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このページは、手元にあります日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の資料をまとめたものです。
差し支えないと判断したものは、一部ですが仏教一般の資料も参考にしました。
今後、間違いに気づいたところは、速やかに訂正してまいります。

にょらいじゅりょうほん
如来寿量品 第十六
 
大 意
冒頭、仏が教説を信受すべきことを三度誡(いまし)め、菩薩たちが三度説法を請(こ)うという三誡三請(さんかいさんしょう)・さらに請い、重ねて誡めるという重請重誡(じゅうしょうじゅうかい)からはじまります。

このことは、『方便品』の三止三請・重請許説(じゅうしょうこせつ)よりもさらに丁寧なもので、これからなされる仏の説法がいかに重要であるかを示唆(しさ)するものです。

その説法とは、釈尊はインドにおいてはじめて悟りを得た「始成正覚(しじょうしょうがく)」の仏ではなく、実は五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)という久遠の昔に成道した「久遠実成(くおんじつじょう)の仏であることを、本因(ほんいん)・本果(ほんが)・本国土(ほんこくど)の三妙を説いて具体的に示し、仏の久遠本地と三世常住を明かされたものでした。

この仏の久遠開顕は「広開近顕遠(こうかいごんけんのん)」といい、これまでの仏身に対する認識を根底から覆(くつがえ)すものでした。
これによって、事の一念三千(じのいちねんさんぜん)の法門が明かされ、一切衆生の成仏も具体的となりました。

この意義から『寿量品』は、法華経の中において、もっとも肝要な一品であるとともに仏教全体の眼目となるのです。

当品では続いて、仏の三世常住を「良医病子の譬(ろういびょうしのたとえ)」として説かれ、さらに「自我偈(じがげ)」でこれらを重説されています。

仏法用語
始成正覚(しじょうしょうがく)

法華経が説かれる以前の教えでは、釈尊は、インドに出生して、三十歳のとき、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で初めて成仏した(仏に成った)と説かれていた。−この菩提樹下の成仏を「始成正覚(しじょうしょうがく) 」という。

<参考>久遠実成

五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)

『法華経 如来寿量品第十六』に明かされる、仏の成仏してからの長い時間のこと。釈尊は、はるかな昔に成仏して仏になっていた。
五百千万億那由他(なゆた)阿僧祇(あそうぎ)」(開結429)で始まる「久遠実成」の話に由来する。

釈尊は、『寿量品』において、
五百千万億那由他(なゆた)阿僧祇(あそぎ)もの三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)を擦(す)って塵(ちり)にし、この塵を東方に五百千万億那由他阿僧祇の国土を過ぎるごとに一粒ずつ落としてことごとく尽くし、その過ぎ去ったすべての三千大千世界を集めて微塵に砕き、その一塵を一劫(いちごう)としたものに過ぎること百千万億那由他阿僧祇劫の昔より成仏している」と明かした。この長い時間を五百塵点劫という。

<備考>
那由他(なゆた)・・・極めて大きな数量 阿僧祇よりも大きな数

阿僧祇(あそぎ)・・・極めて大きな数量

三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)・・・日月や須弥山(しゅみせん)などの広がりを一世界とし、その千倍を小千世界、その千倍を中千世界、さらにその千倍の世界を大千世界とする世界観。大・中・小の3種の千世界から成るので「三千大千世界」という。(一説には、銀河系宇宙の大きさであるという)

宇宙には、このような三千大千世界が数限りなく存在するとする。3000年前のインドの宇宙観。

劫(こう)・・・極めて長い時間の単位

久遠実成(くおんじつじょう)

久遠実成とは、菩提樹の下で悟りを開き仏になったと説いてきた釈尊が、実は久遠の昔に仏に成っていたとことをいう言葉。

法華経が説かれる以前の教えでは、釈尊は、インドに出生して、三十歳のとき、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で初めて成仏したことが説かれている。(始成正覚/しじょうしょうがく)

