|
帰ってきた哲学思想系著作きょうの新刊(2004.02.17)
『パレスチナ問題』・エドワード・W.サイード〔著〕 みすず書房刊 \4,500 http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi?bibid=02410510&aid=ex あー、サイードという人はえらいなぁと、『オリエンタリズム』で思ったものですが、よくよく考えてみますと、帝国主義国家が、みずから以外の存在を「オリエント」として把握することで、みずからを定位させたなんてのは、実にもって近代的な主客認識の所産であって、どこかのえらい人が、「我れ思う故に我れあり」なんてかっこいいことを言った一つの結論がこれなのだなぁと思うわけです。 毎度のことながら、レビューでも何でもないところが、ポイントです。
『史記のつまみぐい』・宮脇 俊三著 新潮社刊 \1,200
別に悪いとは言えませんが、最近はこういう「手軽に教養を身につける」という感じのものが増えてきたように思います。まぁ、べつに最近に限った話ではなくて、1970年代に、藤田省三が「ダイジェスト文化」ということばで、すでに批判しているところなのでありますが、近年その傾向が甚しく増えてきたように思います。 その理由としては、「知」というものの断片化ということがあるのではないかなぁと思っているのですが、話が長くなるので、いいでしょう。
『物語近代哲学史』・ルチャーノ・デ・クレシェンツォ著 而立書房刊 \1,800
近代哲学史というと、わたくしどもなどは、「やっぱデカルトはえらいなぁ」とか、彼がいつ生れたのかも知らずに言ってしまうのですが、どうもこの本の対象はルネサンス期みたいです。人文主義というヤツですね。
『色好み江戸の歳時記』・白倉 敬彦著 学研刊 \1,800
『現代アメリカ入門』・堀本 武功編 明石書店刊 \1,800
哲学思想系著作きょうの新刊(2002.12.31)
前もどこかで書いたと思いますが、「他力」は英語で other-power であります。もうこれはドキドキせざるを得ません。誰が訳したんだか分りませんが、すごい訳です。 まぁ、他力というのは自力 self-power の対にあたるわけでありますが、これを self-other なんて申されますと、自他認識の枠で語りたくなるわけですよ。
『岩波講座近代日本の文化史 9 冷戦体制と資本の文化』・〔小森 陽一ほか編集委員〕 岩波書店刊 \3,400 BOOK えー、資本主義というものは、随分ぼくらの骨肉に染みついてしまったわけで、わたくしどもは「文化の多様性」を享受しているつもりであっても、実際には拡大した市場における消費を行っているわけであり、いわば資本の要請なのであります。とまぁ、現代の消費社会を暴露しても余り良いことはないのであり、いまさら自給自足で文化生活をするなどという気骨のあることは出来ないわけであります。あらあら、文系の学徒とも思えないようなを言ってますが大丈夫ですか、あなた。 まぁ、それはそれとして、問題はここからであります。 資本の要請において、われわれは市場における商品を消費することを期待されているわけでありますが、しかしその商品たるやいかなるモノかというと、もはやすでに生活消費財ではなく、DVDだの美味いものだのといった、ステキに観念的な存在であり、それを消費することが目的なのではなく、その消費によってもたらされる精神的快楽なのであります。それゆえに、その消費のありかたによって商品の意味が変わってきます。 『毛沢東(ペンギン評伝双書)』・ジョナサン・スペンス〔著〕 岩波書店刊 \2,400 BOOK 先日、人民帽を無くしました。高いものではないのですが、なかなか売ってないので残念であります。 『現代史の対決』・秦 郁彦著 文芸春秋刊 \1,810 BOOK 興味のある方はどうぞ。 『戦争とプロパガンダ 3 イスラエル、イラク、アメリカ』・E.W.サイード〔著〕 みすず書房刊 \1,600 BOOK プロパガンダと申しますと、やはり発音が難しいところに、われわれ研究者の悩みがあるのであります。 プロパガンダァと発音願います。 『疑似科学と科学の哲学』・伊勢田 哲治著 名古屋大学出版会刊 \2,800 BOOK 疑似科学ですか。いいね、疑似科学。 『二十一世紀の法と政治』・多胡 圭一編 有斐閣刊 \10,000 BOOK 『御触書集成目録 上 事項目録』・石井 良助編 岩波書店刊 セット価格 \36,000 BOOK 『歴史学の視座』・義江 彰夫著 校倉書房刊 \3,800 BOOK 『キリスト教神学用語辞典』・ドナルド・K.マッキム著 日本キリスト教団出版局刊 \8,500 BOOK 哲学思想系著作きょうの新刊(2002.12.22)
出版業界には、年末進行というものがあるせいか、ここ数日に出た本は、笑ってしまうほどに数が多く、こんなにいい加減にものを書いているのにさっぱり追いつきません。したがいまして、今回はずいぶん、「そのほか気になる物件」に回っております。 そもそも、日本の態度が宜しくございません。ついこの前まで、日本は対等におつきあいしていたのに、「あ、今度からウチのところは、帝国ですから、そこんところ宜しく」と言うのですから、朝鮮 王国としては困ってしまうに決まってます。だって、釣り合わないわけですよ、帝国と王国とじゃ。しかも、本来、帝国というのは冊封の主体で、天下(宇宙)の中心(=中華)でありまして、朝鮮にとっては、それは清国によって占められていたわけであります(無論、満洲族の清朝を、蔑視していたというお話もありますが、ここでは省きます)。 そういう世界観を有していた朝鮮政府に対して、「あ、今度からウチのところは、帝国ですから、そこんところ宜しく」なんて言われたところで、 「え? なにそれ? 聞いてねぇし。」 と言われるのがオチであります。日本側だって、そういうことくらいわかっているはずなのですが、それを敢えて押し切って、 「イヤ、だって帝国だしさ、実際。」 と押し切ってしまったわけです。…どう考えても摩擦のタネです。 世界史的に言えば、近世東アジア国際関係システムが近代西欧国際関係システムへ編入される過程の悲劇だと申せますが、そんな聞いた風なことを言ってごまかせる訳でもなく、単純に申しますれば、日本側は「万国公法」をタテに、相手側の誤解をうまく誘導して、自国の利益を伸ばそうとしたと言うことになります。 そういうワタクシの少年時代の愛読書は 池田徳真『プロパガンダ戦史』 でありました。長波を取る話ですとかがなかなか面白いのです。 ただし、これは近世の話でありまして、職業選択の自由が法的にも公認されるようになって、身分的職業の専有というものが犯される上に、自らの人権もついでに(「ついで」じゃねぇ)犯されるという実にもって非道い状況に当りまして、水平社が現れてくるのであります。 参考: 平民社資料センター監修『平民社百年コレクション 第2巻 堺利彦』論創社・\6,800
