
第五節
次の日、外は雨模様。ベッドから出た朱染悠は憂鬱な気分ながらも学校の支度をする。鞄の中のものは昨日から出していない。普通、新入生であればその学校が使う教科書などをもらうはずなのだがここは日本とは遠く離れたイギリス。人が違えば文化も違い、もちろん教育も違う。日本に帰国したときと今では、ことが全く違うのだ。
着替えを終えた朱染悠は軽く食事の用意をしてダイニングの椅子に腰をかける。そして大きなあくびをしながらパンをトースターの中に放り込む。コップにオレンジジュースを注ぐと果汁のいい匂いがした。
「まだ来て間もないのに辛いよなぁ・・・。」
そうやって愚痴をこぼすのは彼の弟。いつの間にか座っていた。朱染悠とは5つ歳が離れている。
「ねぇねぇ。時差、慣れた?」
「全然。今もすんげー眠い。」
顔は洗ったが、時差ぼけからまだ解消されないせいか、彼の目はなんだか細い。また大きなあくびをして、焼きあがったトースターからパンを取り出す。
「あー、一枚俺にも分けてくれよ。」
「ふざけんな。お前は自分で自分のを焼け。」
朱染悠はこの生意気な弟があまり好きではない。好きではないというよりも、彼の中ではどちらかというと嫌いの部類に入っているだろう。外ではすごく内気なこの弟も、中ではすごく生意気でうるさい。典型的な内弁慶である。いつも生意気なこの弟が気に入らない朱染悠は、朝は弟の発言に冷たいツッコミを入れて始まる。
「なんで用意をまったく手伝わなかったお前に、俺が一枚やらないといけなねーんだよ。そんな無駄口叩いてる暇があったら、さっさと焼けば?」
やはり末っ子はこのような運命なのだろうか。弟はいつも朱染悠の標的とされている。『兄の弟を心配する気持ち』というものが少しでも働いていて、この弟に耳にたこができるくらい冷たいことを言っているのだろうか。それは誰もが知る由のないことであった。
「さぁ。用意ができたことだし、行くとするか。」
出発の準備ができた朱染悠と弟は父親の車に乗り込んだ。新学期からは通学バスで通うことになっているらしいが、この3日間は手配ができなかったらしく父親の送迎ということになっている。したがって二人の父親は毎朝、会社とは逆方向の学校へと15分ほど運転手の仕事をしなければいけなかった。
『よぉ。おはよう、ユウ。』
『お、おはよう。』
昨日一番最初に声をかけてくれたニックと挨拶を交わす。ニックに限らず、他の生徒もとても親しく接してくる。朝の挨拶はまるで長い間知っている仲のようにさらっと軽くかわす。彼らは朝、自分達の存在を示すように本当に多くの人と挨拶と交わす。髪の色が違えば目の色も違う。そして当然のこと、話す言語も違うし一人一人の性格も日本人のようなものとは全然違う。そんな、新しい『人』のことを考えていると、主任のウィルソンがロッジの中に入ってきた。
『それじゃあ出席をとりますよ。』
そう言って彼女は生徒の出席を確認し始めた。
「悠君、数学やってるよね?今からレッスンだから一緒に行こ。連れてってあげるよ。」
出席を取り終えてソファに座っていると楠木瞳の声が聞こえた。朱染悠はソファに座っていて、彼女はその横に立っているので朱染悠は彼女を見上げるような形になる。
「う、うん。」
立ち上がり、足元に置いてあった鞄を手に取る。
「よし、それじゃあ行こーう。数学はいつも本館のほうにあるんだよ。」
「ふ〜ん。」
特に言い返す言葉が思い浮かばず、生返事を返す。楠木瞳が歩き出すと、それに朱染悠も続いた。
ロッジを出て彼女の横に歩くような形になると、また彼女が朱染悠に話しかけてきた。
「昨日はどうだった?」
「え、学校?」
「ん。まぁ一日学校行っての感想。」
「そーだなぁ。まだなーんにもわかんねーからなぁ。昨日はとにかく授業がなかったから・・・っていうか行ってないから暇だったね。ずーっとソファに座って。時々みんなが話しかけてきて適当に話したり。」
「そっか、そっか。どう、頑張れそう?」
「そーだなぁ・・・。まぁ頑張らないとね。もう後戻りはできないんだし。」
「お、偉いね、そーゆー風に考えてるなんて。ま、のんびりやればいいんじゃない。」
そんななんともない会話をしていると本館に着いた。ドアを開けると楠木瞳に先に入るように勧めた。ありがとうと言って中に入る楠木瞳。朱染悠はそれを追った。ホールを通り過ぎて廊下を歩く。1つ、2つ。教室を通り過ぎていった。
「ここだよ。」
そう言って彼女は先に入った。そして朱染悠も後に続く。これが朱染悠の、2日目にして最初のレッスンとなるのだった。