『法華経 寿量品』に至り、釈尊は、五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう)という久遠の昔にすでに仏になっていたと明かした−これを「久遠実成」という。

三妙(さんみょう)

釈尊は「久遠実成」の具体的な内容を、「三妙」をもって明かしている。

「三妙」とは、釈尊が『寿量品』で明らかにした三つのことで、「久遠の昔に仏という果を得ていること)」(本果妙)、 「その因は菩薩道であったこと」(本因妙)、 「成仏(仏に成ること)してから今まで、常に娑婆世界にいて、人々を仏道に導いていること」(本国土妙)をいう。

『寿量品』では、釈尊が成仏して以来の長遠な期間が、ほとんど無限といってよいほど長いことが五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)の譬(たと)えをもって説明されている。

これによって、釈尊が今世ではじめて成仏した(始成正覚)というこれまでの考え方を打ち破り、ならびに釈尊は実は五百塵点劫というはるか久遠の昔に成仏して以来、この娑婆世界に常住してきた仏であることが明かされた。

<本因妙>

本因妙(ほんにんみょう)とは、仏になるためのの根本の因行をいう。

法華経 寿量品に「我(われ)本(もと)菩薩の道(どう)を行じて、成ぜし所の寿命、今猶(なお)未だ尽きず。復(また)上(かみ)の数(すう)に倍せり」(開結433)と説かれている。

釈尊が久遠の昔において菩薩道を修行したことを明かしている。

<本果妙>

本果妙とは、本因の修行によって悟りを成就し、仏身(ぶっしん)を得たことをいう。

法華経 寿量品の我(われ)実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫(ひゃくせんまんのくなゆたこう)なり」(開結429)を依文とする。

釈尊が久遠五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)という久遠の昔に仏果(ぶっか)を成就したことを明かしている。

<本国土妙>

本国土妙とは、仏が住する真実の国土を明かすことをいう。

法華経 寿量品の我(われ)常に此の娑婆世界に在って、説法教化(きょうけ)」(開結431)を依文とする。

我々の住んでいる娑婆世界が釈尊の常住する国土であることを明かしている。

事の一念三千(じのいちねんさんぜん)
『方便品 』に説かれた「一念三千」は、理論の上での一切衆生の成仏であった。釈尊の久遠実成(くおんじつじょう)による本地(仏の本源の地)の開顕が説かれていないからである。

それが、『寿量品』に至り、仏の久遠の成仏と、常住の命が明かされ(事の一念三千の開顕)、これを聴聞した衆生が、釈尊との久遠以来の因縁を悟り、久遠において釈尊よりの下種(げしゅ/成仏の種を植えられていること)を覚知し、成仏を遂(と)げたという。

事の一念三千つづき・・・
一念三千(いちねんさんぜん)                           わかりやすい一念三千へ・・・(長文です)

「一念」とは、私たちの瞬間の心であり、瞬間の生命のことである。この一念に、三千の諸法が具わっていることを説いたのが「一念三千」である。

〈備考〉「一念」とは、私たちの瞬間の心であり、瞬間の生命のことである。・・・について

仏法では、心と体を合わせたものを生命と定義する。

ふつう一念といえば、瞬間の思い(心)という意味であるが、仏法では、人間の通常の感覚器官で、二つに分けてとらえている心と体は、(特別な認識能力で)その正体を見極めれると、一体であるとされる。

わかりやすく説明すると、心と体は、区別することはできるが、究極的には一体であるということである(これを「色心不二/しきしんふに」という)。

色心不二であるところの心と体を合わせたものを生命と呼んでいる。つまり、瞬間の心の状態は、瞬間の生命の状態でもある。

一念三千の構成は、 瞬間の一念に十界(じっかい)が存在し、その十界おのおのに十界が具(そな)わり百界(ひゃっかい)となる。

さらに百界それぞれに十如是(じゅうにゅぜ)の用(はたら)きが具(そな)わって千如是(せんにょぜ)となり、千如是に三世間(さんせけん)が具わり三千世間(さんぜんせけん)となる。

