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見方   

 質問文末の をクリックすると、
本文のQにリンクされています。

 そしてリンク先の    以下が、先生からの応答です。






「 人が神を想うとき 」


 Q&Aのページ「 人が神を想うとき 」は、著者の西岡義行牧師(日本ホーリネス教団 下山口キリスト教会牧師)に承諾をいただき、ここに紹介することができました。西岡牧師に心から感謝を申し上げます。

 一人でも多くの方に触れて頂き、人生にかぶさっているビーカーのフタが取れて、大きな大きな神様の素敵な世界を知って頂ければ幸いです。

 興味や疑問をお持ちのQ&Aから触れられることをお勧めいたします。

 また本書は東宣社・キリスト教書店でもご購入頂けます。


※ 当サイトに掲載されている文章は筆者の著作物です。無断転載を禁止します。また、当サイトに掲載されている画像の再配布及び転載を禁止します。





◇ ◆ 目 次 ◆ ◇    TOPへ


著者紹介

はじめに・推薦の言葉


   夢と現実の狭間で
   物の豊かさと心の貧しさ
   宗教と宗教の間
   キリスト教の矛盾を前にして
   人間関係のしがらみ
   男と女、独身と結婚
   子育ての悩み
   キリスト教も信じるとなると
   聖書と常識の枠
   教会のイメージと現実の教会
   「信じたい」でも「信じられない」
   生と死の境界線
   祈りは本当に聞かれるか


おわりに・・




見方   

 質問文末の をクリックすると、
本文のQにリンクされています。

 そしてリンク先の    以下が、先生からの応答です。


 

夢と現実の狭間で 


Q1 

毎日追われるような日々を過ごして、気がついた時は半年や一年があっというまに過ぎてしまい、何か空しい気持ちに襲われます。「人生には目的がある」と聞いても、わたしには空しく響くのみです。
 (30代会社員)
 


Q2 

最近自分の能力の限界を感じざるをえない事に出くわし、将来の夢と現実の自分とのギャップに不安とあせりを感じています。どうしたら確信をもって生きてゆくことが出来るでしょうか。
 (20代男性、学生)
 


Q3

目標を立てて努力しても思うように達成出来ず、また最近いろいろな失敗が重なり自信喪失状態です。「俺の人生なんてこんなもんさ」と、どこか冷めてしまっている自分に危惧すら感じます。どうしたら、自信と希望を回復することが出来るでしょうか。
 (20代男性、会社員)
 


Q4 

子供のいじめの問題、夫の事故、自分の健康問題と最近私の人生に様々な思いがけない出来事がふりかかり、不安と生活の疲れとに自分を見失いそうです。神様を信じているのに「なぜ」と思ってしまいます。不信仰なのでしょうか。
 (30代主婦)
 





物の豊かさと心の貧しさ


Q5 

私は今のところ宗教は必要ないと思っています。 ひとつの宗教に入ることは、違和感と同時にどこか時代錯誤の様な気さえします。
 (30代男性、会社員)
 


Q6 

今の自分に満足出来ないから、乗り越えられない問題があるからという理由で、神や宗教に解決を求めるのは、弱い人々のすることであって、それは、自分の人生にたいする逃げの態度ではないでしょうか。
 (20代男性、サービス業 )
 


Q7 

歴史をみると、宗教的確信が戦争を解決に導く、というよりむしろ戦争の火種になってます。だから、宗教とかキリスト教という言葉にある種の抵抗を感じます。
 (20代男性、学生)
 





宗教と宗教の間


Q8
 

どの宗教も信じさえすれば、皆結局は同じ所に到達するのではないでしょうか。それなのに、キリスト教は、他の宗教を否定し排他的なところがあります。どうも納得がいきません。
 (40代男性、自営業) 



Q9 

神の存在は何となく信じることは出来ますし、イエス・キリストが歴史上の偉大な人物の一人であることにも反対はしません。でも、なぜその方を神として礼拝するのですか。この点でどうもキリスト教に納得ゆきません。
 (20代男性、学生)
 





キリスト教の矛盾を前にして


Q10 

いくら出来が悪くても、たとえ親を親とも思わなくても自分の子供を火の中へ投げ入れるような親はいないと思います。イエス.キリストの絶対的な愛の神と、旧約聖書や黙示録のさばきと怒りとは大きな隔たりを感じるのですが?
 (30代主婦)
 


Q11 

クリスマスは十二月二十五日ではないと聞きましたが、確かに聖書にも何月何日にイエス・キリストがお生まれになったのか書いていないように思います。本当はいつがキリストの誕生日なのでしょうか。
 (20代男性、学生)
 


Q12 

プロテスタントのキリスト教にはいろいろな教団教派があり、それぞれの伝統の正統制を主張しあっているように見えます。なぜカトリックのようにひとつにならないのでしょうか。
 (20代男性、学生)
 


Q13 

アメリカはキリスト教国と聞いていましたが、現実には離婚、家庭内暴力、性道徳の乱れ、幼児虐待、等の家庭問題が深く人々の心をむしばみ、様々な恐ろしい犯罪を生みだす大きな要因になっていると知りました。キリスト教は本当に力のある宗教なのですか?
 (20代女性、学生)
 





人間関係のしがらみ


Q14


私はある人のことを赦すことが出来ません。聖書に七を七十倍するまで赦しなさいとありますが、私には考えられません。忘れようとすればする程逆に怒りがこみあげてきます。いったいどうしたらこの問題から解放されるでしょうか。
 (30代  主婦)
 


Q15 

先日ある親しい友人が、「Aさんがあなたのことを悪く言っていたよ」と教えてくれました。Aさんのことは近い間柄だと思っていただけにショックで、これからどのように顔を合わせてよいか分かりません。
 (30代、主婦)
 





男と女、独身と結婚


Q16 

私は最近、このまま仕事をしても、何にもならない、と思う様になり、また結婚も考えることが多くなりました。でも、あせりばかりが先行してしまいます。どうしたら神様のみこころが分かるのでしょうか。
 (20代、OL) 


Q17 

聖書には、妻は夫に従うこと、女性は、つつましくしていなければならない、といった内容が書かれていますが、封建的で男性優位といった印象を強く受けます。男女平等を掲げる現代に生きる者としては、この教えを素直に受け入れるのが困難なのですが。
 (20代女性、学生) 


Q18 

一ケ月後に結婚することになっているのですが、急にこのまま結婚しても大丈夫なのかなと不安になります。何かアドバイスをください。
 (20代女性、婚約中)
 


Q19 

結婚して、今年で五年になりますが、すれ違う事ばかりで、お互いを見つめ合うなどということは、遠い過去のこととなってしまいました。相手を受け入れる努力をしても、相手のあらばかりが目につき、結局言わなくてもよいことを言ってしまうのです。
 (30代主婦) 





子育ての悩み


Q20
 

結婚したら幸せになると思っていました。子供が生まれたら張りのある毎日がおくれると思っていました。でも現実はむしろ反対で、子供は言うことを聞かず、悪いほうへ向かって進んでいるようです。私は子育ての自信もエネルギーも失ってしました。
 (30代、主婦) 


Q21 

最近、近所の子供が 躾や言葉使いの点で悪影響をうちの子に与えています。うちの子は、その子を友達と思っているだけに、余計心配です。どこまで、子供の遊び相手をコントロールしてよいのでしょうか。
 (30代主婦) 





キリスト教も信じるとなると


Q22 

最近宗教にまつわる様々な社会的問題を耳にし、宗教というだけで、何か得体の知れない集団という異様なイメージが付きまといます。キリスト教は、それほどではないと思いますが、宗教のひとつと思うと、不可解な要素が多分に残るのですが . . . .
 
(20代男性、学生) 


Q23 

私は、聖書がそれなりに、多くの人々に良い感化を与えてきた人類の宝であることは認めます。聖書を参考にする程度ならいいのですが、それを信じたり、その信仰によって一つの宗教に入るということには、不安と同時に警戒心をいだきます。
 (20代男性、学生) 


Q24 

教会ではよく人を罪人扱いし、あれも罪これも罪と堅苦しいことを言い、私など肩身が狭いです。この教会では、罪をどのように教えているのでしょうか。
 (30代、男性) 





聖書と常識の枠


Q25 

聖書の中に、キリストが水をブドウ酒に変えたり、湖の上を歩いたり、死人を蘇らせたり、というような奇跡さえなければ、信じることが出きるのですが。
  (30代男性、会社員) 


Q26 

私にとって聖書は、日本人とは、かけ離れた民族のとても排他的な宗教のイメージが強く、とても難解で読みづらい本なのです。聖書がこの世の全てを創造した神が人類に残した唯一の真実の書であるのなら、どうしてもっと誰でも読みやすく、分かりやすい内容でなかったでしょうか。
 (20代女性、学生) 


Q27 

先だって何万年も昔の人骨が発見されたとのニュースが伝えられました。聖書にあるアダムの誕生が紀元前約六千年前とすると、地球上に何億年もの間恐竜が生存していた事実や、これらの年代のギャップはどう解釈したらよいのでしょうか。
 (30代男性、広告業) 


Q28 

聖書は、読んでも読んでも分からないことだらけで、途中で投げ出したくなります。人の勧めで福音書を読んでいますが、分かったような分からないような喩え話がのっており、なかなか理解できません。どうしたら分かるようになりますか。
 (30代主婦) 





教会のイメージと現実の教会


Q29 

長い歴史を持つキリスト教の教会は、どこか暗くて堅いイメージがあるように思いますが、いったい教会とはどのような所なのですか。
 (20代男性、学生) 


Q30 

日頃の生活や、教会に出席するなかで、あるクリスチャンの姿に幻滅してしまいました。こうなるのなら、クリスチャンになどなりたくないと思う程です。どうしたらよいでしょうか 。
 (30代、働く主婦) 


Q31 

いろいろな教会に行きましたが始めは良くても結局は満たされず、自分に合う教会を探しながら転々としてしまいます。どうしたら良い教会を見つけることが出来るのでしょうか。
 (40代、女性)
 


Q32 

教会に行かなくても、自分で信仰をしっかりもっていればそれでよいのではないでしょうか。
 (40代  主婦)
 





「信じたい」でも「信じられない」


Q33
 

信じるならばキリスト教と思ってはいても、いざ「信じる」となると一歩ひいてしまいます。信じたいのにどこか信じきれない今の状態から、どうしたらぬけることが出来るでしょうか。
 (20代女性 、学生) 


Q34 

最近なぜか友人からキリスト教の話しの入っているテープを借りて聞いたりしていますが、「とにかく信じることです」とか「理屈や説明ではなく信仰です」などと言われても、私にとっては抽象的で、雲をつかむような感じです。信じるとはどういうことですか?
 (30代、フリーター) 


Q35 

宗教を信じている方々は、大抵その教理をもって説得しようとします。ところがクリスチャンと接していると、教理は弱いようですが、「神と出会った」といった自分の体験を話す人が多いようです。そのへんにキリスト教の特殊性があるのでしょうか。
 (30代 男性 大学院生) 


Q36 

教会でのメッセージの中で、感謝しなさいとか、喜ぶことですとか言われても、現実を見るとそれどころではありません。「喜べないような状況の中で辛いからこそ教会にきているのに」とすら思います。自分を偽ってまで感謝すべきなのでしょうか。
 (30代主婦)
 





生と死の境界線


Q37 

死んだ後に天国や地獄があるという教えは本当でしょうか。死んでしまえば、人は灰となりそれで終りなのではないでしょうか。
 (10男性、学生) 


Q38 

世の終りに関する「ハルマゲドン」といった言葉をよく耳にする今日この頃ですが、この言葉は聖書からとられたと聞きました。キリスト教では、「ハルマゲドン」や終末をどのように教えているのですか。
 (20代男性、学生) 


Q39 

占いは良くないと聞きましたが、それは悪霊と関係があるからでしょうか。雑誌に掲載されている様なものはかまわないと思うのですが。
 (10代女性、学生)
 


Q40 

母から形見として預けられた数珠を持っているのですが、それは他宗教で使われるものなのでクリスチャンとして捨てるべきなのでしょうか。
 (30代男性、サービス業)
 





祈りは本当に聞かれるか


Q41 

家内安全や商売繁盛を願う宗教はご利益宗教なのであって、キリスト教はそういうものとは違う、と聞いたことがあります。それでは、自分の幸せを願うことはいけないことなのでしょうか。
 (40代、主婦) 


Q42 

祈っても祈ってもなかなか答えられません。次第に祈ることがおっくうになってしまいました。祈りは答えられるのでしょうか。答えられない祈りを繰り返して、どんな意味があるのでしょうか。
 (30代男性、会社員) 





            人が神を想うとき

            以下、本文です。





著者紹介
西岡義行(にしおか よしゆき)  


 東京都八王子市出身。高校卒業後すぐ東京聖書学院に入学。卒業後1984年より三年間兵庫県宝塚にて教会開拓に従事。1987年より約十年間ウエスト・ロサンゼルス・ホーリネス教会の副牧師として奉仕する。その間アズサ大学(B.A.)と同大学院神学部(M. Div.)、またフラー神学大学院で学ぶ(Th.M. Ph.D. in Intercultural Studies)。留学中に結婚し、三児の父となる。現在は日本ホーリネス教団下山口教会牧師東京聖書学院教授





はじめに・推薦の言葉


             松木祐三 
                
                  日本ホーリネス教団・元教団委員長
                  陣馬高原キリスト教会牧師



 先生はアズサ・パシフィック大学の後、フラー神学大学院で学び、1997年にはPH.D.(比較文化論)を取得した新進気鋭の宣教学者です。先生は宣教学についての学術的な論文を、英語の世界で発表していますから、将来、日本語でも論文に接することが出来るでしょう。


 しかし、今回、キリスト教入門的な内容の書物を、QアンドAの平易な表現で出されたことは、大変意義深いことです。それは、西岡牧師が宣教の現場にいるものとして、人間に対して熱い心を持っているからだと思います。


 著者は東京聖書学院を卒業後、宝塚市で開拓伝道の働きをし、その後アメリカで学びましたが、そのかたわらウエスト・ロスアンジェルス教会で日本語部の学生牧師としてご用をしてこられました。


 このような伝道の場で、さまざまな実際的な問題・疑問をもつ人々に出会い、それらの疑問をともに考え取り組んできた結果、本書がうまれたのです。


 質問の内容は多岐にわたっています。例えば、一方では「私は宗教は必要ないと思っています・・・時代錯誤のように思います」という現代人の感覚を表すものとか、他方、「私はある人を赦すことが出来ません。・・・聖書には赦しの教えがあるのに・・・」というクリスチャンの悩みと自己矛盾の問題。さらに、人間関係や子育ての問題など、多様な問題が取り上げられています。


 しかし、質問は内容別に整理されており、「宗教と宗教の間」「キリスト教の矛盾を前にして」「教会のイメージと現実の教会」など13の項目に分けてまとめられています。


 西岡牧師は聖書学、神学、文化人類学などを学んだのですが、その表現は平易です。また、福音主義にたっておりますから健全です。入信後の人でも、教会生活の長い人でも、本書は有益であると信じます。


 この書物によって、多くの人々がキリスト教理解を深めることが出来ると思います。また伝道しようとする人が、本書によって諸問題について整理され、伝道に役立てることが出来ると確信いたします。多くの方々がこの書をお読みになるよう願ってやみません。

                    1997年6月  八王子にて





夢と現実の狭間で   


Q1                               目次へ  TOPへ


毎日追われるような日々を過ごして、気がついた時は半年や一年があっというまに過ぎてしまい、何か空しい気持ちに襲われます。「人生には目的がある」と聞いても、わたしには空しく響くのみです。
 (30代会社員)
 


     

A1


 マンネリ化した日常生活から、また社会という複雑で大きな歯車の一部からなかなか抜け出せず、気がついた時はかつては想像もしていなかった年齢に達してしまっている自分にショックをうける。こんな経験はないでしょうか。これが悲しい私たちの現実のようです。




◆流れゆく「時」


 ある人が自由に使える自分の時間を次のように計算しました。


 人生を70年として最も費やす時間の長いのは睡眠で約23年4ケ月分。次は働いている時間で約8年5ケ月、そして食べている時間約3年、学校で2年2ケ月、通勤通学に1年半、用をたすのに1年費やし残るのは約31年。物心のつかない乳幼児期と体が自由にならない病気や老後を差し引くと、20年にも満たないというのです。



 やっと確保できた自分の時間さえテレビの前でボーとしているうちにどんどん消えていき、また酒にも呑まれてしまい、結局気がついた時には何も残っていない。これが現実だとしたら、何という悲しい人生でしょう。


 しかもいったん過ぎてしまった時間はもう帰ってこないのですから、後悔している時間すら無駄と思えるほどです。



 人生は決して開くことのないドアの鍵穴から一本の糸を引っ張るようなものだ、とも聞いたことがあります。糸の長さは、人によってまちまちですが、いつ糸の切れ目がくるのか分からないというのです。



◆聖書という不思議な書物


 「鍵穴の糸」をもちいた人生の描写は、死という時までの限られた時間の中だけでしか生きられない人間の限界をものがたっています。しかも、あとどのくらい「時」が残っているのかも知らず、時間の流れに逆らうことの出来ない人間の悲しい運命をあらわしています。


 しかし、これが人生の全てなのでしょうか。人生に目的や望みというものはないのでしょうか。


 さて、ここで一冊の本を紹介したいと思います。この本は人類始まって今まで、最も多くの言語に翻訳され(約二千もの言語に約されている)、古典の一つとされながら、現在でもベストセラーを続ける本です。


 それは、言うまでもなく時代を越え、また民族や文化を越えて、計り知れないほどの多くの人に真の希望を与え続けてきた聖書です。では、この聖書はあなたの問いにどのように答えているでしょうか。まずあなたの気持ちに最も近いところから見ていくことにしましょう。




◆虚無という名の空洞


 「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての苦労は、その身になんの益があるか」(伝道の書1・2〜3)。


