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京都を旅するする中でたくさんの人たちにお話をお聞きできた。
その一言一言が今までの私の考え方を変え,いかに狭い知識の中
で生きてきたかを痛感しました。京都では神社や寺院関係者は
勿論,伝統を伝説にしないための努力をされている方々にもお会
いでき、教えていただきました。
新しく接した知らない歴史の世界、とてもよい経験になった。
”古きを訪ねて新しきを知る”まさにそのとおり、この年になる
までいかに知らないことの多さに反省するともに感動する楽しさ
を味わえた。 以来 私は京都の旅に嵌った!

京都の良さは裏通り
大きな通りを一歩入ると小路といわれる通りがあり、更に入ると裏通りがある。
そこには現実の生活がある。そして昔からの信仰であるお地蔵さん・石仏・お稲荷さん、
ねずみ返しや篠すだれ、古い長屋の続く路地である。きれいに掃除された家の前には花が植
えられていて、東京の下町に似た感じがあり、小さな和菓子屋さんを見つけたりすると、ひ
とついただきたくなるから不思議だ。
一歩入らないと京都は解らない歴史・こだわり・職人・芸術・老舗…・多くのものが一歩
入り込まないと、何故か拒む感じがする。
観光の私には特に感じられることが多い。しかし一度理解しあうと急に打ち解けるから不思
議である。
お付き合いすると情のある方にたくさんお会いできた。歴史を感じられる事柄に関わる事に
ついては特に感じられた。

参拝・見学料金はちょっと高い
京都に来たらお賽銭が大変だときいてはいたが実感した。
拝観料を払う上に、別に賽銭箱
が置いてある。保存には金が掛かるものだと解ってはいるものの、小銭がどんどん減る。お
賽銭は、始めは100円だったのがいつか10円単位になる。御利益があればよいのだが今のと
ころはなさそうで、健康であるのが唯一の御利益と思うこととした。しかし歴史保存に懸け
る京都の方々は、それなりにプライドを持たれることがよく理解できた。
あらためて見つめ直すと、その文化や歴史遺産の継承にかける思いが伝わってくる。良く整
備された環境作りがこの激しい世の中の変化の中で、かたくなにこだわる所がすばらしく感
動的に思えた。

豆腐はさすがうまい 
豆腐料理は幾度か食したが、確かにおいしい。それぞれの味を持っている。でも多少値段が
高いよ。嵐山・八坂・南禅寺・岡崎…
京都にはどこへ行っても豆腐料理店がある。 たかが
豆腐であるがされど豆腐である。高級値段の店も多い。普通でもコース膳で3000〜
5000円はする。どこもうまいので
後はやはりその食する環境が勝負のようだ。観光の
千円くらいの店はやめた方が良いと経験した。しかしその中でも北野の藤野の昼豆御膳は、
1800円のミニフルコースではあるがなかなか良かった。街中の専門店のこだわりも経験
できた。観光ガイド書にある店を探し出して訪ねて行き購入し味わうのもまた楽しい。北野
で高給丹波の黒豆豆腐を奮発して購入し、豆腐大好きの親戚へ送ったが、不評であり 普通
の京豆腐の方が喜ばれたのは、慣れた味の方が食べやすいこともあるということか。
好評
であったのが
でかい油揚げであった。これは確かにうまい関東では見たこともない大きさ
であった。
しかし豆腐料理の基本は京都の水にあるという事は間違いない。
こだわる店は地下水にこだわる。

水の質 
関東と異なる軟水である事が大きく起因すると聞いた。関東の硬水は京料理の基本である鰹
だし・昆布だしが出せない理由により、醤油がベースとなるとも聞いた。
現在の京都市は
100万人以上の住むところである。きれいな水の確保は難しいと聞くが、まだ残る井戸も
所々に大切に残されている。御所近くの梨木神社の染井(そめのい)といわれる井戸の水が
有名でもある。
また京都公園は御所一帯が玉砂利の敷地となっていて雨水を吸収してコンクリートの街となった
京都の水瓶的存在になっていると聞いて納得。一般は水道で資源は琵琶湖より
引いている。(琵琶湖疎水)

おしんこは甘口 
全体に甘口に感じる。
話によると、関東とは考え方が違う作り方なのだそうだ。関東以北は
保存食としておしんこを作るが、京都は野菜のひとつの味わい方としておしんこを作ると言
う。
だから関東は塩を利かせて長持ちをさせるが、京都はうまみを加えた甘口になっている
という。
私は関東人だから塩のきいたおしんこの後を引くところが好きだ。

つけもの 
京漬物の代表は(すぐき漬)は上加茂特産のすぐき菜を、乳酸発酵技術を用いて生成したも
の。大きな桶にテコを応用して長い木と大石で漬け込む風景は洛北の風物詩である。同じく
京の名産の(千枚漬)は聖護院かぶらをカンナで薄く輪切りにして昆布、壬生菜と押漬けに
する。大原名物の(しば漬け)はなす・キュウリにミョウガなどを細かくきざんで漬け込ん
でいる。ほかに(菜の花漬け)・(雲母漬け)が名物としてある。
関東の保存用の漬物に
対して京都は野菜を味わう方法の一つとして生まれたという。

なぜ塩辛いものを食べると喉がかわくのだ?
体内の塩分の量はいつも一定にしています。塩辛いものを食べて体内の塩分が濃くなると、水を飲んで
薄めようという要求が」自然におこります。これはナメクジに食塩をかけると小さくなるのと同じ原理によっ
ています。私たちの体を作っている細胞はまわりの塩分が濃すぎると細胞の中の水分が脱け出て、縮ん
でしまいます。また、細胞の中の塩分が濃すぎるとまわりから水分が入ってきてふやけた状態になりま
す。縮んだ状態のときには水を、ふやけた状態の時には塩分を与えるともとの正常な状態に戻ります。
おそらくこのような細胞の変化が私たちに水を飲みたくさせたり塩辛いものを要求させたりしているのでし
ょう。

懐石料理 
茶席に出る軽い料理のことである。
懐石とは、昔
修行中の僧が空腹をまぎらわすために、
懐に温かい小石(温石)を入れたことから始まる。つまり、茶席の主人がへりくだって(多
くはありませんが温石を懐に入れるくらいの足しにはなるでしょう)といって出した料理が
(懐石)である。御茶うけも一種の(懐石)である。ただし(懐石)の基本は、一汁三菜
(汁、向付け、碗盛り、焼物)それに八寸(酒の肴)とされている。
亭主の客に対するこだ
わりのもてなしから始まる料理は茶の湯と同じこだわりの世界である。 たくさんの京懐石を
味わった訳ではないが、それぞれ出される料理には注釈・解説がされる。私の経験では関東
よりこだわりがいっそう強く観じたのも料理である。

