@因果について
仏法では、因果(いんが)という考えを根本としています。
原因があって結果があるという考え方です。無から有を生じたという考えはしません。無のように見えていた物事の中には、実は結果を生ずる原因があったのだといいます。
何も無いように見える空気中にも、酸素や窒素(ちっそ)などの物質が含まれていることは、現代科学の常識ですが、実は、この空気を含めた法界(宇宙)には、条件さえそろえば、物質をはじめ、色々なできごとを生み出す力が具(そな)わっているのだといいます。
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A宇宙の始まり
仏法には「無始無終(むしむしゅう)」という言葉(法理)があります。
「宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い」という意味です。
現代宇宙科学の第一人者で、理論物理学者のホーキング博士の『宇宙論』は、以前に話題になりましたが、「宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い」という理論が科学的に矛盾のない宇宙像であるといいます。
これは、仏法の考え方と一致しています。
宇宙全体が収縮し、限りなく小さくなって、ある限界点に達した時にビッグ・バンが起こり、そのまま膨張(ぼうちょう)して果てしなく広がって行き、ある所まで達すると、また収縮し、ビッグ・バンを起こし・・・のくり返しが宇宙の姿であるといいます。
他の宗教でも様々な宇宙論や宇宙の始まりを唱えておりますが、どれもが科学的に通用しない不正確な説と思われます。
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B三世(さんぜ)の生命
人間(宇宙に存在する全てのもの)の命は、今、この世に生きている限りのものではなく、生まれてくる前の過去世と、死んだ後の未来世があるといいます。
仏法では、生まれながらの人と人の境遇(きょうぐう)の違いは、過去世からの行いが原因となって違っていると説明されます。
ここにも因果の考え方が当てはまっているのですが、仏法にはもう少し深い意味のある境遇の違いというものがあります。
それは、願兼於業(がんけんおごう)といいまして、人を救い導くことを願うために、一旦は、悪い行いにより悪業をつくり、その結果、苦しい境遇を選び生まれてくる、またはそのような状態に落ち込む、という菩薩行があるのです。
日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は矛盾や不正確さの無い宗教ですので、理論を並べると難しい面もあるのですが、皆何をしているのかといえば、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱えているのです。
「させる解(げ)はなくとも、南無妙法蓮華経と唱ふるならば、悪道をまぬかるべし。 たとえば 蓮華は日にしたがいて回る、蓮(はちす)に心なし。 芭蕉(ばしょう)は雷(いかずち)によりて増長す、この草に耳なし。我らは蓮華と芭蕉のごとく、法華経の題目は日輪と雷のごとし」と日蓮大聖人は言われました。
(現代語訳)
「それほどの法門の理解はなくても、 南無妙法蓮華経と唱えるならば、自然に悪道を免(まぬが)れることができるのである。たとえば、蓮華の花は、日照に随って順々に開花してゆくが、別に蓮華に理解する心があるわけではない。芭蕉は、雷鳴によって生長するが、芭蕉に耳があるわけではない。われらは、蓮華と芭蕉のようなもので、法華経の題目は太陽や雷鳴のようなものである」
南無妙法蓮華経と唱えると、個人には仏界(ぶっかい/仏と同じ命の状態)が沸(わ)き起こり、同時に、諸天善神(しょてんぜんじん/法華経を正しく持つ人を守護すると誓った諸々の神)のはたらきにより、心身の悩みや苦しみが自然に消滅、また解決へと向かうのです。
悪道(悪い行い)をすることも自然に無くなります。
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Cなぜ、南無妙法蓮華経と唱えると「祈りとして叶わずはなく、罪として滅せざるはなし」というのか
南無妙法蓮華経と唱えると、私たちの命の中には、「仏界(ぶっかい)」というえもいわれぬ清々しい命が沸き起こってくるのが感じられます。
唱える時間は20〜40分位で変化が感じられます。(たとえ一分でも、続けることにより効果はあるといわれます)
「仏界」とは、仏様の命のことです。
「仏界」には、「常楽我浄(じょうらくがじょう)」という性質があります。
@(常)くずされることのない自由自在の生命活動
A(楽)生きていること自体が楽しいという絶対の幸福感
B(我)何ものにも惑わされない円満で強靭(きょうじん)な主体性
C(浄)何ものにも染まることのない清浄な生命
