坂東観音霊場33ケ所

(その2 埼玉県)
(神奈川)へ 慈光寺 正法寺 安楽寺 慈恩寺 (東京・横浜)へ

神奈川県の8番札所を終えて、9番札所は埼玉県に入る。埼玉県の坂東33ケ所札所巡りは、秩父盆地から山一つ越えた都幾川村の慈光寺からはじまり、東へ正法寺、安楽寺、さらに都心に向った岩槻市の慈恩寺の四寺へと進む。

越生と比企の三寺 慈光寺(都幾川村)、正法寺(東松山市)、安楽寺(吉見町)
 

桜、ツツジの頃、都幾山から物見山さらに吉見百穴のある丘陵地帯へと歩くのも良い。今回は車を用いて日帰りで三寺を巡った。 ゴルフ場を縫って比企丘陵を抜ける。

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都幾山慈光寺 (9番札所)  (03.03.04)  
ときざんじこうじ
白鳳2年(673)慈光翁の開基で、鑑真の高弟・道忠が開山し、役小角が修験道場を開いたと伝えられる。平安時代には勅願寺と定められ、天台系修験の中心として栄えた。鎌倉幕府の庇護も受け、源頼朝から寺領の寄進も受けている。室町期(1550)に焼き討ちにあったが、江戸時代には徳川家康も朱印地を下し、将軍家の信仰も厚く、観音霊場として最盛期を迎えた。明治の修験道禁止で静かな山寺に帰したが、歴史を物語る寺宝が多い。


青石板碑 バス停「西平」から参道を登っていくと、鎌倉・室町期の立派な板碑群が参詣者を迎えてくれる。青石とは、荒川などで産出する緑泥片岩(秩父青石)で、慈光寺境内でも石碑、石仏など至る所に使われている。


女人堂は、女人禁制時代の名残で山麓にある。国宝の慈光寺経はここに掲げられている。開山堂の木造宝塔は重文。霊山寺は慈光寺一山の禅の道場である。


開山堂の先で斜右上に鐘楼が見え、本坊への参道がある。参道は山門、本坊(納経所)から観音堂へと通じている。車道は観音堂の下まで続いていて、急な石段(右写真)で観音堂に直接行くことが出来る。駐車場は開山堂の横、石段の下と般若心経堂の前にある。寂とした雰囲気の中に、一山75坊の修験の寺であった面影が漂う。銅鐘は鎌倉期の重文である。

左甚五郎作と伝えられる「夜荒らしの名馬」
歴史を刻む寺宝が何気なく置かれている。この寺の有様を感じて嬉しい。

御住職の話では、ここの千手観音の向って右の掌は裏を向いていて、子を背負う手であると言う。4月17日が御開帳の日である。お堂は江戸後期に再建されたもの。
文化財収納庫では、この寺に修験道場を開いたとされる役行者の木造、蔵王権現像、僧形文殊菩薩像、密教法具などが一般拝観できる。
「般若心経堂」は新しく建立されたもの。尾張徳川家伝来「装飾法華経観世音菩薩普門品」を中心に、空海、平清盛の「心経」、王義之の筆蹟を集めた「集王義之書心経」や最澄筆跡の額などが収められている。このお寺は寺宝も多いが、数々のお経と板碑・石仏などが静かな山の中で守られている。
山門を入るとすぐに本坊(納経所)があり、右に慈覚大師お手植えの多羅葉樹がある。本坊では御住職から、ご本尊の千手観音は「お母さん」を表していること、「書」の違いなどのお話をうかがった。大変気さくな漂とした御住職で話のつきる間がない。


「空海書 破体心経」平4に設置。 「書で宗教を表現し得たのは一人空海のみ」と解説されていた。
「良寛書 楷書心経」 日本的な心を書で表現したものと解説される。

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巌殿山正法寺 (10番札所)  岩殿観音   (03.03.04) 
いわどのさんしょうほうじ