京都の住宅に簾(すだれ) 
街中の家の2階に目立つ。情緒のある光景が随所に見られる。なんとも京都らしい感じがあ
りいい光景を醸し出している。しかし夏の時期は分かるが、一年中すだれが掛かるのは何か
理由があるにしても理解しにくい。家々の前にはねずみ返しがある。今は必要ないが、残す
かたくなさが好きだ。

和菓子屋がおおい 
さすが京都だ。
町中を散策しても和菓子を製造する家や小ぶりな店舗が良く目立つ。最近の
都会はケーキ屋が目立つが京都は和菓子だ。とても繊細な味が特徴という京菓子は
、見てき
れい そして食してうまい
二度楽しめるという。人通りの少ない小路や路地に入ると手作り
の和菓子屋さんがたくさん見る事ができる。

歴史上の人物に会える 
歴史上の人物達に、京都を巡るとたくさん会える。
私自身 日本史の中ではやはり戦国時代
といわれるあたりが好きであるが、また幕末という激動の維新の感動が生々しく残っている
都である。
平清盛・源義経
弁慶・足利尊氏・楠正成・織田信長・豊臣秀吉・秀頼・秀次・
明智光秀・徳川慶喜・慶昌院・坂本竜馬・桂小五郎・岩倉具視・近藤勇………等など、世の
中を動かした人物のゆかりの地がたくさん残っている。
弥次喜多の像も三条にある。

京都のこだわり 
友禅染め
京焼物 陶器 器 扇子 うちわ 和蝋燭 和菓子 京人形
京料理と食材の数々 観光で
の茶席 ……他にも数え切れない位、独特の商品群が、今もこだわりを持ち続け残る。多少で
も見学体験できたのが幸せであった。まだ出会えなかった物がたくさんあると聞くし、この
こだわりは何であるかを知るには時間がかかるし、とても理解するには私の能力では無理の
ようだ。

京友禅 
江戸初期の元禄年間、宮崎友禅斉によって発明された手法。友禅斉は尾形光琳の流れをくむ
絵師で、直接布地に絵柄を書き付けるとゆうもの。今は手書き友禅・型友禅と二つの技法が
ある。鴨川や桂川で染めた反物を洗う光景が風物詩となっていた。鴨川の水で洗うと美人に
なるといわれように、京の水は軟水で友禅染めに適していた。絵師などが多く住んでいたこ
とが京都の伝統産業を大きく支えた。

江戸の頃の都々逸に
(鴨川の 水がきれいと自慢をするな くやしきゃ紫
染めてみろ)とあ
るが、これは江戸の着物にこだわる人達が、京織物・友禅染めが優れていると評価して、高
額でもわざわざ京都へ注文していたことへの江戸っ子のくやしさの表現であったとされる。
なぜか玉川で染めた紫だけ対抗できる染め物と評価された為、都々逸で歌った。
江戸紫は有
名であるが他は負けてしまうところからの江戸っ子の悔しさの言い回しである。

とにかく神社・仏閣が多い 
京都は神社仏閣の多い所である。
現在
組合というものがあって参加しているところは、二
千を超えると聞いて驚いた。特に本山といわれる寺院が多い。
歴史の中心であり、信仰の中
心であった京都は精神面でもまだまだ廃れてはいないことを実感した。
仏教勢力
多少飛躍するが、天下統一を目指した織田信長の最大の敵は法曹界であったと聞いたことが
あったが、広大な土地や信仰の支配力を持つ神社・寺院の力はたいしたものであったろうと
思うし、この力を倒さなくては天下統一の障害となるとした信長の心境が多少理解できると
思えた。しかし常に政治と結びついた歴史の経過があることも事実だ。
神仏に対して触れる
ことができたが、その勢力の強さに驚いたのも事実である。明治維新のときにも先送りした
といわれる力だ。現在でも何故か無税なのが宗教団体であることも歴然とした事実である。

京の女性の厚化粧 
有名な女性の方はたくさんおられるが、古くは古式部内侍・袈裟御前・小督局、時代が下っ
て建礼門院さらに松虫・鈴虫の悲しい恋を連想する。しかし歴史上の女性の話はどれも皆美
しく悲しい。権力者や、母や恋人に対して、ただやさしく従順で己の意思も欲もなく、素直
で清浄な心の持ち主として描かれている。
平城京(奈良の都)の化粧について聞いたことが
あったが、多少異なる点がある。私の聞いた宮中での化粧はこうだった。そのころの建築物
の構造状況から室内は常に太陽光が届かない暗い環境であり、まして遠くの人の顔を見定め
るのが難しかったため、他人より目立つ為に白塗りの化粧をして自己のPRを目的としたのが
始まりと聞く。また今も残る公家の白塗り化粧で、男性がしていたと聞いていた。
しかし京女性は宮廷の女官の厚化粧に良く象徴されている。厚化粧はおしろいを三度塗りに
して女の素肌を念入りに塗りこめてしまうことである。奈良朝に鉛白が輸入された頃から
は、こってりと柔肌に乗って青味がかかる程塗りたくった。おしろいの厚塗りで、まるでお
面をかぶったように素肌と同時に女性の表情まで覆い隠してしまった。
感情を忘れた雛人形
と同じにただ一個の置物になり女官達はそれを求められた。それは意思のない美しい人形で
置物として無感情に御用を果たしてくれればよかった。
やさしさや従順、そしておだやかさという京おんなの美徳はこの伝統の中にはぐくまれたの
ではないか。祇園芸者・舞妓さん・島原太夫の厚化粧がいまだに残る。五月の葵祭りの主役
斎王・女官・童女なども皆厚化粧である。また 祇園祭の主役 お稚児さんも装束は烏帽
子・狩衣だがこの少年も人間性を脱皮して無欲無意思の置物に化したことを意味していると
言う。平安女性は十二単姿で首筋・手・露出する部分はすべて真っ白に塗り上げていたと言
う。その上で置物のような女性たちは運動不足と鉛毒の害に合いきわめて不健康な状況にお
かれ、顔はほっそりと面長で、すらりとした柳腰、風にも耐えぬ姫君タイプに京女を作り出
した。
女性の歴史は変わっていくのは江戸時代に入ってからのことで、権力・政治・経済が江戸に
移り、もう女官が女性のシンボルでなくなったのを期に変わり始めたと言う。
置物のような
女性たちも自我に目覚め、そして女性たちは経済力を背景にきらびやかに着飾る姿へ変身し
ていったという。
しかし京都とのこだわりを持つ女性も多く、江戸の豪商 石川六兵衛の妻
の挑戦着物比べに京都銀座年寄り役中村内蔵之助の妻はシンプルベスト(白と黒)を持って
対抗した着物比べも逸話に残る。
京都新聞の(京都の女人風俗)の中に大原女や如僧は別として室町女・女官・祭り女・おち
ょぼ(芸妓のたまご)・舞妓・島原太夫・など今なお厚化粧の女が多いことから京女の代表
としていることに驚く。

