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土屋北彦 ![]() 中国雲南省の省都昆明(人口500万)から東南約100キロ(バスで40分あまり)の石林県にある世界自然文化遺産申請中の「石林」は、その名の通り数万本の巨大な石灰岩の石の柱がそそり立つ奇観を呈している。ここは2億7000万年以前は海底で、地殻変動で盛り上がり、水の浸食作用で岩の表面が削られて現在の様な尖った形になったという。 そのハイライト李氏篝石林を見学した。8年前に一度訪れたことがあるが、そのときよりも施設は整備されて、多くのサニ族の売り子(雲南省の広さはほぼ日本と同じだが、80パーセントは山林で最高は6740メートル。そこにいろんな少数民族が住んでいる。6パーセントが盆地、昆明はイ族自治区で人口の80パーセント400万のイ族が住む、石林ではその一派サニ族が約50000人)や、国内国外の観光客で賑わっていた。 巨石の基底部に回路が付いていて、小さな路を上下しながら観光をする。途中動物や鳥の形そっくりの奇岩や、今にも落ちかかりそうな石の門を潜る。あちこちに小さな湖や樹林があり、自然の造形の妙に感嘆した。岩の表面に名称や漢詩が刻まれて彩色されている。いずれも雲南の巨匠の書いた文字だという。 一時間程石道を歩いて疲労は激しい。途中各所に土産物の店があって、けばけばしい色の染めや刺繍の製品を売っている。4枚1000円の手提げ袋が8枚1000円に負けるから買わないかという。雲南の女性は誰もが織物や刺繍の技術を持っているそうだ。見事な織物のテーブルクロスを3000円で買った。 秋の石林巨石の先に白い太陽載っている ![]() 麗江は標高2400メートルの高地に広がる盆地で、人口は104万人。周囲を湾曲した長江の上流、金沙江が取り巻き、その北端に標高5590メートルの未踏峰玉竜雪山が聳えている。標高3600メートルの位置に草原の広場があって、アメリカの会社が設置したリフトが途中まで運んでくれる。広場では少数民族の女性達が観光客を相手に踊ったり、一緒に写真を撮ったりする。因みに料金は5元である(一元は15円)。 麗江のナシ族は東巴教を信じている。これはラマ教と民俗宗教が合体した仏教の宗派で、その経典は東巴(トンパ)文字で綴られている。東巴文字は世界で唯一現存する象形文字で、現在日本の学者が10人くらいこの文字の研究に携わっているという。昆明の「雲南民俗村」に、トンパ文字を書く26歳のナシ族の女性(拉赫依政)がいた。彼女は5歳の頃から父親についてトンパ文字を学び、現在では数少なくなった伝承者として活躍している。江沢民国家主席と一緒に写った写真が飾られてあった。 世界文化遺産の「麗江古城街」は市の東端四方街にあり、800年前の元時代の木造の町並みが今に残っている。あまり広くない石畳の道の両側に、広さ5坪〜10坪程のいろんな店が軒を連ねている。玉竜雪山からの清流が小川となって流れ、いくつもの橋が架かって風情を添えている。 1996年、この地方に震度7.5の地震があったが、多くのビルが倒壊したにもかかわらず、この木造建築は壊れることがなかった。 文化遺産の趣はあるけれども、何処も観光客相手の売らんかなの様子が見え見えで、興がそがれた。それでも折角の訪問の記念に、民俗人形や藍染め、干し松茸、トンパ文字の印鑑、シャツなどを求めた。すこぶる安い。 雨の麗江古城を歩く響くむかしの石畳 |
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2002年10月27日 17時39分15秒
