後水尾天皇 ごみずのお
1596〜1680
第百八代・御名は政仁(コレヒト)という。
後陽成天皇の第三皇子、御母は中和門院・藤原前子
/時代/
後水尾天皇は、在位18年8ヶ月、この間は慶長・元和・寛永と江戸幕府初期の徳川秀忠・家光将軍の時代にあたっていた。
/幕府の介入への呼び水/
後陽成天皇は、豊臣秀吉と親近し、その死後まもなく、病気を理由に、皇帝八条宮・智仁(ヨシヒト)親王(のち桂宮)に譲位して退隠する意向を徳川家康にはかったが、家康の反対で沙汰止みになったという事情がある。皇位継承について徳川家康の意向を質ねるというこの前例が、その後幕府の皇室への干渉を促す呼び水となる。
慶長14年(1609)宮廷女官と猪熊侍従・教利(ノリトシ)ら公達との密通事件が起こり、天皇自ら処分すればよかったことを、女院や女御が家康に下駄を預けるような介入を許したため、家康は関係者に死刑や遠島処分を下した。
後陽成天皇は、こうした自らの手抜かりもあって次第に幕府が朝廷の中に入り込んでくることを憤り、慶長16(1611)年、引退の意思を駿府に伝えて譲位してしまうのである。
/徳川秀忠の女和子の入内/
幕府の朝廷介入は、若き後水尾天皇の時代に入っていっそう露骨になってくる。徳川秀忠の女和子(マサコ)の入内が決定するのである。
藤原道長や平清盛が、自分の娘を入内させて外戚として権勢発揮の手段としたように、公家といわず、皇室と婚戚関係をもつことは、権力者の常套手段であった。家康も孫娘を入内させることによって、朝廷の内部に幕権のくさびを打ち込もうとしたのである。
慶長19(1614)年和子入内が決定したが、大坂の陣や家康の死によって沙汰止みとなり、元和4(1618)年になって具体化した。
しかし翌元和5(1619)年、後水尾天皇の典侍・蒔原興津子が、皇女梅宮を生んだことが明らかになり、また宮中の風紀の乱れも明らかになって、秀忠は万里小路充房ら6人の公家衆に配流などの処分を下した。
後水尾天皇は秀忠の処分を怒り、譲位しようとしたが、京都所司代・板倉勝重や藤堂高虎の懐柔によって思いとどまり、将軍家も天皇の不満を和らげる為に、和子入内を推進することになった。
元和6(1620)年6月18日和子入内、後水尾天皇25歳、和子14歳であった。
和子の入内によって、禁裏御料地も増加し、持参金も膨大なものがあったが、それは天皇の自由にはならず、女御和子の御付武家によって、将軍家の意向に沿うように動かされていったのである。
/和子入内とその影響/
和子の入内は、幕府の眼を朝廷の内部に光らせ、朝廷の監視所を朝廷内に設けることでもあった。加えて京都所司代は、外部からの朝廷の動きを監視し、大名の参勤交代にも京都市中を通過させず、伏見を通過させて、ここにも伏見奉行を置くという徹底した政治圏疎外化策をとったのである。
和子入内は、禁中並公家諸法度などの発布で緊張していた朝幕間の関係を和らげると供に、徳川家が朝廷の外戚となることで、朝廷・公家に対する干渉力を強めようとする狙いであったが、いずれにしても、将軍の娘が天皇に嫁ぐなど、源頼朝の開幕以来かつて無かった前代未聞の事である。
/禁中並公家諸法度/
こうした宮廷公家統制策を法制化したのが、元和元(1615)年7月17日、大阪城滅亡後に「武家諸法度」に続き制定された、「禁中並公家諸法度」である。
朝廷や公家を法制によって縛るのは、既に豊臣秀吉に先例があり、江戸幕府も慶長18(1613)年「諸公家法式」五ヶ条によって先例を持っていたが、「禁中並公家諸法度」十七ヶ条は、それらを一層徹底させたものだったのである。
/禁中並公家諸法度の内容/
第一条、天子芸能の事は、学問と和歌の嗜みが大切であると謳っている。これは、、先例となった二つの法制でも、学問勤行を油断してはならない、と学問にいそしむことを義務付けているが、政治権力と結びつきやすい朝廷や公家の精力のはけ口を、学問や和歌の世界に封じ込めることによって、権力の無害化を謀ったといえる。
第七条、武家の官位は公家の定員外であると決めている。このことにより従来朝廷の専権であった官位授与の大権が、幕府の左右するところとなっていった。
第八条、元号制定も朝廷の大権であったものが、幕府の意向で決するように定められた。
第十一条、朝臣の処分権を幕府が左右しうることが明記され、この他僧官・僧位・紫衣(シエ)・上人号の栄典授与権も、幕府が干渉し得る権限が設けられたのである。
