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「羅生門」芥川龍之介
■この作品でハマーがやりたいのは、実は一つっきりないのです。
何かってそれは「芥川龍之介という人は、不幸な人だったなあ」ということ。
小説としては、ハマーこの作品、それほど好きじゃありません。
だってアタマのなかでいじりすぎよ、これ。胸で、心で、ハートで、(って同じか、それ)震えるようなものは何もないんですもの。
ただし、一つのフィルターをかけてみると、実にしみじみと感じられることが一つだけある。
それが「芥川という人は、不幸な人だった、でも、あるいは、その不幸というのは人間みんなが持っているものなのかもしれない」という感想なのです。では、ハマーがそのフィルターをかけてみましょう。
■・音読する。・語句を調べる。・羅生門に対して下人がどの位置にいるかで、全体を四つに分ける。
それから読み込みにかかるわけですが、第一段落の状況設定一つとっても、「平安末期」「羅生門(都のどん詰まり)」「クビになったもと下人」「晩秋」「夕暮れ時も押し迫ったころ」なんて、これでもか、これでもかと閉塞感が盛り込まれていますね。
あと、羅生門にいつもならカラスが死体をつつきに大挙してやってくる、という描写などありますが、これはあとになって老婆の様子――「肉食鳥のような」老婆がついっついっと死体の髪を抜く様子にかぶせてありますね。つまり老婆に死体をつつくカラスのイメージが重なるように仕組んであるわけです。
そういう考えに考え抜かれたテクニックの一例として、「にきび」を挙げることも可能です。
四箇所あるにきびの描写で、「下人が若い男であること」「次第に時間がたっていくこと」「にきびをいじることで、下人は迷っていて、つまり自分の利き手を無意識に行動から遠ざけていること」などがわかるように仕組まれている。だからにきびは「下人の右の頬」にあるわけですね、いじりやすいように。そして決断と同時に下人は「不意に右の手をにきびから離」すわけだ。
もうもう、上げだしたらキリがない。いやになるほどよく考え抜かれて、組み立てられた作品である、ということですね。だから高校の先生にとっては、おいしい。説明のしがいがあるから。
■しかししかし、しかあし!
では芥川はいったい何を書きたかったのでしょうか?
自分の頭のよさと小説技巧を誇りたかったのでしょうか?
いや、そうではない、というわけで、実はここからがハマーのやりたいことなのです。
■老婆の論理
老婆の論理に注目してみましょう。
結局「生きるためには何をしても許される」、というのが、彼女の主張です。
■ネタ
「羅生門」のネタになったのは何でしょう。「今昔物語」をはじめとする、説話集です。
芥川はその、荒々しさ、野性味、細かいところにこだわらず、屈託なく乱世を生き抜く姿勢に惹かれました。
実は芥川によって再評価されるまで、説話集の文学史上の地位というものは、大変低かったのです。
うじうじした人物の、綿々とした心理描写が尊ばれていたわけですね、たとえば「源氏物語」のような。
そういうものが古典だと思っていた芥川にとって、説話集はいかにも新鮮で、そしてそのときの彼の気持ちにぴったりでした。
そのときの彼の気持ち?
そうです、芥川は非常に周囲に気を使う人で、また、幼くして養子になったという境遇からも、気を使わざるを得ない環境にありました。
そして「そのとき」、芥川は初恋の人と結婚しようとして養家の賛成を得られず、鬱屈した日々を送っていたのです。
そのときの芥川にとって、生きるためには悪事にだってなんのためらいもない説話集の人々は、気持ちをすっとさせる憧れの対象でした。
芥川は鬱屈した気持ちを晴らすため、説話集をネタに、「羅生門」を書き始めます。
ですからこの小説は、はじめから最後の一行――初出のほうですよ――をめがけて書かれたのです。
下人は、すでに、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。
この一行を書くために、「羅生門」は書かれた。
うじうじ悩まない、自分が一番大事だ、生きるためには何をしたっていいじゃないか。
実人生でそれが言えなかった芥川は、せめて作品の上では、そう言い切りたかったのです。
■でもね、でもね。
授業でやりましたが、ネタと「羅生門」を比べてみてください。
元ネタははじめから「盗人」ですね、だからもちろん、最初から悩む余地はない。
それに比べて「下人」は・・・悩むこと悩むこと。
それに説話集のむき出しの荒さに耐えられない作者自身があちこちに顔を出す。
作者はさっき・・・と書いた、なんて言っちゃ恥ずかしがってることが丸見え。
サンチマンタリスム、なんて気取るのもいい加減にしろってもんです。
心理の動きも細かい。
これはもう、全く説話の野性味やバイタリティなどとは、百万光年くらい、離れていますね。
そして、肝心の最後の一行さえ、芥川は最後の最後に変えてしまいます。
うじうじした下人を書き続けているうち、芥川は思ったのでしょう、やっぱりこの下人にはためらいなく強盗を働くことは無理だろう、と。(私もそう思います)
その場の勢いで老婆の着物は引っ剥げても、興奮が冷めると、また迷いだすのではないか。
(悪への憎しみが、あっという間に静まってしまったように、ね)
その下人の赴くところは、もはや黒洞々たる闇の中しかないのです。
ああでもない、こうでもない、と思い悩みながら、生でもなく死でもない、自分のために生きることも、正義のために死ぬことも出来ない闇の中を、ふわふわと漂うしかない。
これはもう、地獄よりも救いようがない世界です。
そしてわれわれ「近代人」は多かれ少なかれ、こういった闇の中を漂っている――ハマーはそう読むのです。
参考「六の宮の姫君」北村薫←お勧めです