哲学思想系著作きょうの新刊(2002.12.15)
遠藤周作がキリストを書くというのも面白いなぁと思ったのですが、どうも周作を使っていろいろ論じようという感じのものみたいです。おもしろかいどうかの保証は無し。 霧社事件(むしゃじけん)は1930年に起こった台湾の霧社高山族の抗日蜂起事件です。先日も書きましたが、日本の植民地経営なんてのは、文明の輸出が出来ないものだから、軍事力の輸出をやりまくって、武断政治だったわけです。台湾を近代化してやったと自画自賛する方々もおられますが、資本主義ないしは帝国主義国家であれば、当然の運動であって別にそれ自体を褒め称える必要はないわけで、国民党政府が「台湾の統治はいい感じになっている」と言ったとしても、それは中国人が「外蕃」たる台湾人を手なずけられなかったという点で、そういう発言をしているのであって、あくまで台湾は客体なわけです。で、そういう客体的状況にあった人々が、蜂起したわけですが、日本帝国は、軍隊は出す、航空機は出すですごい弾圧――というかほとんど戦争でありました。ゲルニカに先立つ7年前のことであります。 ツァラトゥストラ――打ち込みにくいことこの上ないこの名前は、ゾロアスターのドイツ語読みだという話ですが、実際にゾロアスター教の話とは全然関係ない辺り、当時の欧羅巴人のアジア認識の一端を現しているようない、ないような。そういや、拝火教は日本にも入ってきて(ここまではホントらしい)、大文字焼きはその名残だというのですが、ホントなのでしょうか、とまたインチキな話を書いてみる。 嗚嗟唯識。難しいよね、唯識。その昔、「唯物思想」と書いてあって飛び込んだ研究室が後々確認したら「唯識思想」だったので、ギャフンというか、大いなる勘違い。認識論としてはかなりイってしまった感じの認識論ですが、はまると結構抜けられません。末那識が曇っているのです。 ひさしなので。 同姓同名の高校の同級生がいましたが、何しているかなぁと思い返してみたり。 大阪城が大好きな人におすすめします。ゴジラが好きな人にはいかがかとは思いますが。 っていうか、どうせなら「国連で僕と握手」とか書いて欲しかったなぁと思ったりしましたが、それはそれとして、国連ってのもすごい綱渡りで運営されていて、毎度のことながら応援したいと思うわけであります。
哲学思想系著作きょうの新刊(2002.12.12)
現代思想をどこら辺からはじめさせるかと言うことには色々な意見があるわけですが、早いところから言いますと、やはりヘーゲル先生なわけでありまして、個人というものに対して、共同体というか人倫というか、とにかくSittlichkeitというものを持ってきたわけです。こうして、極めて現代的な社会学という視座が入ってきたわけですが、その一方で個人というもののブルジョア性と言いますか、抽象性といったものを鋭く突いて、ニーチェなんかが実存を主張し始めるわけです。で、そのチーチェとヴェーバ・フーコーがどう関係するのかなぁというか、ニーチェやっている人に会うたびに、「どうしてあの人気が狂ったんですか」と聞いて、「打ち首になった犯罪者をやっているような人間に言われたくない」と言われて、「全くその通りだなぁ」と一人納得したりするわけです。 アルチュセール。この人も気が違っちゃった人です。すごい面白いのに、どうしてかしら。と思った方は、お読みいただきたい。「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」は、現在欧米の思想史研究の人には必読になっており、シカゴ学派(意味がよくわかんないですけどそういうのがあるそうです)の本にはよく出てきます。でも、日本の研究者はそういうところまで見ないで、模倣するので、「ああ、なんてぇのか、福沢が『文明の精神』って言ってたけどそういうのって、いまいちだよなぁ。」と思ったりするわけであります。もしちゃんとやろうというのであれば、アルチュセールさらにはマルクスあたりまで、ついでにヘーゲルなんかも言ってくれるとありがたいわけで、そこまで行って、イデオロギーだの何だのと言って良いように思うわけであります。
それはそれとして、ヴェーバといえば、大塚久雄先生であります。もう、なんと申しますか日本のヴェーバ研究は大塚史学に通ずると申しましても過言ではないようにも思いますが、先日機会がございまして、『新しい歴史教科書』なるものを拝見いたしましたら、大塚久雄の没年が書いてないんですね。丸山真男の没年は書いてあるのに。たしか、ほぼ同じくらいになくなられたはずなのですが、どういうことなのでしょうか。きっと空海みたいにまだ生きているのかも知れません。学問は死なずと言うことなのでしょうね。なんだ結構いい教科書じゃないか。 驚きたい人におすすめします。 久光というのは、生麦事件のあのひとですが、しばしば藩主であると間違われますが、藩主の父親でありまして、行ってみれば「国父」というヤツです。で、兄貴の斉彬に比べるとあんまり人気がございません。弟には弟なりの苦労があるんだということを思いなががらお読みいただければ幸い。 そのほか気になる物件 哲学思想系著作きょうの新刊(2002.12.09)
中尾尭さんというのは、この道の大家なわけであり、中世仏教を稼業とするものには、必携といってもいいものなのでしょう。ただ、別に稼業でもない方には なんてのはいかがでしょうか。「偽書」というと私どもはその時点でオミットしてしまうわけでありますが、この本は、何でわざわざ「偽書」というか「仮託」して語ろうとするのか、ということを、さまざまな角度から描き出して、中世の宗教空間を見ていこうというものです。ふつう鎌倉新仏教(この名前もいかがなものかと思いますが)の教祖たちは、これに対して偽書ではなく、自分のことばで勝負したんだと言われますが、やはりそこには教典のかなり恣意的な解釈があり、偽書と同様の世界の新しい解釈があったのだと指摘いたします。なるほど、中世というのはそういう時代なのだなぁと深く深く思った次第。久しぶりにちゃんと本を読んだので、紹介してみました。
あと半日いてもらって、『北京の五.五日』にして欲しかったなぁと思うのは私だけでしょうか。イヤそれだけなんですがね。
緒方洪庵といえば、 適塾 であります。以前大阪で学会があった際に、拝見いたしましたが、大学の施設なので日曜やってないんですよね。しょうがないので、周りを見回したり、ベンチの上からジャンプしてみたりハタから見ると、明らかに危ない人です。
