「おそらく、そこにいるはずだ」
 そう示唆されてたどり着いた場所で、あの人の言ったとおり、独りたたずむ彼女の姿を見つけた。
 セントラルドグマ 最下層
 旧・人工進化研究所 三号分室
 彼女はベッドのふちに腰かけて、両手に持った本のページに視線を落としていた。
 こちらには気づいているはずなのに、特に気にしたふうもなく変わらず本から目を放さない。
 だから。
 彼女のほうから声をかけてきた事に、少しだけ驚いた。
「どうして……あなたが『ここ』にいるの」
「おじさまが教えてくれたのよ。たぶん、ここだって」
「ちがうわ……わかってるんでしょう?」
「あら、ばれちゃった」
 綾波さんの言いたい事はすぐに察していた。でも誤魔化してみた。そこに意図はない。ただの遊び心。
 質問に答える。
「わけなんて、私だって知らないの。というか、それをあなたに聞きたくて、来たんだけどね」
 苦笑する。
 綾波さんは、ふるふると首を横に振っていた。
「私じゃない」
「そっか」
「私は……万能じゃないもの」
「それでも、よくやってくれたと思うわ。私なんかのお願いを聞いてくれたんだから。感謝しているのよ本当に。ありがとう」
「でも、うまく、いかなかったの。あなたが、いなかったもの」
「いいのよ、それは。たぶん私自身が望んだ事だったから」
 私は汚れてしまっていて、綺麗な『彼』に、ふさわしくなかったから。
「でも結局、私の考えは浅かったって事かしらね。未練がましく私がここにいるのは、きっと、そういう事なのよ」
「そう」
 言いながら綾波さんが立ち上がる。その拍子に、ひざから本が転げ落ちた。
 あっ、と思う間もなく。
 本は音をたてて床にぶつかる……ことは無かった。
 床に接触した瞬間、霧散してしまう。文字どおり霧のように、跡形も無く。あたかも分子の結合がほどけるように形をなくす。
 不思議な光景。
「それは?」
「取り扱いやすいように、形にしていただけ。でも、もう必要ない。あなたがいるから」
「わたし?」
「私は、神様じゃないもの」
 

桎梏は優しさに塗れて

第二十二話


 
「これは……そういうことか」
 ここまで近くなれば間違えようもない。
「ようやく主役のご登場というわけだね」
 あるべき未来に向かって進もうとしている。世界が。ベクトルを修正していく。
 それは、まるでデウス・エクス・マキナ。機械仕掛けの神。ご都合主義。
 あらかじめ定められた展開のとおりに、人も物も状況も、あらがえぬまま動かされていく。
 演者にできるのは、神様が用意したシナリオを演じていく事だけ。
「さて、君はどう動くのかな? それとも君が動かすのかな?」
 どこか遠くを見つめながら、楽しげに、意味の知れない言葉を口にする。
 ……そんなカヲルの様子を『いつものこと』と感じてしまう少女が一人。
 常習的なカヲルの奇行。それに慣れてしまうほど、彼のそばにいるようになっていた。
 その事実を、変化を、トヲルはまだ自覚していない。
 自覚の無いまま、自然と言葉を返していた。
「……だれのこと?」
「神様だよ。僕にとってはね」
「かみさま…」
「そう。とても物騒で、とても脆弱で、どうしようもなく、愛くるしい、僕の女神のことさ」
 女神。
「おんなの、ひと…?」
「ずっと待ち焦がれていた。ようやく取り戻せるんだ…」
 いつになく熱をこめて語るカヲルの顔を覗きこむ。紅潮していた。白い肌にはとても目立つ。
 神とやらに思いをはせるカヲルの姿は、まさに狂信者のそれだった。
 
「元気が無いね?」
 しばらくして。
 いつもの冷静さ…というより不敵さを取り戻したカヲルは、どこか様子の違う少女にそう尋ねた。
 そっとトヲルが聞き返す。
「げんき、ない…?」
「それとも機嫌が悪いのかな。そんなふうに見えるよ」
「…………そう」
 それきり黙ってしまう。
 二人をつつむ静寂。
 静かで寂しいと書いて、静寂。
 あたしは…さびしいの…?
 よくわからない。でも、少し違う気がする。
 
