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松平乗邑 まつだいら のりむら(のりさと)

1686-1746

乗春の子

<吉宗思いの画策が裏目に

/人となり/

元禄14年(1701)3月14日殿中松の廊下で浅野長矩(ながのり)が脇差を振るって高家筆頭の吉良義央を斬りつけた。動揺して席を立つ譜代大名の中で、16歳の志摩国鳥羽藩主松平乗邑だけが座したまま、「こうしてわれわれ譜代衆がここに詰めているのは、非常の場合に備えてではござらぬのか。このようなときにこそ、速やかに行動できるように座について支持を待つべきでありましょう。」とみなをたしなめた。歳に似合わぬ冷静さと人を制するその器量に誰もが関心したという。

 

享保3年(1718)5月1日江戸に大火があった。火が築地方面に広がった時、乗邑は御浜御殿(現・浜離宮)が類焼しそうだと判断、自ら家臣を率いて防火にあたった。それを聞いた八代将軍吉宗はいたく感心して乗邑の機転を褒めたという。

 

/老中への道/

 乗邑は、大給松平の家系で肥前唐津6万石城主松平乗春の長男としてうまれた。

5歳で遺領を継いだ後、志摩国鳥羽城主・伊勢亀山城主・山城淀城主を歴任し、享保7年(1722)に大坂城大、翌8年4月に老中に任命され、佐倉6万石を与えられた。

九州唐津から江戸へ向かって度々転封したのは、順調な出世コースといえるが、なかでも大坂城代以外の役職経験がなく、それも僅か半年あまりで老中に任じられたのは異例ともいえる出世であった。

 

/老中 松平乗邑/

主に諸行事・儀礼面を担当した。

享保13年4月、吉宗が第4代家綱以来久しく日光社参を65年ぶりにおこなった時には、前年からその準備にあたり、また、吉宗の子家重、宗武、宗尹(むねただ)三兄弟のそれぞれの婚礼を司った。

享保15年に勝手掛老中水野忠之が罷免されると、次第に門閥譜代の中心人物として頭角を現し、元文2年(1737)勝手掛老中に就任し、享保の改革の後半を主導することとなった。

 

/乗邑の政策/

吉宗は洋学の中の農業生産に役立つ天文・暦学術に関心を持ち、神田佐久間町にはじめて天文観測所を設置し、天体観測用の望遠鏡を作った。また、自らも江戸城の庭で雨量測定を行ったが、この観測・測定などによって、寛保(かんぽう)2年(1742年)に関東甲信越地方を襲った大洪水を予測し、あらかじめ準備していた災害対策によって手際のよい復旧をなしとげた。

こうした努力と前老中水野忠邦の奮闘があって米の収穫料は増大し、幕府財政も好転した。

しかしなんといっても「米価安諸色高」現象と、それが生み出す財政収入の不安定が存在した。享保18年に突然米価が高騰したことがあったが、これは前年西国全域を襲った未曾有の蝗害(こうがい-イナゴが稲などを食う農害)が原因だった。この蝗害は199万人余りといわれる被害者を生み出す大飢饉となり、米は不足した上、商人の買占めもあって一時的に米価が急騰したのである。

勝手掛老中乗邑の課題も「米価安諸色高」対策と財政安定化にあったが、乗邑がとった政策は結局のところ、年貢の引き上げによる年貢増徴策であった。

享保7年から同16年までの10年間で米3万5000石と金35万4000両、更に次の10年で米7万5000石と金約96万両の黒字が計上された。

乗邑は、町奉行大岡忠相(ただすけ)が「その才知は舌を巻くばかり」と評したほどの手腕を発揮して、厳格果断な改革を要求する吉宗を充分満足させる結果を出したといえる。

こうした功績を認められて延享2年(1745年)3月には1万石が加増されている。

 

/乗邑らの政策と世相/

乗邑らの強引な増徴策は財政収入を増やしたものの、百姓らの不満を募らせてしまった。いわば幕府は財政再建と引き換えに、幕府への不信感を醸成し、社会全体そのものに大きなヒビを入れたともいえる。