これらの四つの徳に象徴される仏の生命力と智慧が、南無妙法蓮華経と唱えることにより、自然に命に涌現(ゆげん)し、その人の状況に応じた最高の智慧が生まれます。また、自分ばかりでなく、まわりの環境にも守護と導きが生じるのです。
そして、南無妙法蓮華経と唱える功徳は、計り知れないほどのものであり、前世からの業も軽く受け、軽い苦しみで済ませることができるのです。これを仏法では、天重軽受(てんじゅきょうじゅ)といいます。
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D無理のない煩悩の解決法
誰もが平和を願っていながらも、実現が難しい理由は、真の平等観の欠如と、人間の欲や瞋り(いかり/怒り)などの煩悩(ぼんのう)の解決が効果的でないためといいます。
全てのモノに仏と同じ性質(仏界)が具わっていると説き、また、煩悩を解決する方法(題目)を持っている仏法(日蓮正宗)は、平和(平和的解決)を実現させる力を持っていると思うのです。
映画『風とともに去りぬ』で有名な南北戦争では、アメリカ南部の人々のほとんどが、黒人や貧しい白人を対等な人間として扱っていませんでした。いまだに、特定の民族や有色人にたいする偏見の強い地域が存在しています。人間のもつ愚かな煩悩の解決の難しさを感じます。
釈尊よりの正統な仏教を受け継いでいる唯一の宗教は日蓮正宗です。
釈尊の教えである 経典(お経)のことや、信仰の対象といているご本尊については、この後、説明してまいります。
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E法華経・・・「一念三千(いちねんさんぜん)」
「一念」とは、私たちの瞬間の心であり、瞬間の生命であります。この一念に、三千の諸法が具わっていることを説いたのが「一念三千」です。
〈備考〉「一念」とは、私たちの瞬間の心であり、瞬間の生命であります。・・・について
仏法では、心と体を合わせたものを生命と定義します。
ふつう一念といえば、瞬間の思い(心)という意味ですが、仏法では、人間の通常の感覚器官で、二つに分けてとらえている心と体は、(特別な認識能力で)その正体を見極めれると、一体であるとされます。
わかりやすく説明しますと、心と体は、区別することはできるが、究極的には一体であるということです(これを「色心不二/しきしんふに」といいます)。
色心不二であるところの心と体を合わせたものを生命と呼んでいます。つまり、瞬間の心の状態は、瞬間の生命の状態でもあるわけです。
一念三千の構成は、 瞬間の一念に十界(じっかい)が存在し、その十界おのおのに十界が具(そな)わり百界(ひゃっかい)となります。
さらに百界それぞれに十如是(じゅうにゅぜ)の用(はたら)きが具(そな)わって千如是(せんにょぜ)となり、千如是に三世間(さんせけん)が具わり三千世間(さんぜんせけん)となります。
「三千」という数は、十界互具と十如是、そして三世間の数字の部分を合わせたものです(十界×十界×十如是×三世間=三千)。10×10×10×3=3,000
一念三千の教えは、十界と十如是と三世間という、それぞれ異なった角度から生命をとらえ、それらを総合して生命の全体観を示したものです。
十界とは、生命が内より実感している十種類の境界(きょうがい)のことで、地獄界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界をいいます。ここでいう境界とはある領域の状態のことをいいます。
@地獄界(じごくかい)
・・・苦悩(くのう)・煩悶(はんもん/もだえ苦しむこと)の境界のこと。
A餓鬼界(がきかい)
・・・飢渇(きかつ/飢え渇(かわ)き)に苦しむ境界のこと。
B畜生界(ちくしょうかい)
・・・理性を欠き、本能的欲求によって動く境界のこと。
C修羅界(しゅらかい)
・・・他人の善根(ぜんごん/善い果報を招くであろう善因)を憎み・怒る、自己中心的な境界のこと。常に他に勝ることを思い、怒りへつらう境界。
D人 界(にんかい)
・・・平静に物事を判断する境界のこと。人間界ともいい、穏(おだ)やかで落ち着いた境界。
E天 界(てんかい)
・・・歓喜に満ちた境界のこと。天上界ともいい、永続性のない快楽の境界。
F声聞界(しょうもんかい)
・・・仏の法を聞き、煩悩(ぼんのう)を断尽(だんじん)して小乗の悟りを得る境界のこと。
小乗の悟り・・・阿羅漢果(あらかんが)のこと。煩悩を断じた境界。
G縁覚界(えんがくかい)
・・・独覚(どっかく)ともいい、理(り・ことわり/道理や自然の法則)を観(かん)じ、自然現象を縁として小乗の悟りを得る境界。
H菩薩界(ぼさつかい)
・・・利他(りた)の実践により、衆生を救済しようとする慈悲(じひ)の境界のこと。
I仏 界(ぶっかい)