明治の新聞研究といいますと、「国民新聞」だの「日本」だの「日本人」だのといった新聞が中心な訳でありますが、しかしこれらの新聞というのは読めばわかるのですが、とにかく読みにくい、というか、読めないわけです。小難しいコトバがちりばめられていて、「嗚嗟、偏壇的(ペダンティック)というのはこういうことなのね」などと、聞いたこともない当て字で思ったりするのですね。
そういや、大昔、試験で「『想像の共同体』で何か書け」というのがありましたが、黒板には、「想像」が「創造」と書いてあったので、考えた末、「済みません、アレ字が違うんじゃないでしょうか」と申し上げたところ、「嗚嗟、そうね。でもアレでもいいじゃない。書いて。」とにこやかに言われて、なんか悔しいので本当に『創造の共同体』で書いてみました。あんな曲芸はもうイヤです。だって読んだことない本なんですから。というか、存在しないわけで。
ところで、なにゆえ日本は旧正月が存在しないのでありましょうか。ロシアだって、ロシア暦でクリスマスするんですから、おかしいじゃないですか。唯一日本で旧暦に基づいた(とされる)祭事は紀元節くらいなもんでしょうか。でも、なんで11日なのかしらん。
まぁ、これは以前から申し上げておる話なのでありますが、本来帝国主義国家とは近代主義的な普遍的文明の論理でもって、後進の植民地を恵み施すという崇高な理念でもって、
何でも近年は、聖徳太子の非実在説があるようで、このご本では実在説という方になるのでありますが、聖徳太子というのは昔から様々な形で偽書の話題に事欠かないお方であり、先ほど挙げました『偽書の精神史』では太子の名前がボンボン出て参ります。まぁ、日本初の文化人であり、かつ垂迹の存在であるということなので、それはそれで有名税ということなのでありましょう。
ペリーが日本に来たときに、白旗と一緒に「もし交渉が決裂したら戦争になるわけで、そうなるとあんたらは確実に負けるわけで、降伏するわけで、そういうときにはこの旗を立ててきなさい。」と書簡を送ったというお話があります。その書簡が、偽書であるか否かというので、
大論争
になりまして、去年から今年にかけて幕末維新期を稼業としている方々のあいだでは、もうそれはそれは大変だったのです。まぁ、アタシのような、一兵卒なんかには関係ないんですけどね。『新しい歴史教科書』で、本物だと言ったあたりから問題がややこしくなったわけです。
哲学思想系著作きょうの新刊(2002.11.12)
京都橘女子大学女性歴史文化研究所編『京都の女性史』思文閣出版(A5判・4-7842-1123-3・2002・\2,400)
「新聞」という新しいメディアは、新国家におけるさまざまな法令を伝達する存在であり、朝令暮改の如く変更される諸制度に乗り遅れないためにも、新聞は欠かせなかったわけです。しかし、明治時代の新聞と申しますのは、今で申しますスポーツ新聞ですとか言ったような内容であり、非道いのになりますと、ほとんど講談の内容を活字にしただけのような記事があったり致しまして、「新聞」のくせに「以下次号」とかあったりするのであります。大正時代に寺田寅彦が「日刊新聞なんか要らない。週刊で事実だけ流すので十分だ。大体にして取材もしていないのにインタビュー記事を載せるな。」と甚だご立腹遊ばされていたわけでありますが、成程宜なるかな、というところであります。 伊勢神宮というのは、天照大神がいることになっておりますが、それは内宮の話で、当時は外宮の方に用があったわけで、つまり農耕神としての豊受大神ですね。地方地方の農村からやってきた人々が、これにお参りしまして、村に帰っていくのであります。しかしながら、単に信仰心からやっているわけではなく、当時農業先進地域であった伊勢にやってきて、種苗を入手して帰っていったわけでありまして、神社の前にそれらを配っていたそうです。ですから、和辻先生のおっしゃるように、そうそう、皇室崇敬と伊勢信仰は結びつかないと申せます。
佐伯先生は、『新撰姓氏録の研究』で有名であり、はっきり言ってこれがなければ古代は何も出来ませんというくらいすばらしい業績をお持ちな方なのですが、今回のお話は高丘(高岳)親王だそうです。面白いですね。高丘親王というのは平城天皇の皇子なのですが、例の薬子(くすこ)の変で、廃太子になったかなり可哀想な人です。そりゃ、出家したくなるものです。で、この王子さまのすごいところは、求法の旅の末に中国に渡り、さらにインドに渡ろうとしたというところであります。仏教伝来以来、インドまで行こうとした日本仏教者というのがほとんど皆無であることを考えますと、この王子さまは、かなりアグレッシブな方だと申せます。ただ、途中で客死してしまったそうですが、たとえ出家者といえども、皇族が外国に行くというのは、日本史上かなり希有であったようにも感じますから、この点でも興味深く存じます。ああ、神功皇后とかいうのはナシですよ。 柳田国男というのは「日本民俗学」の祖、ということになっております。で、この「日本民俗学」というのは、「民族学」と違うところにミソがあります。つまり、帝国主義的植民地支配における被支配民族の科学的把握の色彩が強い「民族」の学ではなく、同じ民族が同じ民族の固有性を語ろうと言うわけですから、自己撞着に成りかねないわけで、存在するのかしないのか分らないような「常民」なんて概念を生んでしまう所以でもあったわけです。え、それって捏造じゃないのかってツッコミはちょっと可哀想ですがね。 台湾の方がお書きになっているようですが、「日本漢学」というのがどうにも気になります。ハイ。 井上 ひさし・生活者大学校講師陣著『あてになる国のつくり方』光文社(新書・4-334-97368-X・2002・\1,300) ひさしなので。
哲学思想系著作きょうの新刊(2002.10.29)
片岡 寛光著『公共の哲学』早稲田大学出版部(A5判・4-657-02925-8・2002・\3,800) 公共哲学というのはある意味近年のはやりと申せますが、単純にいえば近代的個人主義というアトム的状態はあまり望ましくないんではないか、というところから出発しております。つまり、人間ってなぁそうそう独りで生きていけるほど強いものでもないですよね、ということです。それはそうなのですが、どうも日本にこの個人主義が入ってきたとき、individualism(in=〜できない+divide=分割→それ以上分割できない存在)という訳語を誤解してしまったのか、原義通り理解してしまったせいなのか、とにかく「独立した確乎たる自己を持った私」というのが「個人」なんだと想ってしまったわけです。夏目漱石の「私の個人主義」なんかは、まことにその意味でのじつに純粋な「個人主義」なのであり、 「あー、そういうのを求めてたらたしかに気も狂うよね。」 と納得してしまうわけです。しかし、本来あちらさんでは、個人というものはすでにあるコミュニティなり宗教集団なりに所属していることによって、「万人の万人に対する闘争の場」たる市民社会を乗り切ろうとしたわけであります。ここいらへんは、ウェーバのゼクテSekte概念やトクヴィルの『アメリカの民主主義』なんかお読みになっていただきたいと思うのですが、問題は めちゃ長い ということであります。とくにトクヴィル。講談社学術文庫で3冊くらいあったんじゃなかろうか。 まぁ、そういうわけで、本家本元の個人主義た〜らいうものは、じつは多分に公共性にあふれていた、と言うよりはそれがなければやってられないという事実があったのですが、わが近代のパイオニア諸子はそういうところまでは気づかずに、 「自己の確立」 だけを心がけてしまいましたので、大正教養主義者は、後に至る全体主義というインチキ公共性の主張の前に各個撃破されてしまったのであります。 関連参考新刊
