平成3年に日蓮正宗から破門された創価学会では、あたかも日顕上人が池田大作に嫉妬(しっと)し、それ故に破門に処したかのごとく喧伝(けんでん)し、
「日顕(上人)は悪い猊下(げいか)、日達猊下は良い猊下だった」
などと言ってきました。
しかし、学会の誤りは御先師日達上人の御代においてすでに存在し、日達上人からも厳しく叱られていたのです。
以下、学会の誤りを破した日達上人のお言葉を紹介します。
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最近あるところでは、新しい本仏ができたようなことを宣伝しておる、ということをうすうす聞きました。たいへんに間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とはいえません。そういう間違った教義を説く人があるならば、法華講の人は身をもってくい止めていただきたい。これが法華講の使命と心得ていただきたい。(法華講連合会春季総登山お目通り・昭和49年4月25日)
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だれそれが仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮(ゆうりょ)しています。
なるほど、もし、だれそれが仏であるというならば、それは、我々は皆全部、仏であります。
それは理(り)の上からそういうことになります。しかし、我々の宗教として信心するところの仏ではない。
たしかに、凡夫が体の仏であるということは、御書にはっきり書いてあります。その体(たい)の仏をもって、どこまでも仏だと言いふらしていくならば、大変間違ったことになります。やはり末法の仏は、日蓮大聖人以外にはないのであります。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日)
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(九州の創価学会が出している『火の国』という新聞に)「人(にん)への帰命(きみょう)ということを書いている。それに、
「現在における人への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる。また池田会長が大聖人の御書を寸分たがわず身に移し実践されていることから、必然的に考えてもそうなるのである」
ということが書かれています。ちょっと今信心していない人が考えたならば、なるほどと、感心するかもわかりません。しかし、これは本宗の教義とは大変間違っている。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月27日)
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和歌山のある地方では、
「御本尊さえあればよいんだ。血脈なんかいらないんだ」
と言って、一生懸命に説明して歩いている人がいるそうです。これはどういう考えでしょう。「御本尊さえ」という御本尊様は誰が認(したた)めるんです。当宗では、血脈なくして御本尊様を書写し奉ることはできない。もし、血脈などいらないというのならば、身延の人が書いた本尊でもよい、誰が書いてもよいではないか。
思い起こせば、小樽問答の時に身延のある僧侶が
「御本尊なんか誰が書いたっていいんだ」
と、平然として口走っておった。私はびっくりしました。この人は何ということを言うのだと。それでは、東本願寺や西本願寺の管長に御本尊を書いてもらって、ありがたく拝めるのか。御本尊とはそんなものではないです。(第17回妙観会・昭和53年3月31日)
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『曽谷殿御返事』に、
「是には惣別(そうべつ)の二義あり。惣別の二義少しも相背(あいそむ)けば成仏思いもよらず。」
これは誰でもよく引用する御文であります。
その解釈に、
「惣とは一往(いちおう)は血脈相承(けちみゃくそうじょう)なり。再往は池田会長で、信心の大師匠である」
と、こういう解釈をしておる。(中略)
惣別の二義ということは、そんなところに持っていくもんじゃない。
「一往」だとか「再往」だとかいう言葉を使って、我々のいう仏教用語をうまく利用して、とにかく「一往は血脈相承」だという。なんで「惣(そう)が血脈相承」か、おかしくてしょうがない。
また、「再往は池田会長で、信心の大師匠」だという。そういうところから「池田会長が血脈相承を受けている。学会に血脈が在る」などと言い出してしまう。(第18回妙観会・昭和54年3月31日)
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在家(ざいけ)が、自分らが勉強し、自分らが折伏することをもって、「和合僧(わごうそう)である」と宣伝し説かれております。大いに我々は考えなければなりません。
(中略)そして、「僧侶はいらない」ということは、「自分らが僧侶である」ということで、結局、同じことになる。今、我々出家しておる僧侶はいらないと廃止(はいし)すれば、次の和合僧団の僧侶ができることになってしまう。何も変わりはない。ただ現実を破壊(はかい)せんがために、これを言うのである。(第16回寺族同心会大会・昭和49年5月31日)
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戸田(城聖=2代会長)さんも亡くなり、大化城もでき、大客殿もでき、昭和47年に正本堂が建立せられた。その直後から、非常に学会の態度がおかしくなってきた。たいへん僧侶も馬鹿にするし、また教義上においても非常に変化が多いように思う。そのつど、私も種々(しゅじゅ)な時に、それを指摘して、「そういうことはいけない、日蓮正宗の教義と違う」と、指摘してきたつもりでございます。(第1回時事懇談会・昭和53年2月9日)
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日蓮正宗の教義が、一閻浮提(いちえんぶだい/全世界)に敷衍(ふえん/のべ広げる・展開する)していってこそ、広宣流布(こうせんるふ)であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。
皆さまの今の時に、もし、日蓮正宗の教義でもなく、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、けっして我々は喜ぶべきでもないし、大聖人がお喜びになるとは思いません。むしろ、日蓮正宗の精神がなくなってしまった、消滅してしまった、ということになるのであります。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日)
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けっして我々宗門としては、学会をつぶそうとか学会をどうこうしようという、そういう心でやっておるのではなくして、長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった。それを指摘して、なんとか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい、と思うが故でございます。
なるほど、長い間、学会はよく宗門のために尽くしてくださいました。その功績(こうせき)は大きいのであります。しかし、功績が大きいからといって、教義を間違えて宗門から逸脱(いつだつ)してしまえば、これは何も役に立ちません。(第18回妙観会・昭和54年3月31日)