−kitunoの旅(太子編)−

心にと留めて置いた旅の思い出を、kitunoのトピック「聖徳太子と織田信長に恋しています」で 聞いていただきました。その総集編です。
kitunoの旅は、トピックの中でも進行中です。^^;

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聖徳太子の遺跡と霊場


kitunoの旅−太子編(聖徳太子総合)−

目次(見たい項目をクリックしてね^^)

 四天王寺
 
 法隆寺
   
聖霊院の内陣について
    夢殿
 new!西円堂
 new!三経院
 new!中門
 
 中宮寺
 生駒山頂上からの展望    
 談山神社
 倉梯陵(崇峻天皇陵)
 石舞台古墳
 橘寺
 飛鳥寺
 飛鳥大仏
 蘇我入鹿首塚
 甘橿の丘
 藤ノ木古墳
 
 

四天王寺

kitunoの旅<太子編>―四天王寺(1)投稿者: kituno_i 2001年7月25日 午前 8時47分
メッセージ: 2870

kitunoの旅は、1995年の5月7日四天王寺から始まりました。

大阪の天王寺駅から歩いて15分ぐらいでしょうか。
四天王寺の伽藍は第二次世界大戦で焼失してしまったため、今の伽藍は1963年(昭和38年)に鉄筋コンクリートの耐火耐震構造で再建されました。
中門・五重塔・金堂・講堂を南北一直線に並べた伽藍配置は「四天王寺式」といわれ、飛鳥時代からの日本最古の伽藍配置の一つです。

聖徳太子建立の日本最初の仏法の官寺です。

四天王寺の創建については『日本書紀』は、物部守屋との戦いに際して聖徳太子が四天王に祈願し、戦いに勝ったら護世四天王のために寺塔を建てると誓願したことに由来するとされています。そして約束通り、聖徳太子が摂政となった推古元年『日本書紀』は「始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」と記しています。
太子が建立にあたっては、敬田・悲田・施薬・療病の四箇院を備え、鎮護国家の道場として及び済世利民の実践所としての役割を果たしてきました。
海外諸国からの使節や渡来者はまずこの地から上陸しました。
軍事上、外交上の要衝として、また国威を示し迎賓館としての役割も備えていました。

    


kitunoの旅<太子編>―四天王寺(2) 投稿者: kituno_i 2001年7月25日 午前 8時53分
メッセージ: 2871

四天王寺再建に伴う昭和30年からの本格的な発掘調査の結果、四天王寺では創建当時から四天王寺式伽藍を採用していたことが証明されており、瓦は法隆寺と同じ同笵の瓦を使用していたことが明らかとなっているので、法隆寺からの密接な関係からも聖徳太子がその創建に関わった可能性は高いとされています。

隋からの使者を迎えるため、隋に負けないような壮大な伽藍を太子は建設したかったのではないでしょうか。
小野妹子とともに日本にきた隋の一行も難波に着いたとき、横一直線に並ぶ壮大な寺院を見て、日本にも高度な建築技術が伝わっていることに驚きの声を上げたのではないでしょうか。

大阪でも四天王寺付近のにぎわいは、最も大阪らしいのではないかと思いました。
大道芸人や寄席の客引きの声の賑わいがあったり.....。
たった一日の日帰りの旅でしたが、大阪の雰囲気を何となく味わうことができました。

この四天王寺をスタートにkitunoの太子の旅は始まったのです。

聖徳太子遺跡霊場(第1番四天王寺)
ここでは、聖徳太子の霊場としての「四天王寺」を紹介します。
・宗派・・・「和宗」
・納経題字・・・太子髻中四天王
・住所・・・大阪市天王寺区元町17

四天王寺西門四天王寺は今日においても聖徳太子ゆかりの霊場として、広く一般市民の信仰を集め、春秋のお彼岸には百数十万の、また毎月21日には常に数万の参拝者があります。
このことから「大阪市民のお仏壇」として各宗派を越えて信者を集めています。
四天王寺の信仰で有名なのは「西門」の信仰で、四天王寺の西門は古くは大阪湾に面し、お彼岸の中日には夕日を西門の真西に臨むので西方極楽浄土を願う人たちの信仰の中心となりました。