/紫衣事件/
(宗教界の統制強化)
事件の発端は、寛永4(1627)年に、京都所司代・板倉重宗、老職・土井利勝、宗教行政担当の金地院崇伝らが出した「大徳寺・妙心寺への法度」である。
この法度は、元和元(1615)年の禁中並公家諸法度に定められた僧侶の出世(僧侶が仏法の修学・研鑽を積み重ねて、やがて住職となって弟子を養成すること)に関する規定が守られておらず、紫衣や上人号の勅許がみだりに行なわれているとして、元和以降の勅許の取り消しを命じたものである。
紫衣とは、禅宗の大寺院の住職に対して天皇が与える紫の法衣で、その勅許料は朝廷の財源のひとつであった。
幕府は、慶長18(1613)年に、紫衣法度を発布し、紫衣が許される大徳寺や妙心寺などの住職なるには天皇の勅許以前に将軍の許可を得ることを義務づけた。
更に二年後、紫衣法度が遵守されていないと見た幕府は、禁中並公家諸法度の第一六・十七条で、朝廷が紫衣や上人号の勅許を乱発していることを戒めた。同時に、諸宗の本寺に対しても法度を出し、僧侶の出世・修行・上人号・着衣等についても細かい規則を設けた。
(勅許の取消)
板倉重宗らが出した寛永4(1627)年の大徳寺・妙心寺への法度は、禁中並公家諸法度が発布された元和元(1615)年に遡って、後水尾天皇が発した勅令を無効にするという厳しい措置であった。
朝廷では、一度出された綸旨(リンジ-天皇の命令書)を幕府の抗議で撤回はできぬと主張したが、幕府はそれを認めず、紫衣剥奪が強行された。
(屈辱の天皇)
後水尾天皇にとってはこれほどの屈辱はなく、「口宣(クゼン-勅書)一度に七、八十枚も破れ申し候。主上この上の御恥これあるべきや。」と、朝廷の消息に通じた豊前・小倉(北九州市小倉北区)藩主細川忠興(タダオキ)は、怒り心頭に達した天皇の様子を伝えている。
(沢庵幕府に抗議)
翌寛永5(1628)年、大徳寺の沢庵宗彭(タクアン・ソウホウ)や玉室宗珀(ギョクシツ・ソウハク)ら、及び妙心寺の東源慧等(トウゲン・エトウ)らは、幕府の法度の内容が現実的でないとして、この措置に対する激しい批判を展開した。
諸宗派に対する法度はいずれも厳しい内容であったが、中でも大徳寺・妙心寺への法度は、遵守するのが難しい内容のものであった。例えば、両寺の住職になるには、30年の修行を必要とすることが定められていた。
沢庵らは、僧侶の修行・出世に対する法度の規定が、仏教における「悟り」を、いわば数量化して推し量ろうとする不条理をもっており、厳格に規定に従えば75歳以上の長寿でもなければ弟子を育て、宗派を存続させることはできないと批判し、その旨の意見書を幕府に提出した。
(沢庵配流)
沢庵らの指摘は、実に現実的であり、「理」に適ったものであった。しかし、法度を合理的に整備することより、法度の遵守を求める幕府は、彼らの批判を将軍の権威を犯すものとして寛永6年7月、沢庵らを流罪に処したのである。
板倉重宗とて不合理な面があることは承知であったろうが、法の権威確立の為に、厳格な態度でもって朝廷や寺院に臨んだのである。
/京都での和子/
(京都所司代板倉重宗)
京都所司代は、後に老中(老職)の一階下の役職になるが、当時は朝廷との関係が安定しておらず、あるいは、西国外様大名の押さえもあって、老職と並ぶ地位にあった。老年の為に辞職を願い出た板倉勝重(重宗の父)の代わりが長い間見つからなかったほど、難しい重職である。
勝重の子、重宗が京都所司代に就任した翌年(元和6年)の6月に将軍秀忠の娘和子が後水尾天皇に入内した。
この新儀に先立って、秀忠が股肱(ココウ)の重臣重宗を京都所司代に据えたのは、幕府の朝廷対策が新たな段階に入ったことを示唆していた。
(壮大な婚礼)
70万石と言われる巨費を投じた婚儀は、豪華かつ盛大なもので、大理職に準じた重宗は、入内行列の中を前後の間を隔てて唯一騎、威風堂々と進んだという。
大理職とは、京中の検察庁・警察庁長官といった官職だが、その実は和子の警護・擁護役であった。
(幕府の目論見)
更に秀忠は、女御殿の警護と称して、腹心の天野豊前守以下、与力・同心多数を宮中に送り込み常駐させることに成功した。
重宗はこの勢力を背景として、和子の警護役を果たすと同時に、幕府の意思を朝廷・公家社会に浸透させ彼らをがんじがらめにしていったのである。
和子は元和9年に女一宮興子内親王(ニョイチノミヤ・オキコ)を生み、翌寛永元年には中宮となって、秀忠の孫を天皇に据えようとする幕府の目論見は次第に現実味を帯びたものとなっていった。
