「―――知らなかった。選ぶってことが、こんなに難しかったなんて、ね」
だって、いつだって自分は『誰かにとって都合の良い』ようにしか振る舞えなかったから。
(はい。わかりました先生。ぼく、いい子にしています)
自分で選んだことなんて無かったから。
(乗ります。僕が乗ります)
ようやく『選択』できても、結局それは相手の言いなりで。
(逃げちゃダメよ、お父さんから。なにより自分から)
(さあ。僕を殺してくれ)
最初から最後まで自分自身の意思を貫き通せた、なんて、そんな経験は無かった。
(精一杯、生きて、それから死になさい…っ)
「生きるって、なに?」
わからなかった。答えが見つからなかった。
だから、すがった。
自分自身に絶望して、けれども(だからこそ)、自分自身にすがった。
自分を偽ってまで、でも、自分に正直に。
『ぼく』は『わたし』になった。
自己愛の果てにようやく見つけた幸せ。
だけど、とても簡単にこの手からこぼれてしまった。
(なくしたものは、もう戻らない。死んでしまった人は生き返らない。……でも、生まれ変わることはできるわ)
その言葉に泣きついて、私はまた『自分』を捨てた。偽りに偽りを重ねた。
そうして消えてしまったはずの『私』。それが……どうしてか今ここに存在している。
想定せぬ者(イレギュラー)なのだ私は、誰にとっても。自分自身にとってすらも。
今の自分には柵(しがらみ)が無い。自由気ままが許されている。
でも、自由というのは、とても心もとなくて。落ち着かなくて。
……困ったことに私は、自由すぎて逆に不自由におちいっていた。
何も決まっていない。強いられていない。何をしてもいい。
突然そんな状況に放り込まれてしまったら、それはもう。
何をしたらいいのか、わからない。
「―――知らなかった。選ぶってことが、こんなに難しかったなんて、ね」
そんな言葉を口に出してしまうのも無理からぬ事だったのだ。
「……でもまあ、これはこれで、愉快ね」
くすくすと笑う。きっと悪女のように。さも可笑しげに。
「さぁて、どうしようかしら。って言っても、もう決まっているのだけど」
体が勝手にそちらを目指している。
「逢いたいよ……シンジ」
エヴァ量産機がその飛行速度を上げた。
桎梏は優しさに塗れて
第二十話
目を覚ました時に、隣に誰かがいる。寄り添っている。一緒に眠ってくれている。
父の手紙に呼ばれてネルフに来るまで、そんな些細な幸福感があることすら知らなかった。
なんとなく居場所を実感できることが、もうそれだけで至福なんだと、初めて知れた。
満たされた。
たったそれだけのことで満足できて……なのに『足りない』と感じてしまったのは、欲張ってしまうようになったのは、いつからだったろう?
「シンジ、さん」
知らず口にしていた言葉が自分の耳に届いたところで、今更ながらに慌てて唇を結んだ。
起こしてしまう。せっかく眠っているのに。そんなの嫌だった。
この温もりが離れてしまうのが……怖かった。
彼の体温に包まれて暖かいはずなのに、かたかたと体が震える。肌が、心が、ざわめく。
ぎゅっと目をつむる。
目覚めた瞬間には混濁していた記憶も、とっくに整理されていた。だから現状は理解している。
シンジさんに想いを吐露して、みっともなく泣きついて、……それからのことは覚えていない。でも、たぶん泣き疲れて眠ってしまった私をシンジさんがここまで運んでくれたのだろう。
ここがどこなのかまでは、さすがに分からないけど。
意識が無かったくせに、そのあいだ優しくしてもらえたはずだと確信してしまえるのは……私のズルさだと思う。
「………だいっきらい」
好きになってごめんなさい。
こうして迷惑ばかりかけている自分自身が、心底から嫌いだった。
気がつけば、顔を濡らす涙。
止まらない。あんなに泣いたのに、まだ尽きない。…まるで私の欲望のように次から次へとあふれてくる。
悲しくて。それよりも情けなくて。
声を押し殺して、いつまでも泣いていた。
◇◆◇
ぱしぃぃっん!
