@日蓮正宗の本尊
日蓮正宗の信仰者が、南無妙法蓮華経と礼拝しております本尊は、仏様そのものなのです。
総本山 大石寺(たいせきじ)をはじめ、各寺院の本尊は板の姿をしており、各家庭の本尊は紙の姿をしておりますので、そのように数もたくさんある上に、板や紙の姿の本尊が、仏様そのものです と言われても不思議に思われると思います。
はじめに、大石寺の本尊について説明します。
次に、大石寺の本尊と、各寺院ならびに各家庭の本尊の関係を説明し、最後に板や紙の本尊が仏である理由を説明します。
【大石寺の本尊】
仏教には、出生の本懐(ほんがい)という言葉があります。これは、仏様がこの世に生まれ、人々を成仏へ導くための、究極の目的をさします。お釈迦様の出世の本懐は、法華経を説くことでした。
日蓮大聖人の出世の本懐は、「本門戒壇(かいだん)の大御本尊」と呼ばれる本尊を書きあらわすことだったのです。この大御本尊は現在、大石寺にあります。
本門戒壇の大御本尊の意味を大聖人さまの残された文章で説明してみます。
「本尊とは、法華経の行者の一身の当体なり」
(文意)「本尊とは、大聖人そのものである」(備考/法華経の行者とは大聖人のこと)
「日蓮がたましひを すみにそめながして書きて候ぞ」
(文意)「本尊とは、大聖人さまの魂を墨に染め流して書いたものであり、大聖人さまの命そのものである」
「明星が池を見るに不思議なり、日蓮が影 今の大曼荼羅(まんだら)なり」
(文意)「まだ立宗開教する以前の大聖人さまが、明星が池にうつる自分の影を目にした時の話で、不思議にも後に末法万年の全世界の人のために建立した本門戒壇の大御本尊であった」
【大石寺の大御本尊と各寺院・各家庭の御本尊の関係】
広宣流布とは、ご本尊が流布され世界中に増えてゆくことでもあります。
各寺院や各家庭のご本尊は全て、本門戒壇の大御本尊を、法主上人(ほっすしょうにん)が書き写したものです。
日蓮正宗では大聖人さまの法体(ほったい)を受け継いだ代々の法主上人のみが、本門戒壇の大御本尊を書き写し、人に与えることができます。
代々の法主上人は、血脈相承(けちみゃくそうじょう)といって、わたしたち凡夫にはうかがい知ることのできない儀式にのっとり、大聖人さまからの法体を授けられます。
「代々の聖人ことごとく日蓮なり」と大聖人さまが仰せのごとき立場の人なのです。(備考/聖人とは、法主上人のことをさします)
法主上人が、大ご本尊のご内証を書写することによってのみ、大聖人さまの命と等しい本尊となります。
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【板や紙のご本尊が仏様である訳】
第一話に紹介しました「一念三千(いちねんさんぜん)」という仏教の教えにその答えの半分があります。
宇宙に存在する全てのもの(草木・土砂・チリ)にも「十界(じゅっかい)」は具わっているのです。十界とは、@地獄界からI仏界までの十の境界(命の状態)のことです。
草や木、紙や板も、仏界(仏と同じ命)を具えています。
板や紙の御本尊わ生身(しょうしん)の仏と開眼することができるのは、血脈相承(けちみゃくそうじょう)を受けた法主上人だけです。
ご本尊の書写や開眼については、一般の信者は、詳しくは知ることはできませんが、
@草木成仏(一念三千の法理により、草や木なども成仏するという「ご本尊」の力)と、
A御本尊開眼(法主上人のみが具えた本尊開眼の力)の二つにより、板や紙のご本尊が、仏さまとなるのです。
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A経典の誕生
釈尊の説法は、釈尊が亡くなった直後に経典(お経)という文書にする作業がされました。
これを第一回目の結集(けつじゅう)といいます。
結集の時に活躍した弟子の一人に阿難(あなん)という僧がおりました。阿難は、聞いたことは一生、絶対に忘れないという能力の持ち主でした。
これは、阿難の資質もありますが、常に釈迦のそばにいて心から仕えていたことの大きな功徳によるものです。釈尊の十大弟子の中で、阿難が「多聞第一」といわれる訳はここにあります。
その後も、さらに三回ほど結集という作業はされました。
【何度も結集する訳は・・・】
それぞれの時代に、釈尊の教えを曲げる新しい説を唱える者が出たため、公の仕事として経典の再確認作業がされたのです。
四回とも、必ず国王の外護(げご/全面的な協力)の下で、多くの聖僧がこの仕事に心血をそそいだのです。
その後、これは結集ではありませんが、仏教の経典がインドから中国に伝わった際、経典の翻訳(ほんやく)をした一人の僧がおりました。鳩摩羅什(くまらじゅう)といいます。
鳩摩羅什は、死に際して、自ら翻訳した経の正しさを証明するため、「我が訳経が正しければ、不浄の我が身は焼けても、舌は焼けずに残るであろう」と遺言し、荼毘(だび)に付したところ、舌だけは火に焼けずに光を放っていたと伝えられています。
このようにして仏教の経典の内容は、釈尊の説法そのままに、変化することなく現在に伝えられているのです。
