W、近代の教育―明治時代前期―

 

W-1 明治政府の教育政策

【大学政策】

1868(明治元年) 旧幕府の直轄学校を『昌平学校』(昌平坂学問所)、『医学校』(旧医学所)、『開成学校』(旧開成所=洋学教育)として復興。

1869(明治2) 昌平学校を大学校本校、田の2校を大学校分校とし、12月に大学校を大学と改め、開成学校を大学南校、医学校を大学東校とする。

1870(明治3) 国学派と漢学派の対立が増し、洋学派が台頭。結果、大学は廃止に、大学南校と東校が存続する。

1877(明治10) 東京開成学校と東京医学校が統合、東京大学が開校。法・文・理・医学部の日本初の近代大学として成立

 

【初等教育政策】

1869(明治2) 府県施政順序を定め、『小学校ヲ設クル事』と記載される。

→学制公布前のいくつかの試みは、京都府の番組小学校(番組が当時の行政区画で、それ毎に64校建てられる。資金は住人が集める)、沼津兵学校付属小学校、岩国藩や金沢藩の小学校、名古屋の義校など。

1871(明治4) 文部省設置、12月に『学制取調係』が任命される

1872(明治5) 学制公布(フランスのなどの西洋諸国の教育制度を真似る)

→同時に『被仰出書』が示され、学制の意図(1,国民皆学、2,立身出世、3,実学の重要性、4,受益者負担)を明確に提示

☆学制の仕組み

・下等小学(4)→上等小学(4)→下等中学(3)→上等小学(3)→大学

・全国を8大学区(後に7大学区)、それぞれに32の中学区、さらにそれぞれに210の小学区と定め、各学区に大学、中学、小学校を設置するものとする

・例外(小学私学、女児小学、村落小学、貧人小学など)が多く、理念上よりも複雑に

1872(明治5) 東京に文部省直轄の師範学校を設立。

→アメリカからスコットが招聘。結果、アメリカの小学校をモデルとした一斉教授型の導入へ。

1879(明治12) 学制を廃し、教育令の制定=中央集権的な学制から、『自由教育令』と呼ばれる自由主義的。地方分権的なものへの移動

→田中不二麻呂やマレーが中心。毎年4ヶ月、4年間で16ヶ月の義務教育機関、市町村合同での公立学校の設置による学校区の拡大など

          自由教育の結果、公立学校の減少、就学率の低下が目立つように

1880(明治13) 教育令の改正=『干渉教育令』と呼ばれ、市町村の意見は軽視へ(小学校は初等科、中等科、高等科の3段階になり、初等科が義務)

1881(明治14) 小学校教則綱領において、修身科の首位教科への位置づけと時間数増加が定められる

1882(明治15) 元田永孚の指揮のもと幼学綱要(20項目の道徳訓)が作られる

→徳育教科の方針強まる

 

W-2 開発主義教育

          伊沢修二

明治15年に、日本で初めて『教育学』という本を著す。アメリカの師範学校でペスタロッチ主義の理論を学ぶ

          高嶺秀夫

アメリカでのペスタロッチ主義教育の成果を積極的に紹介。東京師範学校附属小学校で展開。開発主義教授法と呼ばれ、普及していく。

→これに基づき、若林虎三郎、白井毅は『改正教授術』(1883(明治16))を提唱。