 さわさわ。
 
 いつのまにかカヲルの手が、ほおを撫でていた。そうして。
 すらりと垂らした長い髪を、カヲルの細い指が、すぅっと梳(くしけず)る。
 いつだったか同じ事をされた。
 でも、何故だか、あの時とは違って。
 不快とは感じなかった。それどころか。
 きもち、いい…。
 無意識にカヲルの腕に、頭をあずけていた。
 優しい手つきに身を任せる。
「……………っ…!」
 ハッと気づいた時には、もう、手遅れで。
 
 カヲルの声が降りかかる。
「ひょっとして……嫉妬してくれたのかい? まさかね」
 かあっ、と。
 トヲルは顔を林檎のように真っ赤にさせた。
「……まさか、だよ。これは驚いたな」
 楽しみが、増えた。
 カヲルは心の中で「ぞくぞくするねぇ」とつぶやいて。
 トヲルは別の意味でゾクゾクとおびえて、ちぢこまった。
 
 
◇◆◇
 
 
「知った気配をたどって、わざわざ会いに来てみれば………ねえ? 警察に通報してもいいかしら?」
 犯罪のにおいが、ぷんぷんする。性的な意味で。
 女神は呆れて、言い捨てた。
「なぁに? この、とろけそうな甘ったるい空間は」
 少女がまるで子ネコのよう。
 疲れ果てた様子で、くたっと眠っている。
 カヲルはくつくつと笑いながら身を起こした。
「だってねぇ? とても我慢なんてできないくらい、もうね、あれは反則というものだよ」
 思わず、全力で愛でてしまった。そりゃあもう全力で。
 はあ。女神のため息。
「身勝手なオトコの理屈よね。まったく……自分の下半身ぐらい、自分で制御してみなさいな」
「……そこまでは、してないんだけど」
「あら、意外」
 本当に意外そうな顔をした彼女に、今度はカヲルがため息をつく番だった。
「相変わらずだねぇ。変わっていないのを喜ぶべきかな。迷うところだよ」
「ほめ言葉と受け取っておくわ。……ひさしぶり、でイイのよね。なんだか時間の経過が曖昧で、実感がないのだけど」
「君は『どこにもいなかった』からね。君は彼と同じであっても、彼は君にはなりえない」
「それが、あの碇シンジ?」
「会ったのかい?」
「ええ。それと、おじさま。さっき綾波さんとも会ってきた。だから、おおよそは今の状況も把握してる。……ねえ、聞かせて」
「なんだい」
「私のシンジは、今でもそのまま?」
 ふむ、とカヲルは少し悩むそぶりを見せて、
「シンジくんには……もう会えないかもしれないね」
「詳しく」殺気だつ。
「落ち着いてほしいな。説明するより、実際に会ってみれば分かるよ。それからどうするかは君が決めればいい」
「……そうね。そうしましょうか。……でも、私は、」
 壮絶に微笑んでみせる。
「シンジがもういないなんて、絶対に、認めてあげない」
 その言葉は決意にも似て。
 そのままカヲルに背中を向け、迷いない足どりで女神は去っていった。
 
 
◇◆◇
 
 
 着崩れた着衣を整えながら、のそのそと身を起こす。
 いまだ体のあちこちに感じる、行為の残滓。ずいぶんと容赦なく扱ってくれたものだ。
 怖かった。
 カヲルが、ではなく、カヲルの行為を受け入れてしまった自分が。
 自分の変化が、理解できなくて怖かった。
 こんな目にあったのに、許してしまえそうで。
 カヲルの事を以前のように嫌えない、その理由が知れなくて。
(ひょっとして……嫉妬してくれたのかい?)
 答えは、もう、与えられていた。
 あとは、それを、認めるだけ。
「……どうしたら…いいの…?」
 