京都の女性 
最近の女性としてみると関東も関西もあまり変わって見えないのはなぜか?
やはり情報の発
達の中で言葉もファッションなど日本である限り均一に流れ、特徴が見出せなくなってき
た。若い女性しかり、年配の方にも外観や言葉の中にも標準語が流れる。しかしまだ表向き
の顔ではなく、暮らしの中では地方色豊かな京都弁・大阪弁・東北弁…その地方の方言と言
うものが存在する。
”東男に京女郎”
何故かそうゆう
しかし現代の女性を象徴する話で落語家桂小三次に面白いのがあった。女性を誇張して捉え
て面白い。
その昔 女性の美徳を表して
幼くしては親に従い 嫁しては夫に従い 老い
ては子に従う という言葉あり。
現代の女性は強くなりそれは通用しない。
幼くて親に従わず 嫁しては夫に従わず 老い
ては誰にも従わず となる。
現代は女性そのものを語るとセクハラになるかも。変われば変
わるものだ。

他人の人物評価について 
ゴルフをしていても他人のフォームはよくわかるがいざ自分に当てはめて、反省してもなか
なか難しい。自分を見つめるのは難しいことがよくわかる。着物の着付けの話で納得できた
ことは、自分が楽な姿勢や着こなしは、他人から見てはだらしのないものである。
他人から
見て良く見えることはそれなりに苦しみや、努力が必要であることを教わった。
飛躍的解釈
ではあるが、見栄をきることと、見栄を張ることの違いも多少理解できた。

五重の塔
京都には千年も前から五重の塔という高層建築が建てられていた。八坂の塔は40m・醍醐寺
の塔が51m・東寺が55m・もある。さらにその昔は法勝寺には(岡崎)八角九重の塔
82mもあり、さらに相国寺(御所の北)には七重大塔・109mがそびえていたと言う。
五重塔(ごじゅうのとう)は、仏塔の形式の一つ。
層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔のうち、五重の屋根を持つものを指す。
仏塔は、古代インドにおいて仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るために紀元前3世紀頃から造られ
始めたストゥーパに起源をもつ。
古代インドのストゥーパは饅頭形(半球形)のものであったが、この形式が中国に伝えら
れると、楼閣建築の形式を取り入れて高層化するようになった。
こうした楼閣形の層塔は朝鮮半島を経て日本へ伝えられた。木造の層塔は日本に多く残って
おり、中国、朝鮮半島における遺例はごく少ない。
日本では、各地の仏教寺院や神社などに木造の五重塔や三重塔があり、地区のランドマー
クとなっているものも多い。
木造塔のほか、石、瓦、鉄製の塔もあり、近代以降は鉄筋コンクリート造の塔もある。
多層塔としては他に九重塔、十三重塔などがあるが(層の数は奇数にほぼ限定されている)
木造の九重塔の現存するものはない。奈良県の談山神社には木造十三重塔があるが、これ
は楼閣形の塔ではなく、二重から十三重までの屋根は密に重なっていて、屋根と屋根の間
にはほとんど空間がない。屋根の上にあるアンテナのような部分は相輪という。

西国街道 
東寺から久世橋を渡り、向日市・長岡京市を経て山崎に至る旧い道である。阪急西向日駅あ
たりが長岡京朱雀門と推定されている。山崎には油座があり京都の利権を持ち栄えていた。
明智光秀が山崎で秀吉に敗れた天王山の戦いの背景にも商人たちの山崎で戦わせない圧力が
あり、狭い山崎では有利であったはずだが、少し引いた平地で戦うことになった光秀軍は敗
れたという。一因に商売地で戦わせたくない油商人の圧力があったという。大義名分のほし
い光秀に長い間朝廷の直轄地であり山崎無税という利権を持つ圧力も大きく絡んでいたとい
う。今は何も無いその地に立って思いを巡らすという経験ができた歴史の地である。

幽霊伝説 
京都には亡霊にまつわる伝承が多い。蔓殊院の幽霊の掛け軸・誓願寺の幽霊の絵馬・方行寺
の鐘に浮かぶ淀君の幽霊・六道の辻の死んでも子どものため飴を買いに来る女や8月8〜10日
六道参りの時だけ幽霊が買ったとゆう(幽霊飴)、昔から根拠があるやら、無いやら分から
ない言い伝えが多い、京都もそうだ。情報の少ない昔は今思えば根拠の少ない噂や、言い伝
えが生きているのは起りうることだと感じることも多い。

京都の恋の神様 
京都には恋のなやみを聞き届けて、叶えてくれる神様がたくさんいる。清水寺の裏手の地主
神社や西陣の楽谷七野神社、智恩院の濡髪堂などが有名だが、その反対の縁切りで御利益の
ある神様もある。愛想の尽きた相手と別れることの難しさは、経験者でないとわからないだ
ろうが、一般に縁結びより縁切りの神様の方が恐いようである。有名なのが、祇園の安井金
毘羅宮と宇治の橋姫神社がある。

石仏 
京都には、石仏は似合わないという人がいる。奈良のようにのどかな山里の道端で草むらか
らそっと顔を覗かせているのは、とても愛敬があっていいものだ。京都でそんな場所は見つ
かりそうも無いようだが、石仏の数では決して少ない方ではないという。町中にはおびただ
しい地蔵さんが奉られていていくらでも見つかる。そして大事に扱われていて庶民信仰の厚
さが良く解る。自然に手を合わせる人達にたくさん出会う。

