このページは、手元にあります日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の資料をまとめたものです。
差し支えないと判断したものは、一部ですが仏教一般の資料も参考にしました。
今後、間違いに気づいたところは、速やかに訂正してまいります。
にょらいじゅりょうほん 如来寿量品 第十六 |
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冒頭、仏が教説を信受すべきことを三度誡(いまし)め、菩薩たちが三度説法を請(こ)うという三誡三請(さんかいさんしょう)・さらに請い、重ねて誡めるという重請重誡(じゅうしょうじゅうかい)からはじまります。 このことは、『方便品』の三止三請・重請許説(じゅうしょうこせつ)よりもさらに丁寧なもので、これからなされる仏の説法がいかに重要であるかを示唆(しさ)するものです。 その説法とは、釈尊はインドにおいてはじめて悟りを得た「始成正覚(しじょうしょうがく)」の仏ではなく、実は五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)という久遠の昔に成道した「久遠実成(くおんじつじょう)の仏であることを、本因(ほんいん)・本果(ほんが)・本国土(ほんこくど)の三妙を説いて具体的に示し、仏の久遠本地と三世常住を明かされたものでした。 この仏の久遠開顕は「広開近顕遠(こうかいごんけんのん)」といい、これまでの仏身に対する認識を根底から覆(くつがえ)すものでした。 これによって、事の一念三千(じのいちねんさんぜん)の法門が明かされ、一切衆生の成仏も具体的となりました。 この意義から『寿量品』は、法華経の中において、もっとも肝要な一品であるとともに仏教全体の眼目となるのです。 当品では続いて、仏の三世常住を「良医病子の譬(ろういびょうしのたとえ)」として説かれ、さらに「自我偈(じがげ)」でこれらを重説されています。 |
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法華経が説かれる以前の教えでは、釈尊は、インドに出生して、三十歳のとき、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で初めて成仏した(仏に成った)と説かれていた。−この菩提樹下の成仏を「始成正覚(しじょうしょうがく) 」という。
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『法華経 如来寿量品第十六』に明かされる、仏の成仏してからの長い時間のこと。釈尊は、はるかな昔に成仏して仏になっていた。
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久遠実成とは、菩提樹の下で悟りを開き仏になったと説いてきた釈尊が、実は久遠の昔に仏に成っていたとことをいう言葉。
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釈尊は「久遠実成」の具体的な内容を、「三妙」をもって明かしている。
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『方便品 』に説かれた「一念三千」は、理論の上での一切衆生の成仏であった。釈尊の久遠実成(くおんじつじょう)による本地(仏の本源の地)の開顕が説かれていないからである。 それが、『寿量品』に至り、仏の久遠の成仏と、常住の命が明かされ(事の一念三千の開顕)、これを聴聞した衆生が、釈尊との久遠以来の因縁を悟り、久遠において釈尊よりの下種(げしゅ/成仏の種を植えられていること)を覚知し、成仏を遂(と)げたという。 事の一念三千つづき・・・ |
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一念三千(いちねんさんぜん) わかりやすい一念三千へ・・・(長文です) |
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「一念」とは、私たちの瞬間の心であり、瞬間の生命のことである。この一念に、三千の諸法が具わっていることを説いたのが「一念三千」である。
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自 我 偈 (じがげ) 自我偈(じがげ)とは、如来寿量品第十六の最後に語られた偈(げ/詩文)のこと。 |
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じがとくぶっらい しょきょうしょこっしゅ むりょうひゃくせんまん おくさいあそうぎ 私が仏になって以来、経てきた時間は劫の数にして、無量百千万億載阿僧祇劫という数え切れないほど長い時間です。
じょうせっぽうきょう け むしゅおくしゅじょう りょうにゅうおぶつどう にらいむりょうこう その間には、常に法を説いて無数億の人々を教化して、仏道に導き入れて来ました。こうしてこれまでに、無量劫を経ているのです。
いどしゅうじょうこ ほうべんげんねはん にじつふめつど じょうじゅうしせっぽう 人々を救うため故に、方便で涅槃(死ぬこと)を現して見せました。しかし真実には、滅度した(死んだ)のではなく、常にこの娑婆世界に住んでいて、法を説いています。
がじょうじゅうおし いしょじんづうりき りょうてんどうしゅじょう すいごんにふけん 私は常にこの娑婆世界に住んでいるのですが、さまざまな神通力で、意識が顛倒している(本心=正しい心 を失っている)人々には、近くにいても見えないようにしているのです。
