X、明治時代の教育(2)―明治時代後期―
X-1 学校令の制定
1885年(明治18年) 内閣制度の成立により、初代総理大臣に伊藤博文、初代文部大臣に森有礼就任
1686年(明治19年) (第1次)小学校令(就学義務規定が含まれる)、中学校令、帝国大学令、師範学校令の4つの学校令が制定される
【師範学校令】
尋常師範学校・・・公立小学校校長と教員養成し、各府県に1校設けられる
→1897年に師範学校と改称、本科1部(高等小学校卒業生の4年制)と2部の併設(中等学校卒業者の1年制(のち2年制)に
高等師範学校・・・中等学校(旧制中学校・高等女学校・実業学校・師範学校)の教員を養成し、官立学校として東京に1校設けられる(現筑波大)
→1902年に広島、1944年に金沢、1945年に岡崎に増設、また、女子高等師範学校は、1890年に東京(現お茶大)、1908年、奈良、1945年に広島に増設
『順良・親愛・威重』の3つの気質を要求し、軍隊式教育が行われる。
1890年(明治23年) 『教育ニ関スル勅語』(教育勅語)制定
→歴代の天皇に対する臣民の忠孝の関係、臣民の遵守すべき項目、そして勅語の普遍的正当性の強調の3つの部分に分かれる
1890年(明治23年) 第2次小学校令の制定(学校設置義務規定が含まれる)
→議会の承認を不要とする勅令形式での制定
1900年(明治33年) 第3次小学校令の制定(無償制の原則が含まれる)
→人証小学校の課程が4カ年で一本化され、1907年(明治40年)の改正で6カ年義務教育が成立
X-2 ヘルバルト派の教授法
・ 明治に20年代に入り、開発主義教育の非効率性が指摘され、ヘルバルト派の教授法が導入される。
・ 1887年(明治20年)ハウスクネヒトが招聘され、ヘルバルト派の教育理論が日本に導入される
・ 東京高等師範学校も、アメリカ教育からドイツ教育へと転換
・ ラインの5段階教授法(予備―提示―比較―概括(総括)―応用)が流布
X-3 新しい教授法の萌芽
・ 明治30年代に入り、ヘルバルト派教育が注入主義に陥るなどの弊害が見られる
・ 樋口勘次郎が『統合主義教授法』の中で『活動主義』を提唱
・ 谷本富が『新教育講義』『系統的新教育学概要』の中で『自学輔導(ほどう=正しい道に導くこと)』
・ 沢柳政太郎(成城学園創始者)の『学修法』、西山哲次の『児童中心主義攻久的教授法』などの自発的活動、自発的学習の意義を主張する理論が登場
・ 30年代にはナトルプなどの社会的教育学、40年代にはライやモイマンなどの実験教育学が入ってくる
X-4 教科書の採択制度
1872年(明治5年) 教科書は自由発行・自由選択
1880年(明治12年) 文部省により被適切と認められた教科書の使用禁止措置
1881年(明治13年) 開申制度(=届出制)
1883年(明治15年) 認可制度
1886年(明治18年) 検定制度
1901年(明治33年) 教科書疑獄事件(教科書採択をめぐる汚職で役人152人が検挙され100人が有罪に)
1903年(明治35年) 国定制度
→教科内容の国定化だけではなくて、教科書の粗悪な印刷、不当な価格に対する批判もあった