お化けと幽霊の違いの一説 
幽霊には足がなくお化けには足があるという分類はおかしい様だ。落語の怪談
牡丹灯篭には
こうある。(陰陰寂寞世間がしんとすると、いつも変わらず根津の清水の下から駒下駄の音
高くカランコロン、カランコロンとする。)とあるように、幽霊が駒下駄をはいて登場す
る。インドネシアの幽霊でクンチィラナックというとても美人の幽霊は背中にぽっかりと穴
が空いているとのこと。インドネイアの若者は行きずりの美女と意気投合すると、さりげな
く相手の背中に手を廻して穴はないかと確認すという。しかもクランチィラナックはちゃん
とあしがある。しかし彼女は軽いため移動すと地面から30センチくらい上を飛んでいくら
しい。つまり幽霊は足を使わないものでいつのp魔にか足が退化してしまったということで
ある。
日本の幽霊も同じ事ではないかと聞く。
日本では江戸時代の画家・円山応挙が書いた絵は幽
霊のあしをぼかして描いたことから、そんな感じにイメージされたよう。実はお化けと幽霊
の差はもっと別な所に有りそうで簡単に言えば、幽霊は…人について出る。お化けは場所を
決めて出る
ということだそうだ。
お化けの出る場所は川端やなぎの下とか、薄気味悪い人
の恐がる所が多い。そこを離れれば追いかけてこない。化け物は明るい所では見えないもの
である。つまりお化けは怖がる人間が作り出すもので怖がらない人には出てこないというこ
とだ。一方幽霊も人が作り出すものであるが、お化けと違い特定の人に着いて回るという大
きな違いがある。東京でいればとうきょうに出て、大阪にいっても大阪についてくる、特定
の人に対して恨みを持ち特定の人が作り出す恐怖であるということのようだ。
幽霊は辞書に
よると、
人の心が作り出す恐怖ではないかということになる。霊とは肉体に宿り、また肉体
を離れて存在すると考えられる精神的実態ということらしい。また図り知ることのできない
力のある事、眼に見えない不思議な力のあること。
簡単に言うと霊は一般に霊気といわれる。英霊・水子の霊・怨霊・などにもなるひとの心の
恐怖や不安からなるものらしい。
また霊に関してはかなり仏教的解釈が深いとのことで釈尊
の考え方に入らなければ理解し難いくらい難問であるらしい、宗教的解釈になりそうである。

人とのふれあい 
火事の子供救出
昔、とても子供を可愛がる人がいて、ある時火事になり外へ逃げたが、燃
え盛る火の中に子供が気づかずに遊んでいて、いくら呼んでも遊ぶに夢中で気がつかない。
とてもこちらから助けにいけない状態であった為、考えた末、大声で(こっちにもっと楽し
いことがあるよ)と呼び、それにつられて子供は火の中からじぶんで出てきて助かったとい
う。
解らない人、気がつかない人、色々な人が居るので、まずは段階を経て諭すということ
も必要というお釈迦さまの教えである。

落語の釈迦説法 
サイコロ
開帳・堂・堂本・寺銭 昔お釈迦様が説法をしていたとき、とても集まりが悪く
話しもろくに聞かない人たちが多く居たので、考えたすえにまずは楽しいことをして、その
後に説法をすることを思い付きサイコロを作られたという。皆が楽しく遊んで心を通わせた
後に話をされたという。
博打の用語にはお寺に関係する用語が残るのはそんな事だと聞いた
ことがある。そんな事からか博打場を堂というし、そこの主を堂本というし、博打場を開く
ことを開帳といい、また上がりの金を寺銭という。と聞くとなんだか納得できる。(落語・
小さんの〔へっつい幽霊〕を引用)

京都は落語の発祥地 
新京極に面する浄土宗の寺・誓願寺は、江戸時代の始めの話。誓願寺55代住職の安楽安策伝
は、仏の教えを広める方法を思案して、妙案に至った。それは面白おかしく落語話で人々の
興味をひこうとゆうものだった。そして
自らも高座に立ち、笑い話を披露した。仏の教えは
ユーモアに乗って広まっていったという。
有名な落とし話として <平林ってどう読むん
か? >
(タイラバヤシかヒラリンかイチハチジュウのモクモク、ヒトツとヤッツのトッキキ)

食事の前に手を合わす 
食事する前に(いただきます)と手を合わしてから食べる。
ごく自然におこなっている動作
である。
今まではキリスト教のように神に感謝することと思っていたが、ちょいと違うこと
に気がつく。仏教的な合掌であることがわかる。
禅寺である京都の大徳寺で聞いたところによると、異なる意味であった。
全てのものは命を
持ち存在している。それを自分が生きて行く為に、その命を食して生活していることに対し
ての感謝であるという。
考えると私達はたくさんの動物・植物たちの生命をいただき生きて
いる。自然界での生きる事はそうゆうことであると一つ悟る。

重要文化財と国宝の違い 
重要文化財は重文とも呼ばれていて、これは文化財保護法によって指定された重要な建造
物・彫刻・工芸品・古文書などの事である。国宝はその重要文化財の中の徳に学術的価値の
高いもの、文化的に意義の深いものを言う。無形の文化財に指定された人を(人間国宝)と
よぶ。
指定されると管理責任者が決められて公開の義務が発生し買ったり・売ったりはでき
ないし、移動も勝手にはできない。保護に必要な経費は補助金が国から出る。
平成八年四月
現在は重要文化財11913件・そのうち国宝1042件である。

稲荷信仰 
伏見稲荷はかなり大きく山全体が御稲荷さんで鳥居が続く、3回も参拝したがまだ結果は出
ない。名古屋の豊川稲荷とは感じが違う稲荷さんだ。元はといえば稲の豊作を祈る神であっ
た。系統はあるようだが、京都伏見稲荷が有名。この稲荷は昔京都(山城)の豪族、秦氏の
社で稲の豊作を祈るのが始まり。昔、狐は人間にとって良い動物とされていて、人間に無い
とくべつの力を持つとされ、神の使いとされていた。
伏見稲荷に対して、仏教系のものとし
て豊川稲荷が有名である。曹同宗の寺であり、霊神が白狐にまたがり現れたことから奉られ
た。もう一つは京都の東寺の稲荷で、伝えによると、弘法大師が東寺のわきを通ったとき
に、稲を背負った老人に色々な教えをこおたことから、神とあがめ、稲荷大明神とした。
お
稲荷さんは、農村では五穀豊穣を司る、田の神・山の神として奉られ、漁村では豊漁の神、
やがては商売繁盛・開運出世・芸能上達と万能の神として町・村・屋敷内の神として奉られ
るようになったと聞く。
江戸の名物に例えられる言葉にお稲荷さんがあった。
武士 鰹 大名小路 なま鰯 茶店
紫 火消し 錦絵
つけたりに 火事に喧嘩にちゅうっぱら 伊勢屋 稲荷に犬の糞
…・と出てくるくらい江戸の町にはたくさんの稲荷があったと言う。
それは老中の田沼意次
が熱心な稲荷信仰をしていたことから、関心をかうために武家の間に広まり、出世を遂げた
開運の神として、また商売の神として商家にも広まり江戸八百八町に三万を数えるまでにな
ったといいます。

