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想像の翼を拡げて A(本町8) 09年1月7日の朝日新聞「声」欄に掲載された投稿の一部を紹介します。 投稿した人は、新潟県湯沢長の桑原勝一さん、86歳。私より5歳年上のこの世代が、一番たくさん戦争にかり出された年齢の方々、下働きで戦死者の多い世代ではないでしょうか。かく言う私も、動員で東京芝区の住友電気で電波探知機の一部分を作っていたので、同時代を生きた者として、心惹かれた投書でした。 「(前略)私は45年3月10日の東京大空襲翌日、所属していた部隊の命を受け被災地を見回り、筆舌に尽しがたい帝都の惨禍をつぶさに知った。渺茫(びょうぼう)たる焼け野原と犠牲者の霊魂の叫びが脳裏に蘇り、タワー(東京タワー)では同行者に怪しまれながらも涙があふれ抑えられなかった。(中略)戦争とはいったい何だったのか。改めて考えさせられた。戦争とはいつの世も、どんな理由があろうとも愚かで無意味なものだ。人として絶対に起こしてはならない。それを日本国憲法は明確に唱えている。だがこれを改悪せんとする動きや、先の戦争を聖戦と唱える者の声が聞こえてくる昨今だ。私には愚人としか思えない。タワーよ、このような無法は許すまじと、しっかり見張っていてくれ」 加齢後、東京タワーから眺めた東京の眺望から、63年前の記憶がよみがえったということですが、私たち一人一人がそれを体験していなくとも、想像の翼を拡げ、理想と感情を陶冶(とうや)するのも、護憲運動では必要なことなのでしょう。 |
怖い、若者のガラガラポンという戦争による日本再生! I(東2) 皆さんこんにちは。 今回、原稿をお願いされて「何を書こうか」ということを考えてみました。これからかかわりの深くなる「介護の仕事のことにしようかな?」とも思いましたが、これは経験不足から難しいかと思い、先日の世話人会で「若い人の関心が低くて、なかなか運動が広がらない」「チラシを受け取ってもらえない」というお話もありました。そういえば、私も少しではありますが活動をしているわけですので、振り返ってみて、私が運動にかかわるきっかけになったのではないかと感じていることを少し書いてみようと思います。 いちばんに思い出されるのは、今から25年くらい前の話で、私はまだ小学校4年生だったと記憶しています。私の叔母は今でも現役ですが、聾学校の教員をしています。組合にも加入していて役員のときには、嵐山町にある国立女性教育会館での会議や集会にも出てきていました。 その叔母に連れられていわゆる学習会、9条の会で言うところの公開講座に連れて行かれたことがありました。どのような人がどんな話をしたのかはまったく記憶にありませんが、私の記憶に焼きついているものがあります。それは『ピカドン』の映像です。 『ピカドン』を上映していたということは、反戦・平和の集会だったのだろうと想像できます。ご覧になられた方はご存知かと思いますが、今風に言えば「とてもグロい(グロテスクだ)」アニメーションで、原爆投下直後の様子が描かれています。 私はその一度しか見た記憶はありませんが、その後に見たどんな映像や写真よりも強烈に印象に残っています。閃光と爆風に襲われたヒロシマの街で、眼球が飛び出した人々の群れや手を引くとずるっと肉が取れて白骨が現れる描写など、それを見た夜は怖くて寝ることができませんでした。なんでこんなものを見せるのか、そのときの私には理解できませんでした。 その後、高校の修学旅行でヒロシマに行きました。卒業して就職した会社には労働組合があり、青年部を振り出しに役員をしていたこともあって、平和学習での原爆や侵略戦争の実相や、ヒロシマ・ナガサキへ実際に行って学ぶ機会もありました。そのたびに思い出されたのは、あの日の晩に観た『ピカドン』の画像であり、あの日が今の私の原点のひとつなのではないかと感じています。 現在は学校での平和教育の時間も減らされていると聞きますし、私が連れて行かれたような集会も減っているのでしょう。そのために若い人も学ぶ機会や接することも減っているのだと思います。 また、それよりも生きること・生活することに精一杯で関心が向きにくいこともあるでしょう。「衣食足りて礼節を知る」という言葉もあります。街やお店には商品はあふれていますが、残念ながら私たちが満たされている状況にはなく、生活保護世帯は増加し続けています。そして若者からは、「戦争が起きて世の中がリセットされればいい」という言葉も吐き出されています。生きることや将来に展望が持てないことが、戦争を望む声にもつながってしまっています。 |