「三千」という数は、十界互具と十如是、そして三世間の数字の部分を合わせたものである(十界×十界×十如是×三世間=三千)。10×10×10×3=3,000

一念三千の教えは、十界と十如是と三世間という、それぞれ異なった角度から生命をとらえ、それらを総合して生命の全体観を示したものである。


十界(じっかい)

十界とは、生命が内より実感している十種類の境界(きょうがい)のことで、地獄界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界をいう。ここでいう境界とはある領域の状態のことをいう。

@地獄界(じごくかい)

 ・・・苦悩(くのう)・煩悶(はんもん/もだえ苦しむこと)の境界のこと。

A餓鬼界(がきかい)

 ・・・飢渇(きかつ/飢え渇(かわ)き)に苦しむ境界のこと。

B畜生界(ちくしょうかい)

  ・・・理性を欠き、本能的欲求によって動く境界のこと。

C修羅界(しゅらかい)

 ・・・他人の善根(ぜんごん/善い果報を招くであろう善因)を憎み・怒る、自己中心的な境界のこと。常に他に勝ることを思い、怒りへつらう境界。 

D人 界(にんかい)

  ・・・平静に物事を判断する境界のこと。人間界ともいい、穏(おだ)やかで落ち着いた境界。

E天 界(てんかい)

  ・・・歓喜に満ちた境界のこと。天上界ともいい、永続性のない快楽の境界。

F声聞界(しょうもんかい)

  ・・・仏の法を聞き、煩悩(ぼんのう)を断尽(だんじん)して小乗の悟りを得る境界のこと。

小乗の悟り・・・阿羅漢果(あらかんが)のこと。煩悩を断じた境界。

G縁覚界(えんがくかい)

  ・・・独覚(どっかく)ともいい、理(り・ことわり/道理や自然の法則)を観(かん)じ、自然現象を縁として小乗の悟りを得る境界。

H菩薩界(ぼさつかい)

  ・・・利他(りた)の実践により、衆生を救済しようとする慈悲(じひ)の境界のこと。

I仏 界(ぶっかい)

  ・・・一切諸法(しょほう/森羅万象・宇宙のあらゆる存在)に通達(つうだつ)し、中道実相(ちゅうどうじっそう)を体得した尊極無上(そんごくむじょう)の境界のこと。

中道実相・・・現象界の真実の相を観る、偏ることのない円満な仏の智恵


地獄・餓鬼・畜生の三界を「三悪道(さんなくどう)」、これに修羅界を合わせて「四悪趣(しあくしゅ)」、さらに人間・天上の二界を合わせて「六道(ろくどう」)という。

また、声聞・縁覚の二界は「二乗(にじょう)」といい、これに菩薩界を合わせて「三乗」という。

声聞から仏までの四界を「四聖(ししょう)」という。


十界互具(じっかいごぐ)

これら十界それぞれには、十界が具わっている。これを十界互具という。 (十のどの境界にも、地獄界から仏界までが具わっているということである。)

十界×十界で百界となり、これによって法華経が説かれる以前には成仏できないとされてきた声聞・縁覚の二乗はもとより、十界すべての衆生に仏界がそなわることがあかされた。

このあとさらに十如是(じゅうにょぜ) 、三世間(さんせけん)という法門がつづく。
一念三千つづき・・・

良医病子(ろういびょうし)のたとえ<如来寿量品第十六>


良医に百人にも及ぶ子供がいました。

あるとき、 良医が留守中に子供たちが誤って毒薬を飲み、苦しんでいました。

そこへ帰った良医は、良薬を調合して子供たちに与えましたが、本心を失った子供たちは飲みませんでした。

そのため良医は方便を設け、父が他国へ行って死んだと使者に告げさせました。

父の死を聞いた子供たちは大いに憂い、本心を取りもどし、残された良薬を飲んで病を治すことができたのです。

良医とは仏、病子とは衆生にたとえられ、良医が家に帰って失心の子を救うとは、仏が一切衆生を救う未来の益を説いています。

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自 我 偈 (じがげ)