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![]() 平成十三年九月二十四日から三十日までの一週間、私は千光寺(臨済宗妙心寺派)旅行団十七名の一員として「中国仏跡巡拝の旅」に発った。寺から福岡空港までチャーターしたバスに乗り、空港から上海(八十五分)を経て北京(百二十五分)へ。添乗員はアショカツワーズ山下宏志さん。出迎えた現地案内人はテキ・エイさん。二十九歳女性、日本の龍谷大学に一年留学、四歳の女の子があるという。夕食後新しく出来た北京北站(駅)(まるで城のように大きく立派な)から二十三時二十四分発の夜行列車で約七時間、山西省の省都大同に着いた。出迎えたのはロ・メイトウさん、三十九歳男性。雲崗賓館に一泊、バスで早速「雲崗石窟」に向かった。 この石窟は武周山南麓に東西約一キロに亘って彫られた巨大な石窟群で、現存する主要石窟は四十五あり、大小五万一千体(十万とも)もの彫像が残る。最大のものは高さ十七メートル、最小のものは0.0二メートル、下部は多く水分の為崩落しているが、上部は未だ創立時の原色を留めている。この石窟は敦煌莫高窟・洛陽竜門石窟と並んで、中国三大石窟と言われる。五世紀の中頃、北魏の文成皇帝の時代に、曇曜という僧の指導の下に開削が始まり、五世紀末に完成したとされる。 ここは近く「世界文化遺産」に指定されるとの事で、広場や施設などを建設中であった。 道の両側に出店が沢山並んでいるが、買い物をしようとすると「こんな人たちは刑務所帰りが多いので、危険だ」とロさんが言う。帰り道土産品店によって、石炭の彫刻を買った。大同の石炭は古くから有名である。 ホテルで食事を済ませ、午後は「華厳寺」の見学。華厳寺は上下あり、上寺は修復中で、下寺だけ大同市博物館として公開されている。遼代(1062)の創建で、山門・鐘鼓楼・祖師堂・禅堂・雲水堂などがある。大同は戦国時代から栄えた古い都で、北魏王朝時代には平城という名の鮮卑族の居城であった。 雲崗石窟真昼の光影を集める仏たち ついで、市の中心部にある「九竜壁」へ向かった。九竜壁は明代洪武二十五年(1392)明太祖朱元璋の第十三子、代王朱桂府前の照壁で、六百余年の歴史を持つ中国最大の九竜壁である。全長四十五.五メートル、高さ八メートル壁厚二.0二メートルもある。壁の前面に長方形の池を配し、九竜が池に映って泳ぐような姿態を見せる。 四十五メートル九竜壁の竜が踊って水に浮く 翌朝ホテルを出て五台山まで二八〇キロの長いバスの旅、道の両側に延々と唐黍畑が続く。やがて山道に入り、幾つもの狼煙台を眺めながら山岳地帯を走る。途中止まった泥造りの農民集落では、人々が手に手に小さな土産品の鈴を持って寄ってきた。テキさんが「中国では未だに都市と農村の格差がひどく、戸籍が別々で、農民の家に生まれると、いくら頭が良くても政府の役人や国営企業の経営者にはなれない」ロさんが「しかし最近では農民の中から運送会社を起こして大成功する者も出てきた。彼らは金で都市の戸籍を買って市民になる」と言う。 やがて五岳の一つ「懸空寺」に立ち寄った。と言っても懸空寺は北魏末に北岳恒山の絶壁に貼り付くように建てられた儒教・仏教・道教の三教信仰の古刹で、断崖に穴を開け梁を差し込んで土台を造って建てられた三〇余りの殿堂楼閣が桟橋で結ばれている場所なので、下からの写真撮影だけにとどまった。売店で古銭や龕仏などを記念に買った。 壁に突き出た懸空寺伽藍写すカメラの手が震う 応県に入り、中国最古の木塔である「仏宮寺釈迦塔」を訪れた。遼の清寧二年(1056)の創建、外見は四層だが実際は八角九層で、各層に仏像を祀ってある。三階から上は柵で塞いであった。 夕刻三.〇八〇メートルの東台を越え、五台山のホテル「錦綉山荘」に着いた。ここは最近出来たホテル、五つ星より上の梅干しホテルだとロさんが冗談を言う。五台山では既に二度ほど雪が降ったそうだ。五台とは東台望海峰・南台錦綉峰・西台桂月峰・北台葉斗峰・中台翠岩峰の五群を言い、文殊菩薩示現の地とされる。明の皇帝が初めにこの地に霊鷲寺を建立して以来、多数の寺院が建てられた。現在でも五十八の寺院と五千を越える殿堂・楼閣・伽藍があり、日本からも多くの名僧が訪れたと言われる。 