和子は女一宮の後も、二皇子・四皇女を設けている。
(悲哀の天皇)
一説には、後水尾天皇は幕府に対抗するために、武家の血の混じらない皇位継承者を作ろうとして、何人もの女官の腹に子供を宿したが、尽く流産させられたという。これは、和子の母で秀忠正室のお江与(エヨ)の差し金と言われるが、このひどい仕打ちに対する天皇側の反発さえ押さえ込む程に、重宗らの朝廷監視・監督は厳しかったのである。
(お福の謁見)
しかし、自分の子供を闇に葬られた上、紫江事件では勅許を無効にされた後水尾天皇の幕府への不満は極限に達していたはずである。そこに、寛永6(1629)年10月10日、三代将軍家光の乳母が天皇に謁見するという事件が起こった。
乳母の名は、斉藤福という。お福は大御所秀忠の内意をうけて、将軍家光の代参として伊勢神宮に詣でたついでに上京し、ご機嫌伺いと称して謁見を申し出たのである。無位無官の、朝廷から見れば武家の一召使にしか過ぎない者が謁見を許される訳はなかった。しかし、重宗の強引で有無を言わさぬ朝廷工作が見事に功を奏し、結局、お福は天皇から賜益(シハイ)を受けた上、春日局の号も与えられた。身分・格式にやかましい公家社会では考えられない、古今例を見ない屈辱的な事件であった。
謁見を申し出ると言うよりは、将軍家を後ろ盾にした圧力であった。やむなく三条西実条の猶妹(仮の妹)として参内が許され、中宮和子から局号を下賜されたのである。
(不満爆発)
11月8日、後水尾天皇は公家を召集した。幕府に対する激怒を公家達から買い、天皇の不満を爆発させることになった。天皇は独断で第一皇女興子親王に譲位を決行してしまう。明正(メイショウ)天皇である。
幕府の干渉を排除するために、それまで再三口にしていた譲位を、その都度思いとどまらせていた幕府ではあったが、今度は京都所司代の板倉重宗は言うに及ばず、中宮の和子にまで秘して突如実行したのである。重宗も秀忠も和子からの通報によって始めて知るという有様だった。
重宗の面目は丸つぶれにされたが、譲位することでしか幕府に抵抗できない、後水尾天皇にとっては、せめてもの鬱憤晴らしであった。
(幕府への屈服)
大御所秀忠は相当に腹を立てたらしいが、孫の興子への譲位であれば後水尾にこだわる必要も無く10ヶ月後の寛永7年9月12日に即位式が行なわれ、明正天皇が誕生する。平安以降、即ち称徳天皇の崩御以来女帝の即位は絶えてなかっただけに、幕府の驚きは相当なものがあった。実に859年ぶりの女帝であった。
こうして和子入内から明正天皇誕生までの間に、朝廷はその権威を削がれ、幕府に屈服させられたのである。
(King-makerならぬEmperor-maker)
その後、後水尾天皇は上皇として院政を行い、明正・後光明・後西・霊元の四代の天皇を自分の皇子女をもって皇位につけた。その間51年にわたる院政をおこなったのである。
慶安4(1651)年5月6日、出家して法名を円浄と号し、法皇となった。法皇となってからも、約30年の寿命を永らえ、延宝8(1860)年8月19日崩御した。84歳であった。後水尾の追号は、清和天皇の別称にちなむもので、第4皇子でありながら皇位につき、在位も18年余りという類似によることが理由であった。
京都左京区にある修学院離宮は、後水尾天皇の設計による大庭園で、上皇自らしばしば行幸した名園であり、文化史からも重要な位置付けを与えられている。
陵墓は月輪陵(京都市東山区今熊野)である。
事跡
年号 |
西暦 |
満年齢 |
事跡 |
慶長16年3月 |
1611 |
15 |
後陽成天皇の襌を受く。 |
慶長16年4月 |
1611 |
15 |
即位せらる。 |
寛永6年11月 |
1629 |
33 |
在位18年にして、位を皇女・明正天皇に譲る。 |
慶安4年5月 |
1651 |
55 |
薙髪して圓浄と號せらる。 |
和歌を好み、また活花を能くし、南庭に数間の仮屋を設け世に名あるものを召してその技を競わしめ給い世に"禁中の大立花"という。 院中に存りて、明正・後光明・後西・霊元4帝の政を聴き給うこと52年。 |
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延宝8年8月19日 |
1680 |
84 |
崩御あり。 京都泉涌寺に葬る。 |