吉本隆明先生といえば、燦然と輝くわれらの太陽なわけであり、心うち振るわせた学生時代を送った方も少なからずおいでではないかと存じます。しかし、先年、「海でおぼれかけた」という衝撃的な事件が、耳目を引いたのですが、その一方で 関連参考新刊
近世思想史というものを近代に連続させようという認識は、近年の流行であります。すなわち、「ペリーがやってきたら一気に近代化したなんてのはずいぶんひどいはなしじゃぁないですか。わたくしどもにもそれなりの下地があったからこそ、西洋近代を受容できたのですよ。」と申し上げたいわけであります。が、その一方で、先に申しましたように、近代的個人をちょっと誤解というか大変原理主義的に理解してしまったために非道いことになりました。ですので、この下地ってのもどのくらい評価しておいたらいいのかな、という見極めも必要だと申せます。 そうはいいながら、羽仁五郎の『日本における近代思想の前提』なんていつ出たのか分らないような本に(1949年です)、ドキドキしちゃったりしたり、またそういう論文を書きたいなぁと思うのも偽りのない事実であります。 そのほか気になる物件 哲学思想系著作きょうの新刊(2002.10.22)
ライプニッツという方は、まぁ、なんと申しましょうか、世界の全体を思弁的に把握した最後の巨人じゃないかと思うのです。デカルトが、「我れ思う故に我れあり」とか「オレが思惟しているという事実だけは神さますら否定できないのさ」とか言って、心身の二元や精神の優越を説いて、世界を客体化して、科学的分析的に把握しようとしていたあの近代の曙の時代に、このライプニッツは、「世界を誤りのない一つの表現で語りたい」とか考えて、モナドとか、予定調和とか、なんか人間の思惟を越えちゃったところで語ろうとしたわけです。でこのモナドには「窓がない」なわけで、「えー? ないからなんだってぇのよ」と学生のわたくしどもを戸惑わせることしきりだったわけであり、実は今もってよくわからないのであります。 先日うかがった話では、「窓とは出入りする窓であり、のぞくための窓はあるんだ。大体にして、窓から出入りしないだろう?」と言われました。嗚嗟そうかなぁと思いましたが、出入りするのは、それ自体主体なわけで、モナドをのぞくにせよ、出入りするにせよモナドの外に主体があるというのもいかがなものなぁと思わなくもなかったわけです。 この「わかりやすい」シリーズは、他に忠臣蔵とかもあるみたいです。最近は、「90分でわかる××」とかお手軽なハウツー本のような者が少くないわけで、そういうものに対して否定的な方もおられるようです。たしかに、 「こっちはそれで何十年もやってきているんだから、90分とかでわかられたらたまらねぇ」 わけで、実際に読んでみると実に概説的なことしか書いておらず、 「やっぱりな、全然××の奥底がわかっちゃいねぇ」 と、安心しながら、 「でも、よくまとまってるな、これなら授業で使えるかも」 とかイケナイ想念を得てしまったりすることもあるようなないような。いやいや、そんなことはありませんとも、あるわきゃない。 しかし、考えてみますと、こういった先生方も学生時代は新書ですとかで、ずいぶん自分たちの想像をたくましくしていったわけであって、現代の学生が新書一冊読み切るだけの能力がなくなったことを慨いてもいいのですが、とりあえずそういうものを求めようとする知的欲望には水を差さないで欲しいなぁと思うのです。 でも、知識だけをため込むような、教養主義では困るのは確かです。その昔、藤田省三が「最近の若い者は、古典を読むにしても、〈教養〉だから読むというのが多い」と言っておりましたが、さらに最近の若者は、原典じゃなくて、エッセンスだけを自分の身にまとうだけだったりして、 「オイそこのオマエ、研究室の電子百科で調べたことを、自分の知識だと思うんじゃねぇ」 と言いたくなるのも確かではあります。 どういうわけなのか、日本人はドイツが好きと言うことになっております。ドイツ人が日本人を好きであるかは、はたしてよくわかりません。別に、第二次世界大戦を一緒に戦ったとは言っても、戦場を同じにしていたわけではなく、言ってみればチャイナスクールならぬ、ドイツスクールによる派閥の主導権争いみたいな部分ではなかったかと思います。 以前も申したことがあるかも知れませんが、明治日本におきまして、ドイツというのは必ずしも日本でそれほど評判が高かったわけではございません。と、いいますかドイツ自体とそうそう関係がなかったわけで、なるほど確かに多くの留学生が参り、陸軍はドイツ式の編制をしたりしましたが、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世の黄禍論なんかはずいぶん反発も激しく、当時日本におりましたドイツ人医師のベルツ(日本史の教科書で帝国憲法発布の記述の際に必ず出てくるあの人ですね)なんかは、「こういう皇帝がいるドイツはダメなんだ」とノタマっております。 ドイツへの傾斜が始まるというのは、後進資本主義国家として、その国内状況が近似していたこともあったとは思いますが、当方の勝手な思い込みとしては、第一次世界大戦にドイツが負けまして、猛烈な円高マルク安になって「貧乏学生でもうまくやれば留学できる」という状況が出現したせいではないかと思うのであります。何しろ日本は大した戦闘もせずに「戦勝国」ですからね、左団扇で、今考えるとトンデモねぇビッグネームのドイツ人の学者に「家庭教師」させたりしたわけです。嗚嗟うらやましい。 参考新刊図書
