高齋正さんのエッセイ 54


パリ〜北京 1907

      2007年1月


 2007年の100周年のひとつが『パリ〜北京』レイドである。これは1907年に開催され、50周年を記念して、1957年に開催しようとしたが、開催できなかった。そして、フランスのルネ・メッジが中心になって、日本の三菱商事が開催のための子会社を設立し、イベントの冠スポンサーとしてNECが参加して、『パリ〜モスクワ〜北京』として、1991年に開催しようとした。しかし、開催の直前になって、モスクワのクーデターが起こり、開催はドタキャンとなった。翌1992年に開催され、これには日本車・日本チームもたくさん参加した。報道は、NHKが衛星TV放送で、現場から毎日の映像を放映した。

 しかし、このTV番組は、現場の映像を伝えるだけのものであり、歴史的なことにほとんど触れていなかった。「1907年の“北京〜パリ”の復活イベントですよ。1907年にはイタラというクルマに乗ったボルゲーゼが優勝しました」と言うだけであった。そして、フィアットから提供されたボルゲーゼの写真を主催者が広報資料として配布しただけに終わった。

 1907年の『北京〜パリ』がどんなルートを走ったのか、地図1枚として示すことが出来なかった。

 2006年の暮れに発行された『大陸横断ラリー in 1907』という本は、優勝したボルゲーゼのイタラに同乗したジャーナリストが書いたもので、その英語版は持っているが、表2にボルゲーゼの走行ルートが地図で示されている。日本語版にもこの地図がある。

こういう本が、自動車関連の専門出版社ではないところから出版されたことは、自動車専門出版社の活動が衰えていることを示している。

 1990年代の『パリ〜モスクワ〜北京』の時に、主催者は「フランスの新聞が“この夏に北京からパリまで自動車で走りませんか”という社告を載せた」という広報資料を配布した。これは、内容が誤りである。主催者がそういう広報資料を出すのだから、史実であると思いこむ人が多いが、パリの新聞に載った文は「パリから北京まで自動車で走りませんか」というものであった。

 初期のレースはロード・レースという形態をとっており、パリを起点とするレースが多く、他の都市をゴールとするか、あるいはそこで折り返してパリをゴールとするか、いずれかのルートをとっていた。新聞はその伝統に則って、『パリ〜北京』で社告を出した。

 途中でルートを逆方向にして、『北京〜パリ』というイベントになった。

 主催者が“作文”をして、史実を歪めてしまい、その広報資料を参照して、これから書く人がいるかもしれない。ご注意!

 この新聞の社告は、なかなか情熱のこもった文であり、2007年1月13日(土)になると思うが、『日刊自動車新聞』に紹介した。そこに、ボルゲーゼとは別の地図を示した。


高齋 正

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