=「美也子」です。
=「ボビイ」だ。
A la Recherche du Temps Perdu (1913-27), Marcel Proust
今日ご紹介する「スワンの恋」は、『失われた時を求めて』のなかの1エピソードです。
『失われた時~』は長大な小説だが、「スワンの恋」は文庫本1冊に収まるくらいの長さだ。この部分だけ独立した話になっているので、いきなり読んでも楽しめるぞ。
舞台は19世紀後半のフランス。当時貴族やブルジョワたちは、夜な夜なサロンを開いて社交に励んでました。ここヴェルデュラン家でも、夫人が夜会を主催し、小さなグループで会話に花を咲かせています。
注意しておきたいのだが、ヴェルデュラン家は貴族ではない。ただのブルジョワだ。金はあってもステイタスはない。だから、夫人は貴族に対してやりきれない思いを抱いている。
ヴェルデュラン夫人はとてつもないスノッブなの。知識も教養もろくにないくせに、それらがあるように見せかけている。芸術なんて大して分からないくせに、分かっているようなふりをしているのね。彼女のサロンにはそういった小物がちらほらいて、失笑もののやりとりを繰り広げている。
まるで大学の文化系サークルだ。自意識過剰が全国から集まっている。
それは偏見じゃないかしら? 少なくともわたしが知ってるサークルには当てはまらないけど……。
で、そんな魔窟にわれらがスワンが現れる。
スワンは裕福なユダヤ人。彼は本物の社交家といったところかしら。貴族の夜会にも出席し、セレブ世界で広く顔を知られている。その名声は、大統領官邸での昼食会に招かれるほど。
性格が穏当で、何よりスノッブでないところがポイントだ。絵画や文学といった芸術に造形が深いのに、それをひけらかそうとしない。芸術とはあくまで自分が楽しむものであって、他人に誇示するものではないということを弁えている。
こんな一流の人材が、ヴェルデュラン夫人のサロンに来たのだから事件よね。
うむ。田舎の草野球にメジャーリーガーが顔を出したようなものだ。
そのサロンでスワンは運命的な出会いを果たします。相手は高級娼婦のオデット。のちにスワンは彼女に惚れ込みますが、この時点ではまだ冷静です。
彼女はスワンの目に、なるほど美しくないわけではなかったが、どうでもよいうような種類の美人、さっぱり彼の欲望をかき立てず、むしろ一種の肉体的嫌悪感すら起こさせる美人に見えた。(……) 彼の好みと比べて、オデットの横顔ははっきりしすぎていたし、肌は弱々しすぎたし、頬骨はでっぱりすぎ、顔立ち全体がやつれているように見えた。目は美しかったが、非常に大きくてみずからの重みで撓んでおり、顔のほかの部分はこの目のために鬱陶しく疲れて、いつも具合の悪そうな、あるいは機嫌の悪そうな様子をしていた。 (33)
語り手の独断とはいえ、随分と辛辣だ。
もともとスワンはプレイボーイで、女性経験は豊富なの。オデットには好感をおぼえるものの、基本的に彼の趣味ではないってわけね。
それなのにぞっこん入れ込むようになるのだから、恋愛っていうのは分からないよな。
話をしているうちに相手を可愛いと思うようになったのね。そして、恋をしてからは景色が一変する。若い頃のように溌剌とした気分になる。
独身とはいえ、スワンは迷いの醒めた年齢だ。当初は自分の感情を冷静に把握し、恋というイベントを楽しんでいた。
それが段々と制御が利かなくなってくる。狂おしい思いに身もだえするようになる。
嫉妬という魔物が現れるわけだな。
ええ。太古から人々を悩ませてきたあのバケモノ(拳を握る)。
スワンとオデットはヴェルデュラン夫人のサロンで親しくなっていったのだが、そこへ伯爵が顔を出すことに。オデットが彼を招待したのだ。
名前はこの際どうでもいいわね。スノッブのうえに如才のない伯爵は、ヴェルデュラン夫人からたちまち気に入られるようになる。そして、サロンでは彼とオデットが急接近。それを見たスワンは苦悩することになる。
いきなりのライバル出現だからびっくりだよな。
スワンとオデットは既に肉体関係を結んでいたけれども、正式に付き合っているわけではないのね。まあ、そもそもこの時代に「付き合う」という概念があったかどうかも怪しいけど。
おまけにオデットは高級娼婦だ。スワンのことを顧客の一人くらいにしか見てなかったのかもしれん。
嫉妬にかられたスワンは分別をなくしていきます。夜中にオデットの家に忍ぼうとしたり、オデットから託された手紙を透かし読みしたり……。
そして、スワンにさらなる追い打ちが。何とサロンから締め出されてしまった。
スワンはヴェルデュラン夫人に嫌われちゃったのよね。彼女にゴマをすらないから。そのうえ、夫人はスワンとオデットの仲を裂こうとしている。
まさに陰湿怪獣ハラグロオバサンだ(拳を握る)。
思わぬ障害に遭ったスワンは、オデットの言動に振り回されます。
愛憎入り混じる苦悩の日々。この辺は痛々しくて正視に堪えんな。うだうだとした観念がうじうじと続いていく。
恋する者の愚かさ全開って感じだよね。オデット本人ではなく、自分が作り出した幻影に苦しんでいる。
しかし、悩み抜いた果てに新境地が待っていた。
ええ。これは意外なんだけど、ついにスワンは魔物から解放されます。嫉妬というあの魔物から。
狂犬病から回復した犬のように、奴は正気を取り戻したってわけだ。
「まったく俺ときては、大切な人生の数年を無駄にしちまった、死のうとさえ思い、あんな女を相手に一番大きな恋愛をしてしまった。俺の気に入らない女、俺の趣味(ジャンル)でない女だというのに!」 (417)
はあ。恋というのはいつかは冷めるのね。残念だけど。
一時の精神錯乱だな。
嫉妬は愛を増幅させる。でも、無尽蔵の燃料ではないということで。
( 2010.11.19 )