自我偈(じがげ)とは、如来寿量品第十六の最後に語られた偈(げ/詩文)のこと。


ふりがな

本文

読み下し文

現代語訳

じがとくぶっらい          しょきょうしょこっしゅ       むりょうひゃくせんまん     おくさいあそうぎ
自我得仏来   所経諸劫数   無量百千万   億載阿僧祇

我(われ)仏を得てより来(このかた) 経(へ)たる所の諸(もろもろ)の劫数(こっしゅ)は 無量百千万 億載阿僧祇なり

私が仏になって以来、経てきた時間は劫の数にして、無量百千万億載阿僧祇劫という数え切れないほど長い時間です。

 

じょうせっぽうきょう け      むしゅおくしゅじょう       りょうにゅうおぶつどう      にらいむりょうこう
常説法教化   無数億衆生   令入於仏道   爾来無量劫

常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾(しか)しより来(このかた)無量劫なり

その間には、常に法を説いて無数億の人々を教化して、仏道に導き入れて来ました。こうしてこれまでに、無量劫を経ているのです。

 

いどしゅうじょうこ         ほうべんげんねはん      にじつふめつど          じょうじゅうしせっぽう
為度衆生故   方便現涅槃   而実不滅度   常住此説法

衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而(しか)も実には滅度せず 常に此(ここ)に住して法を説く

人々を救うため故に、方便で涅槃(死ぬこと)を現して見せました。しかし真実には、滅度した(死んだ)のではなく、常にこの娑婆世界に住んでいて、法を説いています。

涅槃(ねはん)、滅度(めつど)・・・ともにここでは、「釈尊の死」の意味。

 

がじょうじゅうおし        いしょじんづうりき        りょうてんどうしゅじょう    すいごんにふけん
我常住於此   以諸神通力   令顛倒衆生   雖近而不見

我(われ)常に此(ここ)に住すれども 諸(もろもろ)の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖(いえど)も而(しか)も見えざら令(し)む

私は常にこの娑婆世界に住んでいるのですが、さまざまな神通力で、意識が顛倒している(本心=正しい心 を失っている)人々には、近くにいても見えないようにしているのです。

顛倒(てんどう)とは・・・
過去に身口意(しんくい/身に行うことと、口に言うこと、心に思 うこと)に積んだ悪業(あくごう)により、煩悩(ぼんのう)が盛んであり、そのため真実を見誤っている、道理に背いていることをいう。

煩悩(ぼんのう)とは・・・
自らの心身を煩(わずら)わし悩ます精神作用。
仏教ではさまざまに説かれるが、根源的なものは、 貪(とん/むさぼり)・瞋(じん/いかり)・癡(ち/おろかしさ)があげられ、これを三毒(さんどく)という。

 

しゅけんがめつど        こうくようしゃり           げんかいえれんぼ       にしょうかつごうしん
衆見我滅度   広供養舎利   咸皆懐恋慕   而生渇仰心

衆(しゅ)我が滅度を見て 広く舎利を供養し 咸(ことごと)く皆(みな)恋慕を懐(いだ)いて 渇仰の心を生ず

人々は私が死んだのを見て、遺骨にさまざまな供養をします。 (仏を見ることがなくなると、仏は会い難いものだと思い)あらゆる人が仏を恋慕して、渇仰する心を生じます。

 

しゅうじょうきしんぶく      しちじきいにゅうなん      いっしんよっけんぶつ     ふじしゃくしんみょう
衆生既信伏   質直意柔軟   一心欲見仏   不自惜身命

衆生既(すで)に信伏し 質直にして意(こころ)柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず

人々が、すでに教えを信じ、心が素直で柔らかく、一心に仏を拝見しようと欲して、自らの命も惜しまないようになる、

 

じがぎゅうしゅそう        くしゅつりょうじゅせん      がじごしゅじょう           じょうざいしふめつ
時我及衆僧   倶出霊鷲山   我時語衆生   常在此不滅