翌朝から五台山各寺の見学、先ず南山寺(古くは極楽寺)を訪れる。長い参道と108段の石段があるので、覚悟して歩く事を言われていたが、最初のこととてそう苦労なく上がる事が出来た。広場に馬が三頭いて、馬子がそれに乗るようにしっこく勧める。断ると途中まで馬を曳いて就いてきたが、誰も乗らないので、諦めて帰った。南山寺に限らず中国の寺には大抵数宇の殿堂があり、それぞれ仏像を祀ってある。文珠殿・観音殿などあり、中でも大雄宝殿というのがメインである。どの堂にも如来・菩薩・羅漢など所狭しと並び、左右には毘沙門天・広目天・韋駄天・多聞天などの印度の像が並ぶ。 雲南の女が茶を売りに境内に来ていたので、試しに買ってみた。二十元(三百円)で三〇〇グラムほども呉れた。家に帰ってその茶を入れてみたが、あまり出が良くない。しかし何度も使えるようだ。日本茶にくらべて味と香りが浅い。 五台山には四十七寺登る石段百八つ 次に訪れた竜泉寺は、ここも百八の石段がある。登って山門の見事な石の彫刻に目を奪われた。仏具・文具・供物などがリアルに彫られている。竜は九十七匹とか。寺を少し上がると、竜泉がある。二メートル四方くらいの湧泉である。土地の人がポリタンクで水を汲みに来ていた。参道に沢山の露天が出ていて、盛んに声をかける。古い硯と文鎮を買った。 午後は先ず菩薩頂までバスで行き、石段を下って顕通寺・塔院寺へと向かう。菩薩頂は五台山最大のラマ教寺院、チベット仏教の代表的な寺だという。北魏時代孝文帝時代の創建で、清代の康煕帝・乾隆帝が度々訪れた記念の竜の彫刻が壁面を飾っている。顕通寺は五台山の中で最も古い寺院で、五台第一の寺と呼ばれる。最初は大宇霊賢寺と呼ばれ、次に孝文帝が花園寺と名付け、唐則天武后の時に大華厳寺となり、明の太祖の時再建されて大顕通寺となった。寺領は八万平方メートル。境内の中央線上に観音堂・文珠殿・大雄宝殿・無量殿・千体殿・銅殿・蔵経殿の七堂伽藍が並び、左右に鐘楼と鼓楼、東西に楼坊が左右対象に配されている。堂宇の殆どが明・清代に建立された。銅殿は台湾の信者が寄進したという金箔で埋め尽くされている。無量殿の梁のない堂宇のなかに高さ約二丈の木塔がある。 塔院寺はもとは顕通寺の一院であったが、明代に大白塔(釈迦牟尼舎利塔)が修復されてからは独立して塔院寺となった。高さ約六〇メートルの塔には印度のアショカ王の造った舎利容器と文殊髪塔があるという。基盤の無数の摩尼車を廻して歩いた。一度廻せば一巻の経文を読んだ事になると言う。 伽藍見下ろす巨大な塔に仏骨納める塔院寺 翌日、金閣寺に向かう。金閣寺は五台山南台の峰にある寺院で、唐の代宗が不空三蔵(論蔵・経蔵・律蔵を修めた高僧)の願いに応じて「常に仁王護国経及び密厳経を転ず」と言う勅命を下し、国家鎮護の大寺院として建立。銅で造った瓦に金箔を貼り、仏閣にも金箔を貼ったところから金閣寺と命名されたという。隣接して霊仙三蔵の顕彰碑(1987年建立)がコスモスの花の海にひっそりと建っている。霊仙は三蔵を修めた日本人ただ一人の僧である。滋賀県北鈴鹿の霊仙山で修行し、延暦二十三年に最澄・空海・橘逸勢等と遣唐使に従って入唐し、日本に帰ることなく五台山で一生を終えたと言う。 唐黍畑の中を延々とバスは走って、仏光寺に着いた。北魏の孝文帝がある時仏光の瑞祥を見て創建した寺だという。樹齢千二百年の松が堂宇の前に二本聳えている。東大殿の前に「仏頂尊勝陀羅尼経」を刻んだ石の経鐘がある。バスの回りに可愛い子供たちが集まってきた。近くに集落があるらしい。 バスは更に進んで、中国最古の唐代木造建築の南禅寺に向かう。ロさんの説明に、昨年この南禅寺に盗賊が進入して、大仏殿の本尊の脇の下を壊して中の宝物を盗んだ。仏像の中には、教典や宝石や貨幣などが納められているという。ここには十七体の塑像が安置されている。本堂の床に収穫した玉蜀黍が沢山干してあった。