産地として発展した都市である。映画の主人公が走り回った美しい野山や湖、結婚の舞台となった教会など、大久保さんから詳しい説明があったが、肝心の映画を見ていない私には今ひとつ、それでも大自然のすばらしさには感激した。
     昼近く、目的のザルツブルグに着いた。昼食の後、今は市役所になっているミラベル宮殿とその綺麗な庭園に立った。遙か山上にホーエンザルツブルグ城の美しい姿が望める。毎晩この城で音楽会が催されるそうだ。案内人の荒木さんに連れられて、旧市街へ行く。途中アインシュタインの家があった。この今世紀最大の著名な科学者もこの地の出身だった。やがてモーツアルトの生家に着いた。彼が七歳まで暮らした場所である。黄色い建物の四階が一家の部屋として当時のまま保存されている。写真や自筆の手紙・楽譜それにモーツアルトが弾いていたバイオリン・ピアノ。鍵盤が現代のものとは白黒逆になっている。黒い鍵盤の上だと指が美しく見えるという。二階の売店で、このピアノを使ったCDを買った。ボルフガング・アマデウス・モーツアルトは千七百五十六年にこの地で生まれ、六歳の時にはマリヤ・テレジア女帝に召されて音楽を演奏したという。あまりの可愛さに女帝は彼を膝に抱き上げて頬ずりしたとのエピソードが伝わる。そんな彼も二十六歳で結婚後はウィーンで名声を得て住み着き、ヨーロッパ各地に演奏旅行などして大いに評価が上がったが、三十三歳の頃から健康が悪化して療養生活に入り、「レクイエム」の作曲中に未完成のまま三十五歳で夭折している。その墓はサンクト・マルクサーの墓地にあるが、当時墓碑は墓地を囲む塀の上にしか立てはならないとの決まりのため、その場所は不明とされる。彼の死後、妻のコンスタンツェはケッヘルと再婚した。ケッヘルは彼の膨大な作品に番号を付けて整理した。これがケッヘル番号である。 

    ・楽聖育った黄色い家に注ぐ初冬の陽の温み

     次いで、市の中心部レジデンツ広場へ行った。教会を挟んで多くの商店が並んでいる。看板やグッズにモーツアルトの名称が目立つ。此処は完全なモーツアルトの町であった。夕暮れになり、歩いてノボテル・ホテルへ着いた。こじんまりした瀟洒なホテルだった。夜久しぶりに夢を見た。「遙けくも来つるものかな」夢と現実が交差していつの間にか朝を迎えていた。
     十月七日、オーストリヤを後にしてイタリアへ向かう。アルプスの一環のドロミテ渓谷を通り、千九百五十六年第十六回冬季オリンピックが開催されたコルティナ・ダンペッツオに向かった。途中に国境を通り過ぎた。パスポートの提出もなく、運転手がちょっと税関の窓口に行っただけで無事通過。小雨が降り始めた。ドロミテは富士山より高い山が三つ町を取り囲んでいるが、生憎雨雲に隠れて僅かしか見えなかった。オリンピック競技の滑走台は、山の中腹にひっそりと姿を見せていた。台座の五輪のマークが幾分薄れていた。(トニー・ザイラーの三冠で知られる)あたりは延々たる樹林、所々に赤い屋根の農家が点在していた。 
     美しい湖水のほとりのレストランでパスタの昼食をとり、ヴェネツィアへ向かうことになったが、近道は工事中で通行止めとのことで、再びドロミテに引き返した。トイレ休憩(食料品店)を挟んで五時間あまりの道である。バスで隣り合わせになった中国人の二人と話しをする。黄小鈴(huag xiao ling)さんは紹興の出身の三十二歳、現在は東京で中国系商社勤務、在日十年で、以前は日本語の通訳をしていた。ファッションモデルのように綺麗な人で、運転手のジュッペさんは何度も「アイラヴユウ・ウオーアイニー」とコールを送り、頬にキッスまでした。小遣いをたくさん持ってきたようで、高価な鞄や靴など買っていた。唐紹丹(tang shao tong)さんは桂林出身の三十一歳、黄さんとは別の東京の商社勤務、在日六年。明るい茶目っ気な娘。両親は教師とのこと、ビデオであちこち写しまくっていた。この人も良く買い物をしていた。話しによると、先年独りでヨーロッパ数カ国を訪れたとのこと。二人とも十歳以上若く見える。「ニートウターラ?」(あなたの年齢はいくつですか)と私が習ったばかりの中国語で話しかけると、「サンシアルソエ」(三十二歳)と黄さんが笑って答えた。
     ヴェネツィアに着いたときは五時を廻っていた。宮殿や聖堂は六時に閉じるとのことで、大急ぎの観光となった。案内人の木村という女性は、それでもゆったりと説明してくれた。ドゥカーレ宮殿はヴェネツィア共和国の栄光の跡をとどめる豪華絢爛の十四世紀ゴシック建築。黄金の階段、評議の間のすばらしいヴェロネーゼの天井画、元老院の間のクリストフォロ・ソルテの装飾、五十四×二十五×十二メートルの大委員会の間の天井と壁面のフレスコ画、中でも正面の世界最大「パラデイッソ」と言う油絵には度肝を抜かれた。見る人によってはシェンブルーン宮殿に勝るものである。更に裁判所の間から「溜め息橋」を通って向かいの監獄へと導かれた。被告は裁判官十人の内三人が署名すれば罪障が確定して、テーブルの秘密のドアから監獄へと送られる。監獄は宮殿とは正反対の全く窓のない石の部屋が並び、広さは六〜十畳くらい。どの部屋にも一カ所に食べ物を差し入れる二十センチほどの穴が開けてある。