時に我(われ)及び衆僧 倶(とも)に霊鷲山に出ず 我時に衆生に語る 常に此(ここ)にあって滅せず

その時私は、多くの僧とともに霊鷲山に出現します。その時私は、人々に語ります。 「私は、常にこの娑婆世界にあって滅すること(死ぬこと)がないのですが、

 

いほうべんりっこ         げんうめつふめつ        よこくうしゅじょう         くぎょうしんぎょうしゃ
以方便力故   現有滅不滅   余国有衆生   恭敬信楽者

方便力を以(もっ)ての故に 滅不滅有りと現ず 余国に衆生の 恭敬し信楽(しんぎょう)する者あれば

方便力をもって、死んだり生まれたりする姿を現します。また娑婆世界(しゃばせかい)以外の他の国土に、仏を敬い教えを信じ喜ぶものがあれば、

娑婆世界(しゃばせかい)とは・・・
人間が現実に住んでいるこの世界のこと。 迷いの世界である。
釈尊が教化する世界のひとつ。

 

がぶおひちゅう          いせつむじょうほう       にょとうふもんし         たんにがめつど
我復於彼中   為説無上法   汝等不聞此   但謂我滅度

我復(また)彼(か)の中に於(おい)て 為に無上の法を説く 汝等(なんだち)此れを聞かずして 但我滅度すと謂(おも)えり

私はまた、そこでも彼らの為に無上の法を説くのです。あなたたちは、このことを知らないため、ただ私が滅度する(死ぬ)と思っているのです。

 

がけんしょしゅじょう       もつざいおくかい        こふいげんしん         りょうごしょうかつごう
我見諸衆生   没在於苦海   故不為現身   令其生渇仰

我諸(もろもろ)の衆生を見るに 苦海に没在せり かるが故に為に身を現ぜずして 其(そ)れをして渇仰を生ぜ令(し)む

私が多くの人々を見ると、みな苦しみの海に沈んでいます。それ故人々を救う為に、身を現さないことによって、仏を渇仰する心を生じさせ、

 

いんごしんれんぼ        ないしゅついせっぽう     じんづうりきにょぜ        おあそうぎこう
因其心恋慕   乃出為説法   神通力如是   於阿僧祇劫

其の心恋慕するに因(よ)って 乃(すなわ)ち出でて為に法を説く 神通力是(か)くの如し 阿僧祇劫に於(おい)て

その心が仏を恋い慕うようになったところで、姿を現して法を説くのです。 仏の神通力とはこのようなものなのです。 阿僧祇劫という長い間ずっと、

 

じょうざいりょうじゅせん    ぎゅうよしょじゅうしょ      しゅじょうけんこうじん     だいかしょしょうじ
常在霊鷲山   及余諸住処   衆生見劫尽   大火所焼時

常に霊鷲山 及び余(よ)の諸の住処に在り 衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も

常にこの霊鷲山ならびにその他いろいろな所にいるのです。(罪のある)人々が、(運命の許す時間が過ぎ)この世の滅する時が来て、大火に焼かれると見える時でも、

衆生見劫尽の「劫尽(こうじん)」について・・・
劫(こう)が尽(つ)きるとは、仏法の宇宙観によるところの「住劫 (じゅうこう)」が尽きて「壊劫 (えこう)」に入るという意味。

仏法の宇宙観によると、一つの宇宙は、「成劫」「住劫」「壊劫」「空劫」という四つの周期を繰り返しているといわれる。

成劫(じょうこう) ・・・宇宙が形成されていく時期。
住劫 (じゅうこう)・・・その宇宙が持続される時期。
壊劫 (えこう)・・・宇宙が消滅していく時期。
空劫(くうこう) ・・・何もなくなった状態が継続される時期。

この宇宙の生滅の一サイクルを一大劫(いちだいこう)といい、仏法では詳しく説明されている。

がしどあんのん         てんにんじょうじゅうまん    おんりんしょどうかく        しゅじゅほうしょうごん
我此土安穏   天人常充満   園林諸堂閣   種種宝荘厳