テキさんの話では、文化大革命以後中国では仏教が復活したが、信者が少ないので、殆どの寺は僧侶たちの自給自足で運営されている。特別の文化財級の寺は、政府の文化財の指定を受けて保存修理費が出ているそうだが、一般の寺は苦しい経営だそうだ。入口で四元から十元ほどの拝観料を取っている。僧侶は戒律が厳しく、生涯独身を守らなければならない。バスで通り過ぎた五台山の尼寺は、四百人もの尼がいて修行に明け暮れていると言う事である。 古い仏が立つ南禅寺庭に唐黍干してある ここを離れて、高速道を一路河北省の省都石家荘へ向かった。人口六百万の大都会である。戦前は保定が省都だった。石家荘は今は急速な繁栄を続けているらしく、夥しい車の渋滞で、なかなかホテルまで行き着かなかった。ホテルは新しい高層の河北世紀大飯店、ここで一泊して翌朝は近くの河北烈士園に行った。日中戦争や国民党との内戦の遺品が陳列してある。汚れた日の丸とさびた軍刀が無惨な戦争の跡を物語る。特に国民党が八路軍の兵士の首を切ったという押し切り型の刃物が印象的であった。広い公園には高い記念塔が建っていて、毛沢東・江沢民などの刻字が塔の四方に配されている。中国に協力したアメリカ人の記念碑もあった。 郊外へ出て趙州橋に立ち寄った。隋朝大業年間(605-616)李春という石工の設計・監督になる中国で最も古く大きい石橋である。長さ五十.八十二メートル幅九.五メートル。(今は復元され、本物は博物館に陳列)ついで趙州寺へと向かう。七層の趙州塔(柏林寺塔)の台座で記念写真の後寺を見学。寺の和尚はヨーロッパに出張中とのこと。副住職が出てきた。 千三百年趙州橋が川に影置くとこしえに 正定にある隆興寺は、是まで訪れた寺の中でも最大の寺である。隋代の創建で、初めは竜蔵寺と称したが唐代に興隆寺となった。現有面積八二五〇〇平方メートル直線上に天王殿・大覚六師殿・摩尼殿・牌楼門・戒壇・慈氏閣・転輪蔵閣・康煕乾隆二御碑亭・大悲閣・御書楼和集慶閣・弥陀殿・竜泉井亭などの堂宇が並ぶ。各堂に見事な仏像や壁画があるが、暗くて良くは見えない。火災の危険を恐れて照明は使用しないとの事。仕方がないので、写真集を買う事にした。 歩き疲れて入る隆興寺暗い伽藍に竦む足 最後は九層の臨済塔(臨済寺澄霊塔)である。日本の臨済宗の人々の篤志によって建立されたとの事。千光寺閑栖和尚念願の地である。生憎小雨が降り始めたが、一同般若心経を捧げて記念とした。 仰ぐ高さの臨済塔の上に動かぬかちがらす 高速道路を北京まで走り(因みに北京からの高速道路は、空港から市街、大同、石家荘、天津までの四本有るそうだ)二十数階建ての京瑞ホテルについた。夕食は天安門近くの全聚徳の北京ダック。珍しい蠍(さそり)の唐揚げが出た。テキさんも食べたことがないとのことで、おそるおそる毒味、食べない人が多いので、私は三匹食べた。蝗のような感じ。十月一日は国慶節と中秋節が重なって、天安門付近は厳重な警戒態勢であった。迎えのバスが一寸駐車したのに罰金を二百元取られた。毛記念館・大会堂・天安門・古城壁などライトアップ。長安街は幅員五十〜八十メートルの道路が百キロ続いているという。 2001年11月09日 08時39分54秒 |
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![]() 一九九六年一月二十三日から二十八日まで、私は千光寺(大分県杵築市・臨済宗妙心寺派)檀徒二十四名の一員としてタイ國仏教遺跡巡拝の旅に立った。千光寺からバスで福岡空港に着き、タイ国際航空TG−六四九に搭乗して約五時間半で、バンコック国際空港(ドン・ムアン)に到着した。成田空港の何倍もの広さの大きな空港である。二階の歩く歩道から、昨秋に完成したばかりの一階ロビーに降りて、その広さと美しさに目を瞠った。 荷物を持って外へ出ると、いきなり灼け付くような暑さが襲ってきた。三〇度を越している。