アントニ・ガウディの合理性








「建築家は、曖昧な用語を用いて話すべきではない」

アントニ・ガウディ










バルセロナを上空から写した写真がある。直線状に区切られた扁平な街 並みに、その大地からまるで産み出たように(生き物の様なという比喩は良< 使われる)サグラダ・ファミリア贖罪聖堂が聳え立っている。

そのフォルムを限定して観れば、畏怖の念を抱かせるような幻想的な作りで、 未だ完成されていないその規模からしても、当時の建築様式から見れば常識 を遥に超えるものであったろうが、街全体の概観を崩すような違和感は全く無い。むしろサグラダ・ファミリアのないバルセロナの風景を想像する方が難しい。

ガウディにとって、建築に於いて最も重要なのは「場所」であった。彼は生涯カタルーニャの地から離れる事はなく(それゆえ日本近代建築への影響が無かったのが悔やまれる)晩年はサグラダ・ファミリアの中で「あらゆる芸術」に囲まれて過ごしている。もちろん彼にとっての「場所」はバルセロナであったが、重要なのは、あらゆる「場所」の中で建築物がいかにあるべきかを熟考する事であった。彼はその土地で古くから使われているレンガや石を素材として選んだ。サグラダ・ファミリアの外観が違和感なく街に溶け込んで見えるのはそこに理由がある。(レンガや石は圧縮には強いが、引っ張りや曲げには弱いという特色から、ガウディは新たな手法で、最もシンプルに放物線を描くアーチを築く。詳しくは後で述べる)
第二に重要と考えられたのは「規模」であった。宗教建築においてサグラダ・ファミリアに匹敵する建造物はいまだ嘗てないが、何故ガウディは「規模」に拘ったのだろうか?

「場所」が建築にとって重要だという見解は、それに携わる人々にとっては、当然の事になっている。建築にとっての「場所」に関する批評も多く記されている。しかし、ガウディに関する多数の著書の中で、「規模」に関して触れているものは少ない。すべてに目を通したわけではないが、手に入るものの中にはない。少なくとも「規模」に関する直接的な専門書はない。しかし、サグラダ・ファミリアにしろ、ニューヨークに建築予定だった(まるでスペースシャトルを連想させるような)ホテル建築のデッサンにしろ、今では超高層ビルディングが珍しくない時代になったとはいえ、常軌を逸している。その異様さにグロテスクな形容や、逆に神秘主義的崇拝の感嘆を漏らす記述はあれど、論理的な「規模」に関する解明がなされないのは何故だろうか?

ガウディが建築家として世に出た頃のスペインは、産業革命によって、町が活気付いていた時代でもあった。1892年に株価が暴落し、1902年には抑圧政策によってアナーキスト活動が活発になり、各所でテロが頻発しようとも、時代は近代を完成させつつあった。
そういった時代背景の中で、「積極的な合理主義」は建築業界にも及び、鉄骨造の建築物が多く建てられた。ル・コルビュジエはその近代を代表する建築家で、日本にも多くの影響を及ぼしたのは周知の事実だ。
ガウディは彼を「ファシスト」や「白い直角の箱」と批判したが、当のガウディは当時のスペインの人々からは、グロテスクな建築家と称され、近代が完成されるとともに忘れられる存在になっていった。

彼の建築の特色の一つでもある独特な曲線は、有名だが、実は建築の中では彼の取った方法の一つでもある放物線は、幾何学的構造上、合理的ではあるが、美しくないと評価は低い。ガウディのフニクラ実験は幾何学の懸垂線を利用している。両端を固定した針金の幾つかの任意の点(P1,P2,P3,P4,,,,) に重しを付けると、その連結部分の移動によって様々に形を変えることが出来る。幾何学でこれを「自己相似性」といい、同じ形を、拡大、縮小し、それを見ているに過ぎない。さてこの連結部分を、極限まで短くすると、一つの曲線となる。これを懸垂線といい、微分式
y(x)=1/acosh(a(x-x0))
で表される。この他この式から微分で得られるコサインハイパボッリクやサインハイパボッリクを総して双曲線関数と呼ぶが、ガウディは一貫して偏執的にこの曲線に拘っている。ここで得られた放物線は逆さまにされ、アーチ型の造形が出来上がる。放物線は張力によってその均衡を保っているが、アーチは圧縮によって均衡を保つことになる。放物線を逆さにすることでベクトルの矢印は変わろうとも形は変わらない。アーチの長さ方向への分力として圧縮力は受けるのである。
サグラダ・ファミリアはこの双曲線関数の応力として成り立っている。何故ガウディは建築にとって美しくないといわれる放物線を選んだのか。建築にレンガを使用するのはスペインが発祥と言われる。レンガや石は前近代的なもので、近代建築にはそぐわない。しかし、ガウディの方法を取れば、前近代的な素材によって、巨大な建築物を建造することが可能になる。「場所」に関してガウディは熟考することが重要なのだと考えていた。それは「自然が書物」だと語ったガウディが自然からその幾何学的構造の合理性を読み取ったからというばかりではない。ガウディは語る。
熟考し行動する。どちらか一つだけでは完全なものは何も生み出せない」彼はどのように行動したのか。
確かに彼は一本の樹木から、外部に支えられることもなく、その内部からの均衡に建築の意思を宿している。しかし、サグラダ・ファミリアは自然ではない。彼は近代様式に悉く抗っている。自然さえも凌駕している。いったいそれは何処から来るのか。それはもはや彼の気質によるものだとしか言いようがない。確かに彼の理論は合理的にすべてが出来上がっている。それは近代の機能主義における合理性とは違い、構造内部におけるその本質によるところの合理性だ。しかし彼の合理性は、原理的な石杖としてフラクタルに建造物の全てに宿っているが、表層的な部分を見るとなんとも非合理に見えるのである。
彼の合理性は細部に宿っている。

(建造物に曲線を用いることで、外部と内部の連続性を無化し、それはまるでメビウスの輪のようにあるパラドクスに我々を誘う。それは「場所」を脱構築し、彼の建築物が近代の主流になり得なかったとしても、近代を突き抜けている。)