長い不妊治療


☆きら☆が結婚した頃は、不妊治療は一般的なものではなかったと思われる。(田舎で生活していたからだろうか?)

☆きら☆たち夫婦はのんびりした性格なのか、あまり切羽詰らなかったので、数年、本格的な治療には通わなかった。
また、実家の母の長い闘病生活、舅・姑の重圧、夫の職場の奥様会という存在の恐さ。…なかなか、子宝に授からない苦しさ。…などが重なり、☆きら☆は長いこと、夫との離婚を考えていた。

その間、自立を目指しワープロ(パソコンはとても高価な時代だった。)や医療事務の資格を取った。…資格を生かし仕事をしようとした矢先に、5年半住み慣れた、お互いの実家からはかけ離れた海岸沿いの町から、現在暮らしている町へ転勤になった。…この町は、夫の実家のある場所でもあった。(T_T)

結婚、8年目くらいにやっと重い腰を上げて、有名な病院で不妊の治療を始めることにした。…お医者様は「あなたは異常ありません。ご主人の検査をしましょう。」…そして、男性不妊と診断されてしまった。

不妊の原因が分かった頃、舅にとんでもない目に合わされることになった。…(それは、別のページに詳しく掲載することにしました。)

不妊治療、初期

お医者様から治療の方針が話された。「きちんと通院すれば、必ず子供は出来る夫婦なので、AIHから始めましょう。」…AIH=配偶者人工授精の始まりだった。

排卵日の10日ほど前から排卵を誘発する注射に毎日通院することになる。…医療事務の会社からの派遣で受付をしていた☆きら☆は、子作りのために専業主婦に戻る決意をした。

当時はAIHと言っても大変な治療と思われていた時代だった。毎朝目覚めるとスグに基礎体温をを測るのが10年に及ぶ日課になった。

生理開始後3日目くらいから注射に通う。1週間ほど注射をすると、チクチク卵巣が痛くなってくる。排卵日の直前に病院に行き、人工授精をして30分ほど休憩をして家に帰る。…という繰り返しだった。…生理が来るたびに、気持ちが沈んだ。

毎月、同じことの繰り返しに気持ちは焦った。半年が過ぎた頃、お医者様に自分たち夫婦は体外受精は出来ないのかを聞いてみた。…その頃、体外受精は大変危険な治療と考えられていたので、よほどのことでもない限り踏み切れない。…と、AIHの治療を継続されてしまった。

それでも妊娠は出来なかった。1年半が過ぎて、AHIを10回ほどやった頃、今度はお医者様の方から、「最近、体外受精の危険度が少なくなり、日帰りで治療できるようになった。そちらにしよう。」と言われた。

さらに、激しい戦いの始まりだった。


不妊治療、中期…体外受精の日々
お医者様から、「IVF−ET…体外受精をしよう。」…と説明があった。
まず、生理開始日からスプレキュアという点鼻薬を使う。…生理3、4日目から毎日、排卵誘発剤の注射に通う。10日から2週間後、卵子が調度良い大きさに育っているか、エコー(超音波検査)で確認をする。スプレキュアの点鼻をやめて、2日後に採卵をする。

☆きら☆は循環器系が弱く、貧血気味だったので、半年に1度の割合で体外受精に望んだ。

採 卵
採卵は日帰りの簡単な手術のようなものだった。左腕に血圧計をつけて、右腕には抗生物質の点滴をする。局部麻酔をして卵巣に針を指して卵子を取り出す。
採卵の日は、いつも緊張しすぎていたのか、考えられないほど血圧が上昇した。また、麻酔の注射もとても痛かったので、分かってはいても毎回麻酔のたびに「キャー!」と悲鳴が出た。

毎回、8コ〜10コ採卵は出来た。

受 精
始めは、自然受精で受精させた。…けれど、受精率はとても低いものだった。10コ採卵して2コ〜3コ受精するのがやっとだった。受精の確認を電話でしてから、ET(胚移植)に望む。…毎回、電話をして受精したことを喜び、個数を聞いてはガッカリした。

胚移植(ET)
ETの日は、大変だった。お腹の上からエコーを使うので、移植の2、3時間前から膀胱におしっこを溜めなくてはならなかった。尿量が足りないと、生理食塩水を膀胱に足された。…エコーでお腹を押さえられながら、子宮に受精卵をもどされた。
最後に、尿道にホースを入れられて、おしっこをぬかれる。…2、3時間うつ伏せの姿勢で休憩し、帰宅した。

AIHの時でさえ、診察台では惨めな思いだったが、ホースからおしっこを出されているときほど惨めな気持ちになったことは無かった。

2週間、家で静かに過ごし、判定する。…毎回、わずかな望みにドキドキして尿検査をしては、マイナス判定となり、悲しい思いで帰宅したのだった。

副作用
採卵のために、排卵誘発剤を打つとまれに腹水が溜まってしまう体質の人がいるらしい。☆きら☆はそのタイプだった。…卵巣は複数の卵子でパンパン。…腹膜に水がたまってお腹がポンポンに腫れた。
採卵日が近づくと、歩くのもやっと、仰向けに寝ると息も出来ないほど卵巣が痛かった。さらに、腹水が溜まってお腹が痛くて歩けなくなり、注射器で腹水を抜いてもらったこともあった。
スプレキュアの副作用は更年期障害に似た症状が出ること。真冬でもダラダラ汗が出たり、頭痛や吐き気がした。