今のアメリカの姿は、数年後の日本の姿 W(所久喜) 2003年3月19日、私はアメリカ大使館の前にいました。その日は国会要請行動日として、議員会館でイラク攻撃反対の多くの人たちの集会がありました。多くの人たちの流れと一緒に、議員会館からアメリカ大使館まで歩き、その前で抗議行動を行なったのです。 そこはもう多くの人たちであふれていました。様々な団体の方、学生、老人、多様な宗教の人たち、なぜか寒い中、ピンクのミニスカートでおへその見えた揃いのユニフォームの美女?たち。そして報道関係者。みんなが順に英語で「イラクを攻撃するな。やめろ!。」と訴えていました。その中で強いインパクトを受けたのが、劣化ウラン弾の攻撃を受け、奇形児として産まれてきた赤ちゃんの写真を持ち、泣き叫んでいた女子学生でした。 「こんな小さな子を犠牲にするのか、やめて!。子供達を犠牲にしないで!。」…たぶん大学のゼミで学び、他の学生と共に来ていたのでしょう。脳裏から離れることができない光景でした。この日、アメリカはイラク攻撃を開始したのです。 今年9月14・15日連日で、「戦場と心の傷」NHKスペシャルを見ました。たぶん、沢山の方が見られたことと思います。イラクに正義をもたらすために派遣されたはずの兵士が、敵を殺さねば自分が死ぬ戦場で、精神的な傷を受け、本土に帰還後、社会に適応できず、人を愛することができなくなってしまっているのです。PTSOという心の病。若い女性兵士が、自分に銃を向けた12歳の少年を射殺してしまった後遺症から、帰国後、母となったが、自分の息子を抱きしめられず、悩み、苦しみ、涙する姿。アメリカのテロとの戦いの中で、泥沼化する病んだアメリカそのものでした。 人間が人間としての心を奪う戦争。一部の人間の誤った判断のために、営利のために、どれだけの弱い者たちを、犠牲にするつもりなのか。貧困と格差がどんどんと広がっている日本。今のアメリカの姿が、数年後の日本の姿のように思えてならないのは、私だけでしょうか。今の若者の現状を変え、今の日本の経済の体質を変えなければ取り返しのつかないことになります。歴史からしっかりと学ばなければ、もう一度、あの過ちを繰り返してしまう。そう思えてしかたないのです。しかし、私達には、憲法9条があります。世界に誇れる9条は、子供達に引き継ぎ、平和の砦としなければなりません。多くの人たちに語り、多くの人たちと手をとり、戦火がなくなるまで頑張りましょう。 |
憲法を守るために闘おう! S(上町) 近年、憲法改「正」があちらこちらで語られています。 昨年は戦後日本の平和を、憲法との両輪にたとえられてきた教育基本法が満足な議論もされぬまま、与党により強行採決されてしまいました。 ここ数年、様々な法律が制定(PKO法・盗聴法・破防法・住基法などなど)されてきたのは憲法改「正」への布石であったと読み取れると思います。そして政権も小泉氏から安倍氏へと首相という名のバトンが渡され、遂に改憲への動きが秒読み段階に迫ったといえると思います。 私は鉄道員ですから、なおさら歴史から学ばなければならないと思います。過去の歴史を見れば世間を騒がすできごとが、時の権力者達によって引き起こされたことを忘れるわけにはいきません。特に朝鮮戦争へと向かった前年には、戦後の3大謀略事件といわれた「山下」三鷹」「松川」の各事件が引き起こされた歴史をしっかり想起しなければならないと思います。また、今日まで護憲勢力といわれてきた、社・共の既成左翼といわれた人たちは衰退の一途を辿り、また、真面目に働く労働者を組織し指導すべき連合も遂に組織率を20%も割るなどにより、私たちを取り巻く情勢は年々働く者への搾取が強められているのが現状です。 そんな中、遂に権力者達は、最後の砦である憲法へその魔の手を延ばそうとしています。今、私たちは過去のイデオロギーを乗り越え、「憲法を守ろう」の一点のみにおいて総団結すべき時を迎えていると思います。 一部の憲法学者や政治家は語ります。現在の憲法は、連合国に押し付けられたものだと口をそろえますが、それは否です。私たち働くものの判断基準=価値基軸は、いつの時代でも「何が正しくて、何が正しくないか」だと思います。私たちは、この変わらぬ価値基軸を明確にし、高々と掲げ市民と圧倒的多くの働くものたちが手を携え闘わなければならないと思います。平和とは闘いとるものだから! |