 トヲルは。
 シンジを頼ろうという考えには、どうしてか思い至らなかった。
 ……触れられていた部分が、まだ、熱っぽい。
 
 というか。
 あれ?
 現在進行形で、触れられている、ような…?
 さわさわさわさわ。なでなでなでなで。
 もにゅもにゅもにゅうぅ。
「…………まだ……するの…?」
 いつのまにか、それとも気がつかなかっただけで初めから?
 後ろから抱きしめられている。
 首を回して問いかけると、やっぱりそこには予想どおりの顔があった。
 憎たらしいほど余裕の笑みが。
「どうにも、くせになりそうでねぇ…。一次的接触も、度を過ぎると毒になる。甘い毒にね」
「……なら…やめればいい…」
「あいにくと、もう手遅れかな。それに君も拒まないじゃないか」
「あたしは……」
「気持ちよかったんだろう? 心地よかったんだろう? 気を許した相手に身を任せるのは」
「………………」
 反論できない。
「何故、だとか。どうしてこうなったのか、とか。あまり理屈で考えるものではないんだよ、こういうのはね。衝動的に行動してしまうのは、とても人間らしい感情なのさ」
 だから、これは間違っていない結果なのだと。
「………それ……正当化…というの?」
 ぎくり。
「なんだか……誤魔化されてる…みたい」
「はっはっは。何を言うんだい君は。そんなわけないだろう」
 わしゃわしゃ!と髪をかき回される。
 その身勝手な行為を、腹立たしく思わないわけでは、ないのだけれど。
「……もっと……やさしく…して…」
 許容してしまう。だから、もう一度、口にする。
「……やさしく…して…?」
 小さく首をかしげながら、上目づかいに、そんな台詞を。
 ……カヲルは珍妙な表情になっていた。
「どこで、そんなおねだりの仕方を…」
「……?」
 よくわからない事を言われた。
 わからなかったけど……なんとなく、取り返しのつかない事をしてしまったような。
 そんな嫌な予感がした。
「君が…悪いんだよ?」
「……?、?」
 
 ……………………。
 ………可愛がられてしまった。
 
 そのせいで、さっきまでいたあの女の人について聞きそびれてしまった。
 不思議な感じがする……どこか懐かしい気配のする、あの人の事を。
 今はそれどころではなくて、尋ねる事ができなかった。
「……もう……だめ…」
 息も絶え絶えに、今度こそ『本当に』眠りについた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「……ああ、そうだ。その対象についてはノーマークで構わん。行動を妨害するな。報告だけでいい。徹底させろ」
 総司令公務室。部屋の主が通信機を切るのを見届けてから、冬月は質問を投げかけた。
「なんの指示だったのだ?」
「問題ない」
「なんの指示だったのだ?」
「………保安部だ」
 プレッシャーに負けてゲンドウは答えた。
「チルドレンの護衛に関して少しな」
「それだけでは何の事かわからんぞ。詳しく説明しろ」
「……………………」
「おい、碇」
「……………………」
「……本当に困ったヤツだな、おまえは」
 全身から「面倒くさい」オーラを発しているゲンドウを見て、早々にあきらめた。
 自分で調べたほうが早いなこれは。
 そう考えて通信記録を手元に呼びだす。調べるのは保安部からの報告書と、先ほどの通話記録。
 短くない時間をかけて確認した。
 そうして。
「………おい。説明しろ」
 眉間にしわを寄せながら顔を上げ、にらみつける。
「素性の知れない人間を黙認しているのは何故だ?」
 チルドレンの周囲を正体不明の人物がうろついていた。
 報告書によれば、成人には届いていない年頃の一人の女性。
「この『少女』はおまえが知っている人間ということか。いったい誰なのだ?」
 詰問しながら冬月は報告書の続きに目を通していた。
 少女を写した写真が添付されていた。そのファイルを開く。
 そうして。
 沈黙した。
「……………………」
 初めは既知感だった。そしてすぐにその正体に思い当たった。
 似ている。
 髪型が異なる。年齢が異なる。雰囲気が異なる。
 しかしその面差し(おもざし)は、よく知る人物に似通っていた。姉妹と言われれば納得してしまいそうな程に。
 彼女は、サードチルドレンに、そっくりだった。
 冬月はひとしきり言葉に迷う様子を見せてから、慎重に言葉を向けた。
「碇……これは…………おまえの隠し子か?」
 ズルッ
 いつものポーズ(机に肘を乗せ、組んだ両手で口元を隠すアレ)で待ち構えていたゲンドウが、あごを手から落っことす。
 そんな自分の醜態には気づかず、重々しく口を開いた。
「なんだ…それは…」
「無関係とは言わせんぞ。シンジュ君によく似た顔だち。それにおまえの態度。これで他人だなど冗談にしか聞こえん」
 やぶにらみでお互いに見つめあう両者。
 片方は不服そうに。もう片方は不審げに。
 先に根負けしたのは後者、冬月だった。
「……わかった。これだけは聞かせろ。絶対に問題は起きないんだな?」
「ああ」
「それなら、まあいい。全然よくないが」
 苦虫を噛み潰したような表情で、一応の納得を見せる。それから、ふと思い当たったように尋ねた。
「ところで……彼女の事はなんと呼べばいい。名は?」
 そして。
 ゲンドウの口から飛び出した名前に、冬月はまたも言葉をなくす事になる。
「……なんの冗談だ…それは…」
 にやり。ゲンドウは悪質な笑みを返した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 碇シンジュは昔から気配を消すのが上手かった。
 人いきれの中に個性を埋没させて、自らを群衆の一部と化す能力に長けていた。
 人目を惹く容姿は目立つ。不和な態度は目立つ。周囲から孤立したものは浮き上がるのだ。
 だから相手に違和感を抱かせない程度に彼女は、容貌を隠し、振る舞いを制御し、確信犯的に「普通」の中に埋もれようとした。
 そうする事で、何もない穏やかな日常を維持してきた。
 碇シンジに出会うまで。
 彼は容姿も態度も特異だった。ひどく目立った。
 だから一緒にいる彼女もまた人目に映るようになった。
 そして、いつしか『じつは彼女もまた特異な人間であった』事が周知となってしまった。
 それは彼女の望まない成り行きだったのだけど。
 今では、これで良かったんだと彼女は思っている。
 だって。
 特別な彼の隣に並んでも遜色がない、と思われる程度には特別な彼女の存在感。
 それは彼女が手に入れた一つの『自分の価値』だったから。
 