 これは、あの栄華を極めたソロモンの言葉です。彼はさらに続けます。


「金銭を好むものは、金銭をもって満足しない。富を好む物は富をもって満足しない」(伝道の書6・10)。


 「たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか」(伝道の書6・6 )。


 ソロモンは、快楽、酒、事業の成功、財産、知恵や知識を現実に手にいれたにもかかわらず、その心の空しさ、空洞は埋められなかったことをこの伝道の書で告白してます。それは人間の魂がこの地上の物などで埋まるほど粗末なものではないことを示しています。


 しかし伝道の書は虚無で終わってはいません。空しさの果てで私たちが聞かなければならないメッセージがあるのです。


 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12・1)。


 「事の帰する所はすべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」(伝道の書12・13)。


 虚無という名の空洞のたった一つの解決の道は、創造者なる神に立ち返ることであると聖書は伝えています。神のみが魂を満たすことがお出来になるおかたです。


 もしこの世の富や快楽等がそれを満たすことが出来たのなら、先進国は幸せな人で満ちていたことでしょう。しかし、現実を直視するなら、聖書のメッセージに帰らざるを得ません。




Q2                               目次へ  TOPへ


最近自分の能力の限界を感じざるをえない事に出くわし、将来の夢と現実の自分とのギャップに不安とあせりを感じています。どうしたら確信をもって生きてゆくことが出来るでしょうか。
 (20代男性、学生)
 


     

A2



◆夢と現実


 人生に夢を持つことはすばらしいことです。ある人はどこまでも夢を追い続け、自分の能力を磨いて夢を実現するかもしれません。


 どんなに能力があっても、お金やコネがなく夢を実現できない方もおられます。逆にある人は現実を早くから見極め、安全な道を選ぶでしょう。


 そういった生き方を「夢を失った色あせた人生」と見る人もいれば、「かないもしない夢に裏切られるより、地道に生きるほうが幸せに近い」と言う人もいるでしょう。「人生は夢と現実の妥協の産物」と見る人すらいます。まさに十人十色といえるでしょう。


 問題なのはどの考え方が良くてどれが悪いかではなく、むしろ、自分の将来の課題にあなたがどれだけ真剣に取り組んでいるかなのです。


 ある出来事によって、自分の現実に直面するなかでいろいろな考えや思いが交錯し、ついには自分を見失ってしまう事すらあります。あせりつつ様々なことをしてみてもどこか空回りし、「取り組む」というよりむしろ問題に振り回されていると言えるでしょう。コマが回っていないと立っていられないように、なにかをしていないと不安になり、静まることが出来なくなってしまうのです。




◆生の原点、夢の原点


 今あなたに必要な事は、まずいったん全てをストップし、時間をとって静まることです。さらに、「自分が人生を握っているのだ」という思いに潜む高ぶりに気付く事です。自分で自分の命をつくり、人生を自分でスタートした方は、一人もいません。


「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)



 生きているのではなく、生かされているのです。能力も、人生も、夢も、与えられるものなのです。神のもとで始めて、それらは思いもよらない創造力を持つのです。





Q3                                目次へ  TOPへ


目標を立てて努力しても思うように達成出来ず、また最近いろいろな失敗が重なり自信喪失状態です。「俺の人生なんてこんなもんさ」と、どこか冷めてしまっている自分に危惧すら感じます。どうしたら、自信と希望を回復することが出来るでしょうか。
 (20代男性、会社員)
 


     

A3


 人生には思うように行かないことが多々ありますが、そのような時にそれをどう乗り越えていくかで、その後の歩みは大きく違ってきます。今あなたはその重大な分岐点に立っているのです。



◆本当の自分と出会う


 こんな話を聞きました。鷲の卵が間違って雷鳥の卵にまじって孵化され、その鷲は回りの雷鳥と共に成長しました。自分は雷鳥だと思い込んでいるのですが、もともと地面を這いずり回るように造られていないので何をするにも雷鳥の様にうまくいきません。


 そんなある日、大空をゆうゆうと飛ぶ鷲を見て、「あんなふうに僕も飛べたらなあ」と言うと、回りの兄弟たちから、「歩くのも下手なのに飛ぶなんてとんでもない。そんな事考えるのも、上を見るのもやめなさい」と言われ、すっかり落ち込んでしまったということです。


 あなたはこの鷲と自分と重なりますか。もしあなたが「いや、もし僕が鷲ならまだ希望がありますよ」と言うなら、大切なことの半分を掴んだことになります。


 つまり、この希望は条件付きであるということです。しかし、後の半分をお伝えする必要を感じます。それは、一体何が希望を持てる条件かということです。


 この鷲も、「もし僕が鷲なら希望があるのに」と、あなたと同じことを言ったことでしょう。この話のポイントは、自分がなんであるかを知らないとどうなるかにあります。希望の条件はそれを知ることでした。


 この鷲は自分の限られた経験と回りとの比較において自己評価を下しています。しかし、経験と比較によっては、元々どの様に造られているか、ということを知るのに十分ではありませんでした。もしあなたが経験と比較において自己評価をしているのなら、この鷲と同じです。


 本来の自分を発見する為には、それを知っている方の元に戻ることです。その方は創造者なる神です。神は聖書を通してそれまで知り得なかったあなたの本来の姿を示し、新たな希望を与えて下さいます。




◆成長の秘訣


 失敗のない人生はないでしょう。「俺の人生なんてこんなものさ」と言いたくなるそんな時こそ自分をもう一度見つめ直す時です。問題は、失敗をしたかどうか、ということよりも、失敗からどれだけ謙虚に学んだかにあります。成長は、成功の積み重ねというよりむしろ、いかに失敗から学んだかによるからです。


 入船尊氏は『百万人の福音』のコラムの中でこのように言っておられます。「成長しない人とは、自分に欠けているものを見つめる正直さが足りないか、あるにはあっても正確さが足りない人でしょう」。


 最も見えにくい自分の本当の姿を正確に見るのに何よりも用いられて来たのは聖書という鏡でした。この鏡は私たちの失敗そのものの奥に潜む問題の真相とその根源を示し、さらに私たち一人一人がいかに尊く価値があり、素晴しい存在であるか示して下さるのです。


 だからこそ聖書がベスト・セラーであり続けているのでしょう。



 想像してみてください。もしあなたが、オリンピックの百メートル走で世界新記録を出したら、あなたの存在は日本の栄光です。しかしあなたはそれ以上の存在です。


 小さな日本の栄光をあらわすどころか全宇宙をも造られた限りなく偉大な神の栄光をあらわす存在です(第一コリント6:20)。神の目にはあなたは人間の想像を遥かに超えた価値があり、可能性に満ちた存在です(イザヤ43:4)。


 こんなにも素晴しいからこそ、罪によって本来の姿を失い(ローマ3:23)、その価値を見失ってしまうその悲劇は深刻なのです。そんな私達のためにキリストは神の栄光を捨てて罪の身代わりとなられたのです。




Q4                               目次へ  TOPへ


子供のいじめの問題、夫の事故、自分の健康問題と最近私の人生に様々な思いがけない出来事がふりかかり、不安と生活の疲れとに自分を見失いそうです。神様を信じているのに「なぜ」と思ってしまいます。不信仰なのでしょうか。
 (30代主婦)
 


     

A4


◆思うようにいかない中で


 どんなに信仰深くあっても、人生が自分の思うようにいかないのは、逃げられない現実です。


 その中でしばしば私たちが持つ大きな問は、「なぜこの私が」ではないでしょうか。聖書にも、苦しみの中にいる人の前で弟子が「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですかそれともその両親ですか」(ヨハネ9:2)と言ったのです。


 未来を知ることのほとんど許されていない私たちは、結局苦難の原因を過去に求めてしまいます。そして、多くの場合、何の解決にもならない様々な因果律をあてはめ、「なぜ」に答えようとするのです。




◆「なぜ」から「何のため」へ


 現在直面する困難に加え、更に未来への希望を失うと、目が過去に向かってしまいやすい私たちです。


 ところが、キリストはこう言われました。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親でもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」(ヨハネ9:3)。


 『こころの光を求めて』(工藤信夫著、113〜4頁)にあったの女性の証です。「私の人生は、悲しみと苦しみ、そして混乱とに満ち、何の目的も美しさもないペルシャじゅうたんの裏のようなものでした。しかし、人生の終りにそれをひっくり返してみると、主のみごとな絵が私の人生に描かれていました。」


 今あなたに必要なのは、きっと前に進むことでも過去にこころを向けることでもなく、静まって上に、即ち神ご自身に目をむけることでしょう。


 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28)。


 今は見えなくても、やがて、主の描いて下さっている絵を見る日の来ることを、あなたは知っていますか。






物の豊かさと心の貧しさ


Q5                               目次へ  TOPへ


私は今のところ宗教は必要ないと思っています。 ひとつの宗教に入ることは、違和感と同時にどこか時代錯誤の様な気さえします。
 (30代男性、会社員)
 


     

A5


◆近代化と心の砂漠化


 近代化が進むにつれて、人生の様々な必要にこたえるのは、文明がもたらした、科学技術、医療施設、経済システム、教育機関、等がかつての宗教にとってかわると考えられてきました。しかし、近代化がこれほど進んでいるのに、宗教ブームが現代の先進国に見られ、宗教心やその活動が科学の発展とともにむしろ盛んになっているのです。


 この現象は、近代文明が発展し、便利で物質的に豊かになったことで、かえって失ったものが多くあることを物語っています。



 ところで、ビル・ブライトという有名な伝道者は、かつて青年の頃、実業家として成功したいと思い、既に成功して、ビバリーヒルズの立派な邸宅に住む人に尋ねました。「どうしたら、成功できますか」と。


 その実業家はこのように答えたそうです。「それは、たった一つ。イエス・キリストを信じ従うことです。このビバリーヒルズには成功して豊かになった人々が住んでいると思うかも知れないが、友人として一歩その人生に足を踏み入れると、皆悲惨で空しい生涯をおくっています ・・・・」。



 人は獲得し、握っているものによって逆に振り回され、支配されるでしょう。物質的豊かさや、この地上の一時的な成功などで心を奪われるということは、それと運命を共にすることを意味しています。豪邸は時とともに古び、名声も時代とともに忘れられていきます。


 どんなに金持ちとなり、有名になっても、空しさが残るという事実は、逆にこれら地上のもので満たされるほど人間の心は小さなものではないことを暗示しています。ビバリーヒルズの住人は、こころのどこかで、そのことを誰よりも強く感じてるのかもしれません。




◆現代社会が失ったもの


 はたして、科学文明は悪いものなのでしょうか。


 確かに、物質的に豊かになったこととひきかえに、人の心は砂漠のようにすさんでしまい、文明の進歩は、さらにそこに拍車をかけてきたといえるでしょう。しかし、近代文明そのものが問題なのではなく、文明のもたらした物質的豊かさに、人の心が奪われ、そして真の自由までもが奪われてしまったことが実は大きな問題なのです。



 では、なぜ心が奪われてしまったのでしょう。そして、そのことで何を私たちは失ってしまったのでしょう。


 荒廃した現代社会にあって、その失ったものを探し出し、真の豊かさを取り戻すことは、人間の生の最も深いところにある「魂」または「宗教」の次元にまで掘り下げることなしには不可能と言えるでしょう。それは、時代錯誤などではなく、混迷する現代社会に生きる私たちが逃れることの出来ない、また逃れてはならない最も重要な課題なのです。




Q6                               目次へ  TOPへ


今の自分に満足出来ないから、乗り越えられない問題があるからという理由で、神や宗教に解決を求めるのは、弱い人々のすることであって、それは、自分の人生にたいする逃げの態度ではないでしょうか。
 (20代男性、サービス業 )
 


     

A6


◆神に頼るのは、逃げ?


 毎日のめまぐるしい日常生活の中では、本当の自分の姿と出合うことなどなかなか出来るものではありません。


 しかしどんな人生でも、形は違っても自分の力のみではどうすることも出来ない様々な思いがけない事故や災難、さらには様々な失敗、裏切り、人間関係のもつれ、病気、死、等にでくわします。しかもそれは、自分の計画、意思、感情など一切を超えて、まったく一方的に向こうからやってくる、というほうが、事実に近いと思えることもしばしばです。



 そういった困難のなかで私たちは、人はなぜ苦しむのか、なぜ私なのか、何のために生まれ、生きるのか、死んだらどうなるのか、など人間存在の根本に関わる問題に直面します。


 「真理」という光なしには本当の意味で生きることの出来ない動物、それが人間なのでしょう。宗教はまさに其の次元の真剣な取組の中で生まれてきたものなのです。



 さて、宗教や神に頼るのは弱い者のすることとよく思われるようですが、私はそのとおりだと思います。しかし、それは事実の半分であるように思われます。


 もう少し正確に言うならば、神に頼ることは、自らの弱さや限界を認めることからはじまる、ということです。自分の弱さを認めることは、逃げの態度というより、現実の自分の姿と直面するという勇気のある態度です。




◆最も美高貴で最も醜い動物


 では、実際人間は、どこまで強く、またどこまで弱い存在なのでしょうか。


 自信過剰な人は、自分の強さに惚れ込み、自分の弱さや欠点が見えていません。逆に劣等感にさいなまれる人は自分の欠点に囚われ、自分の長所がよく見えていません。


 自分で自分をどのように見ているかを自己認識すること(セルフ・イメージ)は大切なことです。しかし、それ以上に大切なのは、聖書という鏡が人間をどのように写し出しているかにあります。



 聖書によると、人間は私たちが想像する以上に能力と可能性に満ちたすばらしい存在であると伝えています(詩篇8:5)。しかし、神から離れた人間は想像以上に弱く醜い存在であるとも伝えています(ローマ1:21)。


 人間は神の創造の最高傑作でありつつも、これ程創造の秩序を破壊し堕落した動物もない、というのも事実です。



 キリストは、この人間の両極性をブドウの木と枝の喩えで教えられました (ヨハネ15:5)。もし一つの枝が木につながっていれば、その枝はただの棒 と違って実をつけ、しかもその中の種には、命の無限の可能性が秘められています。しかし枝だけでは腐っていくのみで、実りは不可能であるばかりか、その枝は結局腐っていくのみです。


 枝と同様に私たちにはものすごい能力が与えられていますが、それを発揮できるのは、命の根源者である神と信仰で結ばれることで初めて可能なのであり、自分の力だけでは必ずや決定的な限界にぶつかるのみならず、結局堕落と滅びに向かうのです。



 神を信じる (つながる) ことは、枝としての自らの弱さと限界を勇気をもって謙虚に認めることです。しかし、信仰は人生からの逃避なのではなく、むしろ神との関係をもつことによって、自分に与えられているその計り知れない可能性を最大限に発揮する原動力なのです。




Q7                               目次へ  TOPへ


歴史をみると、宗教的確信が戦争を解決に導く、というよりむしろ戦争の火種になってます。だから、宗教とかキリスト教という言葉にある種の抵抗を感じます。
 (20代男性、学生)
 


     

A7


◆醜い宗教戦争


 戦争は、宗教のみならず、政治、経済、文化、民族意識、歴史、感情等を含む人間社会の問題として総合的に捕える必要があるでしょう。しかし現実に、キリスト教の名のもとに、多くの戦争が起きたのは、非常に残念な事であり、神が忌み嫌うことです。



 一般に宗教が決定的原因とは言いきれないとしても、それが複雑に絡んでいることは否めません。


 しばしば、政治的指導者は、その野心や計画を正当(神聖)化し、民衆の心をそこに結集するために、宗教の潜在的力を利用することがあります。このゆえに、あなたが宗教とかキリスト教という言葉に抵抗を持たれる、ということは、ある意味でごく自然なことです。



◆うつろな宗教のイメージ



 しかし、もしあなたがキリスト教の別の側面、すなわちその人類への貢献という観点で歴史を見たのなら、キリスト教に対して異なったイメージを持たれるでしょう。


 ここで大切なのは、「キリストの福音」と「キリスト教という宗教」が同一のものではない、ということです。


 この違いは水と器に例えられます。もし「キリスト教」という器に「福音」という命の水が入っていなければ、人や社会がつくりかえられ新しくされることはありません。


 荘厳なキリスト教建造物、立派な教理や神学、整った教会や教団の組織などは、大切な器でしょう。しかし、その中心にキリストの福音が満ちていなければ、単にそれは歴史的な文化遺産としての価値で終わってしまうことでしょう。



 あなたの持つキリスト教へのイメージは、この、外側の器にかんするものではないでしょうか。もちろん器は大切です。しかし、それは、水を失ったことの故にキリストが憎まれ、悲しまれることのために利用されてきたことも事実です。


 あなた自身を造りかえ、生かし豊かにする事の出きるのは、キリスト教という器なのではなく、キリスト御自身です。







宗教と宗教の間


Q8                               目次へ  TOPへ


どの宗教も信じさえすれば、皆結局は同じ所に到達するのではないでしょうか。それなのに、キリスト教は、他の宗教を否定し排他的なところがあります。どうも納得がいきません。
 (40代男性、自営業) 



     

A8


◆宗教と山登り


 「分けのぼる麓の道もおおけれど、同じ高嶺の月を見るかな」といわれるように、宗教を山登りにたとえて、どれであっても行き着くところは同じと考える方が多いようです。


 最近は山より高い月にすら人間は到達でき、もはや宗教よりも最先端テクノロジーを信じる、という方もあるでしょう。



 さて、人間は神の像に造られ、永遠をおもう思いが授けられている、と聖書にあります。動物の中で人間だけが、「人は何の為に生きるのか」、「どうしたら生きる力がうまれてくるのか」、「真の幸福はどこにあるのか」、「人は死んだらどうなるのか」という存在の本質や、人生の真理に係わる問題にぶつかります。


 アウグスチヌスが言ったように、人間には神にしか埋めることの出来ない空洞があります。他の動物にはないこの魂の空洞は、何か永遠的なもの、神的なもの、真理と言えるものへの渇望につながるのです。


 宗教とは、この渇望への真摯な営みといえ、山登りにも喩えられるでしょう。



◆谷底のキリスト



 ところが、キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と、はっきりと宣言されました。


 どんな宗教も(キリスト教という宗教も含めて)、善行や努力も、最先端科学も、人間の側から神に到達することは出来ません。この排他的とも言える厳粛な宣言の前に、私たちは跪くのみではないでしょうか。



 同時にこの宣言は、人間の側からの努力や営みを排斥するものではなく、むしろ、ここにあなたが本当に捜し求めていたものがあるのだ、という、明確な神からの答えなのです。


 即ち、神との接点は宗教を登りつめた所にではなく、罪に汚れた人生のどん底に降りてこられるキリストとの出会いにあるのです。




Q9                               目次へ  TOPへ


神の存在は何となく信じることは出来ますし、イエス・キリストが歴史上の偉大な人物の一人であることにも反対はしません。でも、なぜその方を神として礼拝するのですか。この点でどうもキリスト教に納得ゆきません。
 (20代男性、学生)
 


     

A9


 世界中でその誕生日が祝われ、歴史上最も知名度が高く、これほど多くの人々や社会に多大な影響を与えてきた方はいないといわれる、このイエス・キリストが、いまだに「いったい誰なのか」と、問われていること自体、驚くべき事実です。


 しかし、それ以上に驚かなくてはならないことは、この問いが、あなたの人生、さらにはあなたの永遠をも左右する重大なものであるという、聖書のメッセージです。




◆「イエスは聖人、預言者、それとも革命家?」


 多くの方々はイエスを聖人であった考えます。その答えを必ずしも否定する必要はないでしょう。確かに聖人と言われるに値する存在だったからです。


 当時あらゆる点で社会から見捨てられ、孤立していった方々のために自らの立場を投げうって、救いの手を差し伸べられたのです。その意味では、私たちの生き方の模範をお示しになられたということが出来るでしょう。



 しかし、これがイエスがなされたことの全てではありませんでした。私たちの外側に模範として立たれるお方である以上に、私たちの内側に入ってくださり、魂の底からつくりかえて下さるお方です。それは、模範を示されても自分の力では、自分を変えることの出来ない人間をその内側から変えてくださるのです。



 イエスが過去における聖人である以上に、時代を越えて影響を与える価値観の革命家と考える方もおられます。イエスの喩えや教えは確かに常識を覆しつつ、本来の人間のあり方を示してくれるのです。


 それは、クリスチャンであろうとなかろうと、読む者に衝撃にも似た感動を与えてきたことからもうなずけます。しかし、それで全てなのでしょうか?