数時間前日田・玖珠地方の雪の中を通って来たことが嘘のようである。ピサヌロークと言う地方空港へ乗り継ぐので五〇〇米ばかり荷物を持って移動してくれと言う。添乗員と交渉して小型バスを雇うことになった。すでにみんな汗だくである。 国内線で一時間ばかり、ピサヌロークへ着く。ピサヌロークは十四世紀から十八世紀にかけて三十三人の王が統治したアユタヤ王朝の古都で、北部タイの商業・輸送・通信の中心地であり、遺跡スコータイへの観光の入り口の都市である。ここからパイリン・ホテルまで約一時間のバスの旅、バスはいすゞの大型バスである。殆ど一直線の平坦な道を走る。夜に入って道の左右には延々と街路樹が続く。ときどき豆電球に囲まれた場所がある。自動車の展示場らしい。小さく灯りがついているのは、仏像を祀った場所である。バスは日本と同じ右ハンドルで、猛烈なスピードで飛ばす。一時間あまりでホテルに着いた。日本の天皇・皇后が泊まったというホテルで、ロビーにその写真が飾られていた。四階建て二百四十三室の大きなホテルで、中央に五〇メートルのプールが青々と水をたたえている。これでもBクラスだそうだ。早速初めてのタイ料理の夕食を味わう。昨年マレーシアで食べたのと殆ど同じ味である。胡椒の利いた料理が熱さに疲れた口によく合う。給仕のタイ人の男女の若者にボールペンをやって写真を撮った。ノートに名前を書いてもらう。タイ文字はローマ字の先端に小さな丸がついていて、その上下に波形の母音がついている。三十三の音があるそうで、外国人にはその微妙な発音の違いを聞き分けるのは難しいと、現地ガイドの話である。 翌朝数人でホテルの外に出た。ホテルの庭には象に囲まれたブッダの祠が飾ってある。タイ国では国民の九十五%以上が熱心な仏教信者だという。それも日本と違ってスリランカ直輸入の小乗仏教である。仏は釈迦ただ一人、たまにマイトレーヤ(弥勒菩薩)も祀るが、それも釈迦の生まれ変わりだそうだ。 ホテル前の道路を渡る。ここはスコータイの郊外で、閑散としている。小店で米の粉をふかしたものを植物の葉に巻いた粽のようなものを買ってみた。二バーツ(一バーツが四円)と言うあまりの安さにビックリ、椰子の実が三バーツ、ウィスキーが四十バーツ、店の台の上に一升瓶にはいった赤い液体が置いてあるのでコカ・コーラかと思っていると、バタバタと単車がやってきて、ガソリンタンクを開けて、その液体をそそぎ込んだ。ガソリンであった。ガソリンがリッター三十円とのこと。 小店の隣は散髪屋さん、壁にベタベタとヌード写真が貼ってある。客と主人とをヌードをバックに撮らせてもらった。店で本物のコカ・コーラを飲む。コーラは世界中どの都市にも売られている。アメリカの巨大な資本の力に驚かされる。百メートルほど足を延ばして、骨董品の店に行く。香入れと鼈甲の亀の壁掛けを買う、千五百円ほど。立派な壺がたくさんあったが割れる危険があるので買って帰れない。 ホテルに帰って、スコータイ遺跡の見学に向かう。スコータイは十三世紀にタイ最初の独立王国が生まれた所、「幸福の夜明け」を意味する地名である。スコータイ史跡公園は南北二キロ、東西一.六キロの広大な都市遺跡で、王宮初め数十カ所のワット(寺院)が城壁の内外に点在する。主要な数カ所を回ることになる。まず城外のワット・スリ・チュムに着いた。遺跡の中央に十五メートルの巨大なブッダの座像がある。黒と白のまだらな顔や手足が異様である。長い年月で塗りが剥げたものらしい。入り口で記念写真を撮り、ブッダの前で般若心経を晃山和尚の先導で唱える。それから遺構を見て回った。現地案内人のモンコルさんは二十代の若者、一年半で日本語をマスターして、チェンマイの旅行社に勤めているという。彼の話によると、タイでは嘗ては成人すると必ず仏門にいることになっていたが、今では僧侶の数が増えすぎたため、抽籤で決めているそうだ。軍隊にはいるのも同じで、籤に当たるかどうかで兵役が義務づけられたり、免除されたりする。