『ドイツイデオロギー』は通人は『ドイチェ・イデオロギー』とか『ドイッチュ・イデオロギー』とか、なるべく原典に近い読み方を心がけようとしたりして、ニーチェを「ニートゥッシェ」とか表記したりして、 読めねぇよ、コラ 的な状況を現出したりしているわけですが、そういう方に限って、お話しいただく際には、 ドイデ なんて言われて、「土井さんと井出さんですか」みたいな感覚に陥ることもしばしばなわけです。 そんなことはどうでも良くて、『ドイツイデオロギー』が岩波で、再び出るしかも廣松さんの訳でってのがうれしいじゃありませんか。まぁ、さすがに独和対象訳になっているとは思いませんが、「イデオロギー論をやる場合、絶対無視できないよね」という哲学思想系・社会科学系の方や、「オレのドイデ(国民文庫も可)も古くなったよなぁ」とか「ドイデと聞くと青春時代がよみがえる」とか言う方におすすめします。 「中国には中華思想があって〜」などということを言って、中国を批判する方は少なからずおられます。そういう方は「だって〈中華〉人民共和国って言っているじゃないか」と申されるわけですが、そうなりますと「グレートブリテン」なんてのはトンデモねぇ訳ですし、「ユナイテッド・ステイツ」と自称する国は自分たち以外に、連邦国家は存在しないと思っているわけであり、「大日本帝国」なんてのはバリバリ帝国主義国家だと言うことで宜しうございますね。 などと思いっきりとばしまくっておりますが、中華思想というものは近代国家とはかなり異質なものであって、本当にそんなものを主張しているのだとしたら、その国家はかなりヤバイと言えます。ただし、国民国家を形成する際に、かつて自分たちの祖先が有していた思考様式を使って、国民を動員しようと考えているというのであれば、まぁ、それはそれでイデオロギーというヤツであり、やはり中華思想そのものから遠いと言えましょう。 参考新刊図書: 『民族という虚構』東京大学出版会(A5判・4-13-010089-0・2002・\3,200) そのほか気になる物件
哲学思想系著作きょうの新刊(2002.10.08)
卍字会 でありましょう。 卍字会、あるいは紅卍字会といった方が通りがよいと思いますが、これは道会の慈善団体であります。で、この道会というのは、至聖先天老祖を最高神としマホメット、釈迦、老子、キリスト、項先師(孔子の師)は言うに及ばず、とにかくあらゆる世界の聖賢仙仏を神として配しているわけで、じつに至れり尽くせりだと申せます。 この団体、宗教団体と申しますか、社会団体といった方が良いような内容でありまして、急激に近代化(資本主義化)していく中国大陸で崩壊する地域共同態の代わりをはたしました。しかし、中共以後は、反動的宗教として鎮圧されてしまいました。しかし、香港・台湾・東京そのほかの地域では今も存続して活動しております。 哲学思想系著作きょうの新刊(2002.10.06)
ミイラといいますと、ピラミッドの中にいて包帯ぐるぐる巻きで、ときに人を襲うようなものが想起されますが、まぁ、あれはヨーロッパ人の異文化というか異宗教に対する、偏見に根拠していると思います。 しかし、ミイラ、というものは肉体を生前のまま(に近い形で)保存した状態したものをいうので、レーニンとかスターリンとか成功したのかわからないけど毛沢東とか、ホーチミンもそうでしたか、まぁとにかくああいったものも、ミイラと申せます。しかし、本来ミイラは、後の復活の日のために肉体を保存しておきたいというところに始まっているはずなのですが、そもそも無神論であるべき共産主義者が、そんなことを考えているとは思えず、結局、「保存しておくと広告塔になる」というところにあるのでしょうが、そういうのを物神化というのであってとても唯物論者とは申せませんね。 ひるがえって日本におけるミイラは、即身仏ということになりますが、べつに、五六億七千万年後にやってくる弥勒菩薩の来臨をお待ちするというわけではないのが特徴的であります。 日本の仏教は、わりかし即身成仏思想といいますか、現世成仏といいますか、 「彼岸に行かずにこの世で成仏しよう。」 さらには 「いやいや、彼岸じゃなくてこの世を仏国土にしよう。」 などという、極めて過激に素敵な発言が出てまいりまして、 「じゃぁ、仏に成ってみようか」 といって、断食して成仏してしまうわけです。 この即身成仏で有名な方といえば、空海ですが、この方生きながらにして成仏したことになっておりますので、未だに生きており、現在最高寿命を常時更新中なのであります。 即身仏というのは東北地方に広く見られますが、偉い坊さんというよりは、わりとふつうの修行僧が、修行の結果、成仏するというケースが少なくございません。で、断食といってもすぐにご飯を食べなくなると言うわけではなく、五穀を四穀に、三穀に…という形で少しづつ摂取量を減らしていきます。ご存じの空気孔の竹筒の刺さった箱の中に入って断食行に入りますと、たくさんの村人が応援に駆けつけます。まわりで念仏を唱えたり、お賽銭を出したり。言ってみれば、目の前で奇蹟が起きているわけですから、それにあやからない手はないわけです。 ときには、真夜中に、「上人さまがおなかを減らすといけないから」とこっそり食べ物を差し入れた村人もいたようですが、中に、モチを差し入れたおばあさんがおられまして、 空気孔に詰まった そうです。当然、中では酸欠になります。おそらく、なけなしの餅米で、心からの供物だったのでありましょうが、かなりの悲劇ではあります。
哲学思想系著作きょうの新刊(2002.10.05)
今日はこれを取り上げなければならないでしょう。というか、取り上げなかったら稼業失格。 未刊行文稿というところが大いに気になります。内容が具体的に分らないのでちょっと不安が残ります。 会沢というのは、たしかに水戸学の泰斗なのですが、不思議なことにあまり人気がございませんで、かわいそうなことに『全集』というものが出されておりません。彼れの師匠と弟子の藤田幽谷・東湖父子に比べると、不遇と言えなくもなく。結局彼れの場合、長生きし過ぎちゃったというところに問題があります。あと、水戸徳川家としての佐幕論を最後まで堅持し続けたので、天皇制国家ではダメだったのでしょう。 ちゃんとした会沢研究が待たれるところではあります。 嗚嗟、たしかに恐怖といえば恐怖でしたね。というか、笑いが止まりませんでした。 「馬鹿なんじゃないかこいつら」 という点で。あの日はですね、夕刻の研究室のテレビで 「なんか臨界を迎えたらしい」 「いやいや、青い光を肉眼で見た」 とかやっているわけですよ。ちょうど雨が降っておりまして、この中帰ったら、禿げるんじゃないかという冗句も出たものであります。 ニュースは流れるものの、巷ははかなり平静で、みなさまふつうに生活をして、臨界真っ最中のすぐわきにあるJRはガンガン動いていたりしました。当方もそれで帰宅したわけです。しかも普通列車なので、特急待ちとかするのですが、 ただいま臨界中 と言われている東海村のJR東海駅で私どもは10分もドア全開で待っていたわけです。中性子線ビュンビュンであったかどうかは存じません。 