◆「イエスは預言者?」


 預言者は神の「言を預かる者」というのが、この言葉の意味です。ですから、未来を言い当てる「予言者」とは異なります。


 しかし神は、過去と現在に閉じ込められてはおらず、未来をもご存知であることを考えれば、預言者は予言者をも含むより大きな存在と言えます。ですから、「イエスは預言者だった」ということは出来るでしょう。実際イスラム教においては、イエスを一人の預言者として扱っています。



 あなたの質問は現代人のみならず、イエスの歩まれた当時の人々にとっても大きな問いでした。


 イエスと会った人々はイエスをマラキ書に示されているように「エリヤ」の再来と考えた方が多くありました。この時代の人々は、「エリヤ」が再来するのを待っており、多くの人はイエスをエリヤと見たのでした。現代の多くの人も、「イエスは預言者だった」といえば納得できるでしょう。




◆イエスのみが神をわらわした


 違った角度から考えてみましょう。あらゆる動物の中で、人間だけがこの大自然、大宇宙を越えた何らかの存在(神)を意識し求めてきました。時代を越え、民族や文化を越えて人間社会の在るところに宗教が存在することは、この事実を物語っていると言われています。


 ところが、どの宗教も唯一の神に至ることが出来ません。人間の側からの道は、罪の故に閉ざされてしまっていると聖書は伝えています。ですから、どんな偉人も、立派な宗教も、科学文明も、神に到達することは不可能です。



 しかし神の側から道が開かれたのです。その道は、人間ではなく神が決めることです。


 初め神はイスラエルを通して、ご自身を現わされようとなさいましたが、彼らが神の御旨に反したので、遂にその独り子を遣わされました。その方がイエス・キリストなのです。


 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18)


 このみ言葉が示すように、イエスはひとり子なる神であり、この方だけが真の神を現わしたというのは、人類への一大ニュースです。



◆イエスご自身の答え



 この問を考えるにあたって最も大切な事は、牧師や神学者、また私たちがどう答えるかではなく、むしろイエス・キリストご自身がどう答えられたかです。


 キリストは、ご自身を、「神のひとり子」と語られました(ヨハネ3:16)。そして、子なる神として、この地上で父なる神をあらわすのだと言われました。「父なる神」とは、天地を創られた唯一の神であり、その神に至る道はご自身以外にはない、と宣言されたのです(ヨハネ14:6)。


 自分を神の子とすることは、「自分を神と等しいもの」(ヨハネ5:18)とすることであり、ユダヤ人にとっては神への最大の冒涜として、当然死刑につながるもでした。「子なる神」としての自己宣言は、十字架刑を意味するものであり、命を賭けたものだったのです。



 イエスが神であり、この方をとおしてのみ真の命が与えられるということは、神学的な説明や説得で伝えられるものでも、理解や納得などでつかみ取られるものでもありません。それは、信仰を通して明らかにされる奥義です。


 事実イエスは、神の子として神ご自身を現わすという重大事を、説明ではなく、最も不条理な十字架をとおしてお示しになりました。私たちの側は、最も単純な「信仰」という愚かさをもって以外に、この奥義を受けとる道はありません。まさに「信仰のみ」です。


 もしあなたがイエス・キリストご自身に注目し、真剣に求めるのなら、主ご自身の方からご自分をそして、その奥義を明らかにされるのです。そして、それによって、私たちの人生が新しく造り変えられるのです。



「この世は、自分の知恵によって神をみとめるに至らなかった。


それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、


信じる者を救うこととされたのである」(第一コリント1:21)







キリスト教の矛盾を前にして


Q10                              目次へ  TOPへ


いくら出来が悪くても、たとえ親を親とも思わなくても自分の子供を火の中へ投げ入れるような親はいないと思います。イエス.キリストの絶対的な愛の神と、旧約聖書や黙示録のさばきと怒りとは大きな隔たりを感じるのですが?
 (30代主婦)
 


     

A10


◆愛の神と義の神


 現実に聖書を読んで、愛の神と義の神、その二種類の神が居られる様な気がするのは、きっとあなただけではないでしょう。


 しかし、聖書は神は愛であり(第一ヨハネ4:8)、そして同時にさばき主でもある(ローマ2:16)と伝えています。


 私達はこの矛盾に満ちた聖書のメッセージを受け入れられず、ある場合には、さばきのみを強調し恐怖心を煽り立てたり、また逆に耳ざわりの良い「愛」のみを強調し、福音を骨抜きにしてしまうことがあります。


 さらには両方のバランスを意識するあまり、厳粛なさばきへの恐れや本当の愛の豊かさを割引きしてしまうことすらあるのです。都合の良い理屈で矛盾を整理したり、どちらか一方を強調し、納得しやすくしてしまう危険に、お気付きになったでしょうか。



◆親としての神の苦悶



 さて、神の私達への関係は、親子関係にたとえられます。


 もしあなたのお子さんが癌で苦しんでいるとしたら、あなたはきっと我が子を愛すれば愛する程癌を憎まれるでしょう。癌の被害者だからです。


 同様に神は私達を愛すれば愛する程その罪を憎まれるのです。罪は人間の不幸の原点だからです。しかし、神の苦悶は、私達が単に罪の被害者であるという以上に、罪人としての加害者でもあるということです。



 神はあなたを限りなく愛して居られます。しかし、もしあなたに罪があるなら、義なる神のまえにさばかれ焼き尽されなければならないのです。


 聖書がこのふたつをはっきり伝えている以上、曲げることも打ち消すことも決して出来ません。義であり聖なる神があなたへの愛を貫くために残された道が、罪なき独り子の十字架でした。


 あなたの問に最も苦しまれたのはキリストであり、神ご自身だったのです。 




Q11                              目次へ  TOPへ
 

クリスマスは12月25日ではないと聞きましたが、確かに聖書にも何月何日にイエス・キリストがお生まれになったのか書いていないように思います。本当はいつがキリストの誕生日なのでしょうか。
 (20代男性、学生)
 


     

A11


 伝統的に12月25日をイエス・キリストのお生まれになった特別な日として祝いますが、あなたの言うとうり聖書にはキリストのお生まれなさった日付けは、どこにも記されていません。




◆「12・25」をめぐる謎


 ではどうして12月25日がクリスマスになったのでしょうか。


 エホバの証人の方々は、クリスマスが当時ギリシャ、ローマで普及していたミトラ教の太陽神の祭から来ているという有力な説をとりあげて、その日に祝うクリスマスの意義そのものを否定されています。



 なぜ聖書にはキリスト誕生の日付けがないのでしょう。なぜこの日付けが異教の習慣とかかわると言われているのでしょう。このような疑問は難解なものですが、取り組むことによって意外なドラマが繰り広げられます。




◆なぜ「12・25」がクリスマスに?


 現代人にとっては個人の誕生日は大切なものとして覚えられることが多くなってきていますが、二千年も前のユダヤ、パレスチナの文化においては「日付け」よりも、どこの誰からどのように生まれたのかという「関係」や「出来事」が関心の中心だったようです。


 ですから、「クリスマスはいつだったのか」という疑問はむしろ現代的と言えるでしょう。



 個人主義とは縁の薄い文化においては、年に一度の記念日はたいてい国や村、また諸集団と結び付きます。そういった文化の中にあってキリストという一人の方の誕生日が祝われ、日付けも定着したということ自体、特別なことです。それは、当時キリストの影響がいかに広くまた深く浸透していたかを物語っています。その影響は今や、時代も国境も超えています。


 ところで、すでに触れたように、この日付けはミトラ教との関係が指摘されています。この宗教はペルシャに起源を持ち、紀元前三世紀頃栄え、後にバビロニアを経てギリシャなど各地方の宗教と習合しつつローマにも広まったといわれています。ですから四世紀までには当然キリスト教との接触も考えられます。



 12月25日はミトラ教にとって重要な日です。その頃から日照時間が長くなることから、太陽の霊が息を吹き返す日として「太陽の誕生」の祭が行われていました。


 その中にキリスト教が浸透していき、クリスチャンが、12・25を「義の太陽」であるイエス・キリストの出現(誕生)の日として異教に対抗する祭をはじめました。そして古い祭は消え、新しい祭は世界にひろまったのです。




◆本当のクリスマス


 たしかに、異教的といわれるものが知らず知らずのうちに入り込んだことは、否めないでしょう。


 その点で、「義の太陽」の祭としてはじめられたクリスマスは、当初から常に反省と吟味を必要とするものであったといえます。そのことは現代においても同じです。


 しかし、当時のクリスチャンにとってはこの祭のおかげで、異教の祭に行かずにすみました。さらにこの新しい祭は、造り変えられ新しくされた者たちの信仰のしるしでした。


 降誕の「日付け」より大切なことは、キリストがこの地上に、そしてローマという異教の地に来られたという実際の「出来事」です。キリストが来られると、そこにあるものがみな新しく造り変えられるのです。しかも、新しくされた喜びはどんどん広がる力があります。


 これは、あなたの人生にも起こり得ることです。




Q12                              目次へ  TOPへ


プロテスタントのキリスト教にはいろいろな教団教派があり、それぞれの伝統の正統制を主張しあっているように見えます。なぜカトリックのようにひとつにならないのでしょうか。
 (20代男性、学生)
 


     

A12


◆伝統という名の神


 キリストを信じ人生が神の霊によって新しくされ、その感動と喜びをもって集まりそれを与えてくださった偉大な神を賛え感謝する。これはまさに生きた教会の姿です。


 やがて、そのキリストの福音が多くの方々に伝えられ、喜びが広がっていきます。多くの方々が集まるようになると、当然秩序が必要となり、やがてその秩序は伝統となっていきます。それ自体は、信仰生活において自然なことでしょう。

 問題となるのは秩序や伝統に対する私たちの態度なのです。


 もし伝統を絶対化しそれ以外の信仰の在り方を否定していくとしたら、それは伝統を神とする偶像礼拝にほかなりません。それらは、キリストという命の水を入れる器のようなもので、器自体に命はないのです。


 逆に信仰さえあれば、どんな伝統も要らない、と言う態度も自分の経験を絶対化する危険をはらんでいます。




◆歴史から学ぶと


 私たちを含め、どの時代のクリスチャンもこれらの危険から守られた温室にはいないことが、歴史を見ると分かります。


 例えば、私たちの母体であった中世のカトリックは(後の英国国教会も含め)伝統を神の位に引き上げるという失敗に陥りました。


 器が神となり命の水を失っているとして立ち上がったのがルター、カルヴィンそしてウエスレーだったのです。そこからまた様々な伝統が自然なこととして形成され、今に至っています。


 教派が多いことは弱さの現われであり、形骸化した中からも水がわき出る命の印でもあるでしょう。



 私もプロテスタントがひとつになったらと思いますが、それが教団教派という組織もしくは器に於てであるなら、神格化の危険が伴うでしょう。様々な器でも同じキリストという命の水を飲むことこそ大切なことです。




Q13                              目次へ  TOPへ


アメリカはキリスト教国と聞いていましたが、現実には離婚、家庭内暴力、性道徳の乱れ、幼児虐待、等の家庭問題が深く人々の心をむしばみ、様々な恐ろしい犯罪を生みだす大きな要因になっていると知りました。キリスト教は本当に力のある宗教なのですか?
 (20代女性、学生)
 


     

A13


 キリスト教国にこのような深刻な問題が存在することは、曖昧ながらも一般的に抱かれているキリスト教への高い倫理的イメージと矛盾し、どうしても首をひねりたくなります。




◆見方で問題が変わる!?


 素朴な疑問はものごとを理解することへの出発点です。ところが、現実を理解するということは、必ずしも出発点から近いところにあるわけではありません。


 特に白黒のはっきりしない領域は、その解釈者のものの見方や先入観、さらには個人的感情で判断されてしまうことが多分にあります。それはある出来事を理解するうえでも、ある国の社会的問題を理解する時にも、さらには人を理解するという時にも、気を付けるべきことです。


 基本的に大切なことは、現実を適切に区別しつつ、係わりを見いだしていくことです。この観点から考えてみると、アメリカの家庭(社会)問題とアメリカがキリスト教国であることと混同することも、またアメリカとキリスト教を混同することも、問題です。


 確かにアメリカをキリスト教文化圏の中に位置づけることは可能でしょうが、本当にキリスト教国であるかどうかは慎重に判断する必要があります。


 仮にもキリスト教国として国民の大多数が聖書の教えにそう生き方をしているのなら、現在のような状況にはなっていなかったでしょう。


 家族や社会の問題とキリスト教を混同してしまうことも、逆にそれらを全く分離してしまうことも問題です。大切なことは、信仰や宗教の問題と社会問題とを混同せずに区別することです。


 さらに本当の理解に近づくためには、それらの事柄がどのように係わりあってきたかを把握していくことです。では実際に、キリスト教文化圏にあるアメリカのこのような問題をどのように理解したらよいのでしょうか。




◆社会の変動とキリスト教


 もちろん、このような問題を理解することなど、不可能に近いことでしょう。ここでは、理解へのヒントとなるような視点をここで挙げることにしましょう。


 まず、近代化に伴う社会の激しい変動が家庭生活や個人の生活に著しい変化をもたらしたことは、言うまでもないことでしょう。問題なのは、そのような社会変動のプロセスにおいて伝統的キリスト教がその真の福音(聖書の中心メッセージ)をもって、その変動の中で出てくる様々な問題に光を提供するのではなく、むしろ、伝統を守ることに傾いてしまったことです。


 その結果、教会と世の中とのギャップが広がり、それとともに深いレベルでの影響力を失っていきました。


 教えそのものも実は時代の流れの中で変質していきました。例えば、キリストは、社会的に見捨てられている人々に手を差し伸べながら「神の前における人間としての本当の価値」を教えられました。


 ところが、皮肉なことに教会自体の世俗化により、神を見失いかけ、人間の尊厳が個人主義的に解釈され、本来のキリストの教えとはかけ離れたものとなってしまったのです。



◆「キリスト教」と「キリスト」


 病めるアメリカと言われるなかで、もう一歩も二歩も近づいてみるなら、実際の社会や家庭の問題のただ中で多くの方々が神に立ち返り、キリストの力によって新たな人生を歩みだしているのも、紛れもない事実です。


 たしかに「キリスト教」にはそれほど力はないかもしれません。しかし、もし私たちが「キリスト」を受け入れ聖書の光によって生きるなら、「教会」や「キリスト教」がどうあろうとも、信じる一人一人の内側から作り換えられ、さらにその家族も、その回りも新しく造り変えられるのです。







人間関係のしがらみ


Q14                              目次へ  TOPへ


私はある人のことを赦すことが出来ません。聖書に7を70倍するまで赦しなさいとありますが、私には考えられません。忘れようとすればする程逆に怒りがこみあげてきます。いったいどうしたらこの問題から解放されるでしょうか。
 (30代  主婦)
 


  

A14


◆7の70倍


 罪ある世界においては、赦すことなしに人を本当の意味で愛することは不可能です。しかし、この赦すことがどんなに困難なことかは説明不要でしょう。


 この困難にさらに輪をかけるようにして恐ろしいことは、赦せないという現実があなたの生活を脅かし、性格を歪め、更にはあなたと、その周りにおられる方々の人生までも破滅に追いやるということです。