こうしん信仰 
説によれば、60日に一度(庚申の日)の夜に、体内に潜む(三戸の虫)がこっそりぬけだ
し、天帝に人の罪過を告げに行くため、寿命が縮まるといわれた、それをさせないように、
その日は青面金剛や猿田彦神を祭り不眠不休の夜を巣過ごす。この風習は全国に広まって庚
申堂が建てられた。東山の八坂庚申堂にはぬいぐるみの(身代わり猿)が奉納されている。
奈良町にある庚申堂いわく、こちらが本家といっている。日光の猿は(罪)は見ない・聞か
ない・言わないとゆう意味だそう。三蔵法師の孫悟空もその由来らしい。
奈良は庚申信仰の発祥の地であり、京都の庚申さんはここの模倣といっていた。身代わり猿
を購入した。青面金剛、吉祥天女、水子地蔵・千躰地蔵が奉られている。青面金剛は庚申さ
んとよばれ、愛欲、憎悪、強欲の化身である三戸の虫を封じてくれるありがたい仏様であ
る。中国の道教からのものらしく、60日ごとの庚申の日に動き出す庚申の虫が逃げ出さない
ように3月の第二日曜・11月23日の終庚申の日には、三戸の虫が嫌う竹酒と蒟蒻の田楽が振る
舞われと聞く。
修学院近くの赤山禅院は鬼門封じのお猿さん
方除けの御利益とかけよせ(売り掛け金回収)
の神としても商売人の信仰があつい。比叡山延暦寺の別院で天台守護神の赤山明神を奉る。
慈覚大師・円仁の遺命により座主・安恵が創建。東が日吉神社で西が赤山禅院という。

五山文学 
京都・鎌倉五山の禅僧の間に行われた漢詩文を中心の文学。栄西や道元の帰国に伴って渡来
してきた宋の禅僧がその中核をなした。一山一寧は(1247−1317)広い知識をもっ
た学僧で、五山文学の頂点といわれる漢詩集(びん峨集)の著者雪村友梅などの優れた多く
の門下を育成した。現在は15寺派に別れている。臨済の喝
徳山の棒と禅修業の厳しさを表
現したことばで、臨済禅師・徳山和尚の学徒を啓発する特色を伝えるもの、座禅を組み修行
する僧に対して、臨済がよく大喝を与え、徳山がよく痛棒を加えたことを指している。本尊
釈迦牟尼仏を大思教主と仰ぎ、その因縁で釈迦如来・薬師如来・大日如来・観音菩薩を安置
している。

京都五山 
室町時代
には、禅宗の(臨済宗)文学が栄えた。いわゆる鎌倉五山に対して京都五山とよば
れる禅寺がその中心をなしていた。五山とゆうのは官寺制度で定められた禅寺の格式のこ
と。各寺の住職は中央政権によって任免されるきまりであった。変遷があったが、最終的に
は南禅寺(瑞竜山)が五山の上位に置かれ、その元に天龍寺(霊亀山)・相国寺(万年
山)・建仁寺(東山)・東福寺(慧日山)・蔓寿寺(東福寺の一塔頭)の五ヶ寺が位置付け
られた。五山を名乗らない竜安寺や妙心寺が禅寺としてある。

弘法大師の誤った文字とは 
弘法も筆の誤り
とは
どんな名人上手にも間違いはあるとの意味で使われる。平安時代弘法
大師(空海)が都の大内裏の応天門に勅命により額を書いたが
(応)の文字の点を打つのを
忘れた。その時どうしたかというと(応天門の応の文字に筆を投げつけて点をつけたとい
う))人々は手を打ってこれを感じたという。

漫才の由来 
明治の中期に関西で江州音頭や河内音頭を歌っていた芸人が三河万歳を真似て、正月の街を
門付けして掛け合いをしたのが起源といわれる。正月に家を訪れて、歌ったり舞ったりする
ことは万歳として奈良時代から隋や唐から伝った踏歌が変遷したものとして全国に残る。秋
田万歳・仙台万歳・会津万歳……・名古屋・知多・美濃・大和・島津万歳などなど、現在の漫
才は昭和初期(9年)横山エンタツ・花菱アチャコになるといわれる。その後吉本興行が漫才
という表現でブームを作っている。

不美人をなぜブスというのか 
トリカブトという植物があり、この花には猛毒が含まれていて、昔の人はこの毒を取り出し
て矢の先につけて動物を射止めたという。
この毒矢に当たると大きな熊が一瞬(17秒前後)
のうちに倒れたといわれる。このトリカブトからとった毒を、付(ブス)と呼んでいた。
こ
の毒が入ると脳の呼吸中枢がマヒして感情や思考力が停止し、まったく無表情になると言
う。
そこで無表情になった状態を(ブスだ)といい、それが転じて表情の無い人、美しくな
い人のことを(ブスだ)と呼ぶようになったという。
鉄砲が入ってくると武器としては使わ
れず、漢方薬として重宝がられほんのわずか使用する強心剤や強精材として残る。

癇癪について 
辞書によれば、ちょっとのことでもすぐ怒る性格。怒りっぽいこと。また、その怒りとあ
る。
私も含め現代人には特に多くなったと言われる。いろいろなストレスや解決できない事
柄がたくさん積み重なって皆それぞれ生きてゆく。すぐ怒る人は都会には特に多いように思
う。本能的に身を守ることなのかも知れない。
地方へ行くほど気持ちは豊かになって、人を
思いやる心が残る。京都には心の広い人が多かった。ひとつ覚えてきた。
”かんしゃく から
くの字を取れば ただ感謝 ”

