創価学会では、日蓮正宗が正本堂解体に踏みきったことについて、
「日顕(上人)が先師日達上人の偉業(いぎょう)に嫉妬(しっと)して、日達上人の代に建てられた正本堂を壊(こわ)したのだ。これは正本堂御供養に参加した、民衆の心を踏みにじる暴挙(ぼうきょ)だ」
等と言っています。
そこで、正本堂解体に至った理由を、簡潔に説明しておきましょう。
日蓮大聖人の御金言(『三大秘法抄』と『一期弘法抄』)には、
「広宣流布(こうせんるふ)が達成された暁(あかつき)に、富士山の麓(ふもと)に本門戒壇(ほんもんかいだん)を建立(こんりゅう)すべきである」
との仰せがありますが、昭和40年当時の創価学会が中心となって発願(ほつがん)した正本堂は、まさに、未来に広宣流布が達成された時の戒壇たらんことを願って、着工した堂宇(どうう)でした。
この正本堂に対する池田創価学会の執着、思い入れには、当初より異常なものがありました。
昭和42年10月の建立発願式で、池田大作(当時会長)は、
「詮(せん)ずる所、正本堂の完成をもって、三大秘法ここに成就し」云々(うんぬん)
と言っていますが、後からこれを説明するかのような形で、北条浩(当時理事長兼副会長)も
「すでに大聖人御在世中に慧(え)たる本門の題目、定(じょう)たる本門の本尊は建立された。
そして、ただ戒(かい)たる本門の戒壇のみが『時を待つべきのみ』と後世に残された。(中略)
ここに正本堂の建立が、三大秘法の完結を意味するという、仏法上重要な意義を考え」云々(『大白蓮華』昭和45年5月号)
この意味は、
「大聖人は、御在世中に本門の本尊と本門の題目は顕(あらわ)されたが、本門の戒壇だけは顕されなかった。
それを、700年後の今日、池田大作率いる創価学会が出現して本門の戒壇を建立する。
これによって三大秘法が完結するのだ」
というものであり、このことから、彼等が言わんとしたのは、
「大聖人ですら顕すことのできなかった本門の戒壇を、池田センセーが建立される。
したがって、池田センセーは大聖人よりも勝れる仏である」
との“池田会長本仏論”でした(事実、当時の学会内には、そうした指導が流されていました)。
要するに池田創価学会にとって、正本堂=本門戒壇の建立は、“池田大作が大聖人をも凌(しの)ぐ仏である”という池田本仏論の現証として「重要な意義」をもっていたのであり、これこそ、彼らが正本堂に異常に執着した、その最大の理由だったのです。
しかし、正本堂が完成した昭和47年、日達上人は訓諭(日蓮正宗における公式決定)を発せられ、
現時にあっては、いまだ謗法の徒多きが故に、広宣流布の達成には至っていない。
したがって現時点における正本堂は、未来の広宣流布の暁に本門戒壇たることが期待される堂宇である旨、
御示しになりました。
これでは、正本堂がただちに本門戒壇建立とならないため、不満を抱いた池田大作は、正本堂完成後、日達上人及び日蓮正宗に強い圧力をかけましたが、ついに日達上人の決定を覆(くつがえ)すことはできなかったのです。
池田らは、その後も、折りあるごとに
「正本堂建立をもって広宣流布は明確に終わった」 「正本堂は本門戒壇である」
等と蔭(かげ)で言い続けていましたが、平成3年、ついに日蓮正宗から破門となりました。
これにより、近い将来に期待された日蓮正宗の広宣流布は、大きく遠のき、その時を期待して建立された正本堂は、存在意義を失ったのです。
さらに、呆(あき)れたことに池田創価学会では、破門されて日蓮正宗と無関係になった後も、なお、
「正本堂は本門戒壇である。これを建立した池田センセーは、仏法上、未曾有(みぞう)の大偉業を成し遂げたのである」
等と言い続けていました。
この現実(すなわち正本堂が池田本仏論の依(よ)り処(どころ)として利用され続けていること)に鑑(かんが)み、日蓮正宗では、“ここで池田本仏論という前代未聞の大謗法(ほうぼう)の根を断ち切るべきであり、また、そのような建物を、清浄であるべき総本山の境内地(けいだいち)に残しておくことはできない”との判断から、正本堂の解体を決断されたのであります。
これには、当然、解体費用もかかりますが、“正しい仏法を清浄に護(まも)る”という務めは、お金の問題ではありません。
また、民衆の真心からの御供養を、池田本仏論などという大謗法を押し通すことに利用した、池田大作の所業こそ、「暴挙」として責められるべきでありましょう。