 聖書に7を70倍するまで赦しなさい(マタイ18:21〜35)とあることをあなたはご存じのうえで、それが不可能であると思っておられるようですが、そのこと自体は特別なことではないでしょう。


 しかし、私たちに赦すことが困難であるからこそ、そのあとの箇所が大切なのです。キリストはひとつの喩えを用いて教えておられます。それは、次ようなものです。


 ある王のひとりの僕がなんと1万タラント(20万年分の給料)も王に借金がありましたが、その全てを王に赦していただいたのです。しかし、その僕は100デナリ(100日分の給料)を貸している人が返さないので、その人を投獄しました。それを見て王はその僕をつれ戻し、負債全てを返すまで獄吏に引き渡した、というのです。




◆赦す前にすべきこと


 今あなたにとって必要なことは少なくとも3つあります。


 まず1つは、自分自身の神に対する罪の大きさを知り、認めることです。


 この喩えのなかに、示されているように、私たちが他者を赦すことが出来ないのは、人を赦そうとするまえに、まずどれだけ自分が赦されたのかを知らずにいるからなのです。法外な額に相当する罪が赦された、という深い認罪とキリストの十字架による赦しこそが他者の赦しの原点です。


 第2のことは、自分の罪ではなく、相手の罪に関してです。


 そのことを思い出すたびに怒りがこみあげて来るなかで、その相手を受け入れるとか、赦すということは限りなく不可能に近いでしょう。「相手の犯した罪は、正当に裁かれなければ気が済まない」とたいてい思ってしまうでしょう。しかし、いったい誰がその罪をさばくのでしょうか。


 聖書には、このようにあります。「愛するものたちよ、自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」(ローマ12:19)。


 もし、その方が本当に悪いのであれば、神ご自身が裁かれるのであって、あなたが裁くのではないのです。



 最後に、生まれながらの人間の努力によっては赦すことは出来ないということを銘記することです。


 努力による赦しは、むしろ危険ですらあります。もし相手が同じ様なことを繰り返したら、「あの時赦したのに、又やった。もう赦せない」と相手を、更に自分をも追い込むことになりかねません。


 人を赦す愛は人間の内からわき出るものではなく、神ご自身から与えられるものです。愛のない自分を認め、さらに、本当は自分こそ神の前に多くを赦された者であることを知らされ、謙虚に神の前に出るときはじめてあなたは解放されるのです。


 あなたに三浦綾子著『ひつじが丘』をお薦めいたします。




Q15                              目次へ  TOPへ


先日ある親しい友人が、「Aさんがあなたのことを悪く言っていたよ」と教えてくれました。Aさんのことは近い間柄だと思っていただけにショックで、これからどのように顔を合わせてよいか分かりません。
 (30代、主婦)
 


  

A15


 比較的信頼していた人が自分のことを否定的に思っているだけではなく、それを自分の知らないところで別の人に話したこと。しかもそれを後から別の方から知らされることは、本当につらいものです。




◆人間の弱さと醜さ


 私たちは人を理解しようとすることよりも、「あの人はああだからこうなるのよ」と、すぐに判断したり分析してしまいます。しかもそれを話のネタにしてしまうのです。


 「人のよしあしをいう者の言葉はおいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ」(箴言18:8)とあるように、気を付けていても、こういったわなに陥りやすいものです。しかし、こういったうわさ話は、人間関係を壊すものです。聖書も「人のことを言いふらす者は友を離れさせる」(箴言17:9)と警告しています。


 動機がそれほど悪くはないとしても、私たちは人の悪いところがどうしても目に留まり、自分のことは棚にあげてそれを指摘したり矯正したくなります。


 しかし、自分をかばいたいからか、本人に直接言うことがなかなか出来ません。それを押さえておくことが出来なくなると、結局他者に言ってしまうのです。




◆解決しようとする前に、、、


 この問題の只中にいる時は、冷静な判断や思い遣りのある態度がとれず、気付いた時には癒しがたい傷に苦しむことも少なくありません。


 なんとしばしばこのような問題が憎しみを生み、お互いを傷つけ、人間関係を破壊し、人を孤立に追いやることでしょう。


 今あなたは、Aさんを責めたいと思うかもしれませんし、その人への苦々しい思いから早く解放されたいと思うかもしれません。


 しかしその前に、人間の弱さの故に起きるこのような問題があなたの上に降りかかることをお許しになったのは、神ご自身であることをまず認めることです。そして、今神があなたをどのように導いてくださるかに心を傾けることです。



◆判断を遅らせる


 「人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである」(ヤコブ1:19)。まずこれを実行しましょう。すなわち聞くこと以外は、遅くすることです。


 怒りを遅らせる一つの秘訣は、判断を遅らせることです。すなわち何が本当に起きたのかすぐには分からない現実を認め、あなたの親しい友人の話をよく聞くことです。


 しかも友人といえども神様ではないので、聞き違いや勘違いも無いとはいえません。相手に悪意がないときもありますし、相手の誤解による見当違いの批判もあるでしょう。誤解が解ければ何でもないことなのに、判断を早まったがゆえに取り返しが付かなくなることは、まさに悪魔の思う壷です。


 しかし相手の中に悪意があることが明らかな場合、怒りを遅らせることは簡単なことではありません。「怒ってはいけない」と言って、あまり無理をしない方がよいでしょう。


 「怒っても罪を犯してはならない」(詩篇3:4)というみ言葉を思い出して下さい。ただ、復讐はしてはいけません。それは罪です。


 「愛する者たちよ、自分で復讐をしないで、むしろ神の怒りに任せなさい」(ローマ12:18)とパウロも勧めています。人間の限界を認めつつも、神の領域は犯してはならないのです。







男と女、独身と結婚


Q16                              目次へ  TOPへ


私は最近、このまま仕事をしても、何にもならない、と思う様になり、また結婚も考えることが多くなりました。でも、あせりばかりが先行してしまいます。どうしたら神様のみこころが分かるのでしょうか。
 (20代、OL) 


  

A16


◆「コマ」のように働く現代人


 はたから見ればこの就職難にあって人も羨む立場にあったとしても、人にはなかなか言えない心のあせりや空しさ、また漠然とした不安感にさいなまれることがあります。


 しかし、そんな心の状態を無視するかのように、現代社会の日々の忙しさは、私たちを容赦なく追い回し、気がついた時には自分自身を見失ってしまうことも少なくありません。


 現代人は表面上はしっかりと立っているかのように見えても、それはちょうどコマが回転してはじめて立っているのと同じです。


 仕事の忙しさに追われてグルグル回っている時はしっかりと自分の足で立っているかのように見えます。ところが、いったんストップして自分の人生や、自らの本当の姿を見つめると、たちどころにフラフラになって倒れてしてしまうのです。


 私たちは、コマのように忙しく回っていなければ立っていられない悲しい存在なのかもしれません。




◆クリスチャンになったとしても


 クリスチャンになったからといって、そういった問題から自動的に回避できるわけではありません。むしろ、そのような社会の荒波の中で生きる力と知恵を信仰を通して与えられるのです。


 ですから、倒れることを恐れないで、いったん忙しさの渦から出て、静かに神の前に出るときを持つことです。


 修養会や聖会に参加したり、時間を取って祈りの期間を持ったり、信頼できる友や先輩、叉は牧師と真剣に相談し祈ること。そのほか考えられ実現可能な事を計画し実行することです。


 「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。人の歩みは主によって定められる」(詩篇 37:7、23)。


 さらに聖書に、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道はあなたがたの道とは異なっている」(イザヤ55:8)とあるように、しばしば私たちには主のご計画や導きが見えないことがあります。同時に求めて来る者には、自らをお示しになるお方です。


 ではどのようにしてみこころを求めたらよいのでしょう。




◆みこころを知る秘訣


 私が聖書学院でこの問題に取りくまざるをえなかった時、ある宣教師を通してみ旨を知る3つの秘訣を学びました。それはこのようなことです。


 船が港に入るとき自分の船のポール、港の目印、そして遠くの灯台などの目印が一直線に並ぶように船を操縦するそうです。


 大事なことは3つのポイントが一直線に並ぶことなのだそうですが、みこころを知るためには、次の3つの点が大切だというのです。


 まず、真剣に祈ること。祈りの中で、主の導きをうけとると、そのことに心配や恐れがあったとしても、深いところで平安があります。


 次は、みことばに聞くことです。祈りの中で示された導きは常にみことばに照らし合わされる必要があります。


 最後に、神の選ばれた器(クリスチャンの友人、先輩、牧師等)に相談すること。


 この3つが一直線に並んだなら、それが最もみこころに近いということです。


 仕事を続けるのか、結婚するのか、するとしても、どなたが主の導きの人か、結婚したら仕事は、、、大切な事ほど簡単に答えはでません。


 自分がみこころをつきとめるのではなく、むしろ真剣に求めていく中で、主が思いがけないところから御旨を示してくださるということを忘れてはいけないでしょう。




Q17                              目次へ  TOPへ


聖書には、妻は夫に従うこと、女性は、つつましくしていなければならない、といった内容が書かれていますが、封建的で男性優位といった印象を強く受けます。男女平等を掲げる現代に生きる者としては、この教えを素直に受け入れるのが困難なのですが。
 (20代女性、学生) 


  

A17


 あなたがおっしゃるように、男女の関係において、聖書に書かれてあることと、現代の若い世代の考え方との間には、かなりのギャップがあります。


 ですから、聖書の教えをそのままでは、受け入れられないというのは、むしろ、あなたの自然で、素直な気持ちとして、受け止めることができます。




◆聖書の中での女性


 聖書の時代の女性は、現代の女性とかなり違います。今の基準でそのまま見ると、まさに男尊女卑ということばが当てはまるような、上下関係がありました。


 有名な五千人給食の奇蹟も、その五千という数の中に、女性と子供は含まれていません。しかし、そのような文化に実際に生きていた人々は、今の私たちが考えるほど男女の不平等を意識していたかは、疑問の余地が残ります。


 どちらにしても、こういった文化の中で書かれたことをふまえて聖書を読むと、あなたの感じておられることとは違った側面が浮かび上がってきます。



 多くの箇所で、妻は夫に服従するように、教えています。さらに、当時の女性の役割や立場を支持するような、ところも数多くあります。


 しかし同時に、キリストの女性への態度や、聖書の女性への基本的姿勢を、聖書が書かれた当時の男尊女卑ともいえる文化的状況を考えて見ると、驚くほど男女の平等を支持しています。しかも、それは革命的とすら言われる程のものと言われています。


 ではいったい、聖書における男女の平等とは、何をいうことなのでしょうか。




◆男女の違いと平等



 平等と一口に言っても、その意味合いは、視点によって大きく違ってきます。


 聖書には、創造者なる神が、人を、男と女とに分けてお造りになった、とあります。そこには、はっきりとした違いがあります。


 問題なのは、その違いを、画一的な物差しではかり、一方が他方より優れている、と価値判断を下すことです。これは、人間を人格的な存在としてではなく、物として扱うことになります。


 現代社会の一つの大きな問題はこの、誤った価値判断に基づく差別です。



 逆に、男性と女性の違いを強調することを、差別とみなして、男女の同一化や、その違いをなくしていくことによって、不平等を解決しようとすることも考えられます。しかし、これも聖書の見方とは異なります。


 違いがあるにもかかわらず、神の前には平等なのです(ガラテヤ3:28)。違うからこそ意味のある平等なのです。




◆家庭の秩序と男女平等


 不平等を感じるもう一つの要素は、夫と妻の家庭(又は、教会などの集団生活)における秩序の問題にあります。


 ある者は上に立って、指導力を発揮し、他の者は、下でそれを支え、助ける。秩序は、これが円滑にゆく為にあります。


 上にあるということで、下より価値があると言うのは、鼻の方が口より価値があるというのと似ています。偉いから上にあるのではないのです。


 確かに聖書は、妻は夫に仕えるべきであると教えていますが、夫はキリストが教会を愛したように妻を愛しなさい、とあります。キリストが自らを僕として仕えられたことを考えると、秩序は大切ではあっても、結局は仕え合うことにおいて平等なのです。




Q18                              目次へ  TOPへ


1ケ月後に結婚することになっているのですが、急にこのまま結婚しても大丈夫なのかなと不安になります。何かアドバイスをください。
 (20代女性、婚約中)
 


  

A18


 何か新しいことが始まる前に何の不安も心配もないとしたら、私には不思議なことです。その新しいことが人生にとって大切なことであるにも係わらず、何の不安も感じないとしたら、逆に問題でしょう。




◆「結婚」という旅立ちの前に


 結婚は、天地を創造された神が最初にお造りになった人間関係です。


 聖書は明らかに親子よりも、男と女とで構成される結婚の関係を全面に出して人類の創造を伝えています。


 旧約聖書の創世記第一章をみると、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(1:27)とあります。この「男と女」をお造りになられた様子が第二章で手に取るように描かれています。


 神は人を土のちりでお造りになってから、エデンの園におかれました。


 ある時「人が一人でいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:18)と主なる神が言われました。


 神のために独身で生きるように導かれる方もあります(マタイ19:12)。


 しかしあなたが結婚に導かれているのであれば、相手がどういう人であるかを問う以前に、まず「人が一人でいるのは良くない」という現実を謙虚に受けとめることが大切です。


 弱さや欠けをも含む深い人間理解、さらにその自己認識は、実りある豊かな結婚生活への第一歩なのです。




◆「出会い」の秘密


 「人生は出会いによって決まる」とよく耳にいたします。


 自分が誰と出会うかという以前に、自分の父と母の出会いのゆえに今の自分があるのですから、「出会い」は自己の存在の原点にも係わることです。


 さて人間の存在と同様、結婚も「出会い」なしには始まりません。出会いをどのように受けとめるかで結婚は決まると言っても、言い過ぎではないでしょう。


 出会いをどのように受けとめるかで、結婚は大きく左右されます。


 創世記2:18〜24を読んでみると、神はすぐに出会いを提供することはしませんでした。むしろ、様々な動物をアダムのもとに連れてきたと書かれてあります。彼は動物にそれぞれ名をつけましたが、当然のごとく「ふさわしい助け手」との出会いはありませんでした。


 彼は疲れたのでしょう、深い眠りについたのです。そして、神はアダムのあばら骨から一人の女、エバをお造りになり二人の出会いとなったのです。


 結婚の出会いは、人間の側の努力や営みを越えたところ、すなわち、神の導きのもとで起きるのです。




◆結婚にみる天国と地獄


 創世記を読み進むと、数章後にノアの洪水の出来事が記されております。そこに「神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった」(6:2)とあり、出会いの中に神の導きを祈り、認め、受けとめるということがないがしろにされたことが、悲劇的な結末への序曲となっています。


 宗教改革者のルターは、このように言ったそうです。


 「天国を見たかったら良い家庭に行ってみなさい。そこが天国に一番近いのです。地獄を見たかったら、愛し合っていない夫婦を見てごらんなさい。そこが地獄に一番近いのです。」


 天国と地獄の分岐点は、二人の出会いがその背後にある神の導きの中にあるか否かにあると言っても過言ではありません。



 あなたが、なにか不安を感じるということ自体が、確認しなくてはならないことが残っていることのしるしでしょう。


 お互いの性格、過去、生き方、趣味、夢、めざす方向、家の事情、正直な気持ち、等など、心配しだしたら、切りがないほどあるかも知れません。


 しかし最も心配しなくてはならないことが何であるかを見極めることが大切です。それは、この出合いの背後に、神の導きを確信しているかどうかです。




Q19                              目次へ  TOPへ


結婚して、今年で五年になりますが、すれ違う事ばかりで、お互いを見つめ合うなどということは、遠い過去のこととなってしまいました。相手を受け入れる努力をしても、相手のあらばかりが目につき、結局言わなくてもよいことを言ってしまうのです。
 (30代主婦) 


  

A19


「愛しあうことは互いに見つめ合うことではなく、二人が一つの方向を見つめることです」とサン・ラワジュヘリは言いました。


 ところが、現実は結婚して夫婦が全く別々の方向を見つめて歩んでいることが少なくありません。そのままでは、気が付いたときには、心も言葉も通じない関係になってしまうでしょう。


 この問題を聖書の光で考えてみたいと思います。


 まず、創世記2:24に「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」とあります。


 ここで、祝福された結婚の印として次の三つのことが挙げられます。




◆親からの自立


 「父と母を離れる」とは、単に距離的に離れるということではありません。社会的に、経済的に、精神的に、霊的に様々な点で自立するということです。


 健全な夫婦関係を築けない一つの大きな原因は、親離れ(子離れ)が出来ないことであると言われます。例えば、最近大人になれない大人が多くなっていると聞きますが、これは一つの現代病です。


 社会進出による夢実現の可能性を断念せざるを得なかった多くの母親は、夢を子供に託し、一方その子供は、母親の夢を背負って生きることになってしまったのです。


 さらに、高度成長の陰で核家族化という問題とともに、父親不在という過酷な家庭環境で、母と子供が癒着しやすくなってしまったのです。


 この癒着は、目に見えないところで、次世代の夫婦に陰を落としているのです。自分の親との関係の歪みが、自分の伴侶や子供との関係の歪みへと発展してしまうのです。


 ですから、「親から自立する」とは言っても、現実はそんなに簡単なことではありません。


 知らず知らずのうちに、夫は妻と自分の母親とを比較してしまったり、都合が悪くなると、自分の非を認めず、「育ちが悪かったからだ」などと親に責任転化したりします。


 妻も親の欠点を引きずっていることを棚に挙げて夫を非難したり、見下す様な態度をとることもあるかもしれません。「お互いを受け入れ合う」とか、「理解し合う」などということは、相手を責めるための標語と化してしまいます。


 人に厳しく自分には甘い罪深い私たちは、結局責め合い、傷付け合い、背を向け合ってしまうこともあるでしょう。こんなにも罪深い私たちを受け入れて、造り変えて下さる全知全能の神の愛ぬきには、夫婦の愛を育てることなど不可能です。