だって見えませんもの。 で、帰宅後すぐに電車が止まりまして、翌日は軟禁状態といいながら、大学行けないので、大っぴらに回転寿司なんど行っておりました。危機管理的にはだめなワタクシ。 高校の時、英語の勉強のために買ったことがあります。たしか3版だったと思います。時代が分ってしまいますね。 日本に関するいろいろなものごとを、日英対訳で乗せてあるのが便利ですね。文化論のところは、概説的なので多分に不安を醸し出さないわけでもなく。 その昔、岡山に参りました際に登りましたが、あんな高いところに城を築いて何をしようというのでありましょうか。まぁ、く白村江の敗戦後に造営された山城だと言われてはいますが実際は不明であります。 たぶん、烽(とぶひ)のためでもあったんでしょうね。太宰府から馬で大津まで駆けるのは大変ですから、のろしで伝達するわけですが、行ってみれば高速ネットであります。そう考えますと、ちょっとしたハイテク施設だったんだな。石しかなかったけど。 参考新刊図書:小和田 哲男著『戦国城下町の研究』(小和田哲男著作集 第7巻)清文堂出版(A5判・4-7924-0514-9・2002・\9,200) かつては一世を風靡しました「日本式経営」も、いまや衰退し、アメリカ流の経営が目指されているわけで、じつにもって無常の世界であることを身にしみるのであります。 しかし、その「日本式」なるものも、はたしてどこに根拠があるかというと、そんな古いものではなくてですね、つい五六十年まえのおはなしなわけです。それを、武家や商家などの経営形態を参考にして、「日本的」だの「日本式」だのなづけて、文化的特殊性を強調して自己満足していたのが、バブリーなワタクシたちであり、現在の反動的な姿勢は決してそういういい加減な態度に対して反省して生じたものではなく、 「いままでのが上手くいかなくなりましたので、チェンジ」 なのであります。そういう意味で言えば、アメリカ流なんてのも早晩どこかに行ってしまう可能性もあるのですが、現今の時流がそれである以上、そうそう無視も出来ないことがじつに歯がゆく感ぜられるのです。 蘭学――それは黎明期的日本科学精神の象徴 ということになってますが、別にそういうこともあまりございませんで、蘭学といっても実際には、外科的な分析的な解剖学としての学問がじつに進んでいたわけで、実際に人間を治すとかいうのは、漢方医にくらべて、たいして変わりありませんでした。 ただ、この天然痘――種痘にかんしては別でありまして、確実に実績の上がる分野でありましたから、天然痘根絶史=蘭方医学発展史と言っても過言ではございません。種痘を広めるために、緒方洪庵が種痘の神様を作ったりしたことは有名でありますが、科学的であるから科学的に語らなければならないというわけではないという割り切りがボクは好きです。 こまかいことは、 手塚治虫『日だまりの樹』 をおよみください。って、この本を紹介しているんじゃないのか? 種痘に関しては、とくに幕末期になると攘夷勢力と結びついて、激しい反発がありましたが、吉田松陰なんかは幼いときに天然痘で死にかけて、そのおかげで顔にあばたが出来たので種痘万歳という人でした。こういう志士も結構珍しいとおもいます。 浮屠清狂種痘の詩に、「謾りに言ふ洋法神よりも妙、引痘絶えて夭折の人なしと。識らず死生元命あり、枉げて牛膿を移して人身に種う」と。余謂へらく、種痘の類は皆人事を尽すの一端にて、此の良術を廃して、死生命ありと云ふは、身を修めずして命を俟つに近し。他日を俟ちて清狂と此の義を論ぜんと欲す。 憲法は変わらないのにどうして教科書は版が出るのでしょうか。より善き憲法の運営を、維れ深く祈ります。 わたしは第1版を使ってました。時間は流れているのですね。
ところで、右の人は不敬事件の内村なんかを持ち上げてはイケナイと思うのですが、自分の主張のためには何でもいいから使って換骨奪胎というのは、じつに不誠実だと思うのですが、どうでしょうか。 そのほか気になる物件
きょうの哲学思想系著作(2002.10.01)
氏姓(うじかばね)を重視するのは日本だけのお話ではなく、世界中に転がっておりますが、儒教国家ではそれが甚しうございます。「同姓不婚」であるとか「異姓不襲」などというのがそれにあたります。 しかしながら、東アジアに位置するはずの日本におきましてはさっぱりそのようなことはなく、それ以前に姓のない方がいたりするわけで、戸籍も全く別だったりするわけです。まぁ、日本人のほとんどは、かつて姓を持っておりませんでしたので、それはそれでよいのかなぁとも思います。 その昔、柳田国男が地方の旧家にいくと「平家の末裔」だのいう家系図を見せられるのに辟易したと言っておりましたが、ほんとかどうか分からない話を聞かされるのはホントにいやだなぁと思わないでもなく。 隠元禅師ともうしますと、明末の亡命僧で、インゲン豆を日本に伝えた偉人であり、その意味では沢庵和尚なみに有名であってもよいはずなのですが、さほどでもないのがじつに残念であります。 で、この明末には日本に多数の大陸知識人がやって参りまして、朱舜水のような儒者もまたやってきて、徳川光圀にいろいろ吹き込んで『大日本史』なんか作らせちゃったりしたのでありますが、隠元さんは黄檗宗という仏教宗派を伝えてくれました。この黄檗宗こそ日本に伝来した最後の仏教宗派であります。これ以降、仏教の新しい展開は明治になって、革新運動が始まるのを俟たねばなりませんでした。 しかし、この明治の仏教運動というのは、信仰というよりは、神学的・理知的な運動でありましたので、やはり黄檗宗こそ最後の仏教信仰と言え、これをどのように日本人が受容したかを見るのは中々に興味深いところがございます。
イマニュエル・カント→哲学一番最後がなんか嘘っぽいですが、法学やっていると、「読んだことがないのに『イマニュエル夫人』にやたら詳しい」という人になれるわけですが、別にうれしくもなく。 それはそれとして、世界システムといえば、「共産主義国家も資本主義国家も、政治体制では違いがあるけど、国家としての性質は同様であり、いわばおなじ世界システムのムジナ」なのだという事実が、多くの人々に衝撃を与えたのであります。 このような考え方は、「カリフォルニアとオーストラリアの植民地化と中国と日本の開国とによって完成されるように見え」た世界市場の樹立を指摘したマルクスあたりに始まるのでありますが、あちらの知識人は、マルクスを批判的に読むことで、いろいろ新しい地平を切り開いてくれるのですが、日本ではどうして捨てられてしまっているのでしょうか、ととある人に申し上げたところ、 「そもそも拾ってないものは捨てられないだろう。」 とのたまわれました。なるほど。 