 シンジュは街並みに目を泳がせた。
 平日の午後、自分のような子供の姿は少し目立つようだった。真っ当な学生であれば今頃は授業中なのだから、それは仕方ない。
 普段よりも視線を向けられている気がした。
 できるだけ気にしないように努めて、歩く。
 やはり自分のような人間にとって、人ごみは落ち着かないだけだ。
 他人という存在は、安らぎの対極にある。
 言ってしまえば、他人なんて、邪魔、でしかない。
 他人の事を思う。
 修学旅行を謳歌しているはずの同級生たちに、少しだけ思いをはせる。
 感慨は、なかった。
「ふつうは、さびしいとか、うらやましいとか、あるんだろうな」
 一度きりしかない学校生活の貴重な体験。思い出。
「でも、私にとっては価値がない」
 あの人といられない時間なんて、そんなの、必要ない。
 シンジさんと一緒でなきゃ、意味がない。
「……ダメだなぁ、私は」
 子供として人として女として。
 色々と駄目な自覚はあった。
 例えば。
 ふと立ち寄った、女性物を専門に扱う服飾店にて。
「……なにが違うんだろう?」
 五ケタの値札のついた下着をまじまじと眺めながら、首をかしげる。
 安物との差異がいまいち分からない。
「こっちのほうが……シンジさんは『クル』のかなぁ…」
 学校行事には無感動なくせに、こんな事には真剣に思い悩む自分は、きっと。
 どこかが致命的にズレているのだと……自覚はあった。
 