だるまさんはなぜ赤く塗られているのか 
禅宗の達磨大師がモデル。赤く塗られるのにも意味があるようである。坊さんが衣の色で位
を表わしているという。禅宗では赤い衣は大僧正だけが着ることになっていて禅宗を開いた
達磨大師に、敬意を払い赤を着せているとのこと。日本でだるまさんのもとになった(起き
上がりこぼし)は室町時代である。
これがだるまさんの形になったのが江戸の中頃で、当時
はだるまさんの赤い色は子供の疱瘡除けのまじないとして喜ばれたそうだ。

鎌倉の大仏様にはなぜ大仏殿が無いのか 
大仏様といえば奈良と鎌倉と相場は決まっていますが、鎌倉の大仏は大きさで奈良には負け
るが柔和な顔立ちで知られる。なぜ鎌倉大仏は大仏殿が無く露天に座っているのか。実はあ
ったのである、建長四年(1253年)の大仏建立時名は大仏殿もあったという。その後何
度か崩れたりして最終的に消滅したのは明応七年(1498年)の地震大津波によって流さ
れてしまったという。その後は再建されなかった。東西25間(45M)南北21間(38M)
の大規模のものであったという。

かわりばんこ 
一つのことを交代ですることを、よく昔から変わりばんこという。何気なく使う言葉にも意
味が(語源)あるようだが、簡単な語源も多い。
その昔鋳造技術の発達していない頃、仏像
や鋳造品を作るのは大変な技術と労力が必要であった。奈良の大仏の製作には砂型を作りそ
こに銅を流し込むと言う途方も無い大変な労力と銅の量が必要であったという。
又 銅を溶
かす熱源は炭であり、その得られる温度は800度程度で銅を溶かすのに必要な1030度以上の温
度を得るためには、大きな鞴(ふいご)を作り大量の酸素を送り込む行程があった。大きな
鞴はたくさんの職人が足で踏んで風を作り送りこんだ。しかし大変な足の力を必要としたた
めに、しょっちゅう交代をしながら常時作業を続けた。そのフイゴを踏む職人をバンコと呼
んで、交代しながら作業をすることを変わりバンコと言うようになったというからかなり古
い語源である。(俗説かも知れないと思っていたら先日、NHKの番組で短い解説をしていたの
でまんざら嘘でもなさそう。)

お寺にはなぜ木魚があるのか 
答えは簡単であった。木魚は修行中に眠らないようにとの戒めの意味がある。たとえ高僧で
あっても、長い読経の最中に居眠りをしてしまうことがある為、いつもぱっちり目を開けて
いる魚を形どった木魚をおいて眠らぬ戒めとしたと言う。もともとは魚の形をした木の板で
あった。これを叩いて時を知らせていたのが変化して読経のときに使われるようになったと
いう。
払子(ほっす)の本来の使い方は
法事の時などに偉いお坊さんが、はたきのようなものを胸
元に掲げているのを見ることがあります。あれは払子といって高い地位の僧が持つ法具であ
る。現在は地位を示す飾り物であるがもとは実用的なものから生まれたものであったとい
う。仏教では厳しく殺生を禁じ小動物や鳥・虫の類に至るまでその生命を尊び、歩く時はア
リを踏まないように気をつけて歩きますが、身の回りを飛び交う蝿や蚊はどうにもならない
為追い払わないと気が散って修行にならないので払子を振って虫を払ったという。また埃り
を払うのに使ったものであったという。日本では真宗以外の各宗派で使われている。

禅宗ではなぜ問答をするのか
禅宗には曹洞宗と臨済宗がある。たとえば(隻手の声を聞け)―すなわち両手でたたけば音
が出るが片手ではどんな音がするのか?など、素人にはわからないので(禅問答)と呼ばれ
ている。素人だけでなく雲水たちにとっても難問であり、正解の無い物であるようだ。
なぜ
このような(禅問答)をするかというと、一言で言えばこれまでに身についた自分の知識や
考え方を捨て去るということであるようだ。禅宗では今までの知識や考え方は仮のものであ
って、人から与えられたものであり、自分でつかんだものではないという。そのもになりき
らないと身につかず、座禅の時はもちろん掃除の時、食事の時・眠る時でさえ公案に取り組
まなければならない。そうしているうちにこれまでに身につけていた知識や論理が如何にむ
なしいかを痛切に分かってくるという。つまりそういった事を、身を持って体験させるのが
基本的考え方だそうだ。
(京都
竜安寺にて)
禅とは何……・
(京都
竜安寺にて)
○神仏のない宗教である
○特定の拝む対象のない宗教である
○自己を拝む宗教である
○自己の自覚を深く掘り下げる宗教である
○悟り
すなわち 吾が心を見る宗教である
○無・無我・無心の宗教である
○動く・働く・作務の宗教である
○吾れ唯だ足ることを知る
宗教である
○当初即ち蓮華国
この身即ち仏なりの宗教である
○成りきる・死にきる・即ち
断命根の宗教である
昔
学んだ哲学と倫理の違いは一口に言えば
哲学とは如何に死ぬことであり、
倫理とは如何に生きるということであるという。
何故か思い出した言葉である。

ご飯をなぜ
(しゃり) というのか 
白米を(銀しゃり)、刑務所の麦飯が(麦しゃり)というのは有名。すし屋さんなどに行く
と、ご飯とは言わずしゃり・玉しゃりぬき
(ただの卵焼き) といったりします。なぜご飯
のことをしゃりというのかというと、やはり仏教から来ていてお釈迦さまの骨(舎利)のこ
とである。この仏舎利は輪廻の教えによると、回り巡って五穀にもなり人間を助けると考え
られています。そして主食としてお米を尊んだ日本では、お米やご飯をこぼしたまま拾わな
いと仏さまの罰があたると言われて、お米は仏さまの化身と大事にされたからという。

神社の鳥居は
なぜニワトリなのだ 
神社に鳥居は付き物である。あの形は鳥のとまる止まり木を表わしているという。鳥居の原
形は、神道に縁の深い長鳴鳥(にわとり)であるという。では
なぜニワトリかといえば天の
岩戸伝説から来ているようで、天照大神が岩戸から出てこられて、高天が原に再び日の光が
射した時、高天が原のニワトリがいっせいにコケコッコと鳴いたという。昔からニワトリは
夜明けを告げる鳥とされ悪霊や災いの満ち溢れる夜の終わりを告げ、明るい朝の光を呼ぶ神
様の先導役として神社の入り口にあるのだそうだ。