参考新刊図書:香西 茂・安藤 仁介編集代表『国際機構条約・資料集 第2版』東信堂(A5判・4-88713-455-X・2002・\3,200) 文系の当方でも、三法則(の名前)くらいはしっているわけで、ニュートンは偉いなぁとおもったりするわけです。 で、彼れの『プリンキピア』というものが、神の作った宇宙の原理を明らかにしようとするものであったということはしばしば指摘されるところであります。つまり、むかしは哲学と自然科学との区別が付いていなかったということですね。哲学をやっている人にとっては、何となくうれしい豆知識でありますが、そういうことをいうと、 「嗚嗟、じゃぁ哲学は自然科学に捨てられたのね」 といわれてしまい、再びショック、なわけです。本書は、そんな哲学徒の心の友であるニュートンがじつは、聖人君子ではなく専制君主であったという驚くべき内容なので三度ショック。 フクヤマさんは1990年代初頭の冷戦構造崩壊期に『歴史の終わり』なんて本を書いて話題になりましたが、イデオロギーがそう簡単になくなるわけはなく、現今の宗教による集団化が展開されているのがそのことを示しております。で、今回は人間が終わるわけですが、そうそう終わられても困るというか、メシの種がなくなるというか。
その昔、わが日ノ本も「バリバリ帝国」であった時代がありました。主権者はボクだ、臣民はキミだということです。 「作麼生! 君と雖も臣民とは、これ如何」 「説破! 主語と雖もSubjectと言うが如し」 という問答があったかどうかは分りませんが、とにかく主権は畏き御一人にのみ総攬せられていたので、「民主主義」なんてことばは許されなかったわけので、やむなく、 「民本主義」 なんてちょっと日和った感じで表現してみたりしたのですが、そのあと数年後にどうしようもなくなってしまいました。やはり根本をしっかりしておかないといけません。 やはり帝国と民主主義ってのはスターウォーズのように親和性が低いのかなぁと、まことにアメリカナイズされた教育を受けてきた戦後の僕たちにとって、「実はアメリカも帝国なんだって」という話は、ちょっとした衝撃とともに、イデオロギー暴露の一陣の風となって、私どもの心をくすぐることでしょう。 参考新刊図書:ジム ツカゴシ著『星条旗への誓い アメリカ人になった日本人』文芸社(B6判・4-8355-4507-9・2002・\1,300)
『中庸』
「これのどこが「哲学思想系著作」なんだ。人を莫迦にするにも程がある。」と仰せになる方もおいででありましょうが、「単位」というものは、なかなかもって私どもの思考を規定しているものであることを想起していただきたいと思います。
今日(2002.09.29(日))の読売新聞に、井上ひさし氏による書評がございます。そちらをご覧下さい。なんてこったい、すごい手抜きだ。いや、好きなんですよ、ひさし。
参考新刊図書:福井 文雅著『漢字文化圏の座標』五曜書房(A5判・4-89619-741-0・2002・\16,500)
通天閣といえば大阪でありますが、大阪といえば通天閣であるかどうかは人それぞれであり、逆は必ずしも真ならずということを示しておりますが、ときには「通天閣といえば日立」という、茨城県東北部に在住の人間にとっては心ときめくテーゼを出す方もおられるようです。
カラー版の岩波新書といえば、あの妖怪先生たる水木しげる氏のものが想起されますが、今度はメッカです。最近は「××のメッカ」ということばをあまり使わなくなりました。これが宗教的配慮なのか、それとも単に「メッカも遠くなりにけり」というようにメッカへの「あくがれ」が薄れたのでありましょうか。って、そもそも「あくがれ」自体が「離れて遠く去った地」という意味なのですから、遠くなって良いのでしょうか。
「鎌倉新仏教」ということばがございます。先ほど「新」が付くと流行廃れが早いと申しましたが、この「新仏教」にかんしては、大変息が長うございます。当たり前でありまして、この「新仏教」なる語は鎌倉時代の自称ではなく、後に近代になって初めて生じた語でありますから息の長短は関係ないわけです。
「目には目を」というのは「復讐法」などと呼ばれているので、ハムラビ法典というか、中東のあたりの法観念がそういう、「乱暴な感じ」であるように思われがちでありますが、そもそも、これはきちんとした刑事裁判法であって、相手に加えた損害と同等の損害をもって償うという罪刑法的主義なのであります。ちなみに、奴隷ですと解放されて自由人になるそうです。
そのほか気になる物件
道躰滋穂子『哲学のエチュード――九つのテーマからなる入門書』水声社(四六判・4-89176-468-6・2002・\1,800) 本間義人『都市改革の思想――都市論の系譜(都市叢書)』日本経済評論社(四六判・4-8188-1446-6・2002・\2,800) 佐々木潤之介・片倉比佐子ほか編『日本家族史論集6 家族観の変遷』吉川弘文館(A5判・4-642-01396-2・2002・\6,300) M.J.Borg/小門宏訳『聖書の意味をたずねて――改めて知る旧約聖書の深層』近代文芸社(B6判・4-7733-6936-1・2002・\1,500) グレゴリー・J.ライリー/森夏樹訳『神の河キリスト教起源史』青土社(四六判・4-7917-5990-7・2002・\3,200) アン・スニトウほか/藤井麻利・藤井雅実訳『ポルノと検閲(クリティーク叢書22)』青弓社(四六判・4-7872-3206-1・2002・\2,800) ジェフリー・アボット/熊井ひろ美ほか訳『処刑と拷問の事典』原書房(四六判・4-562-03549-8・2002・\2,800)
岡田荘司『古代諸国神社神階制の研究』岩田書院(A4変形・4-87294-256-6・2002・\8,800)
王光美ほか『消された国家主席劉少奇』日本放送出版協会(四六判・4-14-080714-8・2002・\2,300)
河原俊昭編『世界の言語政策――多言語社会と日本』くろしお出版(A5判・4-87424-258-8・2002・\2,800)
牧野雅彦『共存のための技術――政治学入門』日本評論社(四六判・4-535-58340-4・2002・\2,000)
野矢茂樹著『同一性・変化・時間』哲学書房(四六判・4-88679-081-X・2002・\2,400)
蔵持重裕著『中世村の歴史語り――湖国「共和国」の形成史』吉川弘文館(四六判・4-642-07790-1・2002・\2,600)
寺木伸明著『部落の歴史――前近代』部落解放・人権研究所(A5判・4-7592-4035-7・2002・\1,200)
小林克編『掘り出された都市――日蘭出土資料の比較から』日外アソシエーツ(A5判・4-8169-1733-0・2002・\3,800)
