ポツダムとカイロ
日本敗戦に直結する2つの3か国会談がカイロとポツダムにおいて開かれました。戦前派と戦中派にとって日本の命運を左右したこれら2つの会談を忘れることはできません。先ずポツダムを訪れ、次いでカイロを訪れることにします。
ベルリン西半分の衛星写真(東西の幅60km)において0の右の●がポツダムのツェツェーリエン宮殿、1がテンペルホフ空港、2がブランデンブルグ門、その右の黒い水平線は距離1.2kmの大通り「Unter den Linden菩提樹の下」(図で黄色点から黄色点まで、左端赤点がブランデンブルグ門)、3が空襲による破壊の姿を保存したカイザー・ウィルヘルム記念教会(上図左、付近は繁華街);1989年11月にベルリンの壁が崩壊する以前米軍管理下にあったテンペルホフ空港は孤立した西ベルリンへの人員と物資の輸送に当たりました。英仏軍もそれぞれの空港を持っていました。
ベルリンの南西方向にある小さな町ポツダム(上図0)があります。
左図で●において
1945年7月17日から8月2日までトルーマン(米)、チャーチル(英)、スターリン(ソ)が会談しました(会談の部屋はよく保存され見学できます)。現在はSchlosshotel Cecilienhof Potsdamという名称のホテルとして営業中です。この建物はドイツ王族ホーエンツォルレン家最後の皇太子ウイルヘルムがツェツェーリエ皇太子妃と共に住んでいた宮殿です。それは1923年から1927年にかけて建てられ、
部屋数が176室あります(左下)。左図のなかの●はサン・スーシー(憂い無き)公園で、ロココ様式の宮殿と見事な庭園から出来ています。1745年にプロシアの大王フリードリッヒ2世の夏の離宮として建てられました。
会談の結果は7月26日9:30pmに報道文で発表されただけで、
3首脳の
署名はありませんでしたが、「宣言」と同じ効果をもっていました。この「宣言」に盛りこまれているのは、日本の降伏の条件、戦後の日本管理方針です。当時戦後処理に関し米英の危惧は、ロシア共産主義による日本とドイツの分割占領でした。この「ポツダム宣言」を当時の日本の為政者(鈴木貫太郎首相)は反応しませんでした。メディアはignore,rejectと報じました。当時ソヴィエトに対し、日本と米英の間に停戦を仲介するように交渉をしており、近衛文麿をベルリンに派遣して最終合意をする裏交渉があったゆえに、政府としては
動くに動けなかったとされます。ソヴィエト(スターリン、モロトフ)はこの情報をアメリカ側にもらしています。また自国の軍隊を極東に移動させます。一方米国は自国の将兵の損失増大を食い止めるため「宣言」無反応を口実に同年8月6日と9日に広島と長崎にそれぞれ原爆(リトルボーイ)、(ファットマン)を投下、日本は同月14日に「宣言」を受諾し、同15日正午天皇の肉声による日本敗戦のラジオ放送となりました。(関連リンクこれら原爆材料の調達ーカナダ中央部サスカチュワン州からの報告(筆者)日中戦争拡大・太平洋戦争突入に責任があるとして近衛文麿は12月に連合国極東国際軍事裁判法廷により戦犯に指名され出頭期限の16日に服毒自殺をしました。
マッカーサーを総司令官とするアメリカ占領軍は、日本の共産化を防ぎ占領統治を効率よく推進するため憲法を日本が発議したような体裁にして制定公布させました。それが嫌なら天皇の身体(person of the Emperor)の保障はできないと総司令部高官から言われたという証言があります。総司令官によるこの憲法の3本柱は象徴天皇、戦争放棄、封建制廃止でした。天皇退位の動きは国内に反乱を惹起する危険があるとして認められませんでした。
憲法草案に関して言えば、1946年2月4日に7日間の突貫作業で総司令部の25名(陸軍将校11名、海軍士官4名、軍属4名、秘書を含む女性6名、彼らのうち弁護士資格を持つ者は3名、しかし憲法の専門家は皆無)が作成したといわれます。なぜなら、日本と戦争をした11か国が作った極東委員会が同年2月下旬にワシントンで発足、戦後の対日政策を決定することになり、マッカーサーに勝手なことをさせないと決めました。そのため、彼としては日本政府が新憲法草案を作成したという既成事実を示すため突貫作業で原案を作成し日本政府に押し付け、極東委員会から文句が出ないようにしたのであります。
ところが、東西冷戦が激化し朝鮮戦争が勃発すると、アメリカは日本に再軍備を要求してきました。時の首相吉田茂がそれを断り、軍備より経済に重点をおきました。(米軍が日本から朝鮮半島に移動した結果、国内の治安を維持するため日本の国会にはかることなく、マッカーサー指令により1950年7月に警察予備隊が創設され、保安隊を経て1954年に自衛隊に移行したのは時の流れというほかありません)。マッカーサーはこの朝鮮戦争に勝つため中国東北部への空爆と核攻撃の必要性を主張したためトルーマン大統領に解任される運命となりました。
下記は関連年表です。
1943.11. 米英中カイロ会談
1945.07. 米英ソポツダム会談8.15.;日本無条件降伏
1946.11. 日本国憲法公布、翌年5.施行
1950.06. 朝鮮戦争勃発、ダレス国務省顧問が来日し日本の再軍備を要求
1951.04. マッカーサー解任
1951.09. 対日講和条約調印、翌年4.発効
2007.01. 防衛庁が防衛省に昇格
次は、年表の最初のカイロ会談です。1943年11月22〜27日にルーズベルト(米)・チャーチル(英)・蒋介石(中)3首脳の会談がもたれました。場所は「カイロ・メナハウス」です。上の右下にある写真、位置は●)。その結果、12月1日にカイロ宣言が発表されました。それは日本の第1次大戦後得た領土の返還と朝鮮の自由と独立の実行を求めていました。
このホテルはカイロの西の郊外にあります。ドイツ陸軍は1943年5月までにエジプト、リビア、チュニジアなど北アフリカ戦線で敗退しているのでカイロは安全地帯になっていますが、ドイツの長距離爆撃機による空襲の恐れがあります。そのため高さ139mのクフ王のピラミッドの頂上に英空軍兵士が登って対空監視に当り、また約500門の高射砲が付近に展開するなど、会談場所は依然緊張状態にありました。上の衛星写真(東西の幅は14km)で▲の上方にある三つの微小▲がギザの三大ピラミッド、そのうち一番右上が兵士の登ったピラミッドです。元は高さが146mありましたが、カイロ市内の道路舗装などに使うために削られ7m低くなったと言われています。ホテルのプールに映っているのがそれです。メナ(Mena)はBC5000年頃の初代エジプト王の名前です。
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