四天王寺が創建されてから約千四百年。 以後八回にわたって焼失・復元を繰り返してきました。現在の中心伽藍は昭和三十八年に完成した飛鳥様式の復元伽藍です。
「四天王寺は最も古い寺であって、しかも最も新しい寺」と言われる所以です。

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kitunoの旅−法隆寺−

旅をした日・・・1995年10月21日〜24日までの4日間。4日間とも快晴。
         24日の帰途の電車に乗ったとたん、奈良地方雷雨。
旅のお供・・・・父母

21日は、法隆寺−信貴山朝護孫子寺−生駒山山頂−生駒山宝山寺
22日は、宝山寺−薬師寺−唐招提寺−東大寺(正倉院展)−橿原考古学研究所−多武峰
23日は、談山神社−聖林寺−倉梯陵−阿倍文殊院−石舞台古墳−飛鳥資料館−岡寺−橘寺−亀石
−高松塚古墳−吉備姫王墓−天武持統天皇陵−鬼のまないた・雪隠−酒船石−飛鳥寺−蘇我入鹿首塚
−飛鳥水落遺跡−浄御原宮跡−甘橿の丘−藤原宮跡−本薬師寺−三輪大社−太子道−法隆寺付近旅館
24日は、法隆寺−中宮寺−帰途

法隆寺の特別拝観が主なる目的でした。
公開されたのは、飛鳥時代に建立されたと言われる釈迦三尊や薬師如来など法隆寺の本尊を安置する
金堂と、聖徳太子像を安置する聖霊院の内陣です。
普段、釈迦三尊や薬師如来は金堂正面より金網越にしか拝観できないのですが、この時は金堂の後ろ
から入り、有名な光背に刻まれた文字や金堂にある伏蔵を間近に見ることができました。

伏蔵というのは、法隆寺七不思議のひとつで、地中に秘め隠された財宝と言われており、金堂のものは
現在、白土で塗り固められた土饅頭が置かれています。
金堂の伏蔵の設置は、聖徳太子の遺言と言われています。

聖霊院の内陣について

聖霊院は、法隆寺の中ではあまり目立たない寝殿造りの対屋によく似た平面設計の建物で、鎌倉時代に建てられたものです。かし、聖徳太子信仰の上からは、とても重要な存在です。その内陣は滅多に公開されることはありません。

内部は、聖徳太子や侍者たちの像が安置された三つの厨子があります。

中央の厨子は聖徳太子像、東の厨子には地蔵菩薩立像、卒末呂王像、恵慈法師像、
西の厨子には如意輪観音半迦像、山背大兄王像、殖栗王像が、見事な蓮池図の前に安置されています。
聖徳太子の四十五歳像と伝えられるこの像は、政治を司っている姿との言い伝え通り厳しく凛々しい表情が伺えますが、太子の像とは対照的に、他の像は少し口を開け、悪く言うとしまりのない顔をしているのがなんとも不思議な気がしました。
太子像を1〜2mの近距離で拝見でき、鳥肌が立つような感動を覚えました。
尚、この太子像は、平安時代に製作されたものです。厚い太子信仰が伺えます。法隆寺金堂


夢殿

法隆寺東院−夢殿は4日目にじっくり拝観しました。
春と秋の2回、期間限定で公開されるのが、聖徳太子の写し身とされる「救世観音」です。
このとき、ちょうど公開期間中で、外側から夢殿の中に安置されている観音の顔を見ることが出来ました。
暗いお堂の中に金色に輝く観音菩薩の顔が浮き上がって見え、うっすらと笑みを浮かべたその表情は、今まで見たこともないような菩薩の顔で、「妖気が漂う」という『隠された十字架』の表現を思い出さずにはいられませんでした。

法隆寺東院(夢殿)

ー法隆寺(西円堂1)−

投稿者: kituno_i 2001年8月27日 午後11時16分

法隆寺西円堂



法隆寺を訪ねたのは1995年10月以来の2度目です。
6月22日。太子の月命日にあたる日でした。

藤ノ木古墳から西里という宮大工の里を抜け、法隆寺の西門から入りました。
金堂や五重塔のある西院伽藍はあまりにも有名ですが、今回は拝観コ−スから外れているため、あまり観光客の訪れない西円堂や西室(三経院)に時間をかけてきました。