 それが出来ると思うことそのものが思い上がりといっても過言ではないでしょう。それほど人は罪深いものです。




◆結び合い、一つとなる


 次に、「結び合い、一つとなる」ということを考えてみましょう。


 一つとなることと同じになることとは似て非なるものです。同じものを見ても、男と女とでは、感じ方も捉え方も違います。一方があることで感動しても他方が、「それがどうしたの」と冷ややかな態度をとることはよくあることです。


 「同じように感動して欲しい」と思ったり、逆に「そんなつまらないことで一々さわがないで欲しい」などと思うことは、「同じにならなくては一つになれない」ということに他なりません。


 性格が違うからこそ引き合ったにも係わらず、いざ結婚して共に生活するようになると、その違いが逆に仇となったりする悲しい人間の現実と出くわすことが少なくありません。どうしたらよいのでしょう。


・・・・・


 一心同体という言葉がありますが、現実の多くの夫婦を見ると、これは限りなく不可能に近い言葉に見えてきます。


 結婚して多くの場合、お互いの考え方や感じ方、目の付けるところや関心事、さらには、味付けや歯の磨き方に至るまで、お互いが違うのだという現実に直面するのです。


 聖書には「喜ぶ者と共に喜び泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12・15)とあります。


 確かに、誰かと共に分かち合うことで喜びは倍になり、悲しみは半分になります。しかし、肝心要の夫婦の間では、相手の喜ぶ事にけちを付け、悩んでいるそばで、そんなことたいしたことではないという態度をとったりします。


 結局、喜びは半減し悩み悲しみが倍増する関係になってしまい、距離を置くことで自己を守らなくてはならないという、嘆かわしい状態となり、さらには破局へと転じていくことすらあります。



◆「違ったまま」で一つとなる


 一つになる事と同じになることとは似て非なることです。


 考え方や性格が違うので一つになれないと言うのは「同じにならなくては一つになれない」ということでしょう。しかし、違ったままで一つになることは可能なのです。


 それは、ちょうどコーラスのハーモニーと似ています。それぞれのパートは皆違った音を出すからこそハーモニーとなるのです。


 音色の違いがハーモニーとなるか雑音となるかの別れ目は、第一にお互いの音を聞き合っているかにあります。相手と自分の音の違いを理解し聞き合うことなしに違う音が「ハモる」ことは至難の業です。


 さらに大事なことは、各パートが指揮者(又はピアノの伴奏)に合っているということです。一人の指揮者にそれぞれが合わせるなら、違うまま一つになれます。違いがあるからこそハーモニーとなるのです。






子育ての悩み


Q20                              目次へ  TOPへ


結婚したら幸せになると思っていました。子供が生まれたら張りのある毎日がおくれると思っていました。でも現実はむしろ反対で、子供は言うことを聞かず、悪いほうへ向かって進んでいるようです。私は子育ての自信もエネルギーも失ってしました。
 (30代、主婦) 


  

A20


 悪い子供に育てようとする親はいませんし、悪いことを教える親もいないでしょう。しかし、子供が悪いことを何処からともなく入手し覚え実行するその手際の良さは、目を見張るものがあります。


 もしそれが全て良いことであれば、子育てがどんなに楽になるかとすら思えるほどですが、現実は逆のようです。




◆今家族が危ない


 現代の特に大都市に住む子供は、近所の友達と自由にしかも時間も忘れて泥まみれ(花まみれ)になって遊ぶ、ということが出来なくなっており、そのかわりテレビやコンピューター・ゲームがその友達となっているのが現実です。


 親の目の届かないところで、知らず知らずのうちに物の見方、判断の基準、価値観などが歪められてしまうという現実に直面しているのです。



 ところで、お袋の味の「お」がとれて、袋の味(インスタント)になり、その「お」がしつけについて、「おしつけ」となったと聞いたことがありますが、思い当たるふしはありませんか?


 今、家族は時代の流れの中で一つの曲がり角に立っています。学生時代までは、男女平等を味わってきた新しい世代において、特に女性にとっては、結婚することも、子供が生まれ親となることも、それ自体がある種の深刻なカルチャーショックであると言っても過言ではないでしょう。


 その中で、取り残されているような焦り、思うように行かない苛立ちと欲求不満、さらには、なにかに当たらないではいられない怒り。知らないうちに子供が犠牲になることも少なくありません。



 母親の過干渉に加え父親不在。やがて親の権威は失落し、何を言ってもこどもは上の空。こどもの心が将来を真剣に考える親にではなく、視聴率や儲けを優先せざるを得ない社会機構の何ものかによって奪われていったとしたら、何という悲劇でしょうか。



 この地上で、最も重たく価値のある掛け替えのない一人の人を育てるという事は家族全体に与えられた尊い責任であり、喜びでもあるはずです。


 ところが核家族化が進み、祖父母や父親の果たすべく全責任を母親が一手に担わざるをえない状況は、ほとんど選択の余地すらないほどです。そんな中では、母親が疲れ果て、喜びを失っていることの方が自然とすら思われます。


 疲れている自分を責める必要はありません。しかし、今のあなたは魂の底から休むことが必要です。




◆育児から育自へ、教育から共育へ


 私達が注意しなくてはならないことは、子供は親の所有物ではなく、神から預けられたということです。親が「自分の子なのだから、自分が思うように育てる」と言うのは、その子の人格を無視するばかりではなく、その子に生をお与えになった神をも無視することです。


 この私がその子の親とし選ばれ、その子をある短い期間、しかもその子の人生で最も大切な時期に預けられたのです。



 神がある特別な思いとご計画をお持ちになっておられることの前に、私達は謙虚になる必要があります。この大きな責任と働きに真剣な祈りなしにあたることは思い上がりでなくて何でしょう。


 実は育児を通して親自身もまた育てられるのです(育自)。大切なのは教育である以上に「共育」、すなわち神の前に共に育てられるということです。本当の意味で全て命あるものを育てて下さるのは父なる神だからです(第一コリント3:7)。




Q21                              目次へ  TOPへ


最近、近所の子供が 躾や言葉使いの点で悪影響をうちの子に与えています。うちの子は、その子を友達と思っているだけに、余計心配です。どこまで、子供の遊び相手をコントロールしてよいのでしょうか。
 (30代主婦) 


  


子供の将来を考えると、どんな影響の元で育っていくかは、重大な問題です。だからといって、親の思いだけで、子供の友達関係をコントロールしてしまうことも、かえって子供を傷つけてしまうことになりかねません。



◆この問題さえなければ・・・


「この何々ちゃんが、近くに引っ越して来なければ」「この問題さえなければ、今ごろ、もっといい子だったのに」と思うのは、確かに子を思う親心といえるでしょう。


 しかし、このような見方は過去にとらわれています。前ではなく後ろを向いて歩くと、つまずきやすく、むしろ怪我の元です。



 後ろを見るのは、今までの道筋を確かめ、今の現実を正しく理解し、将来への方向をしっかり見極めるためです。後ろ向きになって過去を呪うのではなく、前向きに後ろを見、未来に向かって次の一歩を確かめるということでしょう。


 大切なのは問題があるかないかではなく、どの様にして問題と取り組むかなのです。問題がどこにあるのかの正しい理解と共に大切なことは、取り組みの姿勢です。自分に問題があったなら、それを謙虚に認め正そうとする心の準備です。




◆何が本当の問題?


 実際、何が本当の問題かは、意外に見い出しづらいものです。


 あなたのお子さんの場合、必ずしも良い友だち環境ではないようですね。良い子に育つには、やはり良い環境こそ最も大切だ、ともいえましょう。反対に子供自身がしっかり躾られてさえいれば、環境がどうあれ、動じないのではとも思えます。


 あえて極端に言いましたが、大抵は環境の問題か本人の問題かと、この二つの間で揺れているのが現状でしょう。なぜなら、人間は環境に大きく左右されることも現実ですし、それを乗り越えるだけのものを、自分の内に持つことも不可能ではないからです。



 本人があまり悪影響を受けず、しっかりと躾られることは望ましいことです。さらに他者に良い影響を与えることが出来れば、それに越したことはないでしょう。


 しかし、実際はそんなにうまく行くものではなく、かえって悪い方に染まりやすく、その速度は想像以上に速いようです。ほっておけば悪いほうに行ってしまう。それが罪ある人間の悲しい現実なのです。




◆親がしてあげられること


 この問題が相当顕著な場合には、親の力で環境を整えることは、大切な親としての責任です。しかし、どんな環境の中にあっても流されず、何が神さまに喜ばれ、何が神さまを悲しませるのか判断できるように育てていくことは、さらに重大な使命です。



 また、近所のお友だちのことも、良く理解することが出来たら、何が問題なのか見えてくるかもしれません。問題と取り組む中で、心しなくてはならないことは、親子でこのことについて、話し合う時を持つことでしょう。



 良心の声と両親の声が一つにならないから、様々な悲劇が生まれるのだ、と聞いたことがあります。確かに親の責任を考えると、どれ一つとして、簡単なものはありません。以下にあげる有名な祈りは、示唆的です。



神よ、変えることのできるものについては、


それを変えるだけの勇気をわれわれに与えたまえ。


変えることのできないものについては、


それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。


そして、変えることのできるものと、


変えることのできないものとを、


識別する知恵を与えたまえ。(ニーバー)



 この親の責任を考えるとき、私自信も、主の前にへり下って、同じように祈らざるをえません。その意味で子育ては、教育ではなく共育なのでしょう。






キリスト教も信じるとなると


Q22                              目次へ  TOPへ


最近宗教にまつわる様々な社会的問題を耳にし、宗教というだけで、何か得体の知れない集団という異様なイメージが付きまといます。キリスト教は、それほどではないと思いますが、宗教のひとつと思うと、不可解な要素が多分に残るのですが . . . .
 
(20代男性、学生) 


  


 宗教は他のどの動物にも見られず、人間にのみ見られます。どんな未開社会であろうと、またどんなに文明の発達した現代社会にあっても、民族や時代を越えてあらゆる人間社会に宗教は存在しています。


 その意味で、宗教は人間を真に人間たらしめる重要な要素であるということができるのです。




◆世俗化、それとも宗教ブーム?


 日本においても、近代化と世俗化にともなって、宗教を基盤としていた伝統的な生活形態に大きな異変が生じました。戦争を境にそれはいよいよ顕著に現われてきたといえます。


 戦争中日本においては天皇が神の位につき、宗教は国家と結びつきました。しかし戦後、天皇の人間宣言によって、それまでの天皇を頂点とする国家体制が宗教そのものへの信頼とともに崩れさったのです。


 宗教はいよいよ形骸化し、人々の心は経済的、物質的豊かさに向けられてきました。



 ところが、現実には経済の高度成長にともなって、宗教がすたれるどころか、いよいよ活力を増していきました。世俗化がますます進む一方で、新宗教、心の時代、新々宗教と目を見張るような宗教ブームとなったのは、記憶に新しいことです。


 戦後社会の脱宗教化現象は、同時に心の砂漠化でもあり、世俗化が宗教ブームの引き金になったとすらいえます。




◆何で心を満たすか


 現代人の危機は、心の砂漠化そして魂の空洞化です。さらに、大きな危機は何をもってその空洞を満たすか知らず、魂が彷徨っていることです。


 どんなに文明が進み、生活が豊かになっても宗教がなくならない事実は、人類が共通してもつ魂の空洞という問題の根の深さを物語っています。同時に、この魂の問題に宗教がいかに密接な関係を持ってきたかをも示しています。



 空腹ならレストラン、病気の治療には病院、知識や知恵が必要なら学校や塾、日用品が必要ならスーパー等々、これらはみな大切なものです。


 では、魂の問題ならどこへ行ったら良いのでしょう。宗教でしょうか。



◆宗教の重要性とその限界



 確かに宗教は、何のために生きるのか、本当の幸せは何なのか、人はどこから来てどこへ行こうとしているのか、死んだらどうなるのか等、人生、真理、そして魂や永遠に係わる問題に対して真っ向から取り組んできました。


 実際、悟りを求めて努力や修行をする中で神秘的体験に入り、しかも時には常識を超えるようなこともあるかもしれません。


 しかし宗教はどこまでも、人間の側からの営みです。そこには限界があり、欠点もあります。「人間は最も崇高な存在であるにもかかわらず、動物のなかで最も醜いものになり得る存在だ」とよくいわれますが、宗教も人間の営みである故、崇高なものにもなり、逆に醜いものにもなり得ましょう。


 魂の真の満しは、人間の側からどんな崇高な宗教をもって追い求めても、空しく終わるでしょう。私たちを造られた創造者なる神ご自身の側からの働きかけによってのみ、真の満たしはあります。


 もともとこのお方によって私たちは生を受けたのですから、まず神の前に謙虚になることが、真に人間であることの原点です。そこにおいてはじめて宗教性(魂)、社会性、精神性のすべてが健全なかたちで満たされ豊かにされるのです。




Q23                              目次へ  TOPへ


私は、聖書がそれなりに、多くの人々に良い感化を与えてきた人類の宝であることは認めます。聖書を参考にする程度ならいいのですが、それを信じたり、その信仰によって一つの宗教に入るということには、不安と同時に警戒心をいだきます。
 (20代男性、学生) 


  


 宗教に対する期待感と不安(警戒)感は、あなたばかりではなく、多くの日本人が漠然と持っているようです。


 ここで私が気になることは、「聖書」と「宗教」へのあなたの気持ちが異なることです。今あなたから「聖書には、引き付けられるが、宗教はどこか危険なので、一定の距離を保ちたい」、という声が聞こえて来るような気がします。




◆宗教は危険?それとも安全?


 オウム真理教に係わる凶悪な事件以来、宗教に対する警戒心が、多くの日本人のあいだでひろがっていることを、様々な方々と接している中で感じざるを得ません。


 そういった中で、極端で不健全な警戒感があることを中川師はこのように語っておられました。一つの宗教を見て、「宗教は恐ろしいから、これからは一切近づかない」と言うことは、あるものを食べて食あたりをした方が「食物というものは恐ろしいから、これから一切食物を口にしない」と言うことと良く似ている、と。



 食事が肉体に欠かすことが出来ないように、宗教も魂を持つ人間にとって不可欠です。


 ですから、宗教に対して、「どれも皆いっしょだから皆危険」という軽率な判断による、否定的な態度も、「別に何でもいい」という安易な態度も問題です。大切だからこそ、慎重な態度が求められるのだと思います。




◆混迷する現代人の宗教意識と聖書


 教育的高水準をどこかで自負する現代の日本人は、自分と他者の常識的判断が重なる部分で、物事を捉える傾向があります。


 しかし現実は、情報過多と判断基準の欠如で、価値の混乱期を迎えています。現代における日本人の宗教意識ほど、この混乱を如実に物語るものは無いでしょう。


 「宗教は得体の知れないもの」また「どの宗教が本物なのか」という表現に示されているように、宗教とはいったい何なのかという指標を持ち合わせていないのです。まやかしのご利益宗教、偽の宗教の表面化に伴って、いよいよ人々の宗教観は混迷の度を深めています。



・・・・・


 さて、宗教は本来、真剣に人間の本質的な魂の課題に係わるものです。


 私たちは普段は気付かないでいたとしても、魂の深いところで、得体の知れない不安感、魂の空虚感をもち、また「何のために生きるのか」という根源的な問を持っています。いざとなると私たちを虜にする、この魂の問題に、宗教は取り組むべきものです。



 ところが、どんなに宗教の重要性を強調したとしても、それはあくまでも人間の側からの取り組みです。それであるがゆえに、魂の求めに対して限界があります。


 しかし、聖書はこの魂の問題に対する神からのメッセージの書なのです。人間の側からではなく神の側からであることに決定的な違いがあります。だからこそ永遠にベストセラーなのです。


 「参考にする」程度ならいいと言っておられますが、ぜひ本気で参考にしてください。そのなかできっと神はあなたに聖書の言を通して何かを語られます。


 まず聖書に「聴く」ことです。最も残念なことは、聴きもしないで、信じる、信じないと、議論することです。それは、いただいたCDを聴きもしないでいいとか悪いとか議論しているのと似ています。


 ベストセラーに聴かずして人生を終えて欲しくないのです。




Q24                              目次へ  TOPへ


教会ではよく人を罪人扱いし、あれも罪これも罪と堅苦しいことを言い、私など肩身が狭いです。この教会では、罪をどのように教えているのでしょうか。
 (30代、男性) 


  


◆酒タバコは罪か


 ある教派では、酒タバコは罪で、他の教派ではあまりとやかく言わない、という印象を持たれる方は少なくないでしょう。


 私たちはどこまでは罪でどこから罪ではないかと、線を引いて自分はあの人よりましだとか、この線がクリア出来ないから、私はいつまでたってもだめだと思いがちです。ですから、どこに線が引かれるかは気になるものです。


 何が罪で何が罪でないかの正しい線は大切です。しかし、その基準で罪の行為は判定出来ても、罪の本質を示すことは困難です。



 この教会では、聖書のメッセージを土台としています。ですから、聖書がどのように教えているかが、あなたへの答えといえます。


 聖書は、アダム以来、全ての人が罪のもとに生まれ、罪のない人などいないと伝えています(エペソ2:3、ローマ3:23、5:12)。即ち、罪を犯すから罪人なのではなく、むしろ罪人だから罪を犯すのです。


 罪は行為の問題以上に、存在そのものの問題です。たとえ行為を矯正してもその人の根本が造り変えられなければ、思いや態度など隠れたところで罪が再燃するでしょう。


 渋柿は実の問題である以上に木の問題なのです。




◆罪の本当の恐ろしさ


 「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ8:34)


 罪を犯すことでその罪(闇の力)が私たちを隷属し、私たちは自由を失うのです。奴隷は主人の命令に従う以外に道はありません。反抗すればする程惨めな結果になります。


 柿の喩えで言えば、渋柿はその木の指示どうりの実をつけた結果なのです。人間は神か罪(サタン)かどちらにつながっているかで決まると聖書は伝えています。


「いや、私は自分自身の力で生きている」と言うことは思い上がりであって、罪の元にいる証拠です。



 しかしどんな罪人でもキリストに接ぎ木されれば、まったく新しい実を結ぶことが出来るのです。







聖書と常識の枠


Q25                              目次へ  TOPへ
 

聖書の中に、キリストが水をブドウ酒に変えたり、湖の上を歩いたり、死人を蘇らせたり、というような奇跡さえなければ、信じることが出きるのですが。
  (30代男性、会社員) 


  



◆奇跡を締め出した世界


 もし聖書から奇跡を取り除き、自分が納得出きることのみを信じるとしたら、それは神を信じるというより、むしろ自分の理性を信じていると言うべきでしょう。


 しかし、人間の理性や知性は罪の故に「暗くなった」(ローマ1:21)結果、その理性によっては決して神を認めることは出来ない(第一コリント1:21)と聖書は伝えています。


 罪によって神と人間との間に壁が出来てしまい、奇跡としか映らないような祝福に満ちた神の世界を受け入れることが出来なくなってしまったのです。



・・・・・


 ところで、ノミをビーカーの中にいれその上に透明なガラスを置くという実験があるそうです。


 そのノミは元気よく跳ねると何かにぶつかるので、やがてぶつからないように一定の高さに加減して跳ねるようになります。その後で上にあるガラスを取っても、そのノミはいっこうにビーカーから出ようとしないそうです。


 自分の限られた経験によって、知らず知らずのうちに築き上げられた知識や常識という枠の中でのみ生きている、そんな私たち人間の姿を暗示しているようです。



◆奇跡を生み出す世界へ



 奇跡は私にとっても信仰のつまずきの石でした。


 奇跡を乗り越えられないのは信仰が足りないからだと思って努力したところで無駄でした。本当につまずいてしまったのです。


 しかし、そんな中で、頭蓋骨骨折という自分の命の危機にさらされた時、「納得し、信じられる世界」という枠内でのみ生きている自分自身の愚かさに気付かされ、真剣に祈りました。


 そして、奇跡を締め出した小さな世界から、奇跡を生み出す神の世界を受け入れる決心をしました。



 自分がつまずいたその石は、「信じられる世界」という殻を破り、私を信じられないような「奇跡を生み出す世界」に導いて下さったのです。




Q26                              目次へ  TOPへ


私にとって聖書は、日本人とは、かけ離れた民族のとても排他的な宗教のイメージが強く、とても難解で読みづらい本なのです。聖書がこの世の全てを創造した神が人類に残した唯一の真実の書であるのなら、どうしてもっと誰でも読みやすく、分かりやすい内容でなかったでしょうか。
 (20代女性、学生) 


  


◆聖書はむずかしい?