ネルフの碇シンジの部屋。シンジのベッドの上。そんな場所で、ひとつ、小気味いい音が鳴り渡る。
押し倒されるのと同時に、考える間もなく手が出ていた。
思いきり『彼』の横っ面をひっ叩いて、やがて自分の手のひらの微痛にハッと気づいて、それからようやく渚カヲルに平手を見舞っていたことを自覚した。
頭の中が真っ白になるという、たぶん初めての経験。
「…………だい、じょう、ぶ…?」
知らず口にしていたのはカヲルを気づかう言葉だった。『気づかい』だとかそんなヒトの心の機微については、未だによく理解できていなかったのだけれど。それでも。
心配、と表現できる気持ちを向けてしまっていた。
その事実に驚いて、また混乱する。
いったい自分はどうしてしまったのだろう?
自覚のないまま絶えず『変化』していく自分が、たまらなく怖い。不安で仕方ない。
それは使徒として単独で『完結』していた時には感じられなかったものだった。
完結は『停滞』と言い換えてもいい。
ただそこに留まっている自分。カタチの在りようも、ココロの在りかたも、何も変化せず『終わっていた』あの頃を思い出す。
変わらない、というのは、とても楽なことだったのだと……ようやく知れた。
「……なぎさ……カヲル…」
目の前にいる相手を、初めて呼称する。その名称を口にする。
その行為はつまるところ、相手の存在を『容認』するという意味合いを持っていた。
……たとえトヲル自身にはその認識が無かったとしても、それは。
渚カヲル。彼はひりひりと痛む頬(ほお)をさすりながら…しかしその顔には満足げな笑みをたたえていた。
これでいい。
拒絶された。それを行動で示された。――でも、その拒絶の顕(あらわ)れ方は、心の壁(A.T.フィールド)ではなかった。
その事実にカヲルは満足する。
「ふふ……ははは…っ」
こぼれてしまう。抑えられない。
自分でも信じられないほど、今は気分が良かった。
少女が向けてくる戸惑った表情と、揺れる瞳。
ますます昂揚させられる。
「あはははは…っ」
もう一度。その拒絶が見たくて。
だから。
恍惚にうち震えながらカヲルは―――。
「さあっ……僕をもっと殴ってくれ…!」
全力で言葉を誤った。
「…………………………ぇ…?」
静止した闇の中で、とても小さく問い返す少女の声が、やけにハッキリと響く。
「…………え…?」
先程よりも心持ち大きな声で、やはり問い返す。だって、意味が分からない。
なぐる? どうして?
心の辞書をたぐり寄せ、台詞の意味を必死で検索する。そう、必死で。だって、よく分からないけど身の危険を感じるんだもの。
なぐる=殴打=危害を加える、?、痛いと思う。それなのに?
…………………………なんでやねん。
どこかで聞きかじった関西弁が思わず漏れる。意味はない。
しかし無意味なソレに何かしらの解決の糸口が見えた気がして(もちろん気のせいだ)そこから連想を始める。
ツッコミ。ボケに対して相方がとるべき対応。コミュニケーション。作法。
(どんな些細なボケにも全身全霊でツッコミを入れる。それが礼儀なんだよ。そう、これが日本人の侘び寂び(わびさび)なんだよ!)
状況は忘れたが、いつかシンジがそんなことを力説していたのを思い出す。
そうか。そういうものなのか。ヒトって不思議だ。
―――トヲルという少女はとても素直な娘なのです。だから碇シンジの言い付けはちゃんと守るのです。
……つっこむ、応対する、言動行動で返す、…………思いっきり迎撃する?