西円堂は天平年間に橘夫人の発願によって行基が建立したと伝えられている八角堂です。
その後破損してしまいましたが、建長二年(1250)に再建されました。
西円堂の本尊は、奈良時代の薬師如来座像です。あまり知られていないのですが、この仏像は我が国最大級の乾漆像なのです。
人々はこの本尊に様々な願いをし、その願いが成就すると最も大事な物を奉納していたようです。


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法隆寺(西円堂2)−

法隆寺西円堂拡大
西円堂の本尊は奈良時代の薬師如来座像尊ですが、人々はこの本尊に様々な願いをし、その願いが成就すると最も大事な物を奉納していたようです。
現在は片づけられていますが、かつて堂内には「武具」「銅鏡」「櫛」などがぎっしり納められていたそうです。
現在、堂内には「銅鏡」が八角形の柱の各面にぎっしり重なるように下げられています。
その数は二千数百枚にのぼると言います。その中でも最も古い銅鏡は平安時代の物で、「松喰鶴の図円鏡」です。平安時代には人々の間に聖徳太子信仰が深く広まっていたことを伺い知ることができます。
平安時代後半からは、末法思想の影響によって浄土信仰と太子信仰の融合が見られるようになり、それが聖霊院の造営に繋がることになります。

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ー法隆寺(三経院1)−

法隆寺三経院
投稿者: kituno_i 2001/ 8/30 17:47
メッセージ: 2928 / 3391

藤ノ木古墳から法隆寺に着き、西円堂を見学して、三経院前の弁天池茶所でお茶をいただいていると、何人かのご老人が西室に入室されていく様子がに入りました。茶所の方に尋ねると今から三経院西室にて『三経義疏』の無料講義がなされることを教えていただき、誰でも自由に入室できることを教えていただきました。
これは私にとって偶然とは思えない出来事でした。
迷うことなく私もご老人方と共に「 維摩経」の講義を受けてきました。
法隆寺では、三経院において毎年夏に三経及び三経義疏の講談がなされていることを知ったのは、この旅を終えた二ヶ月後のごく最近でした。

現在の三経院は、鎌倉時代寛喜三年(1231)に建立されその後文永五年(1268)に三経院の後方に西室が増築されたものです。
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ー法隆寺(三経院2)−

法隆寺三経院  法隆寺西室門

投稿者: kituno_i 2001/ 8/30 17:52
メッセージ: 2929 / 3391

三経院は、鎌倉時代の新興仏教の興隆と南都仏教の再興の影響を受けて、太子の『三経義疏』および『三経』、『四節願文』『一七条憲法』の開版を行い、広く学徒の料とすると共に三経義疏の講演する場として建立されました。

私の推論に過ぎないのですが、三経院は、太子の建立した法隆寺にも建てられましたが、火災などで崩壊してしまっていたものを鎌倉時代の新興仏教の興隆と南都仏教の再興の影響を受けて再建されたものではないかと思っています。

聖徳太子の法隆寺建立の目的は、仏教(特に三経)を広めるための学問所とすることに有りました。この三経院において、太子の遺志が現在も受け継がれているのです。

今後は太子信仰の研究とともに法隆寺の歴史について少しずつ調べてみたいと思っています。
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ー法隆寺(中門)−

法隆寺中門
投稿者: kituno_i 2001/ 9/ 7 23:53
メッセージ: 2957 / 3391

法隆寺西院伽藍(金堂と五重塔、中門の一部)は、飛鳥様式の建築伽藍として歴史的に知られています。
中でも中門には、遠くギリシャの影響を受けているとみられる「エンタシスの柱」が見られます。
「エンタシスの柱」とは、ギリシャの神殿に見られる緩い丸みを帯びた柱のことです。

私は、法隆寺に行くと、必ずこの中門に腰を下ろして(すみません^^;)ぼ−っと金堂や五重塔を眺めます。時折、中門の金剛力士像に頭を下げます。「ごめんなさい」(仁王様に挨拶すれば座っていてもいいような気がしています。^^;)