・・・一切諸法(しょほう/森羅万象・宇宙のあらゆる存在)に通達(つうだつ)し、中道実相(ちゅうどうじっそう)を体得した尊極無上(そんごくむじょう)の境界のこと。
中道実相・・・現象界の真実の相を観る、偏ることのない円満な仏の智恵
地獄・餓鬼・畜生の三界を「三悪道(さんなくどう)」、これに修羅界を合わせて「四悪趣(しあくしゅ)」、さらに人間・天上の二界を合わせて「六道(ろくどう」)といいます。
また、声聞・縁覚の二界は「二乗(にじょう)」といい、これに菩薩界を合わせて「三乗」といいます。
声聞から仏までの四界を「四聖(ししょう)」といいます。
これら十界それぞれには、十界が具わっています。これを十界互具といいます。 (十のどの境界にも、地獄界から仏界までが具わっているということです。)
十界×十界で百界となり、これによって法華経が説かれる以前には成仏できないとされてきた声聞・縁覚の二乗はもとより、十界すべての衆生に仏界がそなわることがあかされました。
このあとさらに十如是(じゅうにょぜ) 、三世間(さんせけん)という法門がつづきます。 一念三千つづき・・・
わかりやすい一念三千へ(長文です)
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「我」の解決・・・
ひとたび目を転ずれば、世界各国もまた日本社会も、六道輪廻(ろくどうりんね)のなかに存在する種々の宗教の対立と、それにもとづく憎悪と怨念による果てしない闘争と破壊の環境のなかで、種々の恐怖と混乱に右往左往する状態であります。
この世界が、その対立と抗争から脱却できない理由は、法界の実相(ありのままのすがた)である六道四聖(ろくどうししょう/すなわち十界の存在のこと)のあり方に無知である あらゆる指導者層の念慮の狭小によるものであり、根本的には衆生の謗法罪障(ほうぼうざいしょう/過去・現在において法華経の教えに背くこと、法華経をそしること、また信じないこと)の悪業によるのであります。
法界の中には、一切万物を妙化し包容する絶対の「善」の生命があるとともに、これに対抗して多くの者を むさぼり(貪り)と いかり(瞋り)と おろか(愚か)な生命観による迷いの中に閉じ込めようとする「悪」の生命があります。
これは、三界(さんがい/地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の境界の衆生、つまり六道の衆生の住む世界全体のことで、迷いの世界)の中の、欲界の最高の天である他化自在天、すなわち第六天の魔王の支配によるものです。
この欲界の衆生の特性は、元品の無明(がんぽんのむみょう)に覆(おお)われた「我(が)」の一言に尽きます。
(備考)「無明」とは、一切の煩悩の根源のこと。「我」とは、自我のこと。
この「我」における六道一切の衆生が、相互にその立場を主張し闘わせるのです。したがって、この「我」の解決なくして世界における対立闘争を止めることはできません。
しかし、この「我」は、天下万物より私ども一人ひとりまで、すべての個性が具え、かつ執着する処です。
この「我」の解決は、六道のみならず、「四聖」すなわち 声聞・縁覚・菩薩・仏界の因縁果報を知り、それに対する正しい修行によって不思議の徳を顕(あらわ)すことにあります。
すなわち、九界(@地獄界〜H菩薩界)の迷いに仏界が具わり、仏界の悟りに九界が一体となる妙法の大真理に入ってこそ、はじめてあらゆる善悪の因縁果報の浄化、ななわち救済が実現します。
これを悟り、その完全な法理の意義をこめた大良薬を、末法という「我」の荒れ狂う時代のために示し開かれた方が仏であり、日蓮大聖人であります。
真剣に唱題(南無妙法蓮華経と唱えること)を重ねるとき、謗法と個我にとらわれることによって起こってきた様々な苦悩が、その運びに任せ、三世(過去世・現在世・未来世)の生命の上に正しく解決していきます。
「個我」によるあらゆる対立や悪念、悪業の解決、これは一個人より全人類の種々の問題にいたるまで、共通する命題であります。
かと言って、声聞や縁覚のように「我を無」にする修行は、末法の衆生には絶対にできません。
我利我利の自我を捨てずして、しかも不思議な自利利他の徳を積みあらわす道、それは妙法不思議の謗法罪障消滅の功徳をもって行うほかはありません。
仏法においては、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの境界)を全部、「我」のなかのものと指摘しております。
六道の我のなかの一番の大将が、いわゆる欲界の天の一番上の第六天、つまり他化自在天という天であります。
そこから、一切の「我」を根本とするところのさまざまな不完全な内容の宗教とか、あらゆるものが現れてきておるのであります。
(大日蓮、および大白法の、ご法主上人のお話より部分抜粋)
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F南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
