2004年2月17日 改訂版 第1刷より
(c) 日本ナザレン教団
第1章 ナザレン教会
1.ナザレン教会の歴史
(1) 米国におけるナザレン教会の設立
(2) ナザレン教会の日本宣教
(3) ナザレン教会の形成と発展
(4) 日本ナザレン教団の躍進
(5) 第二次大戦前後の日本ナザレン教団
(6) 日本ナザレン教団の再建と前進
(7) 他教派との協力
(8) 宣教の深まりと広がり
2.ナザレン教会の信仰告白 (教理)
(1) 三位一体の神
(2) イエス・キリスト
(3) 聖 霊
(4) 聖 書
(5) 原罪 (堕罪性)、個人的罪
(6) 贖 罪 (しょくざい)
(7) 先行恩寵
(8) 悔い改め
(9) 義認 ・ 新生 ・ 子とされること
(10) 全き聖潔 (きよめ)
(11) 教 会
(12) 洗 礼
(13) 聖餐 ・ 主の晩餐
(14) 神 癒 (しんゆ)
(15) キリストの再臨
(16) 復活 ・ 審判 ・ 永遠の定め
(このページの一番上に)
3.ナザレン教会の組織
(1) 国際総本部
(2) 地 域
(3) 教団 ・ 部会
(4) 教 会
4.信 徒
(このページの一番上に)
第2章 教会生活
1.主日礼拝
(1) 礼拝の意義
(2) 礼拝の心構え
2.説 教
3.聖礼典
(1) 洗 礼
(2) 聖 餐
4.教会暦
(1) 主の降臨 (クリスマス) を記念する期間
(2) 主の受難と復活 (イースター) を記念する期間
(3) 聖霊降臨を記念する期間
(4) その他の記念日および行事
5.教会の活動
(1) 諸集会
(2) 教会教育
(3) 伝 道
(4) 教会の財政・献金
(5) 奉 仕
(6) 信徒の交わり
(7) 教会総会
(8) 教会役員会
(このページの一番上に)
第3章 日々の生活
1.個 人
(1) 聖 書
(2) 祈 り
(3) きよめられた生活
(4) 男女の交際
(5) 結 婚
(6) 生涯設計
(このページの一番上に)
2.家 族
(1) 家族の交わり (親子・夫婦など)
(2) 家族の行事 (出産、キリスト教の葬儀など)
(3) 信仰の継承
第4章 社会生活
1.生命の尊重
2.人権の尊重
3.自由の尊重
4.労 働
(1) 労働の意味
(2) ウェスレー主義における職業倫理
5.この世との交際
(1) 地域との関わり
(2) ボランティア活動
(3) 他宗教との関わり
6.政治との関わり
7.高齢化の時代を生きる
8.地球市民として生きる
(1) 環境問題
(2) 世界平和
(1) 米国におけるナザレン教会の設立
ナザレン教会はジョン・ウェスレーが一八世紀に英国で創立したメソジスト教会の流れをくむ、新生と聖化の教えを大切にする教会です。
19世紀末、アメリカ合衆国の各地でウェスレーの時代のような信仰復興運動が起こりました。ナザレン教会はそうしたホーリネス運動の中で生まれたいくつかのグループが合同し、さらに再合同を繰り返しながら成立した教会です。
1895年10月、アメリカ西部において、アメリカ・メソジスト教会から分離したブリジー師を中心に135名の創立会員をもって、カリフォルニア州ロサンゼルスで第一ナザレン教会が結成されました。ブリジー師がメソジスト教会を離れた理由は、本来のメソジスト精神に帰り、貧しい人々と共に生きようとしたことにあったと言われています。「ナザレン」の名称は、マタイによる福音書2章23節の「彼はナザレの人と呼ばれる」に基づきました。
1896年、先にアメリカ東部で活動していた諸教会がアメリカ・ペンテコスタル教会連盟を結成しました。やがて1907年に至り、この東西両教会はシカゴで合同総会を開き、「ペンテコスタル・ナザレン教会」となります。これ以後も米国や英国の各地で誕生した小さなホーリネス団体が、次々にナザレン教会に加入しました。1919年の総会で、名称を従来のペンテコスタル・ナザレン教会から、現在の