過ちを繰り返さないために H(東6) 私は最近「父親達の星条旗」と「硫黄島からの手紙」の映画を続けてみました。話題になりましたので皆様もご存知のことと思いますが、第二次世界大戦中、同じ戦場(硫黄島)で戦ったアメリカ側と日本側から、それぞれを映画化したものです。 どちらの映画も人間同士の殺し合いが正当化され、当然と思って戦った兵士達が描かれていました。少しでもそのことに疑問を持った兵士は非難・糾弾されました。日本兵が立て篭もる洞穴に向かって火炎放射器を噴射する…。そんなことが平然と行なわれていたのです。 私も1歳8ヶ月のとき、千葉県から信州へ疎開しました。いや、させてもらったというべきでしょうか。当時、10歳・7歳・3歳の姉、兄と私が一番手のかかる幼子だったのです。父は戦場、母ひとりでのことです。熊谷で空襲にあい乗っていた汽車は止まり、母は爆弾がそこに落とされないように、ただ祈るばかりだったと後に良く話をしてくれました。「命からがら」という言葉がぴったりの光景です。そんな時代を乗り越え5人の子供(後に一人生れる)を育てた母は折に触れ、戦争の悲惨さ、馬鹿らしさをこども達に語ってくれました。これからはこども達に、あんな思いを絶対にさせたくないともいっていました。だから日本が憲法第九条で「戦争の永久放棄」を謳ったことを非常に喜んでいました。日本国民も皆そう思い戦後60年間、世界で数少ない「戦争をしていない国」として存在してこれたのだと思います。 しかし、ここ数年で少しずつその状況が変わってきたように思います。アメリカの同時テロ以降、テロ対策特別措置法やイラク復興支援特別措置法を成立させ、自衛隊海外派兵を正当化してきたことです。これらは大きな間違いだったと思います。そしてそれに伴い憲法第九条を変えようとする動き、これは絶対に阻止しなければいけないことだと強く思っています。あの戦争で苦しみ、悲しんできた人達の思いを無駄にすることのないようにするためにも。 |
護憲か改憲か!いま迷っている人は多い! О(青毛1) 現在の憲法をまもるべきか、それとも現実にあわせて改正した方がいいのか、私は、迷っていた時期がありました。しかし、「好戦勢力」がこれほど「戦前回帰」で、何の反省もないことから、今では決して現憲法を変えてはいけないと思うようになりました。靖国神社の博物館「遊就館」を見学すると、好戦勢力の考えていることがよくわかります。大本営発表そのままで何の反省もない。 私は、「大東亜戦争」が朝鮮、中国などの植民地をめぐっての帝国主義国間の略奪戦争だったと思います。「日清,日露戦争で獲得した権益をまもれ。」これが当時の支配者の考えでした。それを「ヨーロッパの支配からアジアの一員の日本が解放してやった」という論理にいまだしがみつく好戦勢力。これらの歴史を共に学習し、討論しておく必要があると思います 11月12日に日比谷野外音楽堂で開催された、「教育基本法の改悪をとめよう全国集会」に参加して感激しました。約7千人の参加者があつく燃えていました。集まったカンパ金は250万円にもなりました。 私の職場で憲法問題を学習したとき、最後に質問してみました「護憲か改憲か自分の意見を持っている人」という質問にはゼロ。「迷っている人」という質問には約半数の人が手を上げました。この数字は、現実をよく反映している現実があります。 改憲を進める自民党が、多数を握る現実がある反面、「九条の会・久喜」が地道な活動を続け、仲間を増やしてる現実があります。これは素晴らしいことだと思います。 私が政治に目覚めた青年時代は、孤立感・不安感を強く持ったものですが、いまはこんなに仲間がいると心強いものを感じます。共に頑張っていきましょう。 |