自分が曲解に曲解を重ねていることに、とうとう気づかない。
―――――キィ―――…ィィ…ン
トヲルの輪郭をなぞって光が奔(はし)る。急速に加速していくATフィールド。光の円環のイメージ。
瞳が紅い光を宿し、いたいけな視線がカヲルを射抜く。
目標捕捉。
小器用にもこんな小技をいつのまにやら編み出していたらしい。『ぷち加粒子砲』の軌跡がカヲルの眉間を捉える。直後。
ちゅどぉーん。
どうにも真剣味に欠ける擬音が鳴り響いた。…が、それに反して威力は洒落になっていなかった。笑ってしまうぐらいに。
二人がいた部屋の一角が直線状に『融解』していた。吹き荒ぶ熱波。激震、壁が床が悲鳴をあげる。
熱をはらんだ風が空間を渦巻き、トヲルの長い髪をぶわっと乱舞させる。
そのトヲルの顔に表情は無い。微かに目を細めたのも、熱風が少しだけ目に染みたから、それだけの理由だろう。
眼前の惨状をさして気にしたふうでもなく彼女が見つめるその先には、先程と変わらぬ人影があった。
「…………うっかり死ねる威力だったよ。もう少し加減してくれないかい」
カヲルの声に、責める響きは無かった。
汚れひとつ見当たらない、少年の姿をした存在。
垂直にそびえる橙色の光で構成された障壁が、両者を隔てていた。
「…………………………」
「…………………………」
無垢なまなざしが、しばし、ぶつかり合う。
そして。
「……………なんで…やねん…?」
トヲルの唇が小さく動き、そんな音節を並べた。凄まじく棒読みだ。語尾の辺りで可愛らしく首を傾げる。自信なさげに。
対するカヲルは、
「そうか……そういうことか、リリン」
すっと目を細めて、何かを悟ったような口ぶりで、そんなふうに返した。
「…………………………」
「…………………………」
またしても無言で見つめ合う。そうして。
その沈黙を破るように(あるいは、いたたまれなくなったように)ことさら騒々しく…。
けたたましい警報がネルフ本部に鳴り響いた。
◇◆◇
十秒と経たぬうちに、警報は唐突に止んだ。
以下、通信機ごしに交わされたネルフ総司令と技術局員の会話である。
「―――誤報だ。各員にはそう伝えろ」
「よろしいのですか?」
「ガス漏れによる爆発事故。そういうことだ」
「あの部屋はオール電化のはずですが」
「……それでもだ」
「はい」
逆らわず首肯しつつも、すでに頭の中ではより適当な『公式説明』をまとめあげている。
赤木リツコ博士はとても有能な人間だった。今更ではあるが。
通信機を切った途端、リツコは独り、疲れの見える溜め息を吐いた。
「……あの二人のパターン、マギに設定しなおさないと」
今後、同様のトラブルが発生した際には、それを『見逃す』ように。情報は一部の人間だけで掌握していればいい。
「今日は忙しない日ね」
なんとなくつぶやいて、リツコは自分の作業に戻った。その声はどこか弾んでいる。
変化の予感に、どこか浮き足立っていた。
……そんな自分には、まだ、気づかぬまま。
◇◆◇
使い物にならなくなった部屋の有様を、事も無げに見渡しながら。
「やれやれ……発つ鳥は跡を濁さず、にしたかったんだけどねぇ」
言うほど、カヲルの様子には後悔も反省も見て取れない。
「さて、シンジ君にどう言いわけしたものかな」
困ったというよりは、愉快さを隠し切れない、といったふうな苦笑。
顔色を真っ青にしたトヲルとは、じつに対照的であった。
◇◆◇
なんとも手短に用件を済ませてしまった男に、やれやれと呆れながら声をかける。
「いいのか碇。今はこれ以上やっかい事を増やさんでほしいのだがね」
「だからこそだ。今は『些事』には目をつむる」
まるで本当に『どうでもいい』事を話すような口ぶりだった。
……まさかな、さすがに気のせいだろう。冬月は内心で首を振る。常識的に考えて、捨て置けるような事柄ではない。いくら非常識なこの男でも、まさか、そんな。
冬月が己の思考の渦に捕らわれそうになったところで、
「現状で優先すべきは、このエヴァと思しき目標にどう対処するのか、だろう」
憎たらしいほど冷静なゲンドウの声が、冬月を立ち返らせた。
「……まあ、そうだな。そちらが火急か」
「はい。そのとおりだと思います(むしゃむしゃ)」
当たり前のようにレイが口をはさんでくる。当たり前のように食事を続けながら。
「…………………………」
ふう、とそれはそれは重苦しいため息をつく冬月。
今日のレイは何故こんなにも、でしゃばってくるのか。いつもであれば気配など無いように黙しているだけだというのに。
それとも……見誤っていたのか。これこそが『綾波レイ』だったのだろうか。
いつからか『変化』したのか? それとも、ずっと『擬態』だったのか?
……やはり答えは出せそうにない。
「碇司令」
「どうした、レイ」
「ごちそうさまでした」
皿は空っぽになっていた。
「そのうち、また作ってください」
「ああ」
その何気ないやりとりに愕然とする冬月。
「……なあ碇、ひとつ尋ねるが」
「なんだ」
「…………おまえが作ったのか?」
「そうだが」
何を当たり前のことを?、とでも言うような口ぶりだった。
本日一番の衝撃。
やっとのことで「そう、なのか」と言葉少なに返す。それが限界だった。そっと目をそらし、かたく目をつむる。
頼むから、だれか嘘だと言ってくれ…!