「ナザレン教会」 に改めました。
以上の経緯から見てわかるように、ナザレン教会はさまざまな教会が合同して形成された教会です。したがって、教会政治において監督制度をとる教会もあれば、会衆制度をとる教会もありました。しかし、合同したナザレン教会はジョン・ウェスレーが説いた聖潔(きよめ)の教理を土台としながら、極端な監督制も会衆制もとらないという原則のもとに成長、発展してきたのです。
2002年現在、世界ナザレン教会の教会数は13,000、会員数は1,467,000、宣教地130に及んでいます。なお、ナザレン教会は特に教育に力を入れて世界各地に大学や神学校、聖書学校を設立し、数多くの献身者を輩出してきました。その他ブリジー師の頃からの特色として救済事業を広く展開して現在に至っています。ナザレン・コンパッショネート・ミニストリーズ(ナザレン国際援助活動)は、そうした世界的規模の宣教の働きです。
(目次に戻る)
(2) ナザレン教会の日本宣教
1905年、ウイリアムズ宣教師とプール宣教師がアメリカのホーリネス・キリスト教会から派遣されて来日しました。彼女たちは東洋宣教会に所属し、東京で2年間奉仕した後、京都に移り、そこで日曜学校を開きました。
1908年10月、本国のアメリカで彼女らの派遣団体であったホーリネス・キリスト教会が、ナザレン教会に合流したことにより、二人はナザレン教会の国外伝道局に受け入れられ、ナザレン教会最初の日本派遣宣教師となりました。ナザレン教会による日本宣教の始まりです。その後、シュノルト師をはじめ宣教師が次々に来日し、京都を中心に伝道しました。
1913年、渡米留学していた永松幾五郎師がナザレン教会の宣教師として日本に帰国しました。彼はアメリカ留学中に入信し、ナザレン教会が創立したパサデナ大学に最初の日本人学生として入学し、在学中に喜田川広師と会っています。永松師は最初に京都、後に福知山で伝道しました。
(目次に戻る)
(3)ナザレン教会の形成と発展
1915年1月、喜田川広師が日本伝道を志して、ステープルス宣教師夫妻と共に帰国しました。彼は郷里の熊本で伝道を開始し、その年のイースターには早くも18名の洗礼式が行われました。その信徒たちが土台となって、日本最初のナザレン教会が組織されたのです。また、この熊本に聖書学校が開設され、ナザレン教会の機関誌となる『生命乃路(天国の道)』が創刊されました。その後、喜田川師は1922年に京都に移り、本町教会を設立しましたので、聖書学校も京都に移転しました。
一方、1915年、諌山修身師も日本に帰り、岡山と呉で伝道しました。翌1916年にはエコール師が来日し、京都に拠点を構えました。こうして日本伝道の基礎が整えられ、1922年に来日したレイノルド監督により、日本部会(宣教部会)が組織されるのですが、彼は「日本伝道は日本人の手で」行うべきことを強調し、日本人として最初の部長に永松師が、聖書学校長に喜田川師がそれぞれ任命されました。しかし永松師はまもなく再渡米し、喜田川師が後任部長に任命されます。諌山師はエコール師が伝道している京都に戻り、上京教会を設立、後に朝鮮伝道を始めて、そこで多くの人を導きました。
(目次に戻る)
(4) 日本ナザレン教団の躍進
1930年代初期、日本のキリスト教会の中でホーリネス教会を始めとする諸教会は、信仰復興運動のもとで急成長をしました。ナザレン教会も同様で、1929年に教会数9、会員数800名でしたが、1935年には教会数が33、会員数は1,600名を数えています。こうした進展のもと、日本ナザレン教団は1935年、正規部会の設立を年会で決議し、翌年より自給自治に踏み切りました。
(目次に戻る)
(5) 第二次大戦前後の日本ナザレン教団