 聖書の難しさは、人によって違って受けとめられるでしょう。


 他宗教の難解な教典やさまざまな古典と比べるなら聖書はずっと分かりやすいと感じるでしょう。しかし、読みやすいエッセイや小説と比べるのなら、難しく感じます。



 あなたが言われるように、ユダヤ人を中心にして書かれてある聖書の民族色は、確かに聖書との隔たりを感じさせる要因となるでしょう。ところが、この民族性のなかに神の啓示のすばらしさがあらわされているのです。


 神は人類へのメッセージを、「哲学や理論的に整った神学をもって歴史や民族を越えた真理を伝える」、といった洗練された方法をおとりになりませんでした。



 むしろ、取るに足りない最も小さなイスラエルの民を選び  (申命記7:7)、奇麗ごとなどいっていられない現実の中に介入して、その民をつくり変え、彼らを通して神のすばらしさを伝えるという方法をとられたのです。


 多くの失敗の中で神の器へとつくり変えられていく、その彼ら自身の感動、賛美、信仰告白、そして、この歴史的事実の証言をもって神のメッセージが私たちに伝えられる。それが聖書なのです。



◆聖書は食物



 聖書は、私たちが一生涯かけて食べる命の糧です。


 神は、読み易くし、知識を与えることよりも、私たちがその命によって変わることを願っています。


 食物の栄養素が分からなくても、食べれば力がつくように、み言葉もまず食べる事です。


 み言葉はあなたをつくり変え、神の民の感動、賛美があなたのものとなるでしょう。それは、聖書との隔たりが縮まるどころか、一体感を味わう事なのです。


 「御言にはあなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブ1:21)




Q27                              目次へ  TOPへ


先だって何万年も昔の人骨が発見されたとのニュースが伝えられました。聖書にあるアダムの誕生が紀元前約六千年前とすると、地球上に何億年もの間恐竜が生存していた事実や、これらの年代のギャップはどう解釈したらよいのでしょうか。
 (30代男性、広告業) 


  


◆聖書と科学


  ひとつの科学的説明が本当に事実かまた真理といえるのかということは、その説明の土台となる理論的思考の枠組み(パラダイム)に依存していると言われています。


 ですから、新しい枠組みの登場によって新説が生まれ、今までの説が覆される可能性は常に存在しているのです。六千年、何十万、何億年という数字もいつ新説によって塗りかえられるか分かりません。



 ところで、物事を伝えるのには、色々な方法があります。


 ひとりの青年が、バスのあとを全速力で走っているのを、二人の方が、限られた紙面で描写したとしましょう。


 そのひとりは科学者で、青年の筋肉の動きや、運動 量と酸素の必要量、呼吸の激しさの相関関係、バスとの距離と速度関係を、見事に書き上げたとします。


 もうひとりは、その青年の親で、こう記しました。人目も気にせずバスを追う息子のあの走り方は、普通ではない。その呼吸の激しさは、バスに乗っている彼女への思いの激しさを物語っている。バスが、排気ガスをまいて息子から離れていく光景に、手に汗を握った。




◆科学の目と聖書の目


 科学者は「どのように  How」、親の方は「なぜ  Why」に焦点をあてて描いています。


 科学者がその青年の親に向かって、あなたの記述は科学的でないからでっち上げである、といえるでしょうか。親は、起きた出来事の中で、重要だと思われることを選んで書いたのです。



 聖書は、その親のとった書き方に近いのです。


 紙面に限りがあるので、私たちの科学的知性を満たすためではなく、人は何のために生き、なぜ死ぬのかという、人生において重要なことが選ばれ、書き記されているのです(ヨハネ20:30〜31、21:25)




Q28                              目次へ  TOPへ


聖書は、読んでも読んでも分からないことだらけで、途中で投げ出したくなります。人の勧めで福音書を読んでいますが、分かったような分からないような喩え話がのっており、なかなか理解できません。どうしたら分かるようになりますか。
 (30代主婦) 


  


◆「分からないこと」の大切さ


 分かるようになりたいという気持ちは、とても大切ですし、それが理解への第一歩ともいえましょう。私自信も、同じ気持ちです。


 ところで、自分の髪の毛の本数を、いったいどれだけの人が知っているでしょうか。私たちは、知っている世界がどれ程小さなものであるか、実は知らないのです。



 宇宙を研究する人も、生命体を研究する人も、物事が分かれば分かる程、分からない世界が広がると聞いたことがあります。


 ところで、現実の私たちは、時間と共に過去のことはどんどん分からなくなり、現在の事も、まして未来の事はほとんど分からない。人のことも自分のことも、ほとんど何も分かっていないのかもしれません。


 私たちの人生は分からない事、知らない事、分かり得ない、知りえない事々で包まれているとすら言えるでしょう。


 「知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」(第一コリント8:2)という謙虚な姿勢が、聖書を前にして大切なことです。




◆「分からないこと」とのお付き合い


 さて、あなたは分からないことと、どう付き合っていますか。その付き合い方で、人生は大きく違ってきます。


 聖書の読み方においても、分からない箇所とどう取り組むかは、重要なことです。分からないことの故に、いらいらする人、眠る人、投げ出す人、研究する人、疑う人、逆に信仰を厚くする人、と様々でしょう。


 分からない箇所があるという事は、聖書の世界が、あなたの分り得る世界より遥かに広いということです。


 しかし、今分かるみ言葉によってあなたの世界が広がり、やがて分かるようにさせていただけるのです。



 「分かった神は、もはや神ではない」と言われるように、私たちの脳で「分かる」という小さな世界に神ご自身が収まるはずはありません。ですから、神の言葉である聖書が、私たちの理解を超える大きな存在であるのも、当然といえば当然です。


 聖書にある奇跡が「信じうる世界」を超えるように、喩えもしばしば「分かりうる世界」を超えるのです。では、なぜキリストは多くの教えを喩えによってされたのでしょう。



◆喩えは奇跡を生み出す



 ルカ8:9〜10をよく読んでみると、主イエスが喩えを用いるのには、少なくとも二つの理由があります。


 一つは、神の国の奥義を明らかにすることです。奥義は、直接言語化し説明出来るものではありません。


 何十年ぶりに、自分の家族と再会するその喜び、愛する人を失う悲しみ、苦しみ。これらは、説明や言葉などに収めることが出来ません。


 神の国のすばらしさも、神から離れた世界の恐ろしさも、言葉を超えたものなのです。それを敢えて私たちに伝えるために、喩えをお用いになったのです。



 もう一つの理由は、神の国の奥義を覆い隠すことです。第一の理由と正反対です。


 信仰をもって神の言葉に耳を傾ける者、すなわち「聴く耳のある者」にのみその奥義が開かれ、それ以外の者には閉ざされるのです。



 まず自分が理解出来る喩えから信じるとよいでしょう。


 キリストのなさった奇跡は行為における喩えで、彼が語られた喩えは言葉における奇跡であるとピアーズが言ったように、主の喩えを信じるものには、それが現実のものとなる奇跡を見ることが出来るのです。







教会のイメージと現実の教会


Q29                              目次へ  TOPへ
 

長い歴史を持つキリスト教の教会は、どこか暗くて堅いイメージがあるように思いますが、いったい教会とはどのような所なのですか。
 (20代男性、学生) 


  


◆表面的イメージと中味


 あなたの持っておられる教会のイメージは、確かに日本にある多くの教会に当てはまるかもしれませんが、第一印象では分からない部分があります。


 とはいっても暗くて堅いイメージは気になりますが、見方を変えれば、厳かで落ち着いた所、静かで敬虔な時を持つ所とも言えます。しかし、明るく活発な教会も数多くあり、ちょっと目を世界に向ければ、一つのイメージのみでは捉えきれないほど、いろいろな教会があります。



 教会には見える部分と見えない部分とがあります。「昨日教会に行きました」、「その角に教会があります」と言う時、多くの場合、教会堂をさしています。それは見えるものです。


 立派な教会もあれば、まるで教会とは思えないような貧弱な建物に十字架が掲げられて、「何々教会」とあるものもあります。


 迫害の中にある中国においては、多くの場合普通の家が教会になっており、立派な会堂などありません。しかし、そこにおけるキリストとクリスチャン同士の生ける交わりは、人に本当の命を与えています。




◆教会は建物?それとも


 もうお分かりのように、教会は単に建物ではありません。


 「教会」と訳されているもともとの聖書の言葉は「エクレーシア」といって「神に召し集められた集団」という意味です。


 この言葉に少なくとも三つの要素が含まれています。


 第一に、教会は「集団」であるということです。それは、建物ではなく、人と人のつながりをさしています。


 ある母親が、「せっかく新築したのに、子供たちは食事が終わるとさっさと自分の部屋に入ってしまって・・・」と言って、家族としての絆が弱まった事を嘆いていました。神の家族である教会も、その絆はそれを入れる建物以上に大切です。


 教会はある意味で人と人の絆ですが、歴史のある教会を遠くから見ると、その絆の集合体は組織化され、堅苦しく見えるでしょう。


 しかし、一歩入ってその絆が何によって築かれ、豊かにされるかを知ると、人間的な組織という見えない器の中のさらに奥にある教会の真の姿が見えてきます。




◆教会はどんな人々の絆?


 「召された者」のキリストにある絆が教会です。


 第二の要素は「召された」ということです。


 それは、神から離れ空しく滅びに向かっていた者が、神の恵みと目的のゆえに救い出されたということです。どんなに地位が高くても、お金があっても、周りが羨む様な生活をしていたとしても、神から離れていては真の幸福はありません。


 聖なる神との関係を回復するために、イエス・キリストは十字架にかかり私たちの罪を解決して下さいました。



 教会は、キリストによって神との絆を取り戻し、本当の幸せを味わい始めた方々の集まりなのです。その方々が立派だから、能力があるから、潔い生活を送っているから集められたのでは決してありません。




◆誰が教会の中心?


 第三の要素は、キリストが教会の中心であるということです。


 「神に召し集められた集団」という意味のエクレーシアの主体は、常に神ご自身です。神と人、又人と人とをつなぐ絆は、キリストによって築かれ豊かにされます。ですからこの絆の中心はキリストなのです。


 人間の側からも確かに堅苦しいと見える教会もあるでしょう。中心がぼけて、人間的な組織や建物などでこの集団を守ろうとすると、堅苦しくなります。


しかし、もし教会の中心が見えてきたら、堅苦しいかどうかといったことは、それほど気にならなくなります。




Q30                              目次へ  TOPへ


日頃の生活や、教会に出席するなかで、あるクリスチャンの姿に幻滅してしまいました。こうなるのなら、クリスチャンになどなりたくないと思う程です。どうしたらよいでしょうか 。
 (30代、働く主婦) 


  


◆人を見るなというけど


 まず何より、人にではなく神ご自身に目をむけることが大切なことです。


 しかし実際は、見ることの出来ない神を見、嫌でも見えてしまう人の姿を気に留めないことは至難なことでしょう。脳裏からその姿を消そうと努力すればする程、かえって気になるものです。


 むしろ必要なことは、その現実をふまえ自分自身の姿を別の角度から見つめ直すことでしょう。



 教会は、キリストが居られる聖なる場所です。同時に聖人の集まりではなく、罪人が、キリストのもとに集まってくるところなのです。


 「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である」(ルカ5:31 )とキリストも言われたように、罪のない聖人にはキリストの救いも、教会も要りません。罪に苦しむ人のために教会は存在しています。


 ですから、教会は罪人の集まりと考えてよいのです。病気で苦しんでいる人を受け付けない医者がいれば、それは問題です。罪人を寄せ付けない教会があるとすれば、それはもう問題外といえるでしょう。




◆自分の本当の姿は?


 薄汚れた布を真白な布と並べれば汚れは目立つものです。ですから、教会ではもっと幻滅する可能性があるでしょう。


 きっとあなたに必要なことは、幻滅を避けることではなく、むしろそれを徹底することです。他者に対してではなく、自分の本当の姿がキリストの前で明らかにされ、自らに幻滅することでしょう。


 わたしも、罪に汚れた自分に幻滅しました。しかし、そんな自分をさえも受け入れ、ゆるし、新しくし、忍耐を持ってその成長を喜んでくださる神の愛に感謝と驚きでいっぱいです。


 ここにクリスチャンのめぐみがあります。このめぐみによってのみ、成長途上にある方の背後にある神の愛と忍耐が見えてくるのです。




Q31                              目次へ  TOPへ


いろいろな教会に行きましたが始めは良くても結局は満たされず、自分に合う教会を探しながら転々としてしまいます。どうしたら良い教会を見つけることが出来るのでしょうか。
 (40代、女性)
 


  


◆教会は皆不完全


 あなたが今直面している問題には、ふたつの側面があると思います。


 ひとつは、教会自身が持つ問題です。つまり、あなたが満たされない原因の一つは、教会に何らかの問題があるということが考えられます。


 確かに、ずっと同じ教会に通っている方の中にも、その教会で満たされないということもあるでしょう。



 現実には病気もせず、また欠点もない完璧な人間がいないように、問題のない教会はこの地上には存在しません。ですから、教会は祈りを必要としています。


 しかし教会が教会であるのは、問題が無いことによるのではなく、問題をも通して神のみ業が現されるところにあります。




◆誰が教会を選ぶのか?


 あなたの直面している問題のもうひとつの側面に移りましょう。それは、教会というよりもあなた自身に係わることです。


 私が心配なのは、苗木を転々と植えかえたら育つ木も育たなくなるように、あなたが教会を転々としているうちに、霊的命を失ってしまうことです。それは、サタンの願うところです。



 あなたが気付かなくてはならないことは、「自分に合い満たされる教会を探す」ということの中にある落とし穴です。それは選ぶ主体があなただからです。


 その場合、欠点が見えてきたり、問題にぶつかった時に立ち戻るところは、自分の選択です。「こんなことになるのを知っていたら、選ばなかった」と思い、選択し直すでしょう。


 しかし教会は自分で選ぶのではなく、むしろ主が既に選んだ教会に導かれるのです。問題にぶつかって立ち戻るところは、自分の選択ではなく、神ご自身の選択です。


 「こうなるのを知っていた上で選ばれたのだ」と受け取り、その問題と取り組む中で、成長していくのです。そこに真の満たしがあるのでしょう。




Q32                              目次へ  TOPへ


教会に行かなくても、自分で信仰をしっかりもっていればそれでよいのではないでしょうか。
 (40代  主婦)
 


  


◆信じることは教会に行くこと?


 教会に行くことと信仰をもつこととはまったく同じことではありません。だからといって、まったく別々なことでもないでしょう。教会生活と信仰とはどのように係わるのでしょうか。



 教会はよく神の家族と言われます。「家族」は人が生まれ、育まれ、成長し、人間らしく生きられるように神が創造された神聖なものです。「教会」も同様に、神がキリストにあって創造された神聖なものです。


 救われクリスチャンになったということは、この神の家族と縁の無かった者が、キリストを信じることによって、その家族の養子として暖かく受け入れられたということです(ガラテヤ書 3:26〜4:7)。


 その意味では、信じることは神の家族の一員となることであって、教会に行くということはその自然な結果といえるでしょう。



 ところが、極端に信仰と教会とを同一視することは、危険なことです。信仰はすなわち「教会に行くこと」叉「奉仕すること」となってしまいます。そうなると、行いが全てになり、信仰や魂に関する根本的なことが欠落してしまうことにつながります。


 それは放蕩息子の兄と同様であるといえます。彼は父の家にいて、行いにおいてはそれなりのことをしていたにもかかわらず、心は父から離れていたのです(ルカ15:11〜32)。




◆信じることは教会と関係がない?