    ・ドゥカーレ宮殿黄金の段を上る私の貧弱さ

     宮殿を降りると、サン・マルコ大聖堂である。九世紀から十五世紀に亘って造られたという金色のまばゆい建物、十字架をかたどった空間に床はモザイク大理石、柱・壁は板状の大理石を細かく割って造られたモザイクで、旧約聖書の題材やキリストの生涯が描かれている。上部はガラスと金のモザイクで、外からの明かりを取り込み、光の作用により超現実の世界となって妖しく輝く。六時を過ぎていたが、文句無く入場できたのは幸いだった。
     観光客相手のヴェネチアングラスの工房では、店員が巧みな日本語で実演と販売をする。対岸のムラノ島は、ガラス職人がローマ時代に蛮族に追われて住み着いた場所だという。ヴェネツィア自体が五世紀の半ば、国を追われた人々が、百十八の離島に何十万本もの杭を打ち込んで、その上に築いた石造りの都市国家である。近年対岸の工業化や島の浸食により、島は沈没を余儀なくされている。私たちが訪れた前日もサン・マルコ広場には一メートル以上の浸水があり、人の通るための板の橋があちこちに見られた。島の住人も大半は本土に住み、毎日島に通ってくるのだそうだ。
     夜、名物のゴンドラに乗って運河巡りをした。六・七人ずつに別れて舟に乗り込み、暗い建物の間を通る。一階にはほとんど人が住んでいないようで、明かりもついていない。それにしても、よくもこんな大規模な建物を造ったものだ。材料はいったい何処からどうして運んだのか、想像も着かない。自由時間に、狭い曲がりくねった路地を抜けて、リアルト橋まで行ってみた。ここには金細工の職人の店があると聞いていたが、見つからなかった。小店で飾りの仮面を数個買った。毎年二月にここで世界的な仮面カーニバルがある。「ダウン、ダウン」と言うと、店の主人が「値引き」と日本語で答えた。
     島を離れて、工業地帯にあるホテル・アジップに着いた。そういえば、オーストリアでもイタリアでも、ガソリン・スタンドの殆どに、獅子が火を吐いているAJIPのマークが見られた。
     翌朝バスでフィレンツェに向かった。ここはルネッサンス発祥の地、町全体が巨大な美術館だ。まずドゥオモ「花の聖母教会」へ行く。千二百九十六年から百七十五年の歳月を掛けて造成されたゴシック様式の代表的建築で、堂に入ると巨大な石柱の林が威圧する。南には高さ八十四.七メトルのジオットの塔とサン・ジョバンニ洗礼堂、その三枚の扉の一つがギベルティ「天国の門」十枚のレプリカ。本物は美術館にあると言うが、日本の某保険会社がその一枚と引き替えに、二枚の扉を複製して寄贈したと言う。
     メジチ家の財力を示すウフィツィ美術館に入場するには、少なくとも一時間は並ばねばならないと言われる。私が以前「二度も並ばずに直ぐ入れた」と言うと「それは奇跡に近い」と大久保さんは言う。彼女は十回以上も来ているが、何時も見学者で長蛇の列だそうだ。ジオット・レオナルド・ダ・ビンチ・ラッファエッロ・レンブラントなど私でも知っている有名な絵画を、ここでは余り混雑することなく十分に堪能できる。なかでもサンドロ・ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」と「春の寓意」は大人気で、厚い防弾ガラスで覆われている。それでもフラッシュさえ使わなければ写真撮影はO・kである。素人写真は写真集には及ばない、私は以前に写真集を買っている。入り口で黒人のジプシーたちが名画の複製を売っている。何人か買ったようだ。

    ・並んで待ってる入場者等に黒いジプシー絵を捌く

     夕暮れ前、ダンテの家を訪ね、サンタ・クローチェ教会で、その墓を見た。墓というより、壁面に造られた大理石の大きな彫刻である。ここには、ミケランジェロの墓も、ガリレオ・ガリレイの墓もある。次いでイタリアで一番美しいと言われるミケランジェロ広場に行って、フィレンツェの町を眺めた。赤い屋根が広がって限りなく美しい。その夜はホテル・デルタに泊まり、次の朝サン・ジミニャーノへ向かった。
     この都市は十二世紀に葡萄の栽培で発展したというトスカーナ地方の中心都市で、城壁に囲まれた小高い丘の上にある。ここからローマまでワインを運ぶための立派な道路がすでに整備されていたという。中心部の広場まで歩いて、ドゥオモに入った。巨大な柱で支えられた空間には、壁面いっぱいに数十枚のフレスコ画が書かれてあり、天井は見事な彫刻で占められている。
     誰も行かないので、私独りで市立美術館に行ってみた。千八百五十三年に収集されたという宗教画が並んでいる。作品はすべて十四・五世紀のものである。閲覧者は少なく、管理人もいないので、私は数枚の写真を写して館を後にした。

