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「なめとこ山の熊」宮沢賢治
ハマー宮沢賢治大好きです。その詩人としての才能、豊かな語彙、美しいイメージまったく余人の追随を許さず、というか、非常に特異な作品群のため、ほかに比べるものが有りません。
しかし反面、人気ありすぎて、妙なイメージがかぶせられることもあり、(農民のために東奔西走した聖者、のような)
現代のように反近代主義が時代の空気になると、自称自然大好き人間(本当か?お前芋虫触れるか?)が持ち上げたり、
引きこもり系が、たとえば「よだかの星」に入れ込んだり、(いじめられて自殺してお星様になる。僕ってなんてかわいそうでしかも崇高なんでしょう!)して、はっきり言ってウザイ。
賢治の作品はたいそうな魅力があり、魅力があるということはそれだけ危険性もあるということでも有り、今日はひとつその辺に注意して「なめとこ山」を語って行きたいと思います。
◆第一段落・・・淵沢小十郎は半分熊である、ということ。
小十郎はなめとこ山から出ている淵沢川と同じ名を持つ。
古十郎は「赤黒い」ごりごりした親父だ。(「赤黒い」は第三段落の熊の形容に使われる。また、マタギのことばで、「親父」は熊そのものを指す)
胴は小さな臼ぐらい、手のひらも大きくて厚い。
なめとこ山の中なら、藪でも谷の川の中でも、自分の座敷のように自由に歩く。ゆえに、
淵沢小十郎は人間だが、半分熊みたいな男である、と言える。なめとこ山の主である。そして、
なめとこ山の熊のことならおもしろい。
なにがおもしろいかって、もうのっけからテーマが出てくるわけですが、こう考えましょう。
小十郎は猟師である。
熊を殺すことが仕事である。
そして最後には逆に熊に殺される。
普通に考えれば、両者の間には憎しみや恐怖しかないと思われる。
しかしながら、熊は小十郎が好き、小十郎は熊が好きで、両者の間には信頼や心の交流がある。
これはなぜなんだろう、おもしろいことだ、と。
◆第二段落・・・小十郎、母子熊の言葉がわかる、ということ
第二段落は全体が、この世のものならぬ、不思議な光に包まれています。
それまでは、小十郎はいかに熊みたいな男でも、実際に熊の言葉を聞いたことはなかった。
しかしその日、小十郎はなめとこ山の中で、道に迷ってしまった。
なめとこ山は小十郎の座敷みたいなものですから、これは実際にはありえないことです。
つまりこの日、小十郎は人間界を超えて、熊界(?)への扉を開いてしまったのですね。
そして小十郎が見た熊の母子からは後光が射している。(カミサマみたい)
胃(コキエ)というのは詩的ですね。
ハマー最初何語かと思いました。
胃というのが中国語、中国の星座二十八宿のうちの一つ。
それを日本語で表現した(「穀家」だとか)のが「コキエ」。
「昴」に「スバル(支配する)」と当てたのと同じなのですね。
その胃(コキエ)の青い光と、氷のような月に照らされて、母子熊はまるで聖母子のように見えます。
無邪気な知ったかぶりを披露する子熊と、やさしく諭す母熊。
そこにあって小十郎は平和を乱す異物でした。
小十郎は熊たちに気づかれないよう、そっとその場を去ります。
◆第三段落・・・小十郎が町へ熊の毛皮を売りに行く、ということ
なめとこ山にあっては、小十郎はまるで主のように自由に振舞います。
しかし、町へ行き、荒物屋の主人の前に出ると、小十郎はまるで別人。
卑屈だし、人がよすぎる。
震える声で哀願し、買い叩いた相手に感謝して「うれしくてわくわく」したりさえする。
その人の良さをいいようにあしらうずるい荒物屋。
宮沢賢治の生家は、質屋で古着屋でした。
お金持ちだったのです。
きっと賢治はこれに類する光景を子供のころから見て、そして繊細な心を痛めていたのだと思います。
しかし賢治は長男として、家を継ぐことを当然のように期待されていました。
賢治は父への愛と、家業への嫌悪の間で苦しみます。
「僕はしばらくの間でも、あんな立派な小十郎が、二度とつらも見たくないような、いやなやつにうまくやられることを書いたのが、実にしゃくにさわってたまらない。」
ということはつまり、
「僕はしばらくの間でも、二度と面も見たくないような、いやなやつを親父とし、彼に世話にならなければ生きていけずまた、彼を愛しさえしているのが、実にしゃくにさわってたまらない。」
ということなのでしょう。
◆第四段落