太田修治編著『神戸都市学を考える――学際的アプローチ(神戸国際大学経済文化研究所叢書 6)』克己編著(ネルヴァ書房・A5判・4-623-03651-0・2002・\3,800)
広島平和研究所編『21世紀の核軍縮 広島からの発信』法律文化社(A5判・4-589-02599-X・2002・\5,000)
寺尾五郎『「自然」概念の形成史中国・日本・ヨーロッパ』農山漁村文化協会(四六判・4-540-02155-9・2002・\2,095)
塚田孝『歴史のなかの大坂都市に生きた人たち』岩波書店(四六判・4-00-025651-3・2002・\2,600)
ヘーゲル(武市健人訳)『大論理学』上巻の1(4-00-026800-7・\3,600)、上巻の2(4-00-026801-5・\4,400)、中巻(4-00-026802-3・\4,400)、下巻(4-00-026803-1・\5,000)岩波書店(A5判・別記・2002・別記)
香山リカ『ぷちナショナリズム症候群――若者たちのニッポン主義』中公新書ラクレ(新書・4-12-150062-8・2002・\680)
パトリス・ボロン(金井裕訳)『異端者シオラン(叢書・ウニベルシタス)』法政大学出版局(四六判・4-588-00745-9・2002・\3,600)
下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917−1991』講談社選書メチエ(B6判・4-06-258248-1・2002・\1,500)
福吉勝男『自由と権利の哲学――ヘーゲル「法・権利の哲学講義」の展開』世界思想社(B6判・4-7907-0956-6・2002・\2,200)
松井茂記『インターネットの憲法学』岩波書店(四六判・4-00-022124-8・2002・\3,200)
毎日新聞科学環境部編『神への挑戦――科学でヒトを創造する』毎日新聞社(B6判・4-620-31582-6・2002・\1,429)
橋爪大三郎・島田裕巳『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』朝日新聞社(B6判・4-02-257724-X・2002.10・\1,300) 東栄蔵『信州異端の近代女性たち』信濃毎日新聞社(四六判・4-7840-9930-1・2002・\1,700)
大島晃『良寛への道――良寛を学ぶ人のために』考古堂書店2002(A5・\2,500)
伊藤之雄『日本の歴史22――政党政治と天皇』講談社2002(四六判\2,200)
志水宏吉『学校文化の比較社会学――日本とイギリスの中等教育』東京大学出版会2002(A5・\5,800)
著 者:深田祐介・古森義久 出版者:小学館 区 分:社会科学 形 態:文庫 年 :2002 ISBN :4-09-402243-0 無保証解説:「謝罪外交」という外交があるのかわかりませんが、先日某国間で銃撃戦があった際、「遺憾」を表明したところ、「事実上の謝罪」と申しまして鉾を収めたことがございました。「遺憾」でいいなら、何十年と「遺憾」を繰り返してきたにもかかわわず全然許してもらえてない某国の立場はどうなるのでしょうか、と言ってみたいのですが、「遺憾」と言った直後にそれと全く逆のことを要路の方が仰るのですから、致し方ないかと思わなくもなく。 表 題:スーダン――もうひとつの「テロ支援国家」 著 者:富田正史 出版者:第三書館 分 類:社会科学 形 態:四六判 年 :2002 ISDN :4-8074-0206-4 無責任解説:スーダンというと、ときまれにブータンと間違われ、「嗚嗟、仏教国ね」とか「あの国旗がイカしたヤツ」とかトンデモねぇ間違いをされることがありますが、「黒人の地」という意味の中央アフリカのにある、ビンラーディンが根拠としたこともあるイスラム教の国です。そのせいで「テロ支援国認定」(by U.S.A.)なんてありがたくもないものをいただいてしまいましたが、そのスーダンの現状を赤裸々に描いたものなのですね。 表 題:チョムスキー、世界を語る 著 者:ノーム・チョムスキー・ドゥニ・ロベール・ヴェロニカ・ザラコヴィッツインタビュア・田桐正彦訳 出版者:トランスビュー 分 類:言語学 形 態:四六判 年 :2002 ISDN :4-901510-09-6 無責任解説:チョムスキー、もうこのステキな言語学者にクラクラというひとは少くないと思います。「チョムスキー革命」なんていうからソヴィエト出身者だと思っていたあの若かりしころ、実はアメリカ人であることを知って、「嗚嗟、亡命者の子孫なのね」とあくまで彼をロシア人にしたいと思っている人に捧げます。 表 題:イスラーム教徒の言い分 著 者:ハッジ・アハマド・鈴木 出版者:めこん 分 類:宗教学 形 態:四六判 年 :2002 ISDN :4-8396-0154-2 無責任解説:キリスト教徒にとってイスラム教徒によるテロルは、一瞬間、反テロ行動に対し「十字軍」ということばが発せられたように、かなり根深く、すでに文明の衝突のように見ますが、ひるがえって東洋の君子国たるこの仏教国には(なんか儒仏が入り乱れてるな)、イスラムに対して、偏見以前に、「何も知らない」という状況があるわけであり、その意味でこの本をお薦めするわけです。 表 題:国境を越えるユートピア――国民国家のエルゴロジー(平凡社ライブラリー) 著 者:加藤哲郎 出版者:平凡社 分 類:社会科学 形 態:文庫 年 :2002 ISDN :4-582-76444-4 無責任解説:この著者は、『モスクワで粛清された日本人』なんて、一昔前ですとなかなか書けないようなステキな本を著書にお持ちです。で、この本は『国民国家のエルゴロジー』(1994)の改題・改訂版らしいのですが、エルゴロジーと言っても、「しいたけ食べてビタミンD」「そりゃエルゴステロールやろ」というはなしではなく、また、「嗚嗟コギト」「それはcogito,ergo sum」。早い話が、エコロジー以上にさまざまなことを動的にとらえる人間工学ergonomics的総合。 表 題:難民の世紀〜漂流する民――フォト・ルポルタージュ 著 者:豊田直巳 出版者:出版文化社 分 類:社会科学 形 態:A5 年 :2002 ISDN :4-88338-266-4 無責任解説:難民というものは、必ずしも現代的現象ではないのは言うまでもありません。しかし、国民国家という今日の現実は、難民はどうがんばっても、流れ着いた先に定住することは許されず、さまよえるオランダ人とならざるを得ないわけですが、かといって、彼らは政治的実力を行使することも出来ず、そういった中からテロルに走る人も出てきて、内戦をさらに拡大させることとなったりするわけで、「嗚嗟、民主主義ってホント大事だなぁ」と思ったりするわけです。 |