自説を長々としゃべりたてる饒舌さを表す言葉に
「大舌相」とは、仏陀の舌は柔らかく、薄く広長なことをいう。もし口より出せば顔全体を覆い、髪の生え際まで届き、口中でも一杯にならないという。それを文字通りに捉えて仏陀は怪物だと揶揄する人もいるが、これが象徴的表現であることは明らかであろう。それに、これは仏陀の世俗での超人性を演出するために、転輪聖王が備えるという三十二個所にわたる身体的特徴を援用したものである。
こちらは「広長舌相」(←長と広の順序が逆になっているところがややこしい)という表現ではあるが、『阿弥陀経』の一節にもある。これが象徴的表現であることは、「舌」という語を「話」という語に置き換えれば容易にわかる。
舎利弗 南方世界 有日月燈仏 名聞光仏 大焔肩仏 須弥燈仏 無量精進仏 如是等 恒河沙数諸仏 各於其国 出広長舌相 偏覆三千大千世界 説真実言 汝等衆生 当信是称賛 不可思議功徳 一切諸仏 所護念経
舎利弗よ、南方の世界に日月燈仏・名聞光仏・大焔肩仏・須弥燈仏・無量精進仏などのガンジス河の砂の数ほどの諸仏がおられ、各々国の仏は広くて長い舌を出し、三千大世界を覆い真実の教えを説いており「汝ら衆生よ『阿弥陀仏の不思議な功徳を一切の諸仏が褒め称えているこのお経』を信じなさい」と言っておられる。
ゴータマ仏陀の話は、厳然たる事実を語る話、凡夫が作り出す虚偽を語る話、そして、両者を比較して道を提起する話からなる。だが、ゴータマ仏陀は自らその結果を語らなかった。ユニークな問題提起はしたが、ユニークな結末は言葉では表現しなかったのである。だからゴータマ仏陀固有の思想という観点からは、話は半分しか明らかになっていない。ゴータマ仏陀の長広舌は舌足らずなのである。言葉を発せずに多くのことを語っているのである。
『涅槃経』に雪山偈と言われるものがある。
「諸行無常」を厳然たる事実を語った命題としよう。「是生滅法」を虚偽を明らかにした命題としよう。「あなたの主張し固執する事柄(=法)は生まれてきたり消え去ったりして実体がないのだ」と明言しているのだから。仏陀が語ったユニークなことは、瞑想修行によってそれらの思いが消え去るということである。そして、その必然的帰結として安楽な「寂滅」の世界があるのだが、仏陀はそれをあえて語らなかった。それは修行を完成させた人にしか理解できないからである。仏陀の話は、たとえそれが完全な形で表現されていようとも、凡夫の世界では半分しか明らかにならない。話が半分なのは、聞き手の頭が半分しかないからである。
原始仏教は、具体的な話で満ちている。ある意味でそれは応用がきかない。仏陀の説教そのものを現代に当てはめようとしても、まったくナンセンスに見えてしまうだろう。だから現代の僧侶は、それを象徴的な意味で“解釈”する。この説法は、現代に当てはめればこういう意味があるのだ、と。古代インドにおける事実と虚偽の関係を、現代における事実と虚偽の関係に置き換えるのである。人間の心はそんなに進化して変化するものではないから、心は同じようなゴマカシをするものなのである。で、修行しなさいと教える。だが、その修行法が瞑想修行ではないので、仏陀の伝えようとした「寂滅為楽」に到達しないのである。おそらくは現代にふさわしい「生滅滅已」の修行法があるのだろうが、確実に現代の諸行無常と諸法無我とを看破できる人がいないので、現代的な修行法が確立しないのである。
大乗仏教が興隆した頃、仏教徒たちは瞑想修行に精を出して何人かが「寂滅為楽」の境地に達した。そして、それを象徴的に語りはじめた。自ら達した寂滅為楽の境地から自由自在に「生滅滅已」の道を明かしたのが法華経であり、さらに進んで「寂滅為楽」の境地を自由自在に表現しようとしたのが華厳経や密教である。大乗経典を作った修行僧はわかっていた。しかし、その表現には時代的制約もあろうし、象徴的な表現そのものの限界もあろうし、この世で読まれるかぎりその伝えたいことが歪曲されていく。我々にとっては理解しがたい形であっても、大乗仏教の中にはすべてが語られているのである。
本当の意味で「寂滅為楽」に接した仏教修行者は、ゴータマ仏陀のお経など参考文献にすぎなかったかもしれない。「諸行無常」は経典の中にではなく生きた世界に書かれている。「是生滅法」も同様である。そして、自分の人生にとってのこの両者を完全に看破した人は、仏陀の修行法に倣って「生滅滅已」を達成する。今自分が生きているこの世界の中で自分のすべてを懸けて認識し瞑想してこそ「生滅滅已」を体験でき、「寂滅為楽」の境地に達するのである。
さて、このあたりで私の話も読者の世界を覆えただろうから、そろそろ今回は終わりとしよう。読者の真実を明らかにするのは私の責任ではないのだから。