「やっぱり、あの人とは違うのね」
 血だまりを物ともせず、靴が汚れるのも厭わず、近づいてくる。
 虚(うつ)ろな目をしたシンジュに、歩み寄ってくる。
「むしろ……私よりの性質(たち)よね、あなた。大切なもの以外には興味が向かない。どうだっていい。そんなところも、そっくり」
 手が届く距離で、足を止める。
「だから、違う。あなたは彼じゃない」
 でも、と。
 伸ばした手がシンジュの顔に触れる。
「あなたは、あなたなら、私のあの人のようになってくれるかもしれない」
 妖しく笑む。
 ……その顔が唐突に曇った。不快そうに足元を見下ろす。
「もう、さっきから耳ざわりな声……。あなた、邪魔よ。少し黙ってくれるかしら」
 冷たい視線の向かう先には、腹を刺され、もがき苦しむ男。
 シンジュに手を出した三人目であり、また、シンジュ『が』手を出した一人目でもある。
 おもむろにユイは片足を上げると、それを男の顔面に落とした。男の顔がひしゃげる。
 戯れるように足蹴にして……やがて満足したところで一息に『踏みぬいた』。
 男の頭部がつぶれ、爆ぜる。まるで割れたスイカのよう。中身が辺りに飛び散る。
 少し黙れと言われた男は、永遠に口を閉ざした。
「二人殺すのも三人殺すのも同じよね。安心していいわ。これで、あなたは誰も殺していない」
 よかったわね、と微笑みかける。
 と、シンジュがようやく反応を返した。
「べつに…気にしていません」
「殺しても良かった?」
「向こうが勝手に死んだ、それだけの事です」
「あらあら」
 ユイはくすくすと笑っていた。愉快そうに笑っていた。
「それは彼らも気の毒に。……ああそうそう、聞いてもいい? どうしてあの男だけ殺そうとしたの?」
「だって、私の中に入ってこようとしたから。そんなの、許せない」
 そう答える声に迷いは無い。
 
 私はどうなったっていい。けど、そのせいでシンジさんが悲しむのだけは嫌だった。
 ただ、それだけのこと。
 だから汚されるわけにはいかなかった。
 だから決定的な行為には拒絶でもって応えた。
 私の中に入ってこようとしたから、否もうとした。
 たとえ、どんな手を使っても、やめさせたかった。
 だから結果として、この不埒な男は血の海に沈んでいる。
 当然の報いだ。
 罪の意識なんて無かった。あるわけが無かった。
 あるのは安堵。ほっとしていた。
 だって私は、私を守る事ができたのだから。
 シンジさんのために。
 
「そう。なら仕方ないわね」
「……私も、聞いていいですか」
「なぁに?」
「私には、その、護衛みたいな人達がいるハズなんですけど……誰か見ませんでしたか?」
「ああ。私が介入したせいで手を出せなかったんじゃないかしら。たぶんね。命令に忠実すぎるのも、どうかと思うけれど」
 そう言ってユイは肩をすくめた。やれやれ、とでも言いたげに。
 シンジュのまなざしが険しくなった。手の中のナイフを握りなおす。
 そのナイフは、シンジが『また』殺されるような事があった場合に、加害者に向けてためらわず振り下ろすために常備している凶器だった。
 その相手がカヲルだとは限らない。
「……あなた、誰なんですか」
「言ったでしょう? 氷上ユイ」
「何者なんですか」
「そうね……怪しい者じゃないわよ?」
 シンジュは、それはそれは胡散臭そうな顔をした。
 
 
◇◆◇
 
 
 碇シンジュという少女は、初対面の相手に饒舌になれるような明朗活発な子ではない。
 それが今だけは、まるでシンジと出会ったばかりの時のように口数が多くなっている。
 その矛盾を彼女が自覚していないのも、あの時とよく似ていた。
 

桎梏は優しさに塗れて

第二十三話


 
 アスカからの呼び出しを受けてシンジはここにいる。直接会って話したい事があるのだと、そう聞いて。
 周囲に人気は無い。二人だけの世界だ。けれどそこには色めいたものは無く、らしくない緊張感が漂っていた。
 沈黙の中、アスカが口火を切る。
「ねえ……アンタにとってのアタシって、なに?」
「いきなり、どうしたのさ」
「いいから答えて」
「僕は……友達、いや、違うかな」
 言葉を探して、
「同盟者。そう思ってるよ」
「何よそれ」
「友達以上って言えばいいのかな。友達みたいに、いつか居なくなったりしないで、嫌いにならなくて、でも仲良くもし過ぎないで…。そんなふうにするって決めた、そういう関係」
「だから、同盟者?」
「うん。お互いに、構ってほしい時に構ってあげるようなさ。寂しくない、寂しくさせない関係」
「ふぅん…なるほどね。何となく分かるわ。でも、同盟ってことはさ、お互いが誓約をたてて初めて成立するのよね?」
 シンジは不思議そうな顔をする。
「アスカ? そんなの今さらじゃないか。あの時だって二人でこういう話をして、約束したと思ったけど」
「そうよね。あの終わってしまった世界にアタシたちだけ残されて、それから喧嘩して、喧嘩すらしなくなって、憎みあって……だけど最後には歩み寄った。そして相手を見捨てないって約束した。……そう、そんな感じだったかしらね」
「うん、そんな感じだったね。なつかしいな」
「そうね。なつかしくて、もう、よく思い出せないくらい」
 アスカの声音は、懐古するそれではなかった。
「……思い出せない。そうなのよ。思い出せないの。あの時に何があったのかは覚えてる…『知ってる』の。なのに、その時アタシがどう思ったのか、何を感じたのかが、わからないの。そう『他人事』みたいに」
 アスカの告白をシンジは黙って聞いていた。
 シンジは、まるで。
 アスカの受けた印象が正しければ、シンジはまるで初めて思い当たったかのように愕然としている様子だった。
 だから。だから。
 アスカは落ち着いた声で言えたのだ。
「ねえ……シンジも、そうなんでしょ」
 絶望しきってしまったすえに空っぽになってしまって、そのせいであたかも優しげにすら聞こえてしまう、そんな静かな声で。
 アスカは言ってしまった。
 