 「教会に行っている」ということだけで「信じている」ことにはならないでしょう。


 聖書には教会にいかなくては、救われないと書かれてはいません。救われるのはイエス・キリストを信じる信仰のみによるのです(エペソ2:8)。ですからあなたの考えは、ある意味では理がとおっていると思われます。


 確かに教会にいくという「行ない」は信仰そのものではありません。しかし、長期の病床生活、その地域に物理的に教会がないなどの特別な状況を除いては、信仰と教会生活を切り離すことは問題です。


 ちょうどそれは、結婚と結婚生活を切り離すようなもので、健全な状態とはいえません。



 ローソクは、一本だけでは心もとなくても、何本も集まれば、明るさを増します。たとえ自分の灯が消えかかってもまわりから火を分けてもらうことが出来ます。


 「私は自分の火だけでやって行ける」と思うことは、ある種の思い上がりといえるでしょう。また、教会生活ぬきで自らの信仰を育てるのは、土なしで植物を育てるようなもので、非常に難しいことです。


 実り豊かなクリスチャン生涯をおくるためには、どこかにしっかりと根をはる必要があるでしょう。




◆今あなたにとって大切なこと


 しかし、わたしが気がかりなことは、あなたが「信仰と教会生活」の問題を質問として挙げていること自体に秘められたあなたの霊的健康状態、また実際の教会生活にかかわるなんらかの問題です。



 あなたの質問そのものにしっかり取り組み、信仰と教会生活との関係を正しく知ることは大切です。しかし、それ以上に、質問や疑問はあなたという存在全体の氷山の一角です。


 あなたはその質問に秘められた問題、そして自分の信仰の状態に気付かされ、なんらかの行動をおこす必要があります。それは神様からの豊かなめぐみと力をいただくことにつながり、主がゆるされた成長の機会です。







「信じたい」でも「信じられない」


Q33                              目次へ  TOPへ


信じるならばキリスト教と思ってはいても、いざ「信じる」となると一歩ひいてしまいます。信じたいのにどこか信じきれない今の状態から、どうしたらぬけることが出来るでしょうか。
 (20代女性 、学生) 


  


◆「信頼」に値するか


 キリスト教が聖書を通して伝えてきたものが、信頼に値するかの判断が、その内容を正しく知ることなしになされることは、実に残念なことです。



 「信じる」とは「信頼する」ということです。ここで大切なことは、信頼する相手と信じる自分の態度です。信じる対象と信じる本人です。


 全く知らない人を信頼することは難しいことです。まず、相手を知ることが、信頼への大切なステップです。思い込みや偏見は、相手を正しく知ることを妨げます。


 このことは神(キリスト)にたいしても同じことです。



 次に、信じる「本人(私たち)」について考えましょう。「完全に知り納得がいくまで、信じない」という態度は、問題です。これは、神を人間の理性の枠内に押し込めることに外なりません。


 飛行機に乗るとき、あの鉄の固まりが空を飛ぶことが分かるまで乗らない、とすると、私など一生乗れないでしょう。


 自分の理解という枠内で生きる、と考えるとゾッとします。分からなくても、信頼するから乗るのです。信仰の決断は、これとよく似ています。




◆具体的な一歩


 私たちが救われて神の祝福の中を生きることの出来るのは性格や行いの善し悪しでなく、ただ信じることによるのです。


 「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(ローマ10:10)。ですから、今のあなたに大切なことは、正しくキリストを知ること、信仰の決断、そして、どなたかに、信じたことを告白することです。



 しかし「信じる」というひとつのことも、経験のレベルでは十人十色です。また、信仰は罪に汚れた人間の本質と永遠の救いに係わる大切なことです。


 ぜひ、クリスチャンの友人か教会の牧師に相談されることをお薦めいたします。




Q34                              目次へ  TOPへ


最近なぜか友人からキリスト教の話しの入っているテープを借りて聞いたりしていますが、「とにかく信じることです」とか「理屈や説明ではなく信仰です」などと言われても、私にとっては抽象的で、雲をつかむような感じです。信じるとはどういうことですか?
 (30代、フリーター) 


  


 テープを聞き始めたとのこと、本当に嬉しく思います。きっといろいろ教えられる事も多いと思います。聖書からのメッセージは国境も文化も時代をも越えて、あなたの人生に語りかけてくるからです。



◆「そこが知りたい」のに・・・


 教会で語られる聖書の話は、たいてい限られた時間のなかで結論に持っていかなくてはならないので、どうしたら問題が解決するのかについての具体的な事々について省略してしまうことも少なからずあります。


 しかも、「これこれこうすることが今のあなたに必要です」などと具体的に話すと、差し障りがあったり、状況や事情に合う人と合わない人とが出てしまいます。


 ですから初心者にとって分かりづらくなり、「そこが知りたいのに・・・」と思わず心のなかでつぶやいてしまうのも多々あるでしょう。


 私もメッセージを伝える側に立つ時の悩みの種です。でも「仕方がない」といってあきらめずに質問されるあなたの姿勢こそ祝福への第一歩です。




◆「信じる」とは?


 では信じるとはいったいどういうことなのでしょうか。


 聖書にはこうあります「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉からくるのである」(ローマ10:17)。


 実は信じるという事の前にしなくてはならないことがあります。それは「聞く」ということです。信じるとは何かをすることではなく、神の前に聞こうとする姿勢から始まるのです。


 あなたがテープを聞いて、しかもこの質問を投げかけられていること自体のなかに、信仰は始まっているのです。



 ただ、いまのあなたに必要なのは、引用した聖書のみ言葉の後半の部分に示されているように、み言葉から何を聞くべきかということです。


 「聞くことはキリストの言葉からくる」(ローマ10:17)とあるように、大切なのは「キリストの言葉」を聞くことです。キリストが聖書の言葉を通してあなたに「語りかける」のです。


 ですから聖書を単に知恵の言葉や教訓として読み、「聖書にはなかなかいいことが書いてある」ということに留まるのではなく、「文字を読む」ことから「語りかけを聴く」ことへ進むことが大切です。


 聖書に「人は神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)とあるように、目で文字を追うのではなく、神の口からの言葉を魂の耳がとらえることこそが、人が本当の意味で生きる為の忘れてはならない条件なのです。




◆どうしたら神の声が聞こえる?


 神の声が聞こえるなどと言うと、何か怪しいことのように感じるかも知れません。


 実際、「私は神の声を聞いた」と、まるで自分に特種能力があるかのごとく言うとき、それは怪しいものです。聞くことは能力の問題ではなく姿勢の問題です。


 車から降りて、路肩にそっと咲く一輪の花に身をかがめて初めてその香りがわかるように、一切を中断して、聖書の前に ひざまづき謙虚に静まる時初めてみ言葉が神の口から微かに、そして確かに聞こえてくるのです。


 信仰とは信じ込む努力でも能力でもありません。雲をつかむような議論で分かるものでもありません。具体的にみ言葉に耳を傾けることであり、語られたことに応答することなのです。


山口博子さんがこのように唄っていました。



 目を閉じなければ見えない世界がある。


 口を閉じなければ、言えないことばがある。


 耳をふさがなければ、聞こえない声がある。

 歩み止めなければ、会えない人がいる。



Q35                              目次へ  TOPへ


宗教を信じている方々は、大抵その教理をもって説得しようとします。ところがクリスチャンと接していると、教理は弱いようですが、「神と出会った」といった自分の体験を話す人が多いようです。そのへんにキリスト教の特殊性があるのでしょうか。
 (30代 男性 大学院生) 


  


◆神経験の独自性はどこに?


 あなたのおっしゃる通り、クリスチャンは経験を重んじ、大切にします。それは、教理よりも個人的神との出会いの経験こそが、信仰の原動力だからです。


 教理は、その経験を整理するための二次的なものといえます。


 だからといって、その信仰経験にキリスト教の独自性を求めることは出来ません。むしろその経験をもたらして下さる神ご自身に求めるべきなのです。



 クリスチャンの信じる神は、天地万物を創造された唯一絶対なる神です。絶対とは対立を絶つということです。


 聖書にこのように宣言されています。「いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である。わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない」(イザヤ46:9)。


 どんな立派な宗教も、どんな偉大な宗教家であっても、創造者なる神と比べうるものはないのです。ここに独自性があります。




◆全人格的関係


 ではなぜ経験を重んじるのでしょうか。


 それは、信じる対象に関係があります。クリスチャンは、キリスト教という宗教を信じているのではなく、絶対者なる神を信じているのです。


 もし宗教を信じているのであれば、その概念化された教理、または象徴化された儀礼は信仰の中心的存在でしょう。「教え」を信じるのであれば、説得や納得は大切です。



 しかし、創造者である人格的神を信じるのであれば、人間の理性は、あまりに小さすぎます。


 たとえば、「結婚」は一人の伴侶との人格的な関係を基礎にしています(願わくは)。それは、数字や学歴などのデータ(情報)として、相手を知るのではなく、また日々の経験を基礎とし、過去も未来も共有するような全人格的関係をもって相手を知るのです。理性だけでは割り切れない関係なのです。



 人格的神との関係を理性に押し込めようとするのは、太平洋の水を小さな胃袋に入れようとするのと同じです。


 あなたを人格あるものとして造られた方は、人格的交わりを求めて聖書を通して語りかけているのです。


 それは、非人格的な教理や儀礼を超えた全人的経験の世界であり、頭のみならず、体も心も魂もすべてが関わることなのです。




Q36                              目次へ  TOPへ


教会でのメッセージの中で、感謝しなさいとか、喜ぶことですとか言われても、現実を見るとそれどころではありません。「喜べないような状況の中で辛いからこそ教会にきているのに」とすら思います。自分を偽ってまで感謝すべきなのでしょうか。
 (30代主婦)
 


  


 感謝とか喜びというものは、「しなさい」と言われて出来るものではないでしょう。むしろ自然にわきあがってくるものだと思います。


 「作り笑い」は出来たとしても、「作り喜び」など出来るものではありません。感謝や喜びはきっと人間の深いところと関係しているからでしょう。




◆自分に正直になる


 自分を偽ってまで感謝することは難しいことであるばかりか、そのような無理をすることで、「クリスチャンらしくならねば」という律法主義的な信仰生活に陥ることも考えられます。


 ですから、自分を偽らず、感謝できないときには、「できません」と正直に祈ることをお勧めいたします。


 祈りの書ともいわれる詩篇を読むと、とうてい感謝などとは程遠い現実の叫び、恐れや不安、また憤りや復讐心が正直にまたあるときには露骨に表現されています。


 神の前では飾ることなく、自分に正直になることは、とても大切なことです。それは不信仰なのではなく、むしろ信仰への第一歩です。



 自分に正直になることと、自分の気持ちに捕われる事とは、似て非なるものです。捕われるとは、自分の恐れや不安、怒りや不満といったもので心が支配されてしまい、これらの気持ちに自分が振り回されてしまうことです。


 しかも、まわりの人まで振り回してしまうのです。そこには自由はなく、感謝や喜びなど入り込む余地すらないほどです。


 自分に正直になることのひとつの方法は、それを自分の中に閉じ込めておくのではなく出してしまうことです。つまり自分の気持ちを適切な相手にぶつけることなのです。


 問題は、私たちが相手を間違えてかえって事を悪くしてしまうことです。




◆誰に自分の気持ちをぶつける?


 一番手っ取り早いのは、近くにいる人です。自分の子供であったり、伴侶であったり。誰にもぶつけることが出来ず、胃潰瘍になる事もあるでしょう。


 それは結局自分にぶつけてしまったことになります。


 主イエスは、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われました。


 「わたしのもとに」すなわちまず何よりも主のもとに行くことです。言い換えるなら、何よりまず祈ることです。本気で神に訴えるのです。



◆祈りは現実からの逃避では?


 ここでいう祈りは現実から離れて祈りの世界に逃避することではなく、むしろ現実を神にぶつけることです。


 しかし「生身を持つ私たちは、具体的なこの地上の誰かにぶつけるまでは、おさまりがつかない」と思うなら、「この気持ちを誰にぶつければよいのですか?」と祈ってはいかがでしょうか。


 もし主が沈黙されるのなら、「主よ、夫に(妻に)ぶつけますからいいですね」と具体的に祈ってから行動することです。


 
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(第一テサロニケ5:16〜18)。


 このみ言葉をよく読むと、喜びと感謝の真ん中に祈りがあります。


 このみ言葉は実現不可能なお題目ではなく、「苛立つ現実のただ中に祈りを持ち込むことによって必ずや喜びと感謝が生まれる」という約束でありチャレンジです。







生と死の境界線


Q37                              目次へ  TOPへ


死んだ後に天国や地獄があるという教えは本当でしょうか。死んでしまえば、人は灰となりそれで終りなのではないでしょうか。
 (10男性、学生) 


  


◆死を境に人はどうなる?


 人がもし肉体だけで存在の全てだとしたら、死は灰、叉は土に戻ることで終りでしょう。


 しかし人間は単に肉体だけではありません。レントゲンや胃カメラ、さらにどんな最先端の医療機器をもっても見いだすことの出来ない魂があります。


 人類は未だに「生命」そのものを解明出来ていませんし、魂についてはなおさらです。解明されていなくても、現に命はありますし魂もあります。


 「死」を境にして肉体は全く様変わりをして存在し続けます。


 では魂の方は死を境にしてどうなるのでしょうか。生死の境を行き来した方々の経験 (near death experience) をまとめた本がよく売れているそうですが、今も昔も死後の世界は人類の謎なのです。




◆死後の世界


 死後の世界は、「人は仏になる」とか、「輪廻の原理で何かに生まれ変わる」、「天国と地獄がある」、「灰と化し何も残らない」等、いろいろな説明があります。


 理屈や証明、また理解を越えた世界ですから、どれが本当か人間の側から判断することは死を経験すること以外に不可能でしょう。


 大切なのは、いろいろな説を比較し最も納得のいくものはどの説かを問うことではなく、むしろ命や死、さらには死後について真理を語りうる存在はどなたなのかを問うことです。



 はたして命の創造者以上に、死と死後について真理を語る資格を持つ方がいるでしょうか。私はその創造者なる神を信じ、その神が人類に贈られた聖書の伝えることを信じています。


 聖書には、死後さばきがあることと、そして救い(天国)と滅び(地獄)が明確に示されています。さらに、黙示録には解釈の難解な深い真理も隠されています。


 生きているものにとって最も確実なことは、必ず死ぬということです。逃れることの出来ないこの死という厳粛な問題を、あなたはどなたに委ねますか。




Q38                              目次へ  TOPへ


世の終りに関する「ハルマゲドン」といった言葉をよく耳にする今日この頃ですが、この言葉は聖書からとられたと聞きました。キリスト教では、「ハルマゲドン」や終末をどのように教えているのですか。
 (20代男性、学生) 


  



 アメリカのある科学誌に世界大戦以来「運命の日の時計(終末時計)」というものが掲載されているそうです。


 それは、核戦争による地球破滅の瞬間を午前零時に設定し、米ソの緊張が高まると時計の針は進み、軍事交渉などがうまくいくと三分前から六分、十分前と修正されます。


 冷戦が終結したことでその時計の針はかなり逆戻りされたことでしょう。


 世の終りは核戦争によるとは限りませんが、この時計は、世の終りがやがて来ることを警告している点で象徴的です。




◆なぜ冷戦後に終末論?