「九条の会・久喜」に入会して K(本町3) この度、「九条の会・久喜」に入会しました。よろしくお願いいたします。 教員をしている私の友人が、指導力不足教員とレッテルを張られ4月に分限免職(解雇)になりました。中学校の理科の教員として、20年以上にもわたって生徒にまなぶことの楽しさを教えましたが、「愛国心」を教えなかったことや「日の丸」「君が代」を歌わなかったことから、実験中に起こったちょっとした事故を大げさに取り上げられ、指導力不足教員として教育研修センターに送り込まれ一年間研修を受けさせられた後、再び教壇に登ることは許されませんでした。 私たちの周りでは、こんな理不尽な事がやまほどあります。何の不満もわがままも言わず、黙々と額に汗しながら、寝食を忘れるほど働き続けてきたにもかかわらず、突然のリストラ。仕事のために家庭や健康を犠牲にしてまで働いてきたのに、ちょっとしたミスで重い処分にさらされる。給料が安くても、残業代が支払われなくても文句ひとつ言わないで働いている人が今でもたくさんいます。 そんな私たちに、今の社会はさらなる競争をさせようとしています。「格差があるのは悪いことではない」とある与党の幹部が公然と述べ、「競争」こそが万能であるかのごとく市場経済に全てをゆだねようとしています。「ゆとり・豊かさ」が奪われ、学校ではいじめや自殺、家庭では子供の虐待。そんな中「愛国心」が盛り込まれた教育基本法改「正」案が衆議院を通過しました。今の政治情勢は、再び戦争への道に近づこうとしているようで仕方ありません。 今の私たちに必要なものは、いかにして競争に打ち勝つかではなく、安心して子供を生み育て、働き続け、まなび続けられる社会でしょう。その象徴が日本国憲法であり、第9条だと思います。9条を守ることが私たちの将来を守ることにつながります。私もこれからの活動に積極的に参加しようと思います。よろしくお願いします。 |
「国民投票法」を改憲の歯止めとして積極的に活用すべき 私は基本的に「国民投票法」に賛成です I(青毛1) 私の立場は「憲法改正」に反対であり、「第九条」を始めとする日本国憲法を子どもたちや孫たちに残していかなければならないと考えている。 そしてそのために、「憲法改正手続き法としての国民投票法」を作るべきだという見解に立つ。現在、国会で、自・公案、民主党案がそれぞれ提出されているが、その審議の中で、憲法改「正」に対する国民の正当な意志表明を公正に反映できるような、国民投票のルールを合意によって作っておくべきだと考える。 まず議論の前提として、日本国憲法96条に「憲法改正手続きとしての国民投票」が定められている以上、その国民投票自体の手続きとルールを事前に定めておくべきであると思う。実際に自民党などが改憲を発議しようとしたときになってから、恣意的な手続き運用や一方的な解釈によって不公平・不公正な国民投票を強行したりすることを許さないためにも、今の段階で国民投票についての議論を深め、少なくとも公正・公平な国民投票を保証されるような手続き・ルールを定め、国民の共通理解を形成しておくべきだと考えるからである。 改憲反対運動の中に、「たとえ現在の自公案や民主党案の問題点が改善されたとしても、国民投票法は改憲手続き法だから容認できない。どんな内容でも、国民投票法そのものが必要ない」という主張があるが、憲法第96条に基づく国民投票自体を否定し、96条の「憲法改正」条項自体を否定するのだろうか。より公正な国民投票法の「改善」自体も否定するのだろうか。憲法改悪は絶対に容認できないとしても、96条は厳然として存在する。であれば、改憲は国民投票によって決するという規定をもっと積極的に活用すべきではないのか。96条は「改憲推進の手続き」であると同時に、「改憲に対する歯止め」でもあって、私たちはその後者としての役割を最大限生かして「9条破壊」を阻止するためにこそ、公正・公平な国民投票手続き・ルールを作ることに全力を注ぐべきではないか。 それに、憲法にその規定があるのに、改憲手続き自体を否定し、国民投票法も必要ないという主張が国民に受け入れられるものだろうか。当然ながら、国民投票によって改憲案を葬るべきであって、改憲を阻止するために国民投票自体を認めない、あるいは先送りさせるという論理は国民にはきわめてわかりにくいし、実際の運動としては成り立たない。 