醤油について 
毎日のように味わう醤油について意外と気のつかないことがある。
現在日本全国にたくさん
の種類の醤油があり、さらに甘口・辛口・薄口・濃い口などと数え切れない位の種類があ
る。人によってはどこどこの醤油が一番だとか、自分の醤油にこだわったりして下味や、隠
し味にまた刺身、お豆腐など調味用にどこのメーカーがうまいとか、何々県のどこどこ醤油
だとかこだわる方も多い。私はグルメでもないので特にこだわるタイプではないので、どれ
が好きかとも言われてもなかなか答えにくい。うまいまずいはなんで決まるのかといわれる
とさらに困る。醤油にはうまい醤油・まずい醤油を決める判断基準があると聞いて驚いた。
実は醤油にも判定士という方がいて鑑定しているのだと聞く。
判断の基準はなんと香りだそ
うだ。美味しい醤油は香りが違うのだそうだ。だからどの醤油でも出来たてや保存の状態が
良いと美味しくいただけるのだそうで、そのあとに好みの味を選べばよいのだそうだ。台所
やテーブルの上に置きっぱなしではどんなに美味しい醤油も香りが抜けてまずい状態でいた
だいているのだそうだ。
醤油のビンやパックをじっくりとあまり見たことがなかったが良く見ると常温でなく冷蔵庫
に保存してくださいと書いてある。確かに初めてあけて使うときには香りがある。使ってい
ると慣れてきて特にうまいと感じないときが多いが、それはまずい状態で食べていることだ
そうだ。グルメでない私は常に覚えていていることがないのでまた忘れるが、常識だそう
だ。

八幡大菩薩について
今全国に神社の数は約8万あるといわれているが、その半数近くが、八幡さまをおまつりし
ている。このように全国的に広まったのは源氏の神として、武徳の神として崇められたこと
だという。この八幡に限って(八幡大菩薩)と仏教の方から崇められている。八幡大菩薩と
呼ばれることとなったのは、神仏習合思想からであるが、八幡宮の総本宮は宇佐八幡で、勧
請されたのが手向山八幡(東大寺八幡)と岩清水八幡である。その後頼義が鎌倉に石清水八
幡を移し、頼朝が現在の地に移したのが鶴ヶ岡八幡宮である。
八幡様は武徳の神とし奉ら
れ、現在は厄除け・開運・交通安全・として崇められる。鶴ヶ岡八幡は日蓮上人とも関
わりが深い。八幡さまの姿は僧形の御像が多くあり、石清水・鶴ヶ岡・東大寺・薬師寺・
東寺の八幡様は僧形として有名。

神社の参拝で何故柏手を打つ 
昔日本人は
偉い人に合うと手を打つと、魏志倭人伝にもある。現代の人との握手と同じ意味
があったらしい。
この拍手は(魂振り)といわれ、たてる音で神様を招き寄せてお互いの魂
を振り動かすという神がかりの祝福の方法であったという。
ここから現代の参拝時の拍手が
生まれたらしい。普通二拝二拍手一拝であるが、七五三では二拝二拍手祈願そして二拍手一
拝である。また出雲大社は、拍手は二回でなく四回打つ所もある

京都はなぜ首都にならなかったかの説 
京都は桓武天皇が平安京を造営してから1000年の長きにわたり朝廷がおかれ都として栄えて
きたが江戸時代になって徳川幕府ががっちりとした封建社会を作り上げると政治文化の中心
は江戸に移った。幕末になり京都はクローズアップされたが慶応3年の王政復古の時にはまた
政治の中心になると京都人は喜んだが、明治新政府が明治2年(1869)10月には東京に移
った。
東京遷都の中心人物は大久保利通であるといわれています。
天皇は雲の上の存在で
あってはならない。これからは人民の中に出て行か無くてはいけない。それには古い習慣に
満ちた京都を出て遷都するのが得策だとして、つまり朝廷を実質的な権力にするデモンスト
レーションが遷都ということになる。また日本の中心である関東人の気持ちも無視できず、
旧幕府の人達の取り込みも含めて江戸市民の心をつかむ必要があった。

平安時代にはなぜ女流文学が栄えたのか 
源氏物語(紫式部)・枕草子(清少納言)・更科日記(菅原孝標の女)・かげろう日記(藤
原道綱の母)など、平安時代には女性が文筆面に進出し女流文学が開花した。これはかな文
字が女性文字として宮廷の貴族女性たちの間に広がり、定着したことが大きな要因となっ
た。当時の社会で男性は漢字を常用していて、文字が読み書きできるのは、貴族、僧、神官
など一部の階層にかぎられていた。その後
女性達が平易な かな文字を使用することによっ
て、男性より一歩先んじて文学に関心を持ち、作品を書き鑑賞するようになったという説が
ある。他に当時の女流文学者の出身が中流貴族であったこと。これは京都のみに居着いてい
る上流貴族と違い、受領(地方長官程度)の中流貴族は地方に任官されることも多く、その
時
彼女達は父や夫と共に旅をして、見聞を広め豊富な体験をして文学の糧を得ていたと思わ
れることがあげられている。多くのことを体験することが見聞を広めて新しい文学の世界を
作ったと聞いて納得した。

