興亜炭鉱





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かつては亜炭の産出地として大きな賑わいを見せた高崎炭田。
その遺構の殆どは住宅地や公園に姿を変え、当時の名残を感じる場所、そして当時を知る人も少なくなった。
書籍やインターネットで確認できたのは以前紹介した金井炭鉱のみだが、 「探せば炭鉱跡が見つかるはず筈だ」と、県立図書館で入手した地図を携え観音山へ向かった。






※詳しい地図は最後に掲載する。

まずここが鉱石の搬入場となる。
トロッコにより採掘場から亜炭の鉱石が運ばれ、ダンプに積まれて高崎駅まで輸送される。
地図では川を渡り採掘場への道があったが現在では橋が崩落していた。
大きな平場には民家の庭には古い金属片が散らばり鉱山の面影を偲ばせる。
興亜炭鉱は高崎炭田で一番大きく、予想してた以上に大規模に操業されていたようだ。





採掘場方面である川の上流側を見ると切り通しで水路が作られていた。
炭鉱は水が出る為、排水用として新たに水路が作られたのだろうか。





周辺には大きな配管などが見られた。
周囲の山に向かって数方向に配管があり、数か所に採掘場があったと分かる。

更に奥に行きたいが橋が無いため進めない。
来た道を戻り反対側から攻める事にした。





地図には載っていない民家の脇の細い道を通り鉱山の反対側に出た。
苔むした石垣からは歴史を感じさせられた。





道の脇には何かの基礎があった。
なんだろうか。

庭仕事をしていたおじさんにお話を伺った。
この基礎には当時ウインチが置かれ、丘を越えた場所の採掘場からトロッコを引っ張っていたそうだ。
トロッコからは泥状のズリが運ばれ近くに捨てられていた。

また、戦中ここは「たたき場」として兵隊さんの訓練の場だった。
高崎中心街に近い事から、高崎に拠点を置く歩兵第15連隊が訓練に来ていたらしい。
近くに射撃訓練場跡(痕跡なし)などもあり、「終戦後に撃ち込まれた弾を集めて古物屋に売って小遣いを稼いだ」なんて貴重な話も聞けた。





この川から社宅用の水が汲み取られ貯水タンクへ送られていた。
貯水タンクの場所を教わるが藪が濃く見つける事が出来なかった。





社宅跡地。
昔はこの辺りに社宅が立ち並び300人程が住んでいたらしい。





社宅等の痕跡を探すが藪が濃すぎて無理。





藪を抜けると大きな道路の脇にある広場に出た。
広場では電線が貼られていない古い木柱を見つけた。





「コロニー支」
と書いてある。
社宅用の電源だろう。





大きな道の橋の上。
上流側を見るとズリ捨て場であろうデコボコした丘が見える。
社宅跡もこの辺りになる。





当時の物かは不明だが便所が落ちていた。





これは坑道の通気口。
巨大な排風機が設置され真下にある坑道内の換気を行っていた。
坑内換気施設は余程の大規模鉱山にしかないと思っていたが、この規模の鉱山でも見られるんだなーと感心した。
まあ炭鉱はガスが発生するため空気には気を使う。
ガスやら崩落やらで結構な死者が出たようで。





謎の土台。
うーん、これはなんだろうか。
タンクとか井戸とか・・?





橋より下流側を見ると大穴が見えた。
「坑道だと!?」





大穴は二つあり、一つが冒頭で掲載した水路に繋がる。
この先に崩落した橋がある。





もう一つがこの大穴。
岩盤を掘ったと言うより大岩をくり抜いたと言った感じ。





大穴は川のすぐ横にある。







つるはしで削った跡と削岩機を用いた試掘(?)跡。





懐中電灯を持参していなかったため携帯電話の心細いライトで奥へ進む。
高さ2m半、広さ70畳くらい。
穴を見つけた喜びで勘違いしていたが、よくよく考えるとこの大穴は坑道では無い。
坑道にしては不必要に広く、何より亜炭の鉱脈が見当たらない。

この後に別のおじさんから聞いたが、この大穴は採掘した鉱石を保管していた場所らしい。
以前がトロッコ軌道も敷かれていた。
大穴は炭鉱を始める前からあったと思うのだが、すっかり聞くのを忘れていた。





崩落した橋方向の廃道を歩く。





廃レール発見。





川に沿って歩いていると亜炭の鉱脈を見つけた。





もっと岩石っぽいのかと思っていたが、一つ一つが細かく力を入れるとポキポキを折れる。
亜炭は地表近くからでも採れた事と、この一帯の地盤が柔らかかった事から閑散期の農家が露天掘りで採掘することもあったそうだ。
バーベキュー用に持って帰ろうかと思ったが手頃な袋を所持しておらず断念。





冒頭の崩落した橋に出た。
これで一応一周した事になる。




探索後、当時の様子を聞こうと何人か地元の方に話を聞いた。

当時は社宅に300人程が住んでいたそうだ。
鉱山職員は(表現が不適切化も知れないが)所謂流れ者で、日本各地から集まり血の気が多い人ばっかりだったらしい。
夜中に酔っぱらって喧嘩している坑夫の声が今でも印象に残っているとの事。
地元の小学校には坑夫の息子が多く通い、親に似て血気盛んだったようだ。
喧嘩の際にはポッケから自転車のチェーンの切れ端を取り出し武器にしていたとか。
鉱山のこの地が栄えたのは事実だが、当時子供だったおじさんは「やっぱり少し怖かったなぁ」と言っていた。

当時を過ごした人の話は、資料を読むだけでは得られない生きた情報だった。
他にも鉱山以外にも戦中の話など様々な話を聞けたことを嬉しく思った。
同時に、郷土意識が希薄になった現代、貴重な話が受け継がれる事無く人々の記憶から失われる事に一抹の寂しさを感じた。




参考に以下に配置図を掲載する。





資料ではピンク色の丸印が鉱山跡となっているが、実際はオレンジ色で示した周辺に遺構が多く残っていた。
ピンク色で示す資料上の跡地は藪が濃く調査を断念した。

金井炭鉱でも少し書いたが、高崎炭田は群馬の歴史や産業を語る上で欠かせない存在であるにも関わらず行政は何故か保存活動や広報活動に力を入れない。
高崎炭田から産出された亜炭は富岡製糸場で燃料として多く使用された事から養蚕関連遺産と絡めた広報の方法も充分考えられる。
私が高崎炭田を調べた際、得られた情報が驚くほ少なかった。
後世に残すためにも行政が率先して資料の整理、開示を行って欲しいものである。




参考にした書籍:
「群馬 産業遺産の諸相」
日本経済評論社



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