    ・門をくぐれば中世の町塔を見上げて息を呑む

     約三十分でシエナ共和国の首都シエナに着いた。ローマ帝国時代からの古い国で、「芸術の都」と言われるシエナは、石畳と練り煉瓦の狭い路地が続く。中心部の扇形のカンポ広場には、ブッブリコ宮殿(現在は市役所)マンジャの塔が聳えている。 広場では毎年七月と八月に「パリオ」と言う騎馬競技が行われると言う。写真をみると一万人以上の人がぎっしり広場を埋める。今は閑散としていてあちこちに日光浴の若者たちが寝そべっている。
     シエナのドゥモは、「ヨーロッパでもっとも令名高く華美なものの一つである」と解説書にある。千百三十六年に立て始められ、千三百四十八年ペストの流行により一時中断、千三百八十二年に一応の完成をみたが、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂を凌ぐ設計だったそうだ。現在でも予定地の空地が残る。内陣に入って驚くのは、白と黒の大理石を重ねた柱の醸し出す不思議な神秘的空間が人間の心に覆い被さるような、威圧感を持って迫ってくる。特にフローアーの象眼細工の大理石の絵装飾は、聖人・巫女・徳人・歴史上の人物など五十六の絵で床一面を覆っている。千五百年頃作成されたという。破損を防ぐために所々に紐で囲ってあった。   

    ・カンポ広場に日光浴の人に影指す時計台

     ここから三時間ぐらい走るとローマに着くとのことで、高速道路は順調に過ぎたが、ローマで普通道に降りる場所ではものすごいラッシュ。一時間以上ものノロノロ進んで、みんないい加減につかれ、腹も減ってきた頃、ホテルからの連絡で、「日本の泊まり客が食中毒で、ホテルの夕食はキャンセルになった」とのこと。
     やっとの思いでホテル・メジチに到着。ジュッペさんはここでお別れとのこと、法律で一定時間(九時間)以上の運転は出来ないそうだ。
     ローマでは先ずヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂を訪れた。二千年を控えて化粧落としのための櫓がくまれていた。スイスの衛兵を写して中にはいる。私は今回で三度目だが、何度訪れてもその壮大さには目を見張らされる。これまで見てきた聖堂とは桁違いの規模である。聖堂が如何に大きかを示すために、大理石の床に、シアトル大聖堂はここまで、ケルン大聖堂はここまでと印がしてある。

    ・三度訪ねた大聖堂が光り集める冬の暮れ

    聖堂を後に、古代遺跡「コロッセオ」に行く。ここで記念の写真を撮り、「トレビの泉」に行った。相変わらずの人の波、新婚夫婦が記念撮影をしているのを横から盗み撮り、前の店でおいしいアイスクリームを買う、三千リラ。午後は自由行動で、共和国広場のローマ三越で解散。皆買い物に熱中していたが、私は「フォロ・ロマーノ」へ行きたいと思い、大久保さんに相談したところ、彼女も十回来て一度も行ったことがないから、希望者は連れていってくれると言う。願ってもない幸いで、七人が行くことになった。途中スペイン広場に寄り、大学生たちのたっての希望で、「真実の口」に廻る。これは古代の水道管の蓋だが「ローマの休日」の、映画で有名になった。歩いて「カンピドリオ」を通り、ミケランジェロの「馬と人」の彫刻を見て、「フォロ・ロマーノ」へ着いた。
     ここは古代の司法・宗教・商業の中心であり公共広場である。広大な敷地に紀元前のローマ帝国の遺跡が残っている。イタリヤでは、遺跡は修理はするが復元はしないそうで、壊れかかった神殿の柱が、悠久の歴史の跡を偲ばせて傾いている。高地に上がって「チルコ・マッシモ(競馬場)」を見下ろすと、自分も古代の帝王になった気がする。タクシーで広場まで帰り、オプションの「カンツオーネ・ナイト」へ向かった。行ってみるとまだ店が開いていない。十分ほど待って六時に店に入った。専門の楽団と歌手がいて、生演奏を聴かせる。二流どころだろうが、CDやテープを売る。誰も買わない。一人二千リラのチップを与え店を出た。

    ・古代現代境を歩くフォロ・ロマーノの尖る風

     旅は楽しい。異なった風景に触れ、新しい知識を得る。一日万歩を歩いて、健康にも良い。帰ってアルバムを整理していると、一週間も経たないのに、何処を写したのか覚えていない。健忘症は徐々に始まっている。 
2001年11月06日 12時42分18秒


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