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B超能力について
仏法では、一般に超能力と呼ばれるものを通力(つうりき)または神通(じんづう)などと言っています。
仏法の通力には、身(体)、口(ことば)、意(こころ)による三つの通力があり、身体の通力には「十八変(じゅうはっぺん)」といわれるものがあります。一部を述べますと、
「水や火を身体の上下左右から出す」
「空り去って地に至り、あるいは地より去って空に至る」
「水を歩くこと地の如(ごと)く」
「虚空(こくう/大空)のような大身を現じたり、芥子(けしの種)のような小身となる」というような様々な通力があります。
この十八変の通力は、ただ単におもしろ半分で人が集まってきたからみなんを驚かせてやろう、とういうよなふまじめなものとは違うのです。
仏法の神通というのは、修行者がこの世に生まれて修行したその功徳を、どうしてもここにおいて顕(あらわ)さなければならないというような大事な衆生化導(けどう/人々を教え導くこと)の正念場において、その必要から十八変という通力も出るのです。
このような修行は、釈尊の時代ならば正しい修行でしたが、現代で行うことは間違った修行になり、釈尊の御心に適わないためいたしません。
しかし、このように命には不思議な力が具わっていることを知っていても良いのではないかと思います。
はるか昔の人の中には、大きな海を吸い干した者、大きな河の水を十二年間も耳の中に湛(たた)えていたという者もいたとあります。
小さな通力は、今でも分々にできる人がいるようです。よくテレビでおもしろ半分にやっているスプーン曲げなどがそうです。
その他、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、如意身(にょいじん)通、漏尽(ろじん)通、と呼ばれるものがあり、そのような力を持っている人も確かにいるようです。
しかし、仏様の神通の目的は、全ての人を成仏という仏と同じ境界に導くことなのです。
釈尊の最後のいましめに「通を本(もと)とすべからず」とあります。超能力を基準にして、教えの正しさを決定してはいけない(宗旨の根本としてはいけない)という意味です。
日蓮正宗は、釈迦の経典と、大聖人さまの残された手紙や法門(『御書/ごしょ』と呼んでいます)を拠り所としています。
これを 文証(もんしょう/文書による証)というのですが、釈尊の経典は、歴史の中で、信者や僧により解釈を変化させられたものではありません。もちろん御書もそうです。
日蓮正宗は、このように厳しい判断基準を持った宗教なのです。
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C死後の生命
仏法では、過去世・現在世・未来世の三世にわたる命の存在を説いています。
そのため、臨終を重要視します。臨終とは、その人の人生の総決算であり、未来世への第一歩でもあるらです。
日蓮大聖人は、臨終の時、死相が悪いものは地獄へおちた証拠であり、良いものは成仏した証拠であると言われております。
現代医学では、死後硬直、遺体の変色、腐敗臭等が普通とされておりますが、日蓮正宗をまじめにした人は、形も損なわれず、生前よりも色白となり(皮膚のくすみが消え)、体も非常に柔らかく、死臭もありません。
死後の生命の状態については、「生命が冥伏(みょうぶく)する」といわれます。
生命が冥伏するとは、死んでから未来世が始まるまでの間、宇宙のどこかに存在する生命ではありますが、もはや主体性を持たず、自らの生前の行いに従って受けるところの報いを感じ続けている状態だといいます。
たとえれば、私たちが夢を見ているようなものだといいます。
喜びあふれる幸福感感じているならば成仏ということです。この成仏の状態は決して孤独なものではなく、生命どうしの意識が触れ合い 一つ処に集い至福の生活を送っている状態なのです。
また、たとえ成仏していない生命であっても、日蓮正宗の追善供養(死者の成仏を願い、題目により祈ること)をすることにより、死後の生命は成仏することができるのです。
このように、生命活動には、生の生命活動と、死の生命活動があります。
自分でものごとを決めていく主体性をもつ生の生命と、主体性のない死の生命は、共にひとつの命の連続です。死んだという命も、言葉を変えれば、また生きているのです。
死の生命活動に入った命に変化を与えるのは、生の生命活動をしている者の追善供養です。
一般には、「成仏を願う」とは、故人の魂の安らかなることを願う「鎮魂(ちんこん)」の思いと同じに考えられているようです。
しかし、本当の意味での成仏(仏界の命の状態になること)には、正しい宗教による追善供養が必要であり、故人の罪障消滅、ひいては魂の安穏も叶うのです。
再び、宇宙の中で新たな境遇を得ること・・・これが、来世のスタートとなるのです。
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