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Φ 金剛居士の法話 Ψ
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| 宗教は死後の世界だの魂だのを云々するので、近代の科学主義・合理主義に囚われた人々から白眼視される傾向にある。私もまたこのWebページで六道輪廻などについて表現するので、そういう冷たい視線にさらされることであろう。しかし、私はここで物理的な真偽はほとんど問題にしていない。むしろ人間の心理世界に現われるイメージとしての魂や六道輪廻や死後の世界などを問題にしているのである。 世の中にはそういうものをリアルにイメージする人々と、まったくイメージできない人々がいる。ここでいう浅薄な合理主義者とは、この後者のタイプの人々のことである。そういう心の貧困な人々、あるいは感受性の鈍い人々は、宗教的なイメージをもつ人々もいるのだということを認めるべきであるし、話が物理的な問題に関わって来ないかぎり、その話し手に固有の内的世界として尊重すべきであろう。宗教的な人々は、内的世界の出来事を不用意に外的世界の出来事のように語る傾向にあるが、それが宗教的な場で語られている場合には、いかに自分が科学主義者だとしても相手を宗教的な文脈で理解するように努めるべきだろう。非科学的と思われる話を問答無用で拒絶する人々は、人間性の一面を完全に無視している。だが、浅薄な合理主義者が否定したもののなかに、宗教的真実が隠されている場合も多いのである。 しかし、浅薄な合理主義者が否定したもののうち、そのすべてが宗教的真実であるというわけではない。幼稚なオカルティスト・迷信家は、必ずしも宗教的でないものを信じ込んでいる。彼らは自分の感性こそすべて、自分の体験こそすべてだと思っている。だが、主観的な世界には、真実と虚偽とが併存しているのであり、彼らは自らの欲望や弱さのゆえに、虚偽のほうを真実と信じ込んでしまっているのである。そもそも虚偽は、人間の弱い心には心地よく響く。そして、その甘い響きに吸いよせられるようにして虚偽を真実と思い込みはじめる。 そこにつけこむ悪徳宗教家が多いのも残念ながら事実である。虚偽と真実を見分ける能力をつけてやるのが本来の宗教家の責任であるはずなのに、人間的な弱みにつけこんで彼らを食い物にする。したがって現代の宗教家に全幅の信頼をおくことはできないし、むしろ眉にツバをつけてつき合わねばならないという悲しい傾向にある。その意味では、宗教的な事柄の最終判断は自分自身の責任だと言えるだろう。浅薄な合理主義者に知性ばかりで宗教的感性が欠如しているとするならば、幼稚なオカルティストには、感性ばかりで宗教的知性が欠如している。 宗教的・神秘的な世界というのは一筋縄ではいかない。たいていは宗教家が提示する甘美なイメージや恐ろしいイメージに騙されてしまうか、さもなくば宗教家が構築した煩瑣な宗教哲学のなかで途方に暮れてしまう。 そこでこの問題を回避するためには、人類が積み重ねてきた宗教的な表象をよく吟味してみることが大切である。一般的に、諸宗教において多くの人々によって正統とされ支持されてきたものは、それなりに正しいものとして真偽の基準になりうる。その際、その表象を文字通りの意味にのみ受け取って即物的に解釈してしまう愚を避けるために、その象徴的意味を常に探るよう努力しなければならないだろう。経典は、いわばその表象を介して別のことを言おうとしている。だから、経典の読みや解釈を正しく行なえば、その経典が伝えようとしていたことが如実に見えてくるはずである。 教義については、多くの解説書によってある程度の理解が可能である。なかなか要領を得た解説書がないように思えるかもしれないが、実際には自分の知識不足であったりすることもあるので、繰り返し学ぶことによって徐々に認識を深めていくことができるだろう。ところが、多くの人々は自分は宗教学者になるのではないと言って手前勝手な解釈をし、即効性を求めて脇道に逸れていく場合が多い。オカルティズムはその最たるものだろう。 宗教的な表象のなかには、人間の弱さゆえ応急処置として語られたものも多い。「嘘も方便」などという言葉がそれを端的に示している。だが、全くの嘘っぱちかというと必ずしもそうではなく、一時しのぎとして役に立つものもたくさん含まれているのである。それは、一時しのぎであれ自分ではどうしようもない苦痛を和らげてくれる。これがいかに人間の弱い心を魅了してきたかは、自らの弱さを知っている人ならよく分かるだろう。そして、この一時しのぎの有用性のゆえに、長く伝承されてきたものもある。したがって、長く伝承されてきたからといって、それらが真実であるとは限らない。宗教的な領域では、いかに内的真実を見極めるかが試されるのである。 このような見極める能力をつけるためには、教義についてよく知ることと同時に、宗教的センスを磨くことも大切である。宗教的センスについては、他人から習うということはほとんど不可能である。自ら瞑想や善行を実践し、神秘体験や感情の陶冶を通して経験的に深めていくしかない。そのためには宗教団体のなかで修行することが必要になってくるかもしれない。しかしながら、それによって教団の考え方などに縛られて自由な宗教的センスを失ってしまう危険性のほうが高いのである。また、そこで触発された感性が微妙であればあるほど、そこで経験された神秘性が高ければ高いほど、その教団から離れて自分自身の宗教的センスに基づいた本来の道に戻るために多大な努力を必要とする。自由な宗教的センスを犠牲にしないために自分だけでゆっくり歩むか、多大な犠牲も覚悟のうえで教団に飛び込んでみるか。いずれにせよ深い内的宗教性を獲得するには困難を極めると覚悟しておかなければなるまい。 〔2004年 4月23日〕 ![]() |
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