※唱えるときは「なんみょうほうれんげきょう」です。「なむ・・・」ではありません。
法華経の正式名称は『妙法蓮華経』といいます。南無(なむ)とは、「帰依します、命をあずけます」という意味ですから、言葉の上からは、「釈尊の説いた最勝の教えに帰依します」という意味になるのです。
その法華経の中で釈尊は何と言っているのでしょうか。
末法という時代(これは、今私たちの生きている現代のことです)になると、釈尊の仏法(白法)は、人を救う力を失う(白法隠没/びゃくほうおんもつ)。そして、その時に、釈尊の仏法に替わる末法の法華経(大白法)が出現することを予言しているのです。
法華経には、末法時代に現れる仏さまが、どのような難に遭(あ)われるかが予言されています。その予言のとおりの仏さまとしてのお振る舞いをされた唯一の方が、日蓮大聖人です。
大聖人が悟り、末法の人全てを救うために教え広めた尊極の法が、「南無妙法蓮華経」という題目なのです。
下記の「南無妙法蓮華経の本当の意味」に詳しく紹介しましたが、「南無妙法蓮華経」という法は、そのまま「日蓮大聖人」のことであり、宇宙法界の全てのものに等しく具わっている「仏界」という命の性質です。
南無妙法蓮華経=日蓮大聖人=仏界 です。
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南無妙法蓮華経の本当の意味
くりかえしになりますが、「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈すれば妙法蓮華経すなわち法華経に帰依(南無)するという意味です。
日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極の経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。
しかし日蓮大聖人様は、
「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法禀承事・新編1594)
と仰せられ、大聖人様が建長五年四月二十八日に唱え出された南無妙法蓮華経は、いまだ誰も唱えなかったものであると説かれています。
さらに大聖人様は、
「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事・新編685)、
「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但題目の五字なり」(観心本尊抄・新編656)
と仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とは異ったものであると示されています。
では南無妙法蓮華経のほんとうの意味はなにかというと、
「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御義口伝・新編1765)
と説かれています。すなわち無作三身(宇宙法界を我身・我体として悟られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう法華経の行者とは日蓮大聖人様にほかなりません。
これについて、さらに、
「本尊とは法華経の行者の一身(いっしん)の当体なり」(御義口伝・新編1773)
と仰せられており、法華経の行者の当体こそ一切衆生を済度する本門の本尊であると示されています。
したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者日蓮大聖人様の当体なのです。
大聖人様は、
「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄・新編1275)
と私たちに本尊の大切さを教えられています。
いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派のように、釈尊像を拝んだり、竜神や大黒天あるいは稲荷に向かったり、さらには霊友会や立正佼成会のように死者の戒名に向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人様の教えに背く悪業を作ることになります。
人でも自分と違った名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼にあたると同じ理屈です。せっかく日蓮大聖人様を崇(あが)め、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人様の御真意に叶った正しい御本尊に向って唱題すべきです。
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