(12.1.28)突撃レポート その6 戦国土佐の光と影 山内家と長宗我部家を歩く 土佐探訪記 長宗我部元親。最近は某ゲームの影響で海賊の棟梁みたいなイメージもあるかもしれないが個人的に妙に好きな戦国武将である。 なので機会があれば岡豊城にも行ってみたいと思っていた。 先日、高知競馬で佐々原藍子誕生日特別を行う際に縁のある場所に行きたいと思い、ちょっと無茶があるも桂浜から高知競馬場まで行く間に歩いて回る事にした。 1:光〜高知城と山内一豊 はりまや橋のバスターミナルで東京からの高速バスを降り、同行したF氏と一緒に市電に乗って高知城に向かった。 ・高知城元親の四男、長宗我部盛親が関が原の合戦で西軍に与して改易(所領没収)をされた後に土佐へ転入した山内一豊が既にあった城を改築して建築した城。 城の入口近くに板垣退助の銅像が迎えてくれた。 ・板垣退助像
と、像を見てぼーっとしていたらガイドのおばちゃんが板垣退助についての情報を紹介してくれた。 台座の字を書いたのがかの吉田茂とか(桂浜の坂本竜馬像の台座の字もそうだって言ってた)、先祖が甲斐武田家の板垣信方の血筋とか、元の苗字は乾だとか教えてくれた。 さすがはガイドのプロ。説明も的確で素晴らしかった。 それから石段を上がり、お千代の銅像を見てから天守を上り、せっかくなので懐徳館(本丸御殿・天守)も見る事にした。 中には「功名が辻」でお千代を演じた仲間由紀恵の着ていた着物とか欄間の彫り物とかが展示され、天守の最上段から見る市街の光景は360度眺める事が出来るいい眺めであった。 ・仲間由紀恵が着ていた衣装。
・天守からの眺め。
遠くには国体を契機に作られた龍馬スタジアムも見える。以前は鏡川も眺める事が出来たそうだ(天守にいたガイドさん曰く)。 2:影〜浦戸城から秦神社へ 長宗我部家の悲運 その後、はりまや橋まで再び戻り、そこからバスで桂浜まで向かう。 桂浜と言えばもちろん坂本龍馬像である。これは説明不要。海を臨む丘の上で海を見つめて聳えたつ龍馬像は説明不要のインパクトを与えてくれる。 そこから見る桂浜の風景も素晴らしい。 波が高く風も強かったがその荒々しさも何か魅力のように感じてしまった。 ・龍馬像
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・龍馬像のある丘から見る桂浜
一通り見物をした後、歩いて元親公の墓所まで行くことにする。 途中、浦戸城の近くを歩き(元親の居城の一つであり後に山内家と長宗我部家の旧臣とが対立した『浦戸一揆』の舞台にもなった。事件以降、旧臣らに対しては強い弾圧を敷いていく事となる)、海岸線に面したところにある一両具足供養の碑を見てから長宗我部元親の墓所に向かった。 「長宗我部元親の墓」と書かれた案内板に沿って狭い道を入っていくと手前に愛馬の塚があり、その先に墓所への石段が見えた。 案内板の先にある石段を登った先に元親公は眠っておられた。 ・長宗我部元親の墓
四国の覇者の墓としてはなんとも寂しげな佇まいではないか。山の中腹にありそこから静かに海を見つめているのだろうか。 四国を制覇する頃には既に天下の趨勢は豊臣秀吉の下に集まりつつあり、それに抵抗するも豊臣軍の大攻勢の前に完敗し土佐一国に封じられたという歴史もある。 確かに某戦国SLGで長宗我部家で始めると四国を制覇する頃には九州は大友か島津、中国は毛利、近畿は三好勢らに制覇され、そこからチクチクと攻められてなかなかにっちもさっちもいかない状態になる。 そう考えても四国を制してもそこから先に進むのには時勢も土地柄的にも厳しかったのだろう。島国というところもあるし。 後に旧臣の末裔の方らや地元の方々のご尽力でここまで整備されたのだろう。頭が下がる。 そこから続いて秦神社・雪蹊寺に行く。 秦神社は元親公を祭った神社で元々は隣にある雪蹊寺が長宗我部家の菩提寺になっていはいたが明治維新直後の廃仏毀釈の嵐の中でなんと廃寺となってしまったのだった。 これを憂いた元親の弟の親房の子孫と称する島弥九郎与助らが働きかけて神社の創建を請願して許可を貰い創建に至った。(参照:秦神社由緒記) ・秦神社外観
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隣の菩提寺でもある雪蹊寺には元親公の嫡男信親の墓もある。 元親も跡継ぎとして認めていた信親であったが、戸次川の戦いで若くして戦死。享年22だった。 ・長宗我部信親墓所
こうして歩いてみると市街から少し離れた場所にどれもあるのが印象的だった。 まるで後に治めた山内家が敢えて距離を置いたからであろうか。 土佐を治めた両雄の光と影が少しでも感じ取れれば幸いである。 自分もこうして歩けたことにとても感慨深いものがあった。 #ちなみにこの後、自家製うどん屋で食事して高知競馬場へ行ったw TOPに戻る