我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸の堂閣 種々の宝をもって荘厳し

私がいるこの仏国土は安穏で、神や人が常に満ちあふれています。園や林にある あらゆる堂宇(どうう)・楼閣(ろうかく)は、さまざまな宝で荘厳(そうごん)され、

堂宇(どうう)・・・大きくて荘厳な建物
楼閣(ろうかく)・・・幾重にも階の重なった、高い建物

種種宝荘厳の「種々の宝」とは・・・
金、銀、瑠璃(るり)、しゃこ(シャコ貝)、瑪瑙(めのう)、真珠、まいえ(瑰/貴石の一種)の七宝(しっぽう)のこと。

 

ほうじゅたけか          しゅじょうしょゆうらく       しょてんぎゃくてんく       じょうさっしゅぎがく
宝樹多華果   衆生所遊楽   諸天撃天鼓   常作衆妓楽

宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天の鼓(つづみ)を撃(う)って 常に衆の妓楽を作(な)し

宝の樹は、たくさんの花や実をつけ、人々が遊楽している所なのです。たくさんの神たちが天の鼓を打って、絶えることなくさまざまな音楽を奏(かな)で、

 

うまんだらけ           さんぶつぎゅうだいしゅ     がじょうどふき           にしゅけんしょうじん
雨曼陀羅華   散仏及大衆   我浄土不毀   而衆見焼尽

曼陀羅華を雨(ふ)らして 仏及び大衆に散ず 我が浄土は毀(やぶ)れざるに 而(しか)も衆は焼け尽きて

天から曼荼羅華を降らして、仏や人々にまき散らし、供養しています。私の住んでいる仏土は、このように壊(こわ)れることはないのですが、(罪のある)人々は、この仏土が焼け尽きて

 

うふしょくのう           にょぜしつじゅうまん      ぜしょざいしゅじょう        いあくごういんねん
憂怖諸苦悩   如是悉充満   是諸罪衆生   以悪業因縁

憂怖諸(もろもろ)の苦悩 是(か)くの如く悉(ことごと)く充満せりと見る 是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以て

憂いや恐れやさまざまな苦悩が、ことごとく充満していると見るのです。このさまざまな罪のある人々は、悪業の因縁ゆえに、

 

かあそぎこう           ふもんさんぼうみょう      しょうしゅくどく            にゅうわしちじきしゃ
過阿僧祇劫   不聞三宝名   諸有修功徳   柔和質直者

阿僧祇劫を過ぐれども 三宝(さんぼう)の名(みな)を聞かず 諸の有(あら)ゆる功徳を修し 柔和質直なる者は

阿僧祇劫という長い時を過ぎても、仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝の名前を聞くことができないのです。それに対し、あらゆる功徳を修(おさ)め、心が柔和で正直な人は、

 

そっかいけんがしん       ざいしにせっぽう         わくじいししゅ           せつぶつじゅむりょう
則皆見我身   在此而説法   或時為此衆   説仏寿無量

則(すなわ)ち皆我が身 此(ここ)にあって法を説くと見る 或(ある)時は此の衆の為に 仏寿無量なりと説く

皆、私がここにいて法を説いているのが分かるのです。仏は、ある時はこの人々のために仏の寿命は永遠であると説き、

 

くないけんぶっしゃ       いせつぶつなんち       がちりきにょぜ           えこうしょうむりょう
久乃見仏者   為説仏難値   我智力如是   慧光照無量

久しくあって乃(いま)し仏を見たてまつる者には 為に仏には値い難しと説く 我が智力(ちりき)是(かく)の如し 慧光照らすこと無量に

また久しい時を経(へ)てようやく仏を拝見した者たちには、仏には非常に値い(会い)難いものであると説くのです。私の智恵の力とは、このような(自由自在な)ものです。仏の智恵の光は無量の世界を照らし、

 