「今は平和ですから」と、モンコルさんは笑った。黒い顔に白い歯が印象的である。売店で石の象を二つ買った。胴体の中に子象が填め込まれている。どうして作ったものか。そう言えば中国でも同じような竜の彫り物の中に別の竜が彫られていた。特に竜の玉は何重にも中が削られて回るようになっている不思議な石であった。 観光案内所で、遺跡の全体の説明を受け、外に出ると、白人の観光客の一団が馬車で通っていった。遺跡の中はバスでは通れないそうだ。バスの重みで遺跡が崩れるのを防ぐためである。我々は電車風の乗り物で回ることになった。運転手と車掌は若い女、止まる度にアイスクリームを食べる。アイスクリーム屋はオートバイの前に大きな箱を積んでいる。羨ましいけれども日本人には禁物、忽ち下痢してしまうとのこと。 ワット・スリ・スラ、ワット・スリ・サワイと回ってワット・マハタートに着く。ここは代々の王侯に擁護された重要・最大のワット、百八十五の仏塔や十八の堂が二百メートル四方に点在している。ちょうどシンガポールのテレビ局がタイガービールのコマーシャルの撮影に来ていて、高いところに上がって撮影していた。仏塔の高さは六十数メートルに及ぶという。赤い煉瓦のようなものを積み重ねて作られている。十三世紀の建造物とは思えない堅牢な塔である。どのようにして建てたものか。王の絶大な権力と、仏教信者の異様な執念の結晶である。一日の見学を終えてホテルへ帰る途中、晃山和尚の希望で、一般的な庶民の寺院を見ることになった。路傍の遺跡の前に華やかな門があり、二十メートルほどはいると、寺があった。木造の本堂では、ちょうど葬式が行われているようで中に入れなかったが、十人ほどの縁者が集まって食事や祈りをしているところであった。我々は別棟の高床式住宅の堂に上がって経文を捧げた。すぐ隣に僧たちの日常生活の部屋が並んでいる。茶色の衣をつけた僧たちが静かに動いていた。衣の色による階級の差はないそうである。本堂の向かいに立派な鐘楼と三階立ての客室が立っている。裏手には数基の仏舎利塔が建っていて、数人の僧が掃除をしていた。その奥に焼き場がある。けばけばしい色の建物である。タイでは墓はなく、人が死ぬと粉にして仏塔に納めるのだそうだ。 ホテルを朝五時に出発して、二百八十キロ先のアユタヤ遺跡へ向かう。道の沿線には所々に集落がある以外は、左右とも広大な稲田が広がっている。米は二毛作で、右手に青田、左手に刈田とはっきり分けて作られている。序でにタイの米の味についての感想は、機内食の時から実に旨い。日本に輸入して評判の悪かったタイ米は古米だそうだ。もっともタイ人はあのバサバサした方を好むのだそうだが、我々に出されたタイ米はおいしいものであった。 行く先何処までも平野が続く。途中一カ所だけ雲の上に聳えている険しい山の姿を見た。バスは二カ所で給油をした。スタンドはどれも大きく広い、マートを併設しているのも多い。マートでタイの果物、マンゴスチン・パパイヤ・メロン・バナナ・椰子などを味わう。ちょっと生臭いが味はよい。果物の缶詰が七十五バーツとやすい。 バスに乗り飽きた頃、やっとアユタヤに着いた。昼食はレストランでタイ風の麺料理を味わう。調味料を入れなければ殆ど味のないラーメンである。暑い国だから辛いものが多い。辛さは暑さを和らげてくれる。 アユタヤ遺跡は、首都バンコックの北約六十キロ、アユタヤ王朝のプラサート・トォン王によって建てられた王宮と寺院群で、千三百五十年から千七百六十七年の四百十七年間三十三代の王が支配したが、ビルマ軍の進入で廃墟と化した。ワット・プラシー・サンペットと言う巨大な王宮付属寺院には、ビルマ(ミャンマー)軍によって首を落とされた石の仏像が何百体も転がっている。仏像の中に金や宝石が入っていたらしい。ビルマ兵は先を争って仏像や仏塔を破壊した。一つの仏像の首が木の根に巻かれて残っている。端正な表情の仏である。 次いで、プラモンコン・ポピットに入る。