 冷戦にピリオドは打たれたとしても、それで平和が来たわけではありません。


 世界各地の民族紛争、深刻な環境問題、いつ襲ってくるか分からない大地震、ガスや爆弾による無差別殺戮の恐怖等、世の終りが近いことを感じざるを得ません。


 ある種の新興宗教においては、ノストラダムスと同様に、自己流の終末観にもとづいて聖書の黙示録を利用し、終末への恐怖心を煽るのみならず、極端な行動を駆り立てているのが現実です。



 問題は聖書の終末預言と様々な終末予言といわれるものとのギャップです。


 黙示録は象徴や隠喩を用いて隠された真理を伝えるといった黙示文学の形態も含まれるゆえ、極めて慎重な解釈が要求されます。


 軽率な解釈で人を惑わすことは自ら滅びを招くことにつながると聖書は警告しています(2ペテロ 3:16 )。




◆「ハルマゲドン」とはなにか


 「ハルマゲドン」という言葉は黙示録 16:16 に出てくるひとつの地名です。


 「ハル」は山を意味し、「マゲドン」は旧約聖書の「メギド」が語源だとされています。この言葉は戦場として有名な「メギド」(士師記5:19、列王記下9:27、23:29 他)という地名に由来しています。これらが結合して「メギドの山」という意味になります。



 「ハルマゲドン」 黙示録 においては、神と悪の霊(サタン)との最終決戦の場として描かれてあり、神の側に勝利が約束されています。


 これが実際に何を意味しているのかを知るためには、旧約聖書(特にダニエル、エゼキエル書)の内容が明らかにされたうえで慎重に解釈されることが必要です。




◆世の終わりの前兆


 聖書は地上の人生に死という終りが来るように、人類の歴史にも終りが来ることを明言しています。


 キリストご自身も、終りの日の前兆として次のようなことを挙げています(マタイ24:4〜14)。


(一) 偽キリスト、偽預言者の登場、

(二) 戦争と戦争のうわさ、

(三) 飢饉や地震といった天災、

(四)人々の愛が冷え、

(五)憎しみ、裏切り、不法がはびこり、

(六)全ての人に福音が伝えられる。

それから終りが来ると教えています。



 個人においても国家や人類といったレベルにおいても地上の終りがあり、そして神の審判の前に立たされる時が来ます。


 「終りの日」は父なる神のみがお定めになるのであって、それがいつであるかはキリストも知らされておらず(マタイ25:36)、まして人間には全く隠されたものとされました。


 ある新興宗教がするように「終りの日」を特定することは許されておらず、その行為自体が神への反逆です。


 今、私たちに大切な事は、「備える」ということです。


 それは、脅えつつ生きることではなく、むしろいつ終りが来てもよいように、罪を悔い改め神の前に敬虔に生きることです。それによって平安をもって今を精一杯生きることが出きるのです。




Q39                              目次へ  TOPへ


占いは良くないと聞きましたが、それは悪霊と関係があるからでしょうか。雑誌に掲載されている様なものはかまわないと思うのですが。
 (10代女性、学生)
 


  



◆「未来」という不安


 遠い未来が近付き、そして「今」となる。


 今という一瞬一瞬は絶え間なく過去となり、やがて遠く離れ記憶からも消えていく。人間には、回想や想像によって過去や未来に思いを馳せることは出来ても、現実に使える「時」は「今」という時しかないのです。


 私たちは時の流れに逆行したり、飛び越えたりすることが出来ません。


 どんなに悔やんでも過去に戻ることは出来ませんし、未来も、「一寸先は闇」というように、いつ思いがけない事が起きるか分りません。


 幸せの絶頂にいる方がかえって不安になるのも、未来が濃い霧に包まれているからでしょう。



 未来への不安は、現在の生活を脅かします。また、未来や将来が霧で見通しが悪いと、現在を生き生きと全速力で走ることは困難です。未来を知ってみたいという人間の願望は、切実なものです。


 最近、未来学 (Futurology)という 学問が出てきましたが、現実の社会は予測のつかない突然の出来事によって大きく左右されます。


 科学の光をもっても見ることの出来ないこの霧の向こうを人々は昔から占いによって見ようとしてきました。




◆占いの恐ろしさ



 しかし、聖書では占いをしてはいけないと、はっきり伝えています (レビ記19:31)。


 占いは神への不信仰の現われであり、それで未来を捕えようとすると、逆に「占いの霊」があなたを捕え、未来への不安に付け込んで人生を振り回します(使徒16:16〜24)。



 大切なのは、越えることの出来ない「時」という人間の限界を謙虚に認め、時を支配される神に人生を委ねることです。


 そうするとき、神は未来への希望とヴィジョンを与えてくださり、今を精一杯生きることが出きるのです。




Q40                              目次へ  TOPへ


母から形見として預けられた数珠を持っているのですが、それは他宗教で使われるものなのでクリスチャンとして捨てるべきなのでしょうか。
 (30代男性、サービス業)
 


  


 自分を産み育ててくれた母親への思いをその数珠を大切にすることであらわしたい。しかし、その数珠が他の宗教の神と係わりをもっており、唯一の神の前に喜ばれることではない。


 このように、人間としての自然な気持ちと、自分の信じる神への信仰が対立してしまうことは異教国日本においては、クリスチャンが避けて通れない悲しむべき現実です。


 物事を極端に取り、数珠を持っていると救われないとか、クリスチャンになるということは人間をやめること、などと考えるのは問題です。


 また、数珠は単なるひとつの物体だからそんな真剣に考えなくてもよい、という態度も問題です。




◆聖書の光にてらすと


 ではどうしたらよいのでしょうか。まず聖書に立ち戻ることです。


 もちろん、聖書に安直でインスタントな答えを求めることは筋違いです。しかし祈り心をもって真剣に求めるのなら、神の喜ばれる道とそれを実行できる力を与えてくださいます。



 聖書は「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20:2〜4)とはっきりと命じています。


 また、「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト20:12)ともあります。


 神か親かという一方だけではなく両方がここでは含まれています。それと同時に、順番も含まれていることを見逃してはならないのです。


 ですから、まず「神は何をお喜びになるのか」ということを祈り求めていくなら、「父と母を敬い」人間として自然に持つ親への思いを表す道が与えられます。


 ではそれはどういったものなのでしょうか。




◆解決への道


 親を大切にしたいという思いと、唯一の神のみを神としたいという信仰とが対立しているかに見える現実の中で、クリスチャンとしてどう対処すべきなのでしょうか。


 まずこの問題に対する私たちの基本的な姿勢、すなわち神を第一とすることが、何よりも大切なことです。その中で親を大切にする道が開かれます。では神第一とはどうすることなのでしょうか。



 まず、こういった問題の中に自分がおかれていること自体に、神の特別なご計画があることを受けとめることです。この問題は、きっとあなたにとって信仰のチャレンジでしょう。


 つぎに祈りの中で与えられた神の導きに従うことです。私の知るかぎり、この問題に三通りの方向があります。


(一)その数珠は、他宗教の神と係わりを持たないひとつの芸術品なので、保管しておく。

(二)その数珠が、偽りの神と係わり、その事実が主に喜ばれないことが示され、焼き捨てる(何らかの方法で処分する)。

(三)その数珠は、芸術品ではあるが、他宗教で使われたので、牧師又は力ある祈り手にお願いして、特別に祈っていただいたうえで保管する。


 これ以外にもたくさんの可能性があるでしょう。


 しかし、大切なことは真剣な祈りの中で示された主の導きに従うことです。


 ですから第二の導きが示されたら、焼き捨てるべきでしょう。


 神に従って誤解されたが、やがてその親もこの唯一の神に導かれた、という生きた証に出合うたびに、真の親孝行はその親を誰よりも愛する神に従うことだと確信させられます。







祈りは本当に聞かれるか


Q41                              目次へ  TOPへ


家内安全や商売繁盛を願う宗教はご利益宗教なのであって、キリスト教はそういうものとは違う、と聞いたことがあります。それでは、自分の幸せを願うことはいけないことなのでしょうか。
 (40代、主婦) 


  


◆キリスト教はご利益宗教?


 キリスト教は聖書のメッセージを土台としていますので、聖書が何といっているかが答えとなります。


 ところがその聖書は、一方では「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ 16:25)とあり、自己否定の道が示されております。


 しかし他方では「祈るとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイ21:22)ともあります。


 
 これらのみ言葉は矛盾するように見えますが、どちらも最終的には幸せが与えられるという点で、重なるところがあります。


 聖書はある意味で本当の幸せがどこにあるかを伝える書物です。ある敬虔な牧師は、「キリスト教は、究極的には真の意味でのご利益宗教だ」と言いましたが、わたしも同感です。


 しかし、一般的に考えられているご利益宗教とは、多くの点で異なります。




◆ご利益信仰と人格的信仰


 信仰者の在り方という側面から比較してみましょう。


 いわゆるご利益宗教においては、世界の中心に自分がいます。自分にとっての利益を願い、良いと思えない病、貧困、災害等を避けることを願います。ご利益があるならどの神でも構いません。


 しかし、聖書は自分を中心とした信仰の在り方そのものに疑問を投げかけ、さらに警鐘を鳴らしています。


 ご利益信仰に潜むこの自己中心性そのものが、実は大きな不幸の第一歩なのです。



 それに対して聖書で伝えられている信仰の在り方はよく「人格的信仰」と呼ばれます。それは自分ではなく神を中心としていくことであり、神との人格的信頼関係を人生の軸としていくことなのです。


 病気や貧困などから守られることも祈ると同時に、そういった苦難を神からの訓練として、受けとめることを学びます。


 神中心とは自分の利益のために神を利用するという生き方との決別をいみしています。




◆真の幸せはどこに?


 幸せを求めることは人間として自然なことです。


 しかし、何が本当の幸せなのか、また人生から幸せを奪うものが何か知らないゆえ、多くの人は表面的には豊かになった社会のなかで、もがいているのです。


 ヒルティーは「私は病気で幸福な人をたくさん見てきた。私は貧しくて幸福な人もたくさん見てきた。しかし、心が罪で腐っていて幸福な人には会ったことがない」と言いました。


 聖書は、罪こそ幸せを奪うものであると教えています。罪とは、神ではなく自分を中心として生きて行くその在り方(Being) を指し、罪の行ない (Doing) はその結果なのです。


 すなわち、罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。ご利益信仰そのものの内に潜む罪こそ幸せを奪うものなのです。



 何が幸せなのかは人間には分かりません。これが私の幸せだと思ってつかんだとしてもその瞬間に空しく消えていきます。


 真の幸せは追い求めて掴むものではなく、神の前に罪を悔い改めへり下る時、神がそっと与えて下さるものなのです。



Q42                              目次へ  TOPへ


祈っても祈ってもなかなか答えられません。次第に祈ることがおっくうになってしまいました。祈りは答えられるのでしょうか。答えられない祈りを繰り返して、どんな意味があるのでしょうか。
 (30代男性、会社員) 


  


 古代から現代にいたるまで、人間は変わりなく何らかの力ある存在に自らの願い事、祈りをぶつけてきました。


 しかし、そのとおりにならず、事が悪いほうに進むと、その人は呪われているとか、何かの祟りであるとよく考えられてきました。それはどなたに祈るのかを本当の意味で知らないからです。




◆祈りは聞かれるのか?


 祈りは科学的説明を越えた神との深くそして豊かな対話です。


 ところが現代人は科学的説明と矛盾する祈りの世界を軽視します。


 祈ってもその通りにならない苛立ちの中で、祈りの大切さを見失い、この時代の傾向に染まっていくなら、それは実に悲しむべきことです。


 しかし、もしキリストを信じその名によって祈るのなら、必ずその祈りは聞かれます。聖書はそのことを約束しています(ヨハネ14:13)。ただし聞かれるということと、祈りの通りに成ることとを混同してはなりません。


 ニューヨーク大学にあるリハビリテーション研究所の壁にかかっている、ある一人の患者の詩の一部を紹介いたしましょう。



大事を成そうとして

 力を与えてほしいと神に求めたのに、

慎み深く、従順であるようにと

 弱さを授かった。

より偉大なことができるように

 健康を求めたのに、

よりよきことができるようにと

 病弱を与えられた。


幸せになろうとして 富を求めたのに、


 賢明であるようにと 貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに、

 神の前に跪くようにと 弱さを授かった。

人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに、

 あらゆることを喜べるように 命を授かった。


求めたものは 一つとして 与えられなかったが


 願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、

 心の中の言い表せない祈りは

  すべてかなえられた

私は あらゆる人の中で

 最も豊かに祝されたのだ。



◆様々な祈りの答え


 神は祈りをお聞きになるばかりではなく、必ずその祈りに答えられるのです。その答えは少なくとも五つあります。


 1)すぐその通り(叉は祈り以上)になる。


 2)ノーという答え(自己中心的な、叉は不信仰な祈りに対して、ヤコブ4:3、1:5−6)。


 3)待ちなさいという答え(忍耐が必要なとき)。


 4)予期しない別のことが答えとして返ってくる(祈りが真実であっても的がずれているとき)。


 5)しばしの沈黙(ヨブ記)。


 すべての場合において祈りは届いています。しかし答えは違います。


 あなたの場合、第一の答え以外でしょう。祈り続けていく時に必ず何らかの答えが与えられます。



 「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に

 良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:11)






おわりに・・



 今から数年前、ウエスト・ロサンゼルス・ホーリネス教会の「週報」(教会報)を教会の外の方々に開かれたものとしてデザインも内容も刷新することになり、そこに新たに「 キリスト教Q&Aーそこが知りたい 」のコーナーが誕生しました。


 正式な執筆者が見つかるまでという条件でそのコーナーの執筆を引き受けたものの、そのまま二年半が経過いたしました。この本はその原稿を修正し、加筆したものです。


 私にとって第二の母教会といえるこの教会での執筆の奉仕が、一冊の本に変身することは、教会員の方々の愛のサポートと励ましがなければ実現しなかったでしょう。


  


 『Q&A』を書くに当たって悩まされたのは、答え以上に質問でした。与えられた質問は数が少ないばかりか、私のような者には手に負えないものばかりでした。


 そこで、私が神学校を卒業してから十数年の間に実際に受けた質問を思い出し、それを「Q」にまとめました。そして、その質問をされた方に手紙を書くような気持ちで、書かせていただきました。



 ところで「答え」には悩まなかった、と言えば嘘になるでしょう。確かに、悩みました。しかし、ある時からこの悩みから解放されたのです。


 それは、学校のペーパー(小論文)の締切りと『Q&A』の原稿の締切りとに追われ苦悩するただ中で起きました。


 答えに行き詰まり、別の質問に逃げようとした時、「キリストならこのような時どうするのだろう」と想い廻らしていました。すると「答えなくてもいいのだ。ただ、その質問を持ってきた方と共に悩むことだよ」という声がどこからともなく心の耳に響いてきたのです。


 実際、主イエスは疑問にお答えになることよりも、むしろ逆に疑問を投げかけられ、人々をさらに奥にある真理の世界(神の国)へ招かれました。そして共に歩み悩まれ、それ以上に十字架に至るまで、私たちの問題とその根底にある罪とを背負われたのです。



 キリストのようにはいきませんが、少なくとも、答えや正解にとらわれる事からは解放されました。しかし、それよりも重い任務に気付かされました。それは、「質問文」や「答え」にではなく、「質問者」の現実に目を向けることでした。


 質問をされる方と共にその質問や疑問をきっかけとして、その背後にある現実の生活での苦しみや迷いに共に取り組み、人生の真実や真理を求める旅の道さき案内人として共に歩むということでした。


  


 さて、旅を続けるに当たって、まず大切なことは、今私たちがどこにいるかということです。先ずは、大きな歴史という地図を広げて、私たちが選ばずして置かれている時代とそこで生きる生活の状況を見てみましょう。



 今という時代を巨視的に見ると、「ポスト・モダン」という言葉が浮び上がってきます。この言葉はこの時代の特質を暗に示してます。


 つまり、今という時代は表面的には近代(モダン)化はされたものの、近代化を支えてきた生き方や価値観はもはや過去のものとなった (ポスト)、という状況にあるということです。


 では、近代化を遂げた社会は全体として次の新しい時代/世界に入ったのでしょうか。いいえ、歴史の流れの中でみるなら、私たちは近代という過去と、まだ見ることの出来ない次の時代との「狭間」に生きているのです。


 その意味で現代は模索の時であり、時代と時代の「狭間」にあって様々な生き方、考え方、価値観が入り乱れる時代なのです。



 ポスト・モダンに生きる私たちにとって重要な課題のひとつは、近代文明によって物質的な豊かさがもたらされた反面、心が取り残されてしまったということです。


 便利さによって、からだは楽になり、様々な快楽に興ずることが可能になりました。しかし心は空しいのです。「こころ」と「からだ」はまさに分裂状態にあり、その「狭間」で私たちはもがいています。



 さらに、この「狭間」という現象は、ひとりひとりの人生のあらゆる場面に見え隠れしています。


 たとえば、変に大人じみてさめているこどもや、大人になりきれない大人。思春期という一時的な「狭間」の期間が現代では極端に引き伸ばされており、私たちの多くは「こども」と「大人」ふたつの世界の狭間で迷い混乱しています。



 この視点で生活の現実を見直して見ると、様々なかたちで「二つの世界の狭間」で生きている現代人の状況が浮き彫りにされてきます。


 たとえば、仕事と家庭、親の世代と子の世代、男の世界と女の世界、常識や理性の枠とそれらを超える宗教性、信仰と不(無)信仰、理想と現実、生と死、作った自分と本当の自分、等など・・・。


 狭間に取り囲まれた私たちは、しばしば進むべき道も、生きる真の目的も失い、迷い、悩み、疲れ、そして傷ついているのではないでしょうか。行き場を失い、安息の場を失った魂は彷徨い、まさに「迷える子羊」となってしまったのです。


  


 この本で取り上げた一つ一つの質問や疑問は、意識するしないにかかわらず、こういった具体的な狭間の中から投げかけられたものといえるでしょう。


 そして、これらの問いの奥底から「このままで本当にいいのだろうか」「いったい私はどこにむかっているのだろうか」「いったい真実はどこにあるのか」という魂の叫びが聞こえてきます。



 目先の忙しさに流されやすい私たちに今必要なのは、これらの問いへのインスタントな答えなのではなく、疑問を契機として立ち止まり、静まって「神を想う時」ではないでしょうか。


 そして、神から与えられた「人生航路の羅針盤」ともいえる聖書の光をもってもう一度自らを吟味し真の生き方、在り方を見つめ直すことではないでしょうか。この本が、その助けになれば、と願ってやみません。



「あなたのみ言葉は、わが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119・105)


  


 私事ではありますが、この本が誕生しようとするその只中で、三女が誕生いたしました。しかし、娘は生後まもなく心臓と肺の二度にわたる大きな手術を受け、私たち家族は今まで味わったことのない嵐を通過いたしました。


 そういった中で教会の方々をはじめ実に多くの人々が祈ってくださり、また様々なかたちで私たちを励まして下さり言い尽くせない感謝でいっぱいです。


 元気になった娘の寝顔を見ながら、原稿の最後の仕上げに至ったこと、そしてなにより娘の苦難を通して私に「神を想う時」が与えられましたことは、まさに主の大きな恵みでした。



 最後に、写真を撮って下さった渡辺幸栄氏、カットを描いて下さった伊藤嘉一氏、また校正の労をとって下さった新井江美子氏、伊藤弘子氏、スタイン光子氏、牧昭子氏、森礼子氏の陰の労に主が何倍にも報いて下さることを願っています。


 また、執筆の為に祈りサポートして下さった鈴木栄一師御夫妻、古山隆師御夫妻、またウエスト・ロサンゼルス・ホーリネス教会の皆様に心から感謝いたします。


 そして、この本の出版のために立ち上って下さった多田富一氏、具体的な編集や様々な実務に携わって下さった牧良夫氏、新井雅之氏に感謝に絶えません。さらに出版に当たって献身的に労されたNCM2出版の方々に深くお礼を申し上げます。



 ロサンゼルス、パサデナにて   1997年 8月   西岡義行



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人が神を想うとき

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