じゅみょうむしゅこう       くしゅごうしょとく         にょとううちしゃ           もっとししょうぎ
寿命無数劫   久修業所得   汝等有智者   勿於此生疑

寿命無数劫なり 久しく業を修して得る所なり 汝等(なんだち)智あらん者 此(ここ)に於て疑(うたがい)を生ずること勿(なか)れ

その智恵の寿命は無数劫にわたるのです。これらはみな、長い間 善業(ぜんごう/菩薩道)を修行して得たものです。あなたたち、智恵のある者は、このことを決して疑ってはなりません。(もし、疑いが生じたならば、)

 

とうだんりょうようじん     ぶつごじっぷこ          にょいぜんほうべん       いじおしこ
当断令永尽   仏語実不虚   如医善方便   為治狂子故

当(まさ)に断じて永く尽き令(し)むべし 仏語は実(じつ)にして虚(むな)しからず 医(くすし)の善き方便をもって 狂子を治せんが為の故に

その疑いを永久に断じ尽くしてしまいなさい。仏の言葉は、全て真実で虚(うそ)はないのです。(たとえば『良医病子のたとえ』で述べたように) 医(くすし)が善い方便で、毒薬を飲んで本心を失っている子供たちを救うために、

 

じつざいにごんし        むのうせっこうもう        がやくいせぶ            くしょくげんしゃ
実在而言死   無能説虚妄   我亦為世父   救諸苦患者

実には在れども而(しか)も死すというに 能(よ)く虚妄と説くもの無きが如く 我も亦(また)為(こ)れ世の父 諸の苦患を救う者なり

実際には生きているのに死んだと言って薬を飲ませたのを、あえてウソつきだと言って非難する者がないのと同様に、私も世の中の父であり、多くの苦しみや患(わずら)いを (さまざまな方法で) 救う者なのです。

 

いぼんぶてんどう        じつざいにごんめつ        いじょうけんがこ        にしょうきょうししん
為凡夫顛倒   実在而言滅   以常見我故   而生驕恣心

凡夫の顛倒(てんどう)せるを為(もっ)て 実には在れども而(しか)も滅すと言う 常に我を見るを以(もっ)ての故に 而(しか)も驕恣(きょうし)の心を生じ

凡夫は意識が転倒している(本心=正しい心を失っている)ため、私は実際にはこの世にいるのですが、あえて入滅する(死ぬ)と言うのです。なぜなら、常に私を見ることに慣れてしまうと、心が驕(おご)り欲のおもむくままになり、

 

ほういつぢゃくごよく      だおあくどうちゅう        がじょうちしゅじょう        ぎょうどうふぎょうどう
放逸著五欲   堕於悪道中   我常知衆生   行道不行道

放逸(ほういつ)にして五欲に著(じゃく)し 悪道の中に堕(お)ちなん 我常に衆生の 道(どう)を行じ道を行ぜざるを知って

勝手気ままでしまりが無くなって、五官の欲望の虜(とりこ)になってしまい、悪道に堕ちてしまうからです。私は、常に仏道修行に励む者と励まない者とを知っていて

五欲・・・五官(眼・耳・鼻・舌・身)から受ける刺激(色形・音・香・味・触)に対する欲望。

 

ずいおしょかど          いせっしゅじゅほう        まいじさぜねん          いがりょうしゅじょう
随応所可度   為説種種法   毎自作是念   以何令衆生

応(まさ)に度すべき所に随(したが)って 為に種々の法を説く 『毎(つね)に自ら是(こ)の念を作(な)さく 何を以てか衆生をして

その相手によってさまざまに工夫しながら、いろいろに法を説いていくのです。『私は常にこのように念じています。どのようにして、人々を

 

とくにゅうむじょうどう      そくじょうじゅぶっしん
得入無上道   速成就仏身

無上道に入り 速(すみや)かに仏身を成就することを得せ令(し)めんと』

この無上の道に入れて、速やかに仏身を成就させようか、と。』

 

 

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