観音堂は、養老年間(717〜724)に僧逸海の創建で、延暦10年(791)に坂上田村麻呂が奥州征伐に向った際の悪龍退治の伝説が都に伝わり、桓武天皇は諸堂64の建立を命じた。鎌倉時代に北条正子の発願で比企能員が復興し坂東霊場に定められた。江戸時代には家康により25万石の朱印地が与えられた。



比企丘陵の物見山公園の駐車場からトンネルをくぐって境内に入ると、古いイチョウの巨木の陰に観音堂が見えてくる。度々の火災に遭い、現在のお堂は高麗村から移築したもんである。お堂の右裏手の岩壁には百観音と四国八十八ヶ所の写し石仏が並ぶ。本尊の千手観音は鎌倉初期の作。
鎌倉時代に復興した比企能員は北条時政に自害を強いられる。嫡子時員は出家しこの寺を守った。室町時代には大いに栄えたが、慈光寺と同じく松山の合戦(1567)の兵火で焼失した。天昇2年(1574)に中興されたが、寛永年間と明治12年(1879)にも火災に遭い、現在は簡素な境内になっている。
高坂側からは仁王門へ石段を登って参詣する。仁王像は運慶の作。物見山の駐車場に車を置いた場合でも、周辺道路をここまで下り、改めて石段下から参詣する方が良い。
高坂へは真直ぐに坂道がのび、道の両側には門前町らしい宿屋とおみやげもの屋が並んでいる。

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岩殿山安楽寺 (11番札所)  吉見観音   (03.03.04) 
いわどのさんあんらくじ

比企地方の中心である東松山市の郊外にあり、吉見百穴とは丘陵つづきで、裏山はランニングコースのある八丁池公園になっている。夕暮れになり、お坊さんが箒で境内を掃除していた。坂上田村麻呂、比企能員、松山城合戦を経て徳川の世を迎えたこの地方の歴史を感じた一日だった。安楽寺には源範頼の跡がある。



開基は坂上田村麻呂。石段の上に仁王門がある。平治の乱(1159)の後に「蒲冠者」源範頼が稚児僧として養われた寺である
ここも上杉vs北条の戦い(松山城合戦)(1530)で焼失したが、寛文元年(1661)に再建された。

境内には吉見大仏と呼ばれる阿弥陀如来坐像が控える。観音堂は寛文元年(1661)建立で、ご本尊は聖観音菩薩である。お堂の裏手には石扉の前に石造の大日如来像が安置してある。行基が聖観音を刻み岩窟に収め、坂上田村麻呂が祈念して岩窟の扉を開けようとした伝説が残る。岩殿山の起源である。本尊御開帳は6月19日。
源範頼がこの地の領主となった時に、昔の恩義を感じ所領の半分を寄進し、本堂と三重塔を建立した。現在の塔は中興の祖号鏡が寛永年間に建立したもの。昭和35年に解体修理された。


武州岩槻の慈恩寺観音

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華林山慈恩寺 (12番札所)  慈恩寺観音   (03.03.10)  
かりんざんじおんじ

大宮から東武野田線に乗換て豊春まで行き約2km歩く。関東平野を吹き抜ける風が強い日であったが、大宮辺りからは富士山が見えた。先の三寺は川越街道(現在では関越道)に近いが、岩槻のこの寺は日光街道(現在では東北道)に近い位置にある。

平野の中に佇む格式のあるお寺である。開山の慈覚大師が遊学した長安の大慈恩寺から寺名はとられた。寛永、天保、明治と災厄を受けて、現在の本堂は天保に本尊まで焼失した後に建立されたもので、本尊も天海僧正が比叡山より請来した。 本堂の欄間には七福神の見事な彫り物が残り、堂内には玄奘三蔵のゆかりのお寺らしく、西遊記の絵の描かれた奉納額が数点掛けられている。千手観音の眷属である二十八部衆の像なども拝観できる。
お寺の隅に、江戸時代の石仏や庚申塚などが集められている。 梅が咲いていた。納経所ではお茶をすすめてくださった。
道を挟んで10分ほどの所に、玄奘三蔵の霊骨塔が公園としてある。太平洋戦時中に偶然に日本軍に発見された玄奘三蔵の霊骨が戦後に分骨されたもの。