仁王様が作られたのは、711年。
東大寺南大門の金剛力士立像とはまた違った雰囲気です。
東大寺のように大きくないから、とても身近に感じて、怖い顔をしているのに優しい感じがするのです。

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中宮寺


中宮寺は、法隆寺東院のすぐ隣にあり、法隆寺の一部と錯覚を起こしてしまうほど隣接して建立されています。
聖徳太子創建の七箇寺の一つ、太子の母「穴穂部間人皇后」の宮祉を寺院としたもので、日本最古の尼寺です。
現在の本堂など建物は新しい物ですが、飛鳥時代の本尊「弥勒菩薩半迦思惟像」と天寿国繍帳は有名です。
弥勒菩薩の微笑みは、見る者全ての心を穏やかにしてくれるようです。指先は軽く頬に触れ、表情は優しさに満ちあふれています。飛鳥白鳳文化の傑作です。 旅に同行してくれた陶芸家の友は、この像をモデルにして私の住む某国の県立のある建物の壁画(陶板)を作成しました。弥勒菩薩と同様に半迦思惟のポ−ズで優しく微笑みかけています。


生駒山頂上からの展望

生駒山は、決して高い山ではありません。
しかし、その眺望は見事です。山頂は奈良県と大阪府の県境になっています。
東に奈良盆地、西に大阪。昔は海の遙か彼方まで見渡せたに違いないと思います。

そこに立って感じたこと...
 ・神話のナガスネヒコはここの豪族だったらしいが、古代に置いても重要な要塞の拠点となっていただろう。
  ・法隆寺と山頂の延長線上に四天王寺がある。 
 ・太子は黒駒に乗りここから寺を建立する場所を決めたのではないだろうか。
  ・まさしく空を駆けめぐっているような感じである。

生駒山宝山寺の参道にある旅館に宿泊。 (^_-)

談山神社

朝早く、談山神社を尋ねました。
多武峰観光ホテルは談山神社の目の前にあります。
人気(ひとけ)が全くなく、神社では朝の神事が行われようとしていました。
神官達が昔ながらの儀式を行う様を目の当たりに出来たばかりでなく、あの「蘇我入鹿殺害シ−ン」で
あまりにも有名な「多武峰縁起絵巻」をじっくり拝見できたことは、大変ラッキ−でした。
絵巻には、蘇我入鹿殺害に至る一部始終が描かれており、「大化改新談合の地」の伝承が「談山神社」
の社号の起こりだそうです。
その談合シ−ンを含め、細部まで写真に収めることを許可してくださった神官の方にお礼。
絵巻には、中大兄皇子と中臣鎌足との出会い、談合シ−ン、入鹿が上手く脇差しを取り上げられている
場面、刺客に刀を手渡している場面など、とてもリアルに描かれていました。
「蘇我入鹿殺害シ−ン」で不思議なのは、何故切られた入鹿の首が、中大兄皇子らにではなく、孝謙天皇の御廉に食らいついたかということです。歴史上、悪役にされてしまった、蘇我入鹿の心境はいかに?

  
  


−飛鳥−

3日目の行程には、ベテランの地元タクシ−の運転手さんにもあきれられるほど、盛りだくさんでした。

談山神社−聖林寺−倉梯陵−阿倍文殊院−石舞台古墳−飛鳥資料館−岡寺−橘寺−亀石−高松塚古墳
−吉備姫王墓−天武持統天皇陵−鬼のまないた・雪隠−酒船石−飛鳥寺−蘇我入鹿首塚−飛鳥水落遺跡
−浄御原宮跡−甘橿の丘−藤原宮跡−本薬師寺−三輪大社−太子道−法隆寺付近旅館

ひとつひとつの思い出を語ろうとすると、膨大な量になってしまいますので、 この中で、太子に関わりのある
ところだけ抜粋します。

倉梯陵

櫻井市 倉梯は飛鳥や磐余よりずっと山奥の、今でもかなり辺鄙なところです。
宮内庁により崇峻天皇の陵墓とされていますが、『延喜式』によると崇峻天皇の陵墓は陵地も陵戸もないとされていますので、ここが本当に崇峻天皇陵かどうかは、疑わしいのです。