言葉に直せばそんな心境だったのだが。
(あら冬月先生。あの人はとても可愛い人なんですよ?)
ふと、かつての教え子の『のろけ』を思い出してしまい……あの時以上にやりきれない気持ちになったのだった。
(また、はずれていくのか…)
非常招集の一報を受けるや否や、チルドレンとともに、あっというまにネルフ本部へと移送された。
気分は宅急便で運ばれる荷物である。わりかし問答無用で帰還させられてしまっていた。
しかたない、というのは理性では理解できるのだけど。
まるで夢の終わりのようだと思った。変じてしまう。夢から現実へ。旅先から戦地へ。学生から兵士へ。常識から理不尽へと。
そして既知から未知へ。…それこそが問題だった。
自分が知る『歴史』から、どんどん逸脱していく。
先が見えないというのは不安でしかない。未知なものに対して『わくわく』するよりも不安を覚えてしまうところが、碇シンジの性格をよく表していた。
「ロスト…って、何なのよ、いったい」
アスカは不機嫌なのを隠そうともしなかった。心情そのままの表情と口調。
「日本の領海に入ったあたりで突然、反応が消えたのよ。サーチ衛星も海岸のレーダー網も役立たず。原因は不明」
「どういうこと?」
「こっちが聞きたいわよ。どうすればあんなデカイもんを見失えるのかしら」
ミサトの言葉は皮肉にも取れるが、実際のところは言葉どおりの単なる疑問である。
チルドレンを一堂に会してのブリーフィング。
レイ(1st)、アスカ(2nd)、シンジュ(3rd)、カヲル(4th)。そして、さも当然のようにこの場にいるシンジ。それぞれが思い思いの様子で葛城ミサトの話に耳を傾けていた。
「で、そいつは敵なの? 味方なの? それ以外なの?」
おおよその状況はすでに聞かされている。それを踏まえた上で、端的にそう質問したのはアスカだった。単純な質問のようで、その実、この上なく問題の本質を突いた言い方だった。
子供たちの視線がミサトに集まる。当然だろう。これからミサトが口にする言葉がそのまま自分たちの行動指針となるのだから。
注目を一身に浴びながら、ネルフをになう若き作戦本部長は答える。
「―――戦闘待機。いいわね?」
怜悧な声だった。
「おやおや、おだやかじゃないね」
いまいち真剣味に欠けたカヲルの口ぶりが対照的だった。
「相手の正体が知れないもの。それに相手はエヴァ、使徒が来るのと大して変わらないんだから。油断は禁物。最悪の事態も考えておかないとね。……碇司令の指示よ」
「…………、……」
誰にも気づかれない程度、ほんのわずかにシンジュが反応する。そして、それを見逃さないのがシンジだ。
(まだ気になる、か。……いや、条件反射かな。僕と同じで)
もう割り切っているし、期待もしていない。言うなれば『身内』から『知人』のレベルにまで、おとしめている。
にもかかわらず、ついつい過剰に反応してしまうのは……心と体にもう刷り込まれてしまっているのだろう。
(やれやれ、だね、ホント)
苦笑したのは自分自身に対して。情けなくも僕は今この瞬間、父さんに嫉妬した。いまだにシンジュの心の大部分を占めている『男』に対して、ねたましいと思ってしまった。
そんな自分よがりを誤魔化したくて、なんとなく、手近にあったシンジュの背中をかるく叩く。ぽんぽん。
シンジュは……誤解した。彼女は一瞬こちらに驚いた目を向けて、すぐに視線をミサトさんに戻した。その口もとには小さな笑み。
少しだけ罪悪感がわいた。それと、少女に対して愚かしさと愛おしさと。
「………未知のもの、理解できないもの、相容れないもの。常にヒトは目の前の異分子に対して、容易く拒絶と排除を選択しますね。許容、迎合……選択肢はいくらでもあるというのに」
「皮肉なのかしら、渚くん」
「いいえ? ただ一般論を口にしただけですよ、葛城一尉。それと僕の感想です。相手に敵意が無いのに、こちらから一方的に敵視するのは如何なものかと」
「アンタは、あれが味方だと思ってんの?」
アスカが口をはさんだ。どこか興味を引かれた様子で。
