願いごとひとつだけ


「青波、しんどくない? お水、持ってこようか」
 母親の、心配そうな、自分を気遣っている声が頭の上でする。青波はゆっくりと眼を開けた。そして瞳に映った母の姿に、目を逸らす。母は瞳に切なそうな光を浮かべて、熱に苦しむ自分を見つめていた。壊れものの小さな身体を、何とか救おうと、守ろうとする母の姿に、目を逸らした。母の瞳に、否応なく自分の弱さや脆さを自覚させられる。
「……兄ちゃんは?」
 掠れた声で漏れた言葉に、母は安堵とも訝しみともとれる表情をした。一番に青波の口から出るのは自分を呼ぶ声だと、そう思っていたのかもしれない。
「巧なら、野球よ。今日は試合があるから、朝早くに出て行ったわ」
「……そう」
「残念だったね」
 せっかく七夕なのに、お熱出ちゃって。そう呟いて、母は窓に――正確には、その向こうに広がった青に目をやった。晴れていたら、社宅の子どもたちで集まって七夕をやりましょうと話していたのは、先日のことだった。ぜひ、と答えていた母の笑顔を思い出す。
「でも、身体を治すのが先よ。無理しないで、苦しかったら苦しいって言ってね」
 本当に、大丈夫? と頭を撫でながら、優しく母は言った。優しい声。弱い自分を守ってくれる温かい手。これに縋ってしまえば、楽になれるのだろうか。
 兄を思った。今兄は、マウンドから球を投げているだろうか。兄の指から放たれて、真っ直ぐにミットに吸い込まれていく白い球。頭上に広がる青と、照る太陽。少年たちの熱気。汗と、土の臭い。そんな熱くて、綺麗で、眩しい世界の中で、兄の球は風を切っているだろうか。誰にも、打たれていないはずだ。美しくしなやかな軌跡を描いて放たれるあの球は、誰にも打たれない。
 きゅっと小さく拳を握りしめて、青波は母を仰いだ。
「ママ」
 なあに、と優しい声が返ってくる。
「ママ、七夕って、お願い事するんじゃろ。短冊にお願い事書いて、笹にくくるんじゃろ」
 そうね、と呟くように答えた母の瞳が、懐かしそうに細められる。切れ長の母の瞳がふわり、柔らかくなる。昔を思い出すときの、母の顔だった。
「ママの小さい頃は、おじいちゃんが近所の竹林から笹を頂いてきてね、短冊に願い事を書いて吊したわ。あの頃は、夜の空いっぱいに光る星が綺麗だった」
「あのね、ぼくも、願い事が書きたい」
 そう言うと、母はちょっと目も丸くして、しかしすぐに机の上にあった折り紙を、細長い長方形の形に切って渡してくれた。その短冊に、ペンを走らせる。
 祈ることは弱い者のすることかもしれない。きっと兄は祈りを捧げたりなどしないだろう。望みは自分の手で、掴み取る。その力を、持っている。
ペンを置いた。自分の書いた文字を見つめる。星に祈るこの言葉、これは、誓いだ。いつか必ず手に入れる。この手で掴み取る、誓い。
「ママ」
 顔を上げて、母を見る。
「これ、一番高いところにくくって。誰にも見えんくらい、高いところ」
 わかったわ、と母は受け取った。指から離した途端、ゆるりとした眠気が襲ってきた。笹は無いけど、窓のところにくくってあげるからね、そんな母の声をかすむ視界の向こうに聴きながら、青波はゆるやかに押し寄せる波に逆らわずに目を閉じた。熱に軋む身体は、眠りを要求している。
 遠くなっていく母の声と、白んでいく意識に、マウンドに立つ兄の姿が重なった。その指から放たれる球を、綺麗だなと思ったその次に、意識は裏側に沈んでいった。

『兄ちゃんといっしょに、野球ができますように』

祈りは星に届いて、誓いになるだろうか。カーテンレールに一枚吊された短冊に書かれた祈りは、窓辺にさらさらと揺れていた。
 



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