それに、今の国会勢力分野からすれば自公案、民主党案、あるいはその協議によって「国民投票法」が成立することは目に見えているのであって、だからこそ今、より適正な、より公平・公正な国民投票法を作る過程に積極的に参加すべきでないか。実際に国民投票法が成立したときに、『改憲手続き法だから従わない』『不公平な手続き法だから認めない』などというわけにはいかないのだから。 私たちは、先に合併反対運動の中で、住民投票を経験した。あれは合併手続きとしての住民投票であったし、圧倒的に推進派に有利な状況の中で進められたが、私たちは究極の民主主義手続きとしての住民投票を真正面から受けとめたのではなかったか。 同様に私たちは、国民の多数を結集し国民の意思を確認する民主主義の手続きとして、よりまっとうな国民投票法を積極的に要求し生かしていくべきではないだろうか。 |
「傍観」は「賛成」と同じこと T(本町) この夏、第3回東京平和映画祭で「六ヶ所村ラプソディー」という映画を見ました。この村では、使用済み核燃料再処理工場が建設され、すでにウラン試験が始まっています。村人は、最初は処理施設建設に反対します。しかし、国からの圧力と多額の資金援助を受け、次第に反対運動は影を潜めることになります。加えて、この村では沖縄の米軍基地と同様に、工場が雇用問題解消という役割を担っていることから、事態はさらに複雑化しています。 この映画の中で、村人が「私は、わざわざ反対運動を起こすのは面倒だし、賛成だと言わないんだからいいと思っていた。しかし、ある時反対派の人に、『反対しないのは、容認ということなんだよ。容認というのは賛成と同じことなんだ』と言われて、自分は賛成ではない、声をあげなければいけないんだと考え直した」というようなシーンがあります。 反対の声をあげることは、容易なことではありません。しかし、私たちはせめて傍観しているのは賛成と同じだという認識を持つべきではないでしょうか。9条の改悪を何となく容認する人を増やしては絶対にいけないのだと思っています。 まとまりませんが、私は微力ながら出来る限り反対の声を伝えるお手伝いをしたいと考えています。みなさま、これからどうぞよろしくお願いいたします。 |
教育とは、引き出し、育てること S(青葉) ここのところ、大田堯先生(教育学者)のお話を聞く機会が何度かあり、教育とは何かについて考えさせられました。私は教員でもないのですが、ただ、一人の大人として子どもとかかわるとき、このことは重なってくるものでもあります。同時に今、国の方向が私の望まない方向に行ってしまうことに大きな不安を感じています。 そんな今だからこそ、本来の「教育」というものはどういうものか、大切なことはなんなのかを多くの人と考え合いたいと思っています。 今、教育基本法は教育勅語でなされようとしていた「強化すること」に向かっているのではないでしょうか?「教化」とは大田先生はタテ社会の中においては、上から下へ何かを教え込み「同化」を求めることと言っています。 しかし、本来教育いうのは英語の「エデュケーション」の意味で「引き出す」が語源なのだそうです。子どものその子その子の「その気」「やる気」を引き出すということだと言っています。「その気」とは自分で考え自分でつくり出していこうとする力「自己創造力」であり、教育とはそのことを助けていく仕事であると言っているのです。 このように考えると、今回の教育基本法改正は、個性、人格を持った人間を創りだすことより、強化により国の方向に忠実に従う人間を創りだしていこうとしているということがよくわかります。 もうすでに、いろいろなことが行われています。「こころのノート」の使用、「愛国心」の評価、国家、国旗の強制などなど。そして、自由に意見が言えなくなる教育現場、報道も真相を知るにはその「裏」を考えて見たり聞いたりしなければならないような現実。 「教化」という方法により過去の戦争でどれだけの人が犠牲になったのでしょうか。なぜ反対しなかったの?と聞くと「いつの間にか戦争になっていた」とその時代成人だった人が言っていました。沖縄では、米軍が来たら何をされるかわからないからと自決した人が沢山いたと聞きます。家族が「殺される」「強姦される」くらいならと、自分の手で殺そうとした人もいたそうです。 しかし、その後の米軍の対応から、生き残った人は日本の軍隊から教えられたことは本当ではなかったと知るのです。 「疑うことをさせない、こういうものだと教え込む」このことがどれだけ愚かな行為か、戦争を体験した多くの人が身をもって知り、反省しているのです。 それなのに何故?、と思います。 自分で考え、自分で判断し選んで生きていく力をつける。それを助けるのが教育のはず、絶対に「教化」の方向にすすんではいけないと思います。 |