 
◇◆◇
 
 
 どうしようもなく『納得』してしまって。
「そっか」
 それしか言葉が出てこない。
 シンジの目から涙がこぼれていた。
 いつまでも泣いていた。
 
 
◇◆◇
 
 
 この二人を監視していた者がいた。
 会話の内容までは捉えていない。だが、二人のただならぬ様子は十分に確認できた。
 よって知る。悟る。
 あの二人がたどり着いてしまった事を。
 世界の欺瞞に気づいてしまった事を。
 この者は…この男は認知した。
 
 手元の映像を消す。
「氷上ユイの出現は、目に見える形での決定的な『ほころび』だったか」
 色眼鏡に隠されて男の表情はうかがえない。しかしその声には苦渋の色があった。
 それを慰めるように、
「……これで箱庭は崩れます。あの時に戻ります。でも、あの時ほど悲しいものにはなりません」
 男に寄り添い立つ少女が話す。
「だから、あとは……すべては流れのままに」
「………………」
「どうしたんですか?」
「いや。なつかしい言葉を聞いたと思ってな」
 首をかしげる少女に、そっと手を伸ばす。
 そうして。
「熱いぞ」
 ねるふ、と書かれた湯呑みを手渡した。
「どうも、です」
「梅昆布茶で良かったか?」
「はい」
 今日のおやつは羊羹(ようかん)だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 それまでシンジが暮らしていた部屋が諸事情により使い物にならなくなったため、新しい住居をネルフに用意してもらっていた。
 一人で住むには十分な広さと、最低限の生活用品はそろっていた。特に不満は見あたらない。
 一人暮らし。
 先ほどカヲルから連絡を受けた。
 しばらくトヲルと一緒に暮らしてみたいのだという。
 いきなりの提案に驚かされたものの、あの二人がいつのまにか仲良くなっていた事実を思い出し、それもいいかと承認した。
 とはいえ寂しさはつのる。気分としては完全に、娘と子離れする父親のそれだった。
 だから、一人暮らしなのだ。
 独り。
「……こんなに、つらいものだったかな…」
 独りには慣れているはずだった。かつて先生の家でどうしようもない孤独を味わった。
 けれど、いつのまにか、そんなものは忘れていたのだ。
 この街ではないあの同じ場所で、ミサトさんと暮らした。アスカと暮らした。学校に友達もできた。孤独では無くなった。
 とても大切な思い出を手に入れた。
 
 でも、それは本当に、僕の思い出なのだろうか?
 
 自分の記憶に自信が持てない。自己を見失いそうになる。
 今日、アスカと話した内容が、頭にこびりついて離れない。
 不確かな記憶。曖昧な過去。自分という存在の希薄さを思い知る。
「僕は……ここに、いるよね…?」
 誰でもいい。誰かに認めてもらいたい。でも。
 否定されてしまうのが怖かった。あなたは碇シンジではない、もしそう言われてしまったら。
 壊れてしまう。自分を保てなくなる。
 だから誰にも、すがれなかった。
 だから今、独りで膝を抱えて震えている。
 
 ……来客があったのは、そんな時だ。
 
 
◇◆◇
 
 
 氷上ユイと名乗った彼女が、手を差し伸べてくる。
「ねえ、一緒に行きましょう? 私なら、本当のあなたの事を教えてあげられる」
 さあ、と誘われる。
 不信感は拭えない。でもそれ以上に安心感もあった。
 嘘ではない。信じてもいい、と。
 まるでシンジュの魂が、ユイを求めているかのように。
 
 けれど。
 
 ユイの手をそっと押しのけ、シンジュは言った。
「……ごめんなさい。私、行かないといけないんです。だって、」
 
 シンジさんが呼んでる。
 あの人が泣いてる。
 
 シンジュは、ユイを拒んだのだった。
 
 
◇◆◇
 
 
 来訪者はシンジュだった。
 彼女は唐突だった。開口一番に、
「いいんですよ」
 そう言った。すべてを許す聖母のような笑みで。
「泣いていいんです。私が来たんですから、好きなだけ泣いてください」
 震えるシンジを抱きしめる。
 その温もりに、
「………あ…っ…」
 決壊する。
「ああぁ…っ……ぅあああぁぁ…っ!!」
 愛しい人の胸の中で、子供のように泣きじゃくる。
 修学旅行の夜とは逆の立場で、相手に全てをゆだねる。
 悲しみも不安も寂しさも、やり場のない怒りも。全部。
 
 その夜。
 シンジさんは、とても激しくて。
 彼の悲痛な心の悲鳴に、私も同調してしまって。
 溺れてしまいそう。
「僕は…ここにいるよね…?」
 行為の最中、何度もたずねてきた。
 そのたびに私は「はい」と答え、彼の動きに応えていた。
 安心して、でもすぐ不安になって、また安心して…。繰り返し、繰り返し。
 そんなシンジさんの不安定さが、ぶざまさが、とてもとても愛おしくて。
 溺れてしまう。
 
 きしむベッドの下には、黒色のレースの下着が転がっていた。
 
 
 
 
 
 
 
つづく
 
 
 
 
 
2010/10/19  了
 
        こけ  著
 

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