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 Φ 金剛居士の法話 Ψ
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〔 仏道を学ぶ順序 〕

 仏教は、さまざまな方面から学べる。一般人は、さまざまな寺院を訪ねて仏像を見て歩くというような方法で仏教を学びはじめるかもしれない。また、仏教書を読むことから思想的に理解していく人もいるかもしれない。あるいは、坐禅会などに参加する人もいるだろうし、仏教系の宗教団体に入って信仰を深めていく人もいるだろう。

 それぞれに縁というものがあるのだから、私は他人が歩んでいる道に関してとやかく言うつもりはない。自らの意思で進んでいけばいい。あるいは間違った方向に歩いていく人もいるだろうが、それも自己責任である。私がここに提示するのは、まだとくに仏縁に恵まれていない少々知的な人が、仏教を最も深く把握し体得するための早道である。

坐禅・瞑想

 ここで題名に仏教ではなく「仏道」という言葉を使ったのは、やはり体験を深め、極める態度を前面に押し出したいからである。仏道は全人的な修行の営みであるから、知的な理解だけではまったく進めないし、情的な促しだけに頼っては道に迷う。やはりそれらの上位に位置する精神が不可欠である。それに基づいてこそ知性も感情も仏教的な働きができるようになる。

 そのような仏教的精神を養うには、坐禅や瞑想が不可欠である。そもそも心が混乱しているとまともに考えられないし、そんな状態ではまともな感じ方もできない。だから、とにかく落ち着いた精神状態を維持できるように訓練することが第一なのである。坐禅というと多くの人は、禅堂で背筋を正してぴんと気を張っていないと警策(背中を叩く棒)が飛んでくるという状況をすぐに連想する。だが、ここではそこまで厳しい坐禅行を考えなくてよい。近頃、“まったりする”という新語が出てきた。「まったり(とした)時間を過ごす」という使い方をし、ゆっくりしたさま、のんびりしたさま、くつろいださま、だらだらしたさま、を意味する。最後の「だらだらしたさま」まで懈怠の心を起こすと問題なのだが、禅や瞑想においては、おそらくそれくらい感情的にリラックスした状態も同時に必要なのである。精神の緊張と弛緩の絶妙なバランスの上に、禅ないし瞑想が成り立っている。

 最初はそのような精神の基礎作りをしなければならない。ゆっくりと落ち着いて、澄んだ心を作ることが仏道における第一の課題である。それが無いといくら知性を働かせても余計なことを考えて悩みが増えるだけだし、信仰は欲にまみれたお願い事でしかなくなってくる。

原始仏教

 次に学ぶべきは、原始仏教である。『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などが代表的経典である。これらは非常にわかりやすい。わかりやすくて簡単にわかったつもりになってしまう人も多いが、坐禅や瞑想の経験に基づいて深読みすれば、さらに味わいも出てくるだろう。大乗仏教が迷信的だとか言って、原始仏教の一見合理的に見える教えを表面的になぞっただけで仏教を完全に理解したと思い込んでしまってはダメである。しかしまた、その深みを追究しようとして原始仏教にいつまでも留まってしまうのも惜しい。原始仏教は、たとえ自己流の坐禅や瞑想に基づく理解であっても、その概略は把握できる教えである。そこをホームグラウンドと考えて、だいたいのところがわかったら、次のステップに進むべきである。

唯識思想

 坐禅や瞑想をベースにした仏教をやっているといきおい内省的になり、どうしても気になってくるのが自分の心の働きである。瞑想していると、どうにも手の付けようのない自分の心に出会ってしまう。その場合、やはり心を客観的に把握する道具があると便利だが、それは唯識仏教の中にある。唯識仏教は、世界は心は作り出したものにすぎないという唯心論をベースにしている。それは心の理論であると同時に、内的世界の理論でもある。

 唯識仏教もまた細部にこだわるとかなり複雑であり、かえって迷宮に入ってしまうかもしれない。私としては、無意識のなかに煩悩の種が蓄えられていることと、それが解消され転換することによって悟りと涅槃に到達するのだという大筋を押さえておけば、この段階での課題の最低限はクリアできるのではないかと思う。人間の無意識の心の深さ・広さ・大きさといったものを瞑想によって直観する態度を養えれば、唯識行の基礎はできたと言える。唯識行は、しばしば瑜伽行とも言われる。それは無意識の心を深く受け容れる瞑想行である。そのような瞑想行を通して、あらゆるものが心の現れであるという境地に達するのである。