この寺もビルマ軍に破壊されたが、一九五六年に再建されたという。内部には十六世紀に作られた十二メートルのブロンズの仏像が納められている。何バーツかの賽銭を上げると、腕に赤い紐のお守りを付けてくれた。参拝はそこそこに土産物店へ急ぐ、まず四バーツで冷たい椰子の汁を飲む。サファイヤの上にコインを置いて上から金槌で叩くとコインに宝石が食い込んだ。本物だろうと記念に買う。友人への土産にタイ製のお茶セットを買った。円で七千円と言うのを六千円に値切って買う、この辺りの店の売り子は上手に日本語を話す。そう言えば、観光客の大半は日本人のようである。 アユタヤと言えば、嘗て山田長政が千六百十年頃、千五百人の日本人の頭領として王朝に仕え、軍功により爵位を得て活躍したが、王位継承の争いに巻き込まれ、この地に客死した。今は日本人町跡を示す石碑が一つヒッソリと公園の中に建っている。 次いで、アユタヤ朝最古の寺院ワット・ヤイ・チャイ・モンコルへと向かう。一五九二年ビルマ軍との戦いに勝利した記念に、ウートン王が建てたものという。ビルマ戦の壁画や、先代の僧の蝋人形が人目を引く。庭には二十メートルもあろうかと思われる白い涅槃像が横たわっている。ここでまた心経を捧げた。ワット・ロカヤ・スタには全長二十八メートルもの涅槃像があるというが、そこは省略することにした。 首都バンコックまでは南へ約八十キロ、人口六百万。近づくにつれて六車線の道は、次第に車の渋滞が始まった。世界でエジプトのカイロ、メキシコのメキシコシテイそれにバンコックが三大渋滞地区だという。見るとどの車も立派なものばかり、ベンツ・B/M・ワーゲン・ボルボからトヨタ・日産・ホンダなど新しい車ばかりが走っている。軽四は見かけない。案内人に聞くと、車の価格は日本の三倍もするのだそうだ。ただ車検がないから、その分安くつくという。しかし収入が日本の三分の一から五分の一というこの国で、どうしてこんな立派な車がもてるのかは、依然として謎である。 首都高速道路に入ると、あちこちに警察官が立って交通整理をしている。タイでは警察官と士官学校の軍人になるのが若者のあこがれらしい。士官学校にはタイ人でしかも成績優秀でなければはいれないという。入れば軍人か政治家になって将来が約束されている。警察官は給料は十万円位だが、賄賂が月に百万円ほどもあるのだそうだ。交通整理はその賄賂をもらうための手段だとか、そんなことがわかっていてなぜ不正がまかり通るのか聞くと、政治を動かしているのが一部の大金持ちと、軍人と警察官上がりの者が占めているので、どうにもならないそうだ。日本人で現地の人と結婚しているという八重子さんは、しきりに歯がゆがっていた。 とにかくものすごい交通ラッシュである。その中をバスは這うように動いて、やっと中心部のアンバサダ・バンコック・ホテルに着いた。インド人経営のこのホテルは、九百四十九室の大規模ホテルで、レストランやショップも併設されている。だが一同くたびれ果ててそこそこに部屋に入った。 翌朝、バンコック市内を眺めながら、チャオプラヤ河へとむかう。タイ語で河はメナム、日本人がメナム河というのは間違いで、それだと河河ということになる。メナム・チャオプラヤは南北に流れる大河で、運河に入り込むと、有名な水上マーケットがある。バンコックとは天使の都の意、タイとは自由の地の意味である。水上には小舟を操って土産品や果物や日用品を売りつけてくる、我々の船の横に取り付いて執拗に品物を差し出す。根負けしてマンゴスチンを買った。ちょっと酸っぱくて甘い。船は外人専用の土産物店へ着ける。中は相変わらず日本人ばかり、シャッターを押してくれと観光客から頼まれたので、どこからかと尋ねると、岐阜だという。 運河を行くと、百メートルぐらいごとに、立派な建物が見える。全て寺院である。寺院の間を縫って、河沿いのワット・アルン(暁の寺)へ着く。トンブリ王朝のタクシン王が建てたこの寺には、高さ六十七メートルの大塔が聳えている。