しかし、自給自治に踏み切った1936年からの10年は、教団にとり厳しい苦難の時代でした。日中戦争が泥沼化し、日本国内においては軍部によるクーデターが相次ぎ、軍国主義は拡大の一途をたどりました。天皇制に相容れないあらゆる団体や個人に対し、厳しい統制と弾圧が加えられていったのです。1937年、日中戦争が本格化すると、ナザレン教会の牧師たちも次々と戦争に召集されました。また、人倫の乱れを指摘した「天国の道」が発行禁止になるなど、戦争に伴う思想統制が次第に色濃くなっていきました。こうした情勢の中で日本ナザレン教団は4名の牧師を中国伝道に派遣しています。
1940年11月、文部省の指導のもとに日本ナザレン教団は日本自由メソジスト教会、日本同盟基督協会、世界宣教団と合同して「日本聖化基督教団」を結成しました。これは1939年に成立した宗教団体法により、信徒数5,000名以下の教団が認められなくなったからです。翌1941年6月、日本基督教団の成立に伴い、日本聖化基督教団はその第八部に編入されました。
その創立総会においては次のような宣誓がなされました。「我らは基督教信徒であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一となす」。教団統理者として富田満牧師が選ばれ、彼は翌年1月に伊勢神宮を参拝して新教団の発足を報告、今後の発展を祈願しています。戦争の厳しい試練期とはいえ、日本のキリスト教会は平和をつくりだす地の塩、世の光の役目を果たすことができなかったばかりか、自ら偶像礼拝の過ちを犯し、アジアの兄弟姉妹にも神社参拝を強要した罪は大きく、その指導者のもとにあった日本ナザレン教団も同じ過ちを犯したのであり、神と人々の前に重大な責任があることを認めなければなりません。戦争はますます激しくなり、教会は次々と戦災に遣って数多くの牧師や信徒が犠牲になりました。
(目次に戻る)
(6)日本ナザレン教団の再建と前進
1946年2月、戦後の日本ナザレン教団の状況を知るために、エコール師が来日して日本の牧師たちと会合、日本ナザレン教団再建の協議をしました。翌1947年に日本基督教団を離脱、同年11月に日本ナザレン教団の戦後第1回の年会が京都の本町教会で開かれました。ここに、総理に選出されたエコール師、喜田川広師、諌山修身師、木田愛信師らを中心に、日本ナザレン教団は宣教部会として再出発します。その後米国のナザレン教会の援助を受けながら、教会堂が次々と建設されていきました。1950年、日本ナザレン教団本部は東京都世田谷区三軒茶屋のエコール師宅に置かれ、2年後の1952年に世田谷区尾山台に移されました。戦争のために閉鎖されていた聖書学校も日本ナザレン神学校と名称を変え、同所で再開されました。1953年の教会数は北海道3、関東11、近畿10、中国6、山陰5、九州7、計42となっています。
1957年にはシェパード師と樋口茂師が派遣され、沖縄(那覇)伝道が開始されました。日本ナザレン教団は北海道から沖縄まで46教会を数えるに至りました。また1959年からはラジオ伝道(ナザレン・アワー)が開始されます。1961年には52教会、1964年には62教会、そして1968年には66教会と順調に成長していきました。なおこの年9月にナザレン教会「信徒必携」が出版されています。
1963年、日本ナザレン神学校が千葉にある教団所属の日本基督教短期大学内に移転しました。1967年には、教団本部ビルが目黒に完成し、本部も同所に移転、今日に至っています。1970年、神学校も目黒の本部ビル内に再び移転し、さらに整備されて、多数の教職(牧師)を育成し、宣教の現場へ送り出してきました。こうして日本ナザレン教団は堅実な成長を続け、1979年には国際総本部からの経済的自立を達成し、名実共に自立した教団(世界ナザレン教会における正規部会)となりました。
