現代文の授業のお手伝いをします。


丸山真男の 「である」ことと「する」こと

これは名著だと思いますね、ハマー。もう50年近く昔に書かれたものなんですが、古くない。しかし、一部「こりゃ自己弁護なんじゃないの〜」という部分もあるにはありますが。全体としては、いかにも高校生くらいに読んでおいてほしい、そして常識にしてほしいような、そういった文章であります。


ではまず、『である』ことと、『する』ことって何か。
これは価値体系の違いですね。
その人が『何をするか』ということが問題になる価値体系と、そうじゃなくて、その人が『何であるか』が問題となる価値体系。
言ってみれば、君たちは大学での勉強がしたいのか、大学生になりたいのか、っていうこと。
もし本当に『勉強がしたい』のであれば、別に卒業証書なんか要らない。
就職の世話?それ何のこと、って言うのが、本当でしょう。
丸山真男が深く尊敬する近代人に福沢諭吉がいますが、福沢が学んだ大阪の緒方洪庵の適塾、ああいうものが学問をする本来の場所であるわけです。
そこで勉強しても、何かの資格が得られるとか、仕事を見つけてもらえるとか、一切ない。
でもみんな、死に物狂いで勉強する。
なぜ?それが面白いからですね。そしていつかそれが日本の役に立つと信ずることができた。

江戸時代は典型的な『である』社会ですが、その社会の一角に、そういう純粋『する』社会もあったわけです。

日本は明治維新を期に近代化を推し進め、『する』社会を目指したわけですが、全部が全部『する』社会になったわけでもない。
早い話、君たちの学校や学問に対する態度は、かなり『である』的でしょう?
自習になれば喜ぶのですから。
高校生ではありたいけれど、高校で勉強がしたいわけじゃない、ってことではありませんか?
それでね、この文章の趣旨は、
日本はもっと『する』価値による検証が必要な分野に『である』価値がはびこり、反対に『である』価値を守らなければいけない分野に『する』価値が入り込んでいる、これを直したい
ってことなんです。

全部が全部『する』価値観にならなければいけないってことではないよ。
たとえば親子兄弟、あるいは友人なんかは、『する』価値観でものを見てはいけないでしょ?
その人が大切なのは自分の親『である』からであって、その人が自分に何かをしてくれるからではない。
そうありたいものです。
親子関係のようなものは絶対的『である』関係なので、動かすことはできません。
だけど日本のやり方のずるいところは、実は動かせる関係なのに、こういう動かせない関係を装うところなんだね。
たとえば、夫婦がお互いを『お父さん、お母さん』って呼び合うでしょ。
お互いはお互いのお父さんでもお母さんでもないのにね。
夫婦という自分の意志で選択した、動かせる関係、それは半面不安定な関係だから、親子関係という動かせない関係を介してセメント化を図るわけ。

いや、ずるいって言ったら大げさで、人間関係を円滑にするための知恵なのかな。
でもやっぱりひとつまずいのは、日本人は『誰が何をどうする』とはっきり言いたがらない。
できるだけ主語も目的語も言わないようにする。
私とだれだれは、結婚します、とは言わない。
『結婚することになりました』という。
なんだか自然現象みたいだね。
親子関係が動かせないもののように、動かせないものとしてすべてをとらえる。
意志をはっきりさせない、したがって責任も取らない。
こういう精神構造が、ヒトラーもいないのに日本を太平洋戦争に導いたのではないか、って丸山は心を痛めるんだ。
それはよくわかる。

すこ〜し解せないのは、逆にもっと『である』価値を守らなければいけない分野として、学問と芸術を挙げたこと。

丸山は学者だから、これではいささか自己弁護の気味があるでしょう?
自分に関しては『学者である』ことに意味がある、業績をあげなくても価値があるので給料ください、ってことにならないかな?
学問にしろ、芸術にしろ、やっぱり結果を出して何ぼのところもあるよね。
ただし、基礎研究など、すぐに結果に結びつかなくても、やっておかなければならない分野はもちろんありますが。
ここで学問芸術じゃなくて、もっと基本的な人間関係、たとえば親子友人関係のようなものを出してくれたら、
ハマーは諸手を挙げて賛同したのになあ。

神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、
自分に変えられることは変える勇気と、
そしてその違いがわかるだけの知恵をお与えください。

by Michael J Fox

『である』価値観で通さなきゃいけないところと、もっと『する』価値観に変えなきゃいけないところ。
見分ける知恵を、私もまたほしいと思うよ。