勲と位はどう違う 
国が勲功・功績のあった人に贈る栄典の一種に(勲等)(位階)がある。勲一等、従四位な
どと呼ばれるのがそれだ。どちらも歴史が古く法規も異なるが、現在
勲等は原則として生き
ている功労者に、位階は物故された功労者に贈られる栄典となる。
新派の水谷八重子は、生
前は勲三等宝冠章を受け、亡くなってから従四位を贈られた。(勲等)が胸に飾る勲章であ
るのに対し、(階位)は栄誉の称号のみである。
勲等は大勲位菊花章頚飾以下菊花、旭日、
宝冠などの種類、また等級も一等から八等まである。階位は戦前戦後では意味合いが異な
る。戦前はおもに官吏や軍人に贈る身分的なものであったが、戦後は民間功労者にも与え身
分的なものではなくなってきている。現行の階位は一位から八位あり、それぞれに(正)と
(従)があるので16段階である。これは国としての権威であり位や褒賞することで権威を保
っている為に使われた。現在は廃止の意見も出るくらい権力の象徴になってきた。
京都の世界遺産について 
世界遺産とは重要な文化財や自然を人類共通の財産として保護する国際的な制度で
世界遺産
リストには現在400件以上が記載されているが平成4年に日本が世界遺産条約に批准したこと
により京都も登録される。
上加茂神社・ 下加茂神社・ 東寺・ 清水寺・延暦寺・ 醍醐寺・ 仁和寺・平等院・
宇治上神社・ 高山寺・ 西芳寺・ 天竜寺・金閣寺・ 銀閣寺・竜安寺・ 西本願寺・
二条城 の17社・城です。
世界遺産には、平成5年姫路城・法隆寺地域の仏教建造物・白神山地・屋久島が選ばれた。1
年遅れで京都が選ばれ、更に続き平成7年には白川郷・五箇山の合掌造りが登録されさらにそ
の後熊野が指定される。
古都京都は、千年を超える各時代にわたる、多くの優れた文化遺産を保存・継承しているこ
とが世界遺産登録の理由。特に設定では17社の社寺・城の周辺地域もバッハゾーンとして、
保護・整備の対象となったことが注目される。そのため京都では新たに(歴史的環境調整区
域)を定めた。推薦書作成までに膨大な資料と時間を要し、一年遅れの登録となったもの
の、17社・城のみではなく、京都という都市とその景観に保存の網がかけられることにな
った意義は大きい評価されると聞いた。
17箇所 すべてを私なりに見学できたのは幸運であった。
見聞録は思いつくままをメモしました。
(あくまでも個人の感想記録です)


京都弁
|
京都弁
|
意 味
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使用例
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| ほな
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そうしたら |
ほな、行こか。 |
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どーえ
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どうですか
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こんなん、どーえ。
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あかん
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いけません
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そんなことしたら、あかんえ。
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ちゃちゃいれる
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邪魔をする・かきまわす
|
人の話にちゃちゃいれんといて。
|
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おこしやす
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いらっしゃいませ
|
(おいでやす、とも言う)
|
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かまへん
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構わない
|
気にせんでかまへんえ。
|
|
かんにんえ
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ごめんなさい
|
キツいこと言うてかんにんえ。
|
|
もっちゃり
|
見栄えが悪い・野暮ったい
|
なんや、もっちゃりしたかっこうして。
|
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なんぎやなあ
|
困ったねえ・迷惑だね
|
これがわからへんとは、なんぎやなあ。
|
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よー言わんわ
|
とんでもない・馬鹿言うな
|
自分でやっといて人のせいにしてよう言わんわ。
|
| ちょか |
落ち着きのないさま |
あんたはんちょかやな |
| どうどすやろ |
どっちつかずの伝え方。 |
明日の天気どうどすやろ。 |
| ほたえる |
じゃれる。あばれる。 |
他人さんのうちで、ほたえたらあかんえ。 |
| かなんな |
否定の意味。 |
そんな無理なことかなんな。 |
| すこい |
ずるい。 |
美味しい料理沢山取ってすこい。 |
| おぶう |
お茶。 |
おぶう如何ですか。 |
| おべんちゃら |
御世辞。御愛想。
|
おんたはんおべんちゃら上手やね。
|
| ほかす |
捨てる。 |
汚いものほかしといて。 |
| はばかりさん |
ご苦労様。御世話様。 |
お掃除はばかりさん。 |
| やす |
敬譲語。
|
ほかしとくりやす
|
| いけず |
心がねじけてる。意地悪。
|
おんたはんいけずやな。
|
| つうつう |
物事が妨げられず、進む、はかどる。 |
あんたはんと仕事をしたらつうつうですわ。 |
| やくたい |
無茶、無益の意味 |
やくたいな事いわんとくりゃす。 |
| はる |
・・・・なさるという助動詞
|
勉強したはる。
|
| へんねし |
すねる。ひがみ根性。ねたみの意味 |
あの人はすぐにへんねしをおこさはる。 |
| しかつい |
かたぐるしく真面目、しっかりとした
|
あのひとはしかついですね。
|
| どうえ |
どうですか |
この服にあってる?どうえ。 |
| いっちょうら |
かけがいのない最上の一枚の意味
|
わたしの着物はこれがいっちょうらですねん。
|
| ほっこり |
暖かそうな状態。ふくよかな状態。
|
御風呂に入ったらほっこりどすね。
|
| べったり |
ずっと。いつもという意味 |
あのふたり、いつもべったりどすね。 |
| えんばんと |
運わるく。あいにく。の意味 |
こないだ、えんばんと階段から落ちたんどす。 |
| めっそうな |
とんでもない。どういたしまして。 |
お土産のお礼に、丁重な言葉を頂きてめっそうな。 |
| あかん |
いけない。役に立たない |
そのな事したら、あかん。 |
| さかいに |
・・から。だから |
よんだはるさかいに、いきまっさ。 |
| えずくろしい |
胸がむかつくほど不快なこと |
おおきなって、えずくろしいね。 |
| しんきくさい |
じれったい。もどかしい意味
|
あんたはんの運転しんきくさいね。
|
| だんない |
さしつかえない。たいしたことない |
ご飯残しても、だんないよ。 |
| いらち |
せっかちな人。 |
ご飯食べていても、いらちやな。 |
| いちびる |
興奮して騒ぐ、調子にのる |
あんたはんは、すぐにいちびるな。 |
| じじむさい |
あか抜けしない様 |
そのべべ、しじむさいな。 |
| せんぐり |
ひっきりなしに続く様 |
向こうのお店、せんぐりお客さん入ったはる。 |
| かにここ |
わずかな。ぎりぎり。 |
今月の食費、かにここどすねん。 |
| おやかまっさん |
やかましく騒いですいませんでした。 |
夜遅くまでおやかまっさんでした。 |
| あがる |
北へ行く
|
大宮寺ノ内あがったら、鉾参通どす
|
| さがる |
南へ行く |
大宮芦山寺さがったら、鉾参通どす |
| べべた・べったこ |
最後、びり |
マラソンべべた |
| よーけ |
たくさん
|
おかずよーけ作って
|
| かんにん |
ごめん
|
こないだかんにん
|
| ぎょーさん |
沢山 |
お土産ぎょうさん貰ろて |
| にぬき |
ゆで卵 |
にぬき作って |
| ねぶる |
なめる |
舌をねぶったらあかん |
| やすけない |
品がない
|
その服、やすけない
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