「そういう可能性もある。かもしれない。それだけだよ」
「ふぅん。ま、否定はしないけどね」
「アスカ」
ミサトの声には、とがめる響きがあった。
「わかってるわよ。そんな甘い考えが通用する状況じゃないのは」
「そういうこと。渚くんも気を引き締めて」
「了解です」
返事は良かった。だが、どこか白々しさが漂うのは、彼のまとう雰囲気のせいか。
まるで何もかもを見通しているような、およそ子供らしくないカヲルの態度。ミサトはそれが好きでなかった。
(人類補完委員会が直接、送りこんできたチルドレン)
そう説明されていた。さらに、
(世界的にも類(たぐい)まれな超常能力保有者、か…)
それが『あの時』海上で目にした光景に対する公式な回答だった。
人知を超えた、力。
一筋縄ではいかない。少年自身も、彼をとりまく状況も。
だから余計にミサトはカヲルに好感を持てなかった。
◇◆◇
どこにでも監視の目はある。それを承知してしまえば、いっそ人目など気にならなかった。気にしても仕方なかった。
そんな諦念の先にある安定。それでも拭いきれない不安は、眼前の相手に集中することで誤魔化してしまう。
シンジュは少年の胸の中にいた。
シンジは少女を愛でていた。
この状況に至るまでの経緯が…うまく説明できない。自然とそうなっていたのだ。どちらが誘ったとか先に手を出したとか、そういうのは曖昧で。
戦闘待機命令を受けた後、すぐさまプラグスーツに身を包んだチルドレンたち。だが、それからの行動には一貫性が無かった。誰も彼も、群れようとする思考形態(タイプ)ではないため、すぐに呼び出しを受けられる範囲でそれぞれが自分なりの方法で時間を潰そうとしたのだった。
そしてサードチルドレンは『恋人』と過ごすのを躊躇わなかった。
(そっか……恋人…なんだよね…)
もう返事はもらっていた。決死の告白…と言えば聞こえは良いが、みっともなくシンジさんに泣きすがった、あの夜が明けて。
翌朝、先に目を覚ました私に遅れる事わずか。起き抜けに私の泣き顔を目にする事になったシンジさんは、強引とも言える性急さで、私を……。
「顔が真っ赤だけど、暑い?」
「……だっ、いじょうぶ、です」
現実に引き戻される。あせって変な声になった。私の馬鹿、と心の中で罵倒する。
ダメだ。しっかりしないと。…そう思う気持ちはあるのだけど。
さわさわ。なでなで。
髪を弄ばれ、頭をなでられる。そうされるのが恥ずかしくて、でもそれ以上に心地よくて。
「……………はうぅ」
とろけてしまう。
くたっと脱力しきった私を好き勝手にしながらシンジさんは、それはそれは楽しそうに満面の笑みを浮かべていた。
◇◆◇
「ああもう、暑い暑い」
顔の横で手をパタパタと振りながら、アスカは顔をしかめていた。
視線の先、チルドレン専用の更衣室の扉は閉ざされていたが、そこから何やら桃色の空気があふれ出てきている。そりゃあもう壊れた蛇口みたいにドバドバと。
なんとも居心地が悪い。というか、いたたまれない。
そんな鬱屈した気分でこの場を離れる。
……さて。とりあえず歩きだしてみたものの。
これからどうしようか。見るものも無いが散歩でもしようか。
そんなふうに予定が立たず、頭を悩ませていたところで……思いがけないものに出くわした。
意外なほど品揃えが豊富なのは、ここネルフが閉鎖的な空間だからなのか。ストレスを感じやすい環境であるが故に、それを解消するためのサービスには気を配っている。そういう事なのだろう。
やたらと種類が多い、横並びに整列した飲み物を目で追いながら、そんなふうに分析する。
綾波レイは自販機コーナーに身を置いていた。
思考を転じる。…どれにしようかしら。
視線がさまよう。
やがて、すっと伸ばされた指先が向かうのは…。
「ちょっと待ちなさい」
振り落とされる手刀。細りとしたレイの手が、ぴしっと撃墜される。
「……痛いわ」
痛そうには見えない無表情が向いた先、視界に入る赤いプラグスーツ。
「何をするのよ」