しゅけんがめつど こうくようしゃり げんかいえれんぼ にしょうかつごうしん 人々は私が死んだのを見て、遺骨にさまざまな供養をします。 (仏を見ることがなくなると、仏は会い難いものだと思い)あらゆる人が仏を恋慕して、渇仰する心を生じます。
しゅうじょうきしんぶく しちじきいにゅうなん いっしんよっけんぶつ ふじしゃくしんみょう 人々が、すでに教えを信じ、心が素直で柔らかく、一心に仏を拝見しようと欲して、自らの命も惜しまないようになる、
じがぎゅうしゅそう くしゅつりょうじゅせん がじごしゅじょう じょうざいしふめつ その時私は、多くの僧とともに霊鷲山に出現します。その時私は、人々に語ります。 「私は、常にこの娑婆世界にあって滅すること(死ぬこと)がないのですが、
いほうべんりっこ げんうめつふめつ よこくうしゅじょう くぎょうしんぎょうしゃ 方便力をもって、死んだり生まれたりする姿を現します。また娑婆世界(しゃばせかい)以外の他の国土に、仏を敬い教えを信じ喜ぶものがあれば、
がぶおひちゅう いせつむじょうほう にょとうふもんし たんにがめつど 私はまた、そこでも彼らの為に無上の法を説くのです。あなたたちは、このことを知らないため、ただ私が滅度する(死ぬ)と思っているのです。
がけんしょしゅじょう もつざいおくかい こふいげんしん りょうごしょうかつごう 私が多くの人々を見ると、みな苦しみの海に沈んでいます。それ故人々を救う為に、身を現さないことによって、仏を渇仰する心を生じさせ、
いんごしんれんぼ ないしゅついせっぽう じんづうりきにょぜ おあそうぎこう
じょうざいりょうじゅせん ぎゅうよしょじゅうしょ しゅじょうけんこうじん だいかしょしょうじ 常にこの霊鷲山ならびにその他いろいろな所にいるのです。(罪のある)人々が、(運命の許す時間が過ぎ)この世の滅する時が来て、大火に焼かれると見える時でも、
がしどあんのん てんにんじょうじゅうまん おんりんしょどうかく しゅじゅほうしょうごん 私がいるこの仏国土は安穏で、神や人が常に満ちあふれています。園や林にある あらゆる堂宇(どうう)・楼閣(ろうかく)は、さまざまな宝で荘厳(そうごん)され、
ほうじゅたけか しゅじょうしょゆうらく しょてんぎゃくてんく じょうさっしゅぎがく 宝の樹は、たくさんの花や実をつけ、人々が遊楽している所なのです。たくさんの神たちが天の鼓を打って、絶えることなくさまざまな音楽を奏(かな)で、
うまんだらけ さんぶつぎゅうだいしゅ がじょうどふき にしゅけんしょうじん 天から曼荼羅華を降らして、仏や人々にまき散らし、供養しています。私の住んでいる仏土は、このように壊(こわ)れることはないのですが、(罪のある)人々は、この仏土が焼け尽きて
うふしょくのう にょぜしつじゅうまん ぜしょざいしゅじょう いあくごういんねん 憂いや恐れやさまざまな苦悩が、ことごとく充満していると見るのです。このさまざまな罪のある人々は、悪業の因縁ゆえに、
かあそぎこう ふもんさんぼうみょう しょうしゅくどく にゅうわしちじきしゃ 阿僧祇劫という長い時を過ぎても、仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝の名前を聞くことができないのです。それに対し、あらゆる功徳を修(おさ)め、心が柔和で正直な人は、
そっかいけんがしん ざいしにせっぽう わくじいししゅ せつぶつじゅむりょう 皆、私がここにいて法を説いているのが分かるのです。仏は、ある時はこの人々のために仏の寿命は永遠であると説き、
くないけんぶっしゃ いせつぶつなんち がちりきにょぜ えこうしょうむりょう また久しい時を経(へ)てようやく仏を拝見した者たちには、仏には非常に値い(会い)難いものであると説くのです。私の智恵の力とは、このような(自由自在な)ものです。仏の智恵の光は無量の世界を照らし、
じゅみょうむしゅこう くしゅごうしょとく にょとううちしゃ もっとししょうぎ その智恵の寿命は無数劫にわたるのです。これらはみな、長い間 善業(ぜんごう/菩薩道)を修行して得たものです。あなたたち、智恵のある者は、このことを決して疑ってはなりません。(もし、疑いが生じたならば、)
とうだんりょうようじん ぶつごじっぷこ にょいぜんほうべん いじおしこ その疑いを永久に断じ尽くしてしまいなさい。仏の言葉は、全て真実で虚(うそ)はないのです。(たとえば『良医病子のたとえ』で述べたように) 医(くすし)が善い方便で、毒薬を飲んで本心を失っている子供たちを救うために、
じつざいにごんし むのうせっこうもう がやくいせぶ くしょくげんしゃ 実際には生きているのに死んだと言って薬を飲ませたのを、あえてウソつきだと言って非難する者がないのと同様に、私も世の中の父であり、多くの苦しみや患(わずら)いを (さまざまな方法で) 救う者なのです。
いぼんぶてんどう じつざいにごんめつ いじょうけんがこ にしょうきょうししん 凡夫は意識が転倒している(本心=正しい心を失っている)ため、私は実際にはこの世にいるのですが、あえて入滅する(死ぬ)と言うのです。なぜなら、常に私を見ることに慣れてしまうと、心が驕(おご)り欲のおもむくままになり、
ほういつぢゃくごよく だおあくどうちゅう がじょうちしゅじょう ぎょうどうふぎょうどう 勝手気ままでしまりが無くなって、五官の欲望の虜(とりこ)になってしまい、悪道に堕ちてしまうからです。私は、常に仏道修行に励む者と励まない者とを知っていて
ずいおしょかど いせっしゅじゅほう まいじさぜねん いがりょうしゅじょう
とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん この無上の道に入れて、速やかに仏身を成就させようか、と。』
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