 あらゆるものを心の働きに還元してしまおう、佛さえも心の働きに還元してしまおう。これは信仰的仏教からみると暴言のようにも見えるが、合理的な現代人の知性ともよくあう。また、さまざまな佛の働きに接する際に、これもまた心の最も崇高な働きのひとつなのだと理解することで、佛をへんに実体化しないで済む。この態度を持てるか持てないかで、じつは仏教の深みが現われやすくなるかどうかが決まってくる。佛を実体化すると、たいていはそれ以上先には進めなくなってしまうのである。

般若行

 世界を心の働きに還元するとか佛の実体化を避けるとか言っても、すでにあらゆるものが実体として我々の意識にやってきている。それは如何ともしがたい。そこで実体だと思い込む固定観念を溶解させてしまうのが般若思想(空の思想)である。

 あらゆるものは夢幻の如しというのが空の思想の核心であり、その思想を守るために難解な空の論理学が展開される。だから、空の論理学に深入りしてもあまり意味はない。学問的に研究するのでもないかぎり、それにこだわって悟りを得ようとするのはまさに空理空論である。

 むしろ、実体と思える世界への執着を捨てること、すなわちこちら側の思い入れの激しさを和らげることが、般若行の眼目である。よく般若の智慧と言われるが、それは無執着の境地に至った時に「ああ、バカな思いに囚われていたな」と過去の自分を理解する知的働きである。とにかく無執着の境地に達しなければ対象が夢幻であることに気づけない。その意味では、般若行は無執着を徹底させる行であり、智のイメージとは正反対に小賢しい知恵を停止してしまう行なのである。

 ここに至るためには、当然のことながら瞑想が必要である。あらゆることへのこだわりを捨てていく意識状態は、瞑想によってこそ形成される。そして、過去の自分を、間違った心の働きとして理解するためには、当然唯識仏教的な知識が必要となるだろう。般若と唯識は、車の両輪のようなものである。そして、それらを結ぶ車軸は、当然のことながら瞑想行・瑜伽行である。

如来蔵仏教

 さて、般若行によって凡夫の迷いの世界が徐々に消滅していくと、その代わりに現われてくるのは真如の世界である。そして、その真如の世界が内心にあるというのが如来蔵仏教である。その核心は「自性清浄 客塵煩悩」と言い表される。

 心の深いところからやって来る真如を「如来」と呼ぶのだが、それが心の内側であることを認識しない者は外に佛を求める。また、凡夫は自分の小さな心の世界だけが内側だと思い、心の深層を内側だとは認識し得ないので、如来は実際に外からやって来るようにも見える。しかし、それが内側からやって来る真如のひとつの現われ、真如からのメッセージであることを認識するためには、やはり如来蔵仏教を学ぶ必要があろう。

 如来蔵仏教は、さまざまな喩えによって内心の清浄なることを教えてはいるものの、御利益を説いているわけではないので何の有り難みもないかもしれない。しかし、如来蔵仏教をきちんと学んでおくことで、真如と出会うまさにその瞬間において、佛のイメージを自己の内心にくくり付けるべきだろう。佛が内心であるならば、どうして他人に物乞いをするように仏像にお願いごとをするだろうか。佛がもっとも真実の姿でおのれの内心に現われるように常に心がけ、いかなる望みも抱かない時、かえって佛の宝を得るのである。

浄土教・法華経

 多くの日本人は、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」を唱えることが仏教であると思っている。あるいは阿弥陀如来像や釈迦如来像に手を合わせることが仏教だと思っている。そうやって常に仏教に心を結びつけていることも悪いことではない。しかし、私がこの高い境地に浄土仏教や法華仏教を位置づけたのは、それとはまったく違う文脈からである。むしろ称名念仏・お題目や仏像を超越したところの真如の現われとしての阿弥陀如来や釈迦牟尼如来を提起するためである。

 阿弥陀如来は生命や智慧の光を表わす佛である。阿弥陀如来が西方浄土からやって来るように見えて、じつは内面からやって来るのだということに、まず気づかなければならない。極楽世界も内面の奥深くにある。極楽浄土に往生するとは、内面の奥深くに生まれることを意味するのである。それを可能にするために、これまで段階的に述べてきた修行がある。念仏を唱えるだけでその境地まで至る人もいるのかもしれないが、たいていの人は日常の表層世界にうろうろしていると思われる。

 法華経は、釈迦牟尼仏を歴史上のゴータマ・シッダッタとしてよりも、むしろその背後に存在する仏教的真理として見ている。それは人間ゴータマ・シッダッタが超人化していくドラマ仕立てになっているが、その現実離れした表現に惑わされてはならない。それはあくまでも真如を喩えたものなのである。喩えを介してどんな真如が語られているのか、それを認識する直観こそが法華行者に求められる最低条件であり、さらに言えば、その真理を得たら喩えのほうは捨ててしまうことができなければならない。そうでなければ法華経の文言にひっかかったままである。熟達した仏教者は、日常の世界と真如の世界を自由に行き来できる必要があり、法華経はその通用門のひとつにすぎないのである。

