
上村木七夕祭りの歴史は、大正2年(1913年)から続いている。
それは、3名の少年が始めた。
![]()
☆大正初期から始まった
この祭りは、大正2年(1913年)と言われている。
大正初め頃、泉 栄次郎・成瀬 繁次郎・宮田 栄次郎らを中心とする当時15〜16歳の少年グループがあった。
泉 栄次郎:古文学に興味があり、色んな知識を持ち合わせていた
成瀬 繁次郎:米屋の息子であったことから財力があった事から、色んな物を工面する事が出来た
宮田 栄次郎:行動力・企画力に優れていた事から、二人の力をうまく融合させる事が出来た
泉 栄次郎は魚津から遠く離れた入善町 吉原・芦崎の『屋形船型祭』に興味を持っていた。この祭は江戸時代から続くと言う事で古文学好きには堪らなかったのだろう。(屋形船型祭は今現在『えびす祭り』と言われてます)
泉 栄次郎の誘いで三人は入善までその祭りを見に行く事にした。それを見た三人はすっかり感動し
「オレラの村でもこんなこと出来んか?」
と考えた。三人の意見がまとまれば話は早い。村(上村木=当初は加積村)へ帰って竹を割り、屋形を組んで行灯を乗せた。
当時上村木神社は現在のアップルヒル敷地内にあった。そこには大きな杉の御神木があり、天狗が住んでいると伝説から屋形には杉の新葉を取り巻き、天狗の面を付け、身体を大きく見せるようあじろをまとい、七夕の日に村内を練り歩いた。
七夕が終わると手作りの屋形、提灯は成瀬氏の倉庫などにしまわれた。
数年後、大人が子供達の行動に気付き、火の用心もあり、もったいなくも御神体を形どってもいるということで村の神社の縁の下に保存するようになった。
この時、子供達だけで作り上げた祭が、村の行事の「市民権」を得たのである。
この証言は成瀬 繁次郎の生存中に確認し、また元加積村議員纓坂竹松の生存中に纓坂昭弘氏が昭和55年5月に聞取り調査した結果である事から真実味がある。
☆年表
平成24年(2012年)9月現在での歴史調査結果である。
簡単に年表にまとめると上記のようになる。
☆七夕のルーツは?
七夕のルーツは先にも述べたとおり、入善町吉原・芦崎の『屋形船型祭』である事は確かなことの様だが、何故 上村木七夕祭りには天狗やバツがいるのか?
上村木古老によると上村木神社は昔、現在のアッ○ルヒ○付近にあり、そこには大きな杉の大木があったとの事です。そこには『天狗』が住んでいるという伝説があった事から、上村木の七夕に天狗が登場するのだそうです。また屋形船の杉葉はこの御神木から作ったものだという事です。
囃子(はやし)については、「ヤッサホーレンマ」と旧魚津町内の神輿、たてもんの囃子と同じ。「ヤッサホーレンマ」とは『ヤッサ』=『ソレ〜』という掛け声で『ホーレンマ』=『鳳凰様』と言う意味だそうです。80年代まではその囃子を続けていましたが、90年代からは「何処かのマネの様で変えんか?」という事で、普通に「わっしょい」になっちゃいました。
しかし2004年伝承教室開催を機に伝統を重んじて囃子は復活しました。
☆昔の七夕はこんなのだった
発祥当初の面は天狗、ひょっとこだけでした。昭和初期から赤い般若(しかみ似)=通称バツ・白狐が生まれました。バツの面はある高校に貸出した処、無くされてしまい、弁償してもらったのが、今の般若なのです。この頃から天狗は一番人気の座を般若に奪われました。
面を着けない者にチャップリンという仕事人がいました。今では少子化でチャップリンの役をする者がいませんが、かなり重要な役。
チャップリンとは三角帽子をかぶったかわいい奴!役どころはまさに裏方。行列の提灯の火が消えると付けて上げたり、面の方々の不具合が発生すると直して上げたり、もう忙しい!当時は更に仕事があったそうで、寸志をくれた宅には面の方々がその宅に入り込み厄払い。そして、面の方々が引き上げた後、「ありがとうございました」と古いあじろをみじん切りにした物(紙吹雪もどき)を振りまいたそうです。
2004年伝承教室開催を機に伝統を重んじて『紙吹雪もどき撒き』は復活しました。ただ「少子化」問題による人手不足で一人だけで対応してみました。
注)縁起物ですので『ゴミだらけにしたな!』等と言わないで下さいね!!屋形は昔、相当重かったらしく、骨組みは竹で作成されており、一見軽いように思えるかもしれないが、それに杉の新葉を隙間なく付けていた。これは非常に重い!という事で、S52から木の船になりました。S58に七〇周年記念としてからは宮社の変わりに小さな神輿を乗っけていました。
しかし、魚津祭への参加(S62)から元の杉の新葉の屋形が復活。しかし重いとの担ぎ手の不評から、新葉→新葉に見立てたあじろを採用しました。更に宮社も復活!(H11)元の屋形に近付いた。
更に製作・メンテナンスの手間を省く為と担ぎ手の負荷を下げる為、2005年から屋形を一新しました。形・雰囲気を壊さぬように本職の船大工(浜○造船)に製作を依頼し、宵祭りには山車としても活用できるよう脱着式の台車も(五○嵐仏○店にて)製作した。
☆今後は…
やはり、七夕は子供達が作った祭!だから、子供が中心となって進めるべき。と、言いたいが、少子化はゆがめず、77年から発足した七夕後援会が近年、中心となる祭となってしまいました。
しかし、七夕後援会の人々も、以前は七夕祭を愛し、自分達の手で運営してきた者たちの集まりです。その人たちが、少子化問題でまた運営するという事は、悲しい反面、うれしいのです。
七夕後援会の大人たちも童心に返って運営しています。
だから『上村木七夕祭』はまだ、『子供の祭』のままなのかもしれません。
これからも宜しくお願いします![]()