3年も頑張っても、結果が出なかった。また、お医者様が新しい治療法が出来たのでその方法でIVFをしよう。…と言い出した。


新しい治療…流産…PTSD
新しい治療とは言っても、体外受精であることに変わりは無かった。ただ、採卵した後すぐに胚移植するのではなく、凍結受精卵を保存して、2、3ヵ月後にお腹に受精卵が着床しやすくなるようなホルモン剤の入ったシールを貼って胚移植をするものだった。

その治療をすることになり、副作用の少ない排卵誘発剤に変えた時に、21コも採卵できた。…その時の卵巣や、お腹の痛みは並大抵のことではなかった思い出がある。
そのうち、7コ受精出来た。全部凍結して、数ヵ月後3コ胚移植をした。…2週間後尿検査をすると、ナント妊娠していた。…当然のことに天にも昇る気持ちで、毎日を過ごした。毎週、血液検査とエコーの検査に通った。…本当に夫婦そろって幸せいっぱいの気持ちだった。順調に、胎盤が見えて心臓が見えるといわれていた。(双子だった。)

12週目の検査に行くと、突然お医者様が「子供が育っていない。稽留流産の恐れがある。もう1週様子を見てそうはしよう。」と言う。…にわかには信じられなかった。家に帰って夫に電話をした。…夫もまた信じられないと、別の病院で診てもらうことにしたが、やはり、流産は流産。早く、そうはするべきと促された。

そうはの日まで、夫婦2人で泣きあかした。

当日、全身麻酔をして手術室へ。…夫は☆きら☆の全身麻酔が長い間、覚めないことと死人のような顔色を見て何でも良いから、☆きら☆を助けて欲しいと神頼みをしたそうだ。(^^ゞ

とうとう☆きら☆は、まともに生活を出来なくなってしまった。…夫に頼んでお寺に水子供養に行ったり、不眠症に陥ったり、喘息の発作を起こしたりするようになってしまった。

流産と舅・姑の無神経な、圧力で☆きら☆は電話が鳴ると手が震えるようになり、動悸が激しくなってしまった。…かつて働いていた精神化で診察をしてもらった。…お医者様の言葉をそのまま書いてみる。

「長い間の舅・姑のイジメによるPTSD。…不妊治療と流産からの気力、体力の低下から来るパニック障害…と診断します。…ウチで出す薬は、かなり強いので、僕の大学の後輩の心療内科に通いなさい。
そこで、精神も、循環器も両方直しなさい。そこには、ウチのクリニックにも来ているカウンセラーもいるので、カウンセリングも受けられるよ。」


その半年後、夫は「最果ての地」と呼ばれる寂しい町へ転勤した。


不妊治療、後期…転院…最後の望みで再びもとの病院へ
夫の転勤で、不妊治療をするかどうかを迷った。夫は流産はしても、妊娠できたことで望みを持ってしまったようだった。…ただ、今まで通った病院は通院が無理になってしまった。

☆きら☆の実家のある町にも名医がいるというので、その病院で治療をすることにした。…2、3ヶ月単位で最果ての地の自宅と実家での生活を繰り返すことになってしまった。
そこのお医者様はかなり自信を持っていた。そこでは、体外受精を3回した。…採卵の時がもっと大変だった。…そこの病院は、採卵時は全身麻酔だった。
夕方、空腹にさせて採卵に望んだ。…3回とも全身麻酔で、具合が悪くなった。麻酔から覚めると強い頭痛と吐き気がした。(胃には何も入っていないのに、吐いてしまった。)
そのたびに、夫は心配しなかなか☆きら☆から離れられなかったそうだ。お医者様に促されて実家に戻り、☆きら☆の母に、また苦しそうだった。…と深夜まで話し込んだそうだ。…☆きら☆は1泊して実家に帰宅した。
胚移植の治療も夜だったので、1泊して帰宅した。…3回治療をして、2回妊娠反応が出たものの数日すると出血して流産をしてしまった。…もう、クタクタだった。

3年後、また、転勤。今住む町に戻ってきた。…前通っていた病院には凍結受精卵が残っていた。
学習能力が無いのか?…☆きら☆はしつこい性格なのか?…諦めきれずに、前の病院に足が向いた。

4年前の凍結受精卵を移植したが、当然マイナス判定だった。…

最後の最後、自然排卵で顕微授精胚盤胞胚移植…という治療を進められて、治療の限界とされる年齢まで治療を引きずってしまった。

3回治療したが、自然排卵なのに卵子は2、3コ採卵できた。顕微授精をして必ず胚盤胞が出来てくれた。期待を持って胚移植をしたが、時すでに遅し。…1度流産し、2度はマイナスだった。

結局、不妊治療に11年という長い年月を費やし、年齢の限界ということで、諦める決心がついたのだった。
その、長い長い治療の間、お医者様は「あと一歩だから頑張ろう。」…と言い続けてくれた。「あと一歩。」…その言葉は魔法のように☆きら☆を治療にのめり込ませた。

その、「あと一歩」のために、どれだけ辛い涙を流したことだろう。…また、治療費もただならない金額だった。春に、医療費控除の申請を何年続けたことだろうか?

最後に、お医者様に「ウチの病院では、45歳を過ぎたら治療に成功した人はいないけれど、あなたは実年齢より若いので、治療を続けたらどうか?」と聞かれたが、「もう、気力がありません。」とやめる決意をした。

それでも、お医者様は「AIHをしたらどうか?」と言っている。…「先生、ありがとう。今まで治療を続けたことはムダじゃありません。むしろ、夫婦の絆も強くなったし、この頑張りは自分の誇りです。」…と笑って診察室を出た。…なぜか、後から後から涙が流れた。

看護師長さんが、肩を抱き涙を拭いてくれた。…その手のぬくもりは今でも、右の肩に残っている気がするのだった。