華厳経

 華厳経の世界は、この世とは思われない舞台設定のなかで教えが展開されていく。もはや心の深層にどっぷりと漬かってしまっているようなものである。表面的な意識で原始仏教の段階にひっかかっている人は、これを荒唐無稽と見なして一笑に付すかもしれない。しかし、これは心の深層にながれる聖なる世界をそのまま表現しようとしたものである。深い瞑想の世界をできるだけ伝えようとすると、このような現実離れした表現になってしまう。だから、これを理解していくためには同じような瞑想体験をもとにしなければならない。その体験の響き合いのなかで、華厳経が伝えようとしているものが現われてくる。

 私はこれを「心の禊ぎ」と表現してみたい。毘盧遮那如来の光に照らされつつ、深い瞑想意識の流れのなかで自分の心をゆっくり洗っていく作業である。それは自らケガレを落とそうという努力をせずに、自然に任せた修行である。心の最も深いところにあるケガレは、自然に剥がれ落ちていくまで待つしかないのである。だから華厳経は、ただその世界を受け容れるという形でしか学びとることができない。

密教

 密教は、以上すべての仏教を統合したものである。それ以前の大乗に対して金剛乗という。密教の特徴は、それらの真理を象徴化し、様式化・儀式化している点にある。ここまで読んできた読者は、真如がいかにさまざまな喩えになって佛の教えとして表現されているかに気づいていることだろう。密教はそのもう一つのバージョンなのである。

 密教のほうが他の大乗仏教の教えよりもすんなりとその境地に達することができるかもしれない。かなり行を積んだ人にとっては、長い経典を読むよりも要点だけ抜き書きにしておいて、それがしばしば確認できればそれだけで十分である。たとえば「南無阿弥陀仏」は、その最も端的でポピュラーなものの一つだろう。その効力は、阿弥陀仏をどれだけ深く本質認識しているか、そして南無という帰依の態度をどれだけ速やかにとれるかで決まってくる。あらゆる真言(マントラ)は、佛の本質的働きを速やかに思い出して受け容れる備忘録のようなものである。そして、マントラ集とでも言える密教儀式は、そのような要領書きの集積であるとも言えよう。

 密教は、あらゆる仏教の本質を象徴化してそれにアクセスしやすくしている。ちょうど仏教という巨大な書物のインデックス(巻末索引)のようなものである。その本を読んだ人にとっては、インデックスは非常に便利である。すぐに必要な場所に飛んでいける。しかし、まだ本を読んでいない人は、それまでの知識によってしかインデックスの項目に注意を払えないし、結局はその項目から本文を参照して内容をよく理解しなければならない。密教も同様で、すでに仏教を深く学んでいなければ密教はそれほど役に立つものではない。密教教義は深層の心のインデックスである。それは一度心の中を読んだ人にとってだけ意味がある。すでに一度は読んでいるからこそインデックス項目と本文が、すなわち象徴的儀式と佛の本質が速やかに呼応するのである。

 しかし、仏教の歴史が示しているように、頂点は転落への第一歩でもある。すべての佛を曼荼羅のなかに集めても、その深層に目を向けずに画像のほうに目を向けてしまえば、ただの偶像崇拝に転落するだろう。真言もまた真如と結びつかなければただの呪文に堕する。瞑想修行を特定の所作体系に構築していっても、その意味が忘れられて完全に儀式化してしまえば、ただのパフォーマンスに落ちぶれる。あらゆるものを受け容れても心を浄める修行を怠れば、あらゆる穢れが積み上げられていく結果になる。私がここに提起してきたような修行段階を確実に踏んでこなかった密教行者は、その修行レベルに応じて必ず堕落していく。金剛の乗り物に乗って最高の境地に達したと思って有頂天になっても、それはあたかも親に抱かれて高みに達した幼児のようなものであり、自らの達成と思うのは単なるのぼせ上がりである。これまでさまざまな行をしてきたから密教の修行は要らない、と言えるくらいでなければ、じつは密教儀礼に足をひっぱられることにもなりかねない。



 仏教世界は広大であり、なかなかそのすべてを把握できる人はいない。たいていは自分の関わっている教団の周辺だけをうろうろする程度で終わるか、まだそのような仏縁のない人は、どこから始めていいものやらその広さに途方に暮れるだけだろう。私のこの解説が少しでも役に立てば幸いである。


〔2006年 3月 8日〕









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