「アンタねぇ、それはこっちのセリフよ」
なんとも言えない表情を浮かべて、
「よりによって…なんでソレ?」
絶倫黒マムシドリンク 900円
「おなか、すいたから」
レイの声はどこか自信たっぷりに聞こえた。
そのあんまりな返答にアスカは納得できない、できようハズもない。
「……普通は、のどが渇いたって言わない?」
「いいえ。間違ってないもの」
「どこがよ」
「……使用しても『水分』は回復せず、なぜか『空腹』が回復する……わ」
まるで、どこかから知識をそのまま引っぱってきたかのように、つらつらと言葉を並べる。
「はあ? なに言ってんのよ、レイ」
「……さらに、Hな気分になる」
ぽっ。と、ほおを染めながら付け足した。
うわ、めずらしいもの見ちゃった。…そんな感想は一瞬。レイの発言内容が頭に染みこんでくるにつれ、顔がこわばっていく。
「で……アタシにどうしろと?」
「わからない」首を横に振る。
「わかんないって…」
「たぶん、私は三人目だと思うから」
三人目の購入者。
「…その根拠は?」
「ないわ」
しれっと。
とりあえず、なぐろう。
アスカは心に決めた。
◇◆◇
所在なげにしていた子猫に、そっと手を伸ばす。
言うなればカヲルの気分はそんな感じだった。
遠巻きに、飼い主(シンジ)の様子をうかがって、けれど近寄ろうとはしない。臆病な子猫。
保護欲にかられた…とするのが近いだろうか。通りすがりに、つい、このちっぽけな存在を拾いあげていた。
猫と少年。猫の名はトヲル。
カヲルの三歩うしろを、とてとてと付いて歩く。
不思議と、自然と、この状況。トヲルは思考する。どうしてなのか。自問すれど答えは見えず。
ただ、なんとなく、気分が軽くなったような………気のせいに違いないのだけど。だって理由が見あたらない、から。
カヲルが立ち止まった。
一歩おくれて足を止める。見上げて、それからカヲルの視線を追って、その理由を知る。
「………………あやなみ、れい」
個体名は知っていた。ただし、これまで接触はほとんど無い。会話はゼロ。挨拶すらも。
つまりトヲルにとっては、その程度。興味の向かない存在。
そんな人物が、急ぎ足でこちらに向かってきている。
トヲルは…対処に困った。しかし一方でカヲルは自然な様子でレイに声をかけていた。
「やあ。お急ぎかな」
「ええ」
「理由を聞いても?」
レイは少し考えて、
「………淫欲を持て余したケダモノに、若くて瑞々しい肢体が狙われて」
「だぁれがケダモノかっ!」
割って入る少女の声。それに拳。しゅっと風を切る音。
「殺(と)った!」しかし確信はすぐさま驚愕へと変じる。手ごたえが…ない!?
レイは背後からの不意討ちを紙一重でかわしてみせた。
「……ハエが止まるスピードね。あくびが出る…わ」
ふっ、と嘲笑っぽい表情が浮かぶ。…ように見えなくもない。カヲルは呆れた。
「………明らかに、言いなれてないねぇ」
さては書物か何かに影響されたかな。
どうにもレイの立ち振る舞いが、嘘くさい。違和感バリバリだった。
白けた目(赤色だが)が向けられている事にも気づかず、レイはさらなる暴挙におよぶ。
「……ほーら、つかまえて、ごらんなさい、うふふー」
大根役者が裸足で逃げ出す、凄まじいまでの棒読み。
その超絶クオリティにネルフ本部が震撼する。全米が泣いた。……もちろん気のせいだ。
いたたまれない様子で立ちつくすカヲルを置き去りにして、二人は追いかけっこを再開した。
「待ちなさい! ……くっ。どう見ても早歩きなのに全力疾走で追いつけない…!」
「ぶざまね……にやり」
「くちで言ったぁ!」
………………。
通路の曲がり角の向こうに騒がしく消えていく二つの背中を、ただ黙って見送ることしかできない。
微妙な空気が場を占める中、それまで沈黙を守っていたトヲルがようやく言葉を口にした。
「………おかしな、ひと」
たぶん悪い意味で、だろうね…。
カヲルは『おかしい』の意味をそう解釈した。
つづく
2009/09/06 了
こけ=二澪 著
トップに戻る 目次に戻る