(目次に戻る)
(7)他教派との協力
1951年5月、日本福音連盟が設立されました。加盟団体は日本ナザレン教団の他、日本ホーリネス教団、日本イエス・キリスト教団、日本自由メソジスト教団、日本同盟基督教団、基督兄弟団、日本アライアンス教団、基督聖協団、日本福音教会連合等でした。
そのほとんどが戦後日本基督教団から離脱した「聖化・聖潔」を強調する教団であり、教団を加盟の単位として、交わりと伝道協力を目的に掲げました。実際の協力事業としては、合同聖会の開催と1958年以来「聖歌」の発行を続け、日本の宣教と教会形成に貢献してきました。2001年にはこれを改訂し「新聖歌」を発行しました。
(目次に戻る)
(8)宣教の深まりと広がり
1976年にスイスのローザンヌで開催された世界伝道会議以来、福音派の教会の中にも、宣教の働きには「伝道と社会的責任の両者を含む」という認識が浸透していきます。
日本ナザレン教団も日本の社会にあって伝道の使命を果たしつつ、社会的な責任を果たすことを大切にしてきました。まず1969年の教回年会において「靖国神社国家護持法案」に対する反対宣言をしました。そして、1989年には「天皇の代替わりに際しての声明」を出し、天皇の神格化に反対を表明しました。さらに、1990年代以降、フィリピンのネグロス島水牛募金活動や雲仙岳噴火災害、鹿児島水害、佐世保渇水、阪神淡路大震災などの緊急事態に、募金などによる救援活動に教団をあげて取り組んできました。その働きは日本ナザレン国際援助活動(JNCM=日本ナザレン・コンパッショネイト・ミニストリーズ)に引き継がれ世界的視野をもって展開されています。
1993年3月に開催された第46回年会において、日本ナザレン教団は戦後48年目にして「第二次大戦下における日本ナザレン教団の責任についての告白」を採択し、公表しました。そしてその告白文を携えて、1995年、戦後50年の年に青木義昭理事長以下、教団の責任役員が韓国と台湾のナザレン教会を公式訪問、謝罪し、キリストにある和解と深い愛に導かれました。同年8月、フィリピンのマニラで開かれたナザレン・アジア・太平洋地域の総会において、全アジアの教会に対して「戦争責任告白と謝罪」をしました。こうした訪問と謝罪表明がアジア諸国における交流を深め、相互の宣教協力につながり、1996年には韓国ナザレン教会から金永伯監督を第49回年会に正式招待するに至りました。
1997年3月に、「日本ナザレン教団宣教90周年記念大会」が東京江東区ホテル・イースト21で開催されました。宣教90周年を迎えた日本ナザレン教団が国際本部その他、韓国、台湾から大勢の代表団を招いて記念大会を開催したことは、世界のナザレン教会にとっても重要な出来事でした。1,200名に及ぶ主目礼拝では合同聖餐式が行われました。
記念大会と同時に開催された第50回年会において、教団として人権と差別問題に真剣に取り組む決意を固め、「部落問題にとりくむキリスト教連帯会議」と「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」に加盟することを決議しました。なお記念事業の一環として本部ビルの改修がなされ、併せて神学校全館も一新され、新しい時代への一歩が踏み出されました。
1999年に「日本ナザレン教団九十年史」が発行され、「ナザレン宣教大会」が兵庫県舞子ビラにて開催されました。そして、同年第52回年会において宣教師派遣を決議し、平原知之・セニー夫妻を戦後初めての海外宣教師としてタイ国に送り出しました。平原宣教師夫妻はバンコクを拠点にして、タイ国内だけでなく近隣のカンボジア、ベトナムなどにも宣教活動を広げています。また、ナザレン・コンパッショネイト・ミニストリーズ(NCM)の活動の一環としてHIV感染着の救済にも力を注いでいます。
(目次に戻る)