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03 息もできない

「この文はさ、関係代名詞が省略されてるわけ。だからここに、thatを入れて考えてみると……」
「あ、そっか! わかったー!」
「だろ? 文の構造に気づけば結構簡単だから」
「うん、ありがとーセンセ! また来るね♪」
 そう言って立ち上がった女生徒から、じゃあねーとウィンクをひとつ。職員室から出て行く彼女の後ろ姿をひらひらと手を振りながら見送っていると、向かいのデスクからクスクスと笑い声が漏れた。
「大人気だな、岬先生」
 笑いを含んだ声の主は、英語課主任だ。ベテランの先生にそんな言葉を投げかけられて、少し赤面する。
 この学校で二十代の教員は、俺を含めて三人しかいなかった。しかも俺以外の二人はどちらも二十代後半で、最低五年は教壇に立っている彼らと、正真正銘若葉マークの俺とでは纏う雰囲気が全然違う。生徒たちは、せいぜい五つ六つの年の差の若い教師が珍しいんだろう、昼休みや放課後になると次から次へと押しかけられるのが日常茶飯事になっていた。
「積極的に生徒に質問に来てもらえるのは嬉しいです、やっぱり」
「僕の方が入口に近いっていうのに、完全スルーだったよ。いやあ、若い先生には勝てないな」
 四十代半ばの先生は、いたずらっぽい瞳を寄こしてきた。そう言う先生だって、背が高くて引き締まった身体に精悍な顔つきをした、ちょっと教師には見えないタイプの男だ。こんなふうに軽く冗談を言っても嫌味っぽくなくて、落ち着いた雰囲気が格好いい。
「教師生活には慣れてきた?」
「はい、生徒もいい子ばかりですし……でも」
「うん?」
「こうやって学校で生徒に囲まれてると……教師になった実感が湧いてくるっていうよりも、なんか、学生時代に戻ったような気分になっちゃって」
 ここで、先生がぷっと吹き出した。学生ってのはやっぱまずかったかな、と口をつぐんだ俺に向かって、彼がごめん、と手を振る。けれどそう言いつつまだ小刻みに肩を揺らしているのは、咎めるっていうより単にウケているだけっぽい。意外と上戸なんだな。
「いや、ごめん。……学生気分で羽目を外さないように、頼むよ」
 散々笑った後、明らかに揶揄するようにそう釘を刺された。この辺りではさすがに俺もかなり恥ずかしいことを言ったと自覚していたたまれなくなっていたので、
「そろそろ最終下校時刻ですから、校内を見回ってきます」
 誤魔化したのがバレバレな台詞と共に立ち上がって、逃げるように職員室を後にした。


 教室にまだ残っている生徒に声を掛けつつ校内をざっと見回って、最後に昇降口にやってきた。靴を履き替えたらあとは帰るだけだっていうのに、昇降口でたまる生徒というのが結構いるのだ。そういう奴らをさっさと追い出そうと思ってぐるりと見渡すと、二学年の靴箱の列の前に立った一人の女生徒が目に入った。ふわふわのやわらかそうな栗色の髪の、小柄な生徒だ。声をかけようとその後ろ姿に近づいていくと、足音に気付いたのか、「由香利?」と呼びかけられた。え? と思わず足を止めると、彼女は勘違いしたまま、さっきの続きなんだけどね、と前置きして言った。
「王子様が告白する場面のイメージは、こうよ」
 ……は? 王子様?
「やっぱり場所は夜のバルコニーよね。内緒でお姫様を訪ねてきた王子様は、バルコニーに上半身を預けて、少しつかれたような笑みをうかべるの」
 俺が王子様という単語に思考停止している間に、彼女は一気にそう捲し立てた。ちょ、ちょっとストップ! 頼むから待ってくれ。夜のバルコニー? お姫様? と、次々に繰り出される自分の語彙にない単語に付いていけず、彼女の誤解を解く間もない。
「それから、目を丸くしているお姫様に、いうのよ――」
 ふいに彼女はそこで言葉を切った。その続きを大切に、かみしめるように。
 しばらくの間のあと。動きを止めていた彼女は我に返ったのか、あわあわと靴箱から取り出したローファーを地面に置き、急に慌てた声になって、
「なあんちゃっ……」
 くるりと振り、返り。
 て、を言おうとした口のまま、びきんと固まった。
 くりくりした大きな茶色の瞳を、さらに零れ落ちるんじゃないかってくらい見開いた彼女は、瞳をぱちくりさせてぽかんとしていた。ただでさえ童顔と言っていい彼女の、小さく開いた口が幼い少女のようで、その顔いっぱいに「なんでここに先生が」と書いてあるのがわかりすぎるくらいわかる。
「……」
「……」
 お互い固まって見つめあったまま、沈黙が続く。
 やがてようやく状況を呑み込んだらしい彼女が、さっと頬を染め、途方にくれたようにくしゃりと顔を歪ませて、ぎゅっと目を閉じてうつむいた。耳まで赤くなった彼女が可愛いやら可笑しいやらで、俺は思わず噴き出しそうになって。
「……っふ」
 やっべ、失敗した。
 と思ったのも束の間、中途半端に堪えようとしたぶん、逆に勢いづいてしまった俺は盛大に噴き出した。なんかもう色んなことがツボに入って、いつぶりだってくらいの爆笑に腹を抱える。あーもう苦しいやばい涙出てきた、っていうところまで行って、目尻を拭いながら顔を上げると、さっきまで真っ赤になってうつむいていた彼女が、ぽかんと呆気にとられて俺を見つめていた。それを見て収まりかけていた笑いが再びこみ上げる。
「わ、わるっ……いや、その」
 謝ろうとしても、笑いの発作に邪魔されて言葉が続かない。気の済むまで笑って、さすがに彼女に失礼だ(というかもう充分失礼ぶっこいてる気がするが)、とすーはーと大きく深呼吸して落ち着かせると、
「ごめ……あ、あんまりおかしかったから、つい」
 散々笑ったくせに形ばかりの謝罪を述べた。そして改めて正面から彼女を見直すと、その顔に見覚えがあることに気付く。確か、俺のクラスの生徒のはずだ。というのは、彼女に見覚えがあるというより、容姿や態度で何かと目立つ学級委員――確か吉原とかいったはず――と、いつも一緒にいる女の子、という認識だった。担任不在で学級委員が俺に日誌を持ってきた時にも、後ろにくっついていたような気がする。
「ええと、ごめん、俺のクラスの子だよな?」
 そう尋ねると、俺に顔を覚えられていたことにびっくりしたのか、彼女は目を丸くした。ついで、嬉しそうに――ふわり、と花が咲くように。やわらかく、笑んだ。
「……名前は?」
 無意識、なのかもしれない。自分がどんな表情をしているか、きっと自覚はないんだろう。作ったものではなく、本当に、こぼれるような彼女の嬉しそうな笑顔に今度は俺が目を瞠る番で、気づいたら、そう尋ねていた。
「小春、です。小さい春って書いて、森崎小春」
 そう言って顔を上げた彼女と目が合う。俺はトントン、とこめかみを人差し指で叩いて、
「森崎小春サン、ね。覚えとくよ。……あんた、面白いな」
 そう言い置いて、踵を返した。
 息もできないくらい笑ってすっきりした胸に、落ちてきた彼女の名前。
 ふわりと、花のように微笑んだ彼女の名は、懐かしい記憶を思い出させる、春の名前だった。

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