塔の周りは美しいタイルの守護神や模様で飾られ、明け方にはこの世のものとは思えない華麗で荘厳な姿をチャオプラヤ河に映すという。塔の中腹まで登って、バンコックの町を眺め、土産物の店に行く。象や亀のキイーホルダー三十個千円。次いで、胴回り三十センチほどもある錦蛇を首に巻いて記念写真を撮る。四十バーツ。大きな荷物を担いだようなズシンとした重みを感じた。 川を渡って、王宮寺院ワット・プラケオ(エメラルド寺院)へはいる。千七百八十二年に建てられ、ラーマ王により一代おきに修復されているというこの寺は、一キロ四方もの広大な敷地の中に、紀元前四十三年、北インドから運ばれたといわれる高さ六十六センチのエメラルド仏を中心に二十あまりの仏塔や伽藍が配置され、全て金や宝石で飾られている。回廊の壁に描かれたラーマキエン物語は圧巻。その豪華さは目を奪われるばかりで、使われている何百キロもの黄金の価値を考えると気の遠くなる数字になる。中に王宮や迎賓館もあって、着剣の番兵が身じろぎもせずに立っている。 すぐ隣にワット・ポー(涅槃仏寺)がある。四十九メートルの黄金の釈迦涅槃仏があり、いくつものカラフルな仏塔が天を摩している。千七百九十三年にラーマ一世が建てたもので、ワット・プラオケよりさらに広い敷地を持つ。学校や図書館もありタイ医学の総本山として知られている。釈迦の足の裏に黒地や白地の真珠母貝の螺鈿細工の須弥山や供物の模様が描かれている。 仏教遺跡の見学を終えて、感動と同時にこれほどの施設の建設にかり出された民衆の労苦は如何ばかりであったろうかと思うと、我が身に置き換えて慄然とする。ここでタイの仏教と王家について触れておきたい。タイの仏教は日本の「大乗仏教」と違って「小乗仏教」または「上座部仏教」といわれるもので、インド・スリランカを経てミヤンマー・ラオス・カンボジア・タイなどに広まった。「欲望を断って悟りに至る」という釈迦の教えを信奉する点は同じだが、戒律の厳しいことにおいては日本と大きく違っている。五戒(殺すな、盗むな、姦淫するな、嘘をつくな、酒を飲むな)を厳しく守ることは勿論、僧侶は正午以後は食事をすること女に触れることも禁じられ、まして結婚などは生涯不可能、女性は僧侶になることが出来ない(ただし修行することは可能)らしい。僧侶は民衆からの「タムブン」(喜捨をして徳を積み、来世を願う)を受ける。それも要求するのでなく相手の方がタムブンさせてもらうのだそうだ。朝早くから茶色の衣を着けた裸足の僧侶の一団が歩いているのを何度も見かけた。托鉢の僧に跪いて食べ物を差し出している人々の姿も私の目には異様に映った。「宗教は恐ろしいものだ、二千年もの時を経ても、これほど人間の心を左右してしまうとは………」。 タイのラタナコーシン王朝は、千七百八十二年のラーマ一世から現国王ラーマ九世プーミポンに至っている。プーミポンは在位五十年だそうで、街路樹のあちこちに国王の写真が貼られていた。恐らく各家々には戦前の日本のように床の間にご真影が飾られていることだろう。最初に行ったピサヌローク空港のロビーには現国王の母である皇太后の霊室が飾ってあった。九十余歳でスイスに避暑中に死んだのだそうだ。ワット・プラケオにも皇太后の華やかな喪室が造られていた。タイは十三世紀以後は戦争の経験もなく、植民地になることもなかったので、王室への畏敬が未だに続いているという。千九百九十二年の国軍クーデターの時も、国王の鶴の一声で忽ち沈静化したことは記憶に新しい。 ほんの数日のタイ旅行だったが、遺跡と民衆の生活をかいま見て、「いくら遺産がすばらしく、生活が安定していても、このような絶対者の支配する国には住みたくないものだ」と言うのが偽りのない私の感想である。 2001年11月06日 14時11分55秒 |
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