この倉梯に馬子の策略で崇峻天皇の倉梯宮があったのは確かですから、「馬子によって蟄居させられたも同然」と天皇が思うのは無理ないことです。
さぞ、馬子を憎んだことでしょう。
「猪の首を切るがごとく」と思わず口走ってしまったというのは事実かも。


石舞台古墳−        

皆さんよくご存じの通り「蘇我馬子の墓 」と言う伝承があります。
石室の中は私が想像していたよりずっと大きくてびっくりしました。
昭和8年〜10年に大規模な調査が行われて、我が国でも有数の巨大横穴式古墳であることがわかり、馬子の墓説が有力となりました。
ちなみにこの「石舞台」と言う名は、岩の上でキツネが舞を舞っていたから、旅芸人が舞台代わりにしていたから付いたとか。
今は、石舞台古墳公園として整備されています。


橘寺−             

ここは、聖徳太子誕生の地とされています。
飛鳥の南方に位置し、境内からは、飛鳥寺、飛鳥浄御原宮伝承地、飛鳥板葺宮に跡などを望むことができます。
聖徳太子建立七ヶ大寺のひとつです。本殿脇に太子の愛馬で空を駆け巡ったという伝説の黒駒像があります。
11代垂仁天皇のとき勅命を受けて「常世の国」に不老長寿の薬を求めに行った田道間守。
この時彼が持ち帰ったものが「橘」で、この地が橘と呼ばれるようになったことが『日本書紀』に記されています。
飛鳥の石像物のひとつ「二面石」もここにあり、人間の善悪二相を表現していると言われています。

−橘寺2−(二面石続きと塔心礎と日羅)

太子堂のすぐ脇に謎の石「二面石」があります。
この石は、善悪業界の象徴とされ、人間の心の中にある善と悪の顔を表したという1mほどの石像です。
現在は猿石や亀石同様、帰化人系の残した石像品であろう、とされているようです。
また、鐘楼のそばには、たいへんめずらしい五重塔跡の塔心礎があります。
ここに、平安時代製作の「日羅像」があり、頭部が異様に大きい日羅のイメ−ジはこの像から生まれました。


−橘寺3(太子の霊鎮?)−

橘寺の真向かいに川原寺跡があります。
ここは、斉明天皇の川原宮の跡に建てられた寺であるようです。
聖徳太子の霊鎮説で川原寺−橘寺のつながりが話題になりました。

川原寺は別名「弘福寺」。
奈良遷都にあたり、飛鳥から主だった寺が奈良に移築されました。
川原寺−橘寺のつながりが興福寺−法隆寺のつながりとなったとか。
法隆寺の飛鳥における元寺が橘寺であるというのです。(でも、霊鎮の為にこんなに向かい合わせにわざわざ建立するかな〜?)


飛鳥寺−              

587年崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋の戦いに終止符が打たれました。
蘇我馬子が物部守屋を攻め殺したのです。この時に聖徳太子は自ら四天王を彫り、先勝を祈願しました。
この翌年、崇仏派の勝利を記念し聖徳太子の援助を受けて「飛鳥寺」が建立されました。
蘇我氏の氏寺です。
着工から8年かかって完成したにほんで一番古いお寺です。
今は小さなお寺ですが、当時は3つの金堂を持ち、真ん中に塔がそびえる雄大な伽藍配置であったことが発掘調査によりわかっています。

飛鳥大仏

ここに、鞍作鳥(止利仏師)により丈六の仏像が作られました。
今も飛鳥寺に安置されている「飛鳥の大仏」がそれであるとされています。日本で一番古い仏像ですが、何度も修理され、当時の原型を残しているのは、目の辺りと右手の一部のみとされています。
「この目は、飛鳥時代からずっと人々を見つめてきたのか。いったいどれくらいの人の祈りや願いを聞いてきたのだろう」

