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 Φ 金剛居士の法話 Ψ
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〔 衆生について 〕


 衆生しゅじょう(sattva)は、たとえば「菩提薩埵(bodhisattva;略称して「菩薩」)」や「衆生済度」や「一切衆生悉有仏性」などに代表されるように、大乗仏教においてはきわめて重要な概念である。そして、一般の仏教徒は自分そっちのけで他者を救うことにこそ仏教の救いがあるのだと信じて活動してきている。あるいは、自らを救われるべき衆生と見なして、自分では瞑想などの修行せずにもっぱら仏や菩薩に救ってもらうことが仏教だと信じている。だが、このように「衆生」を他人や生物一般と見なすのみでは、大乗仏教の真の意味と有効性が見えてこない。そこで今回は、「衆生」が意味するものを提示し、大乗仏教に対するものの見方を大転換させる端緒としたい。

 衆生(sattva)は、「おおくの生きもの」を意味する。それゆえ衆生を肉体的存在として捉えようとする人々も多いだろうが、その場合でも、衆生とはこころが捉えた自己イメージとしての肉体的存在を意味するだろう。肉体的存在としての人間は必ず死ぬのだから、それを救うことは不可能である。仏教が救おうとする対象は、あくまでもこころである。衆生は有情とも訳されるように、とくに「情有るもの」を意味している。植物のような単なる生命体ではないからこそ衆生は苦しみ、救いを求めるのであり、また、菩薩がそれを救おうとするのである。衆生は「こころの働き」を意味するが、知よりは情な側面に比重がかかっているだろうことは容易に察しがつく。

 さて、一切衆生を救いとるまでは涅槃に入らないと誓願するのが菩薩である。それは永遠に仏陀にならないと宣言するのに等しい。なぜなら、この世から苦しむ人々がいなくなることは、世界が滅亡でもしないかぎりあり得ないからである。なのに既に多くの仏がいる。菩薩の行を終えて成道したゴータマ仏陀は、輪廻の苦しみのなかにある弟子たちを目の前にして説法しなかったか。救いに漏れた人々がいまだ多くいるなかで、なぜゴータマ仏陀は涅槃に入ってしまったのだろうか。いろいろと理由はつけられるのだろうが、どうやら「一切衆生」を外界に存在する一切の人間等と見なすのは不合理であるように思われる。

 私は、この「衆生」を外的なものというよりも内的なものと見なしている。すなわち、無意識も含めた自分のこころを意味すると考える。一般的には意識される自分のこころしか心とは見なされないが、抑圧されて無意識になったこころもまた心の一部なのである。そして、それが微妙に活動しはじめた時には、すなわち意識されかけた時には、自己の内側に見いだされるよりも外界に投影されることが多い。ということは、他人のなかに自分のこころを見いだすことがあるということである。そのとき、他者のなかに見いだされた苦しみは、自分のなかの忘れられた苦しみでもあり、他者の救われなさは、自らの救われなさでもあり、他者を救わんとする行為は、忘れられた自己の一部を救わんとする行為でもある。

 それどころか、世界全体が自分のこころを映し出している場合もある。たとえば自分の気分が、自分を取り囲む世界の雰囲気として感じられることは、多くの人々が経験しているはずの現象である。世界はそのような根本気分に色づけられており、そのなかで自らの抑圧された激しい感情を他者の姿で訴えかけてくるのである。『大智度論』(巻4;大正25 86上)では「薩埵(sattva)を、或いは衆生、或いは大心と名づく」と解説しているが、私としては「大心」を上記のような意味として捉えたい。通常意味されている胸の内にある「小さな心」に対する、世界に映し出される「大きな心」である。

 仏教で「衆生」「世間」「世界」などの言葉がでてきた場合には、外的対象としてではなく内的対象として捉え直すべきである。それをもっぱら外的対象として捉えようとする場合には、宗教は迷信とオカルティズムに堕していくからである。ところが逆に、もっぱら内的対象として捉えようとすると自己満足に終わる可能性が高い。にもかかわらず私が内的対象として捉え直すべきというのは、いちど知的に把握しておくほうが健全な理性を保ちやすく、仏教的迷信にも陥らないで済むからである。もちろん全く知的に捉えてしまったならば自己救済すら困難になる。なぜなら救済は体験だからである。そもそも外的対象と内的対象が交差する状況で宗教的現象が起こりうる。そしてその現象のなかで体験するのでなければ、宗教的な意味は理解されないだろう。






〔2005年9月8日〕












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