 
◇◆◇
 
 
「悪かったわね、呼び出して」
「いいよ」
 待ち合わせ場所で、アスカは胡乱げにそう言ってシンジを出迎えた。
 
 
◇◆◇
 
 
 その時の私は気を抜いていた。油断していた。
 腕に抱えた大事な荷物に、すっかり気をとられてしまっていた。
 だから、やすやすと接触を許してしまった。
「かわいーねー、きみ。よかったら俺らと遊ばない?」
 なれなれしく肩に手を置かれる。
 振り向かずとも分かった。振り向いて再確認した。声のイメージどおりの、見るからに軽薄そうな男たちが、にやにやと笑っていた。
 数は三人。年上の…高校生だろうか。
「ひまでしょ? こんな時間にうろついてんだからさ。俺たちも一緒なんだ。ちょっと付き合ってよ」
「楽しませてあげっからさ」
 ありがちな誘い文句。想像を超えない内容に、少し呆れてしまう。テンプレートとかあるんだろうか。
 私が黙っているのをどう受け止めたのか、彼らは強気を増していく。
「ほらほら。一名様ごあんなーい」
 腰をとられ、無理矢理に彼らの歩調に合わさせられる。
 つまずいて体勢が崩れる。と、よけいに引っぱられて彼らに密着する羽目になった。
「ほら、荷物持ってあげるよ。重いでしょ」
 いつのまにか手荷物を奪われている。これで…逃げづらくなってしまった。
 手慣れている、と感じた。
 しかも、そいつは勝手に荷物を物色し始めていた。
「あー、これって、あそこの店の包装じゃん。たっかいんだよ、あそこ。前に連れてかれてさぁ。さんざんだったわ」
「ぎゃはは。いい財布くんだな。あ、だから別れたんか」
「たいした顔でもねぇくせに、いっちょまえに欲しがりやがるんだぜ。ったく、身のほどを知れってーの」
「んで? それの中身は?」
「んーと……」
 隙間から中を覗かれた。
「……おおぅ。こりゃびっくり」
「なんだよ」
「意外だなー。なに、こーゆーの好きなの? えろーい、なんつって」
「え、なになに、えっちぃの?」
「し・た・ぎ。ブラとパンツ。黒のレースとか、どんだけ」
「うっそマジ? 見ため清純そうなのに、それでエッチな下着とか。やべっ、ツボだ俺そういうの」
 無遠慮な男たちの低俗な会話に、顔が熱くなるのが分かった。恥辱と…怒りで。
 見ず知らずの他人。その程度の輩(やから)がいやしくも、この私に何をするのか……。
 耳ざわりな彼らの声が、しだいに遠くに聞こえてくる。
 雑音が、遠く、小さくなる。
 冷たく、動かず、騒がず。まるで心が凍りついたよう。
 だから……こんな事もできる。
 ぱんっ
 いちばん近くにいた男の顔を、平手で打った。
「いっ…てぇ? こいつ…!」
 最初は目を丸くして、だけどすぐに何をされたか理解して、顔を歪めてこちらを見る。
 直後、突き飛ばされた。
 勢いを殺しきれず、転ばされる。見上げた先には、いらだった顔があった。
「てめえ、なにしやがる」
「おいおい、なぁにキレてんの。暴力はダメよー」
「うっせえ。こいつが先に手ぇ出したんだよ。優しくしてりゃあ、つけあがりやがって」
 身勝手な言葉が耳に届く。でも、何も感じない。無感動に男を見つめる。
「なんだよ、その目は。……っ……むかつく」
 たちまち機嫌を悪化させて男は……私を蹴り転がした。
 スニーカーが私のお腹に刺さる。
「お、おい。やりすぎだろ」
「……ちっ」
 舌打ち。不満げな様子はそのまま、男は力ずくで私を引きずり立たせた。
「おら、こっち、ついて来い」
 手荒く歩かされた。配慮なく連れ回された。
 それでも……心は動かなかった。
 
 喧騒を離れ、人気のない路地裏に連れこまれていた。
 静かだった。男たちの呼吸だけが耳につく。
 はあはあ、と。
 私の息も同じように荒い。こちらは疲れてしまったのが理由で息を乱している。
 たまらず、壁に背中をあずけて休む。
 でも、すぐ目の前には男たちが、逃げ場をふさぐように並んでいる。
 落ち着かない。落ち着けない状況。
 なのに不思議と心は波立たない。本当に、不思議。
 なぜ、ああ、そうか、だからか。
 いつもと比べれば。
 使徒と対峙するのに比べれば。
 何倍も、万倍にも……楽。
 気楽すぎて、あくびが出てしまいそう。
 思わず笑みがこぼれた。
「余裕あんじゃん」
「じつは誘ってたとか?」
「なら遠慮なく楽しませてもらうとすっか」
 男たちの声は、いまだ遠くに聞こえていた。
 どこか現実感にとぼしい。危機感がない。
 