住職さんは、「写真をたくさん撮って、あなたのそばに奉ってください」とやさしくおっしゃってくださいました。
アルバムの中で、私の歴史を見つめ続けています。

由緒沿革については、「聖徳太子霊場第11番 飛鳥寺」をご覧下さい。

飛鳥寺から首塚  (飛鳥寺から首塚までの道)
飛鳥寺から蘇我入鹿の首塚までは、真っ直ぐ50mぐらい歩いた所にあります。










蘇我入鹿首塚


飛鳥寺より西方に100m位歩いたところに蘇我入鹿首塚があります。
板蓋宮で暗殺され切り落とされた蘇我入鹿の首は、中に舞いどこまでも追いかけて来たと言われ、ここまで飛んできました。
そこでこの地に蘇我入鹿を供養するために五輪の塔が建てられました。
畦道にぽつんと立っていて、入鹿はずっとここから甘橿の丘を見続けています。
入鹿は皇極天皇をひたすら信じていたのに、だまし討ちにあってしまったわけです。
太子の一族を滅ぼしてわずか二年後のことでした。


甘橿の丘−                   
                                  甘橿の丘から耳成山を望む

甘橿の丘は、蘇我大臣の邸宅があったところです。丘の中腹から焼け跡が発見され、邸宅のあったのはまず間違いがないようです。ここが蘇我氏終焉の地となりました。 ここからは、飛鳥地方が一望できます。いくつかのベンチには、恋人達が肩を寄せ合う姿も見られました。
二上山に沈む夕日がとても美しく、蘇我蝦夷や蘇我入鹿もこの夕日を見て「国」を治めたつもりになっていたのかもしれません。 まさに「傲れる者久しからず」です。 (^^;)

藤ノ木古墳
 
投稿者: kituno_i 2001年8月05日 午後 3時56分 メッセージ: 2884〜2885

太子が斑鳩宮に移られた当時、斑鳩にはまだ築造間もない古墳がありました。「藤ノ木古墳」です。
6月22日の朝早く法隆寺近くの老舗の旅館をあとにし、藤ノ木古墳まで地図を頼りに歩いていきました。
藤ノ木古墳は閑静な住宅街にぽつんとあり、「あれがそうです」と言われない限り見落としてしまいそうで、道を尋ねた地元の方のご厚意で古墳まで道案内をしていただきました。
私の旅は、このように「袖すれ違った地元の方達」に何度もお世話になり、そのご厚意に支えられているような気がします。
本当にありがたいことです。

藤ノ木古墳は、法隆寺の西方約300mにある円墳で築造当初は、直径48m、高さ9m程度であったと考えられています。
昭和60年(1985)の第一次調査では、豪華な馬具が発見され日本中の注目を浴びました.
またそれに続く昭和63年10月8日には、2体分の若い男性の遺骨が発見され、誰に比定するか様々な議論を呼んでいます。

石棺内は埋葬当初の状態のまま残っており、石棺内の豊富な遺物もさることながら、その配置状態を確認できた点でも貴重な発見でした。
金銅製冠などの豪華な副葬品は、百済などの文様をモチ−フに朝鮮系の工人によって大和で制作された物と考えられています。『日本書紀』には雄略天皇の条に百済より多くの工人が渡来したことが書かれており、古墳時代には多くの技術者が渡来したことが知られています。



藤ノ木古墳は古くから「ミササキ」と呼ばれていました。「陵」−つまり大変高貴な人−天皇に相当する人の墓だということです。
法隆寺の高田良信氏は、この古墳を崇峻天皇と穴穂部皇子の墓ではないかとみています。
若草伽藍と藤ノ木古墳は同じ条理内にあり、太子が宮の地を斑鳩に選んだのは、この「藤ノ木古墳」があったからではないか「藤ノ木古墳」基準にして宮を建設したのではないかとも推測されています。

古墳の被葬者について結論を出すことは難しいようですが、斑鳩地域の渡来系豪族と朝鮮半島系工人との関わりの中で豪華な副葬品を納めることのできた大王クラスの人物であるとは間違いないように思われます。

           

発掘された馬具などの副葬品は、今年の6月9日、茨城県立歴史博物館で行われていた「大古墳展」で一部を、また、今回の斑鳩の旅の後訪れた橿原考古学研究所付属博物館でも見てくることができました。

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