水野忠邦から受け継いだ享保の改革に対する不満はすでにいたるところで噴出していた。農民は生活に余裕がなく、些細なことでも幕府へ訴訟を持ち込み、互いに利益を争った。

町人達も金銭の貸借関係の訴訟を起こし、また貨幣経済の進展によって複雑な詐欺・横領などの経済犯罪が急増し、訴訟の激増に幕府の司法機構はついに破綻した。

すでに享保4年には金銭の訴訟は受け付けないという「相対済まし令」までだしたほどだった。

 

/公事方御定書の編纂/

このため吉宗は法典を精力的に行い、元文2年からは、乗邑が「公事方御定書」の編纂主任となって、三奉行とともに法令・判例の整理に取り組み、寛保2年に上下2巻の法典として完成させた。

「公事方御定書」はそれまで慣習的に行われていた刑事訴訟法、刑事執行法、民事訴訟法、民事執行法を整理して成分化したもので、複雑で件数の増えた訴訟に対応するため、司法行政の効率化・合理化をはかったものである。

 

/晩年の乗邑と享保の改革/

享保の改革は、幕府から見れば一時的な成功を収めた。しかしその代償として吉宗は、様々な分野、階層に噴出し始めた不平、不満に対処せざるを得なくなった。

農民や町民だけならまだしも、厳格過ぎる緊縮策は幕臣や大奥の不興を買い、延享2年(1745)9月、吉宗は足掛30年に渡る将軍職を嫡男 家重に譲位して、人心の刷新をはかったのである。

 

乗邑は延享3年10月、大御所となった吉宗から突然罷免を言い渡され、江戸城西ノ丸にあった屋敷を即日立ち退くことと、3月に加増されたばかりの1万石の没収が命ぜられた。理由ははっきりしないが、、改革政治に対する不評や不満を乗邑が追わされたというのが通説である。乗邑は延享3年4月61歳で死去した。

 

/余禄 雨乞いする元老中/

延享2年9月25日、家重は本丸に移り、吉宗は西の丸に引退した。吉宗のお使いとして慶賀の品を携えて本丸の家重の元に挨拶に出向いたのは、乗邑であった。

10月9日、乗邑は何の前触れもなく老中を罷免され、出仕をとどめられた。

10月10日、この歳に加増があった1万石を召し上げられる。また、即日、西の丸下の邸宅を没収され、蟄居を命ぜられるという厳しい達しがくだった。

即日にして邸宅を引き下がらねばならなかった乗邑は、別邸さえ持ち合わせていなかった。そのため行くところのなくなった乗邑は縁戚の邸宅をかりて雨梅雨をしのいだという。

世間はそれを知ると「いつまでも老中でいられると思い、家を造ることもしなかったのだろう」嘲笑した。ひとり吉宗だけは、「左近(乗邑)幕閣にあること20余年、国家のために尽くし、私を営まず、さてこそ名臣であると激賞したという。

 

<略歴>

年号

西暦

満年齢

事跡

元禄3年9月

1690

4

家を継いで肥前唐津城に治す。

元禄4年2月

1691

5

志摩鳥羽城に移る。

元禄12年12月

1699

13

従五位下和泉守に叙任し、のち左近将監と改める。

宝永7年正月

1710

24

伊勢亀山城に転ず。

享保2年12

1717

31

月山城淀城に徒る。

享保8年4月

1723

37

老中となる。

享保8年5月

1723

37

下総佐倉城を賜う。

享保8年12月

1723

37

従四位下に進む。

享保9年12月

1724

38

侍従に任ぜらる。

元文5年5月

1740

54

刑律修定の総奉行を命ぜられ、

寛保2年3月

1742

56

なる(御定書百ヶ条という)。

 

 

 

将軍徳川吉宗の信任頗る厚く、権勢はなはだ盛んだったが、漸く専横の振る舞いも多かった。

延享2年3月

1745

59

一万石の加増があった後、徳川家重が将軍になったときに加恩の所領を削り、老中の職を免じて隠居を命じられる。

延享3年4月16日

1746

60

卒す。