 抵抗らしい抵抗はしなかった。
 
 
◇◆◇
 
 
 鮮血に塗(まみ)れた両腕を大きく広げ、陶酔するように身を震わせた。足元には何人もの人間が横たわり、積み重なっている。
 死体の山を踏みしめている今の自分の姿は、まるで舞台の上で華やかに演技する役者のように思えて…。ついつい、ありもしないスポットライトと、いもしない観客を探してしまうのだった。
 あははは…っ
 哄笑する。そうせずには居られない。…その顔には涙の痕。
 涙が出るほど可笑しいのか、それとも悲しさを通り越して笑ってしまったのかは……定かではない。
 何故なら。
 その事を確認できる他者などは、もう、どこにも見当たらないのだから。
 
 雲ひとつない青空を見上げながら、いつ降り出すとも知れない雨を待っている。
 何もかも洗い流してしまう慈雨を、ただ独り、待ち望む。
 
 …………………………。
 かつて、そんな事があった。
 
 
◇◆◇
 
 
 ぐしゃり
 生々しい水音と肉音が奏でる和音が、せまい路地裏に反響する。
 断裂した筋組織の合間を縫って血管を突き破った血液が行き場を失い噴水のように大気に混じり地面に染みこむ。
 現象として、人間が一人、縦方向に潰れていた。
 比喩でもなく幻覚でもなく容赦ない現実感をもって、人間が一人、圧死している。
 眼窩からはみ出した眼球が転がり垂れ下がっていた。
 その目は、自分に何が起こったのか最期に認識できていただろうか。
 圧壊した頭蓋骨からこぼれた脳は、自分を襲った災厄を理解できていただろうか。
 それは分からない。
 だって、それはもう、どうしようもなく、死体だったから。
 それが一人目の末路。
 シンジュの右足を肩に抱えて、あらわになった太ももにナメクジのように舌を這わせて、瑞々しい肌ざわりを存分に愉しんでいた男の末路だった。
 二人目はヒトの形をとどめていなかった。
 等間隔に裁断され、サイコロのような肉片がごろごろと転がる。そうして地面にはぐしょぐしょの肉と血と汁と骨の山が出来上がった。
 それが二人目の末路。
 シンジュの乳丘をじかに揉みしだき、その柔らかな肉に顔を埋め、香る少女のにおいを思いきり吸いこんでいた男の末路だった。
 そして、もう一人、三人目。
 彼はまだ生きていた。今のところは生者だった。
 ただ、死の世界に片足ぐらいは突っ込んでいたけれど。
 腹部に深々と刺さったナイフが、ぐりっと傷口をえぐる。
 ぎゃあぁ、と聞くに堪(た)えない絶叫が、やむ気配もなく響き続けていた。
「あ…ひぃ…ひぎ…いいぃ…っ…!」
 初めのうちこそ、痛いだの何故だのと意味のある言葉を発していたものの……、今では辛うじて悲鳴とわかる音を、泡をふいた口から漏らしているだけだ。
 尻餅をつくように地面に倒れる。間を置かず、あおむけのまま地面を転げまわった。
 ズボンはずり落ち、下半身は丸出しだった。そんな情けない格好で泣き叫んでいる。
 男は見下ろされていた。
 少女に見下されていた。
 シンジュは感情の見えない表情で、かつて加害者であった男を睥睨していた。
 血まみれのナイフを、血に濡れた手で握って。服を赤く汚して。
 眼前の光景が当然のものであるように立ち尽くす。
 
 知らない声が耳朶を打った。
 すっと視線がそちらに移る。
 物陰から、鼻歌まじりに女が姿を現した。
 知らない人物だった。たぶん初めて会う…なのにどこかで見たような顔に思えた。
 どうして?
 とても不思議だった。
 この惨状を前にして顔色ひとつ変えない…どころか笑みすらたたえている彼女が、とても不思議だった。
「あなた……だれ…?」
 私の問いかけに、奇妙な闖入者は、
「今は初めまして。私の名前は……氷上ユイ」
 ひかみ、ゆい。
 そう名乗ったのだった。
 
 
 
 
 
 
 
つづく
 
 
 
 
 
2010/05/30  了
 
        こけ  著
 

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