
現在の金刀比羅神社(西山1丁目938番地)の社域を中心に神宮寺があった。古い記録によれば岩屋山を含めた神宮寺の時代もあったとされるが、ここでは江戸時代の真言宗の神宮寺について述べる。まず、その歴史を概観する。寛永元年(1624)島原出身の常楽院快清が八幡町に真言宗修験道場を開いた。万治3年(1660)木庵禅師がこの山に登り、無凡山という書を記し、後に山頂の岩にこの字を刻んだ。宝永2年(1705)三代吉祥院長慶は、讃岐象頭山(そうづざん)り金比羅大権現を勧請した。享保10年(1725)吉祥院は、浦上庄屋高谷孫市の印を得て神宮寺の号を再興した。次に、現在の金刀比羅神社の社域に残されている江戸時代の石造物等を紹介する。立山グラウンド上の一の鳥居は昭和5年に建立されたものだが、その鳥居の背後に一基ある石塔籠には「金比羅大権現」「天明八戊申年三月」の銘がある。神社参道入口の二の鳥居の背後にある二基の石塔籠は、それぞれ文政13年と天保2年に奉献されたものだ。参道の階段の途中にも鳥居があったそうだが、破損がひどく危険なため平成13年解体したとのことで、残存物が現在もその近くに置かれていた。
神宮寺(『幕府時代の長崎』)
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階段を上り詰めたところに、天保15年(1845)に奉献された、高さ5メートル前後の巨大な常夜燈が一対ある。正面には「五箇所」(左)、「本商中」(右)の銘が記されている。江戸時代長崎貿易に関係した五箇所商人が奉納したのだろう。参道は明治16年大改修したそうだ。拝殿に向かう途中に、明治30年奉納の三の鳥居がある。奉納者は淵村稲佐郷の人々で、「松森栄五郎 同善一 同藤四郎 同栄一 同栄 有田菊太郎 有田恒吉」の名が記されている。四の鳥居は藤棚の近くにあったそうだが、現在は解体されている。
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聖福寺石門
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『長崎名勝図絵』にも描かれている石門は、明治19年に聖福寺に移転(売却)され、現在長崎市指定有形文化財に指定されている。それには木庵筆の「華蔵界」の文字が刻まれている。 拝殿近くにあって、現在も利用されている手水は、「文化九壬申年一月」の銘がある。その近くの末社の稲妻神社の鳥居の側に文政十二年銘の石塔籠がある。拝殿前の狛犬は昭和10年奉納されたものだ。末社の竜神社の鳥居の横に一対の石塔籠があり、「筒井和泉守家中 文化十五戊寅年正月十日」の銘が記されている。筒井和泉守は、文化14年(1817)〜文政4年(1821)長崎奉行を務めている。拝殿とその背後の池(枯山水)の間には年代不詳の狛犬と嘉永2年(1849)の石燈籠がある。池とその背後の本殿の間には皇紀二千六百年(1940)建立の石柱と宝暦8年(1758)銘の石燈籠が併置されている。さらに一段高い位置にある本殿の前には天保7年(1836)銘の狛犬が、本殿の脇には文政7年(1824)、天保9年(1838)、安政3年(1856)、天明8年(1788)銘の石燈籠がそれぞれ対で奉献されている。江戸時代の『長崎名勝図絵』等に記されている神宮寺は拝殿と本殿が回廊により連結されていて、池も見えない。なお、現在の拝殿は戦前の拝殿が原爆で倒壊したので、戦後再建したものだという。 興味深いのは、本殿背後の鳥居と石塔籠である。鳥居には四国金比羅神社の山号である「象頭山」の扁額が掲げられていて、文化4年建立、昭和6年重修と記されている。石燈籠も古く宝暦9年(1759)の銘がある。何故この場所にあるかというと、神主さんの話によれば、上宮までいけない人がこの場所から上宮を仰ぎ、参拝したのだという。現在は木が茂っていて上宮は見えないが、以前は見えていたのだそうだ。
上宮に向かう途中にゆるやかな勾配の草地があり、現在は金比羅公園として休憩所やトイレ等も設置されている。昔ハタあげが盛んだった頃はその名所のひとつだった。一時すたれていたが、近年地元の自治会等の努力でハタあげ大会なども行われているという。私が昨年5月金刀比羅神社を最初に訪れた日、好天に恵まれていたので、この草地で気持ちよくおにぎりを頬張っていたら上空背後から襲ってきたとんびにおにぎりをさらわれたことがあった。私の指に全くさわることなく、おにぎりだけをさっと奪い取っていくその早業にただ驚嘆したものだ。その草地から山頂の上宮までは距離的には近いのだが、かなり急勾配になっている、上宮の「金比羅大神」の銘には赤白のどぎつい彩色がほどこされている。近年何者かによってやられた異常な行為に神社も迷惑しているようだつた。上宮近くの手水は元文2年(1737)の銘、石燈籠の礎石かと思われる古い石には宝暦9年(1759)の銘が記されていた。木庵の「無凡山の書はこの上宮右背後の岩に刻まれている。
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唐船航海安全を願う常夜燈 |
金刀比羅神社から右手の金星観測碑に向かう道筋に別の参道と鳥居・社殿がある。これは昭和35年三井物産長崎支店の延長にあるゼネラル物産が設立したものだ。今は外資系の会社に組み込まれたようで、最近参拝した形跡がみられない。その境内近くに巨大な常夜燈がある。これは、文化3年(1806)唐船の航海安全を願って奉納されたものだ。三本の石柱からなる竿石には、発願主や世話人、石工等の名前も記されている。
江戸時代の神宮寺の歴代住職は開基の常楽院快清(寛永元〜正保2年在職)から最後の龍蔵院瑞應(嘉永6〜慶應3年)まで9代続いた。明治維新の神仏分離政策により、それまで僧職にあった立花兵庫義範が神官となった。以後現在の中村恒氏まで6代続いている。戦前までの神官立花・梅本家の墓は立山の忠霊塔のすぐ下にあって、その募域には神宮寺の4代吉祥院鳳鼎(享保19〜安永4年)、6代智蔵院随應(寛政2〜享和2年)、8代吉祥院篤賢(文化14〜嘉永6年)の墓碑も残されている。
金刀比羅神社の主な祭礼は1月10日の初金比羅祭り、4月10日の春の例祭、11月10日の秋の例祭である。『長崎市史』では信徒数三百戸と記されているが、現在例祭等の案内は氏子や地元自治会会関係者など三百人に出しているとのことだ。(2010.2.6作成)