虹の彼方に S(南5) 「虹」という言葉から何を連想しますか、と問われたら、たいていの方は「虹の彼方に」のような、夢の架け橋と言うか、何かロマンチックな世界を思い浮かべることと思います。そして、それは決して間違っていることでも、非難されるべきことでもありません。しごく当たり前のことだと思います。 でも、歴史上には(しかも、今から100年も経たない日本において)、「虹」に関連して、極めて深刻な事件もあったのです。今日はそのことをちょっとおしゃべりしてみたいと思います。それは、「白虹事件」という言論弾圧事件です。 現在の日本の在り様を考えると、なんとなく気になるものですから、しばらく前に自宅から久しぶりに見えた虹を眺めながら、ついそんなことを思い出しておりました。とても綺麗な虹でした。 歴史好きの私のひが目かもしれませんが、一般的に言って、日本では自分達に身近な、近現代の歴史知識の普及が、あまりにも貧弱な気がしてなりません。つまり、自分達や両親、祖父母といった身近な人々が、なんらかの形でからんでいる、近現代の歴史を人々があまりにも知らなさすぎるように思うのです。そしてそのことが、第2次大戦後60年余を経過し、経済的な支援をいくらしてもなお、日本や日本人が、アジアのほとんどの国々から、どうしても心の深いところで信頼を得ることができない、大きな原因のひとつのように思います。 「白虹」つまり、白い虹などという虹が本当に存在するのか否か、私は知りませんが、漢文で「白虹日を貫く」と言うと、それは国の大乱、革命を意味するのだそうです。そのことをまずご記憶ください。 話は、1918年(大正7年)にさかのぼります。大正デモクラシーが頂点を極め、前年秋のロシア革命が、世界中を震撼させていた時期のことです。 1918年8月、シベリア出兵をあてこむ米の買占めによって米の値段が暴騰しました。あまりの不条理さに、富山県の漁村のおかみさん達が大挙して近所の米屋におしかけ、打ち壊しを始めたことに端を発した「米騒動」は、たちまち全国に広がりました。 東京・大阪・神戸などの都市では焼き打ち、強奪の大暴動となり、政府は警察だけでなく、軍隊までも動員して、力ずくで事態を収拾しようと懸命でした。 時の首相は、長州閥、陸軍出身の寺内正毅でした。内閣は暴動拡大防止を理由に8月14日、米騒動に関する一切の新聞報道を禁止しました。報道の全面規制です。 それに対して、新聞記者側は全国的に呼応して「禁止令の解除」および「政府の引責辞職」を要求し、記者大会を開きました。8月25日に開かれた関西記者大会には、九州からの出席もふくめて86社、代表166名が参加し、それぞれ強く政府を弾劾しました。 大阪朝日のその日の夕刊には、大会の記事が掲載されましたが、その中に「白虹」という言葉がありました。 「『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆しが……人々の頭に電の様に閃く」という文章です。そしてその一節の前には、「我が大日本帝国は、今や怖ろしい最後の審判の日が近づいてゐるのではないか」とあったのです。 かねてから言論弾圧の機会をねらっていた、寺内首相は絶好の機会とばかりに、ここで一挙に攻撃に出ました。朝日新聞の報道を「朝憲紊乱罪」(天皇制国家の基本法を乱す罪)という当時最大の罪にもあたるとし、新聞紙法違反により、これも最強力の罰則である「発行禁止処分」、つまりは廃業、会社解散に追い込もうとしたのです。 当時は稀代の悪法、治安維持法はまだ成立していなかったのですが、そのわずか7年後の1925年(大正14年)には、政府は治安維持法を強引に成立せしめ、1928年にはさらに改悪して、恐怖政治の道具として大いに濫用しました。 検事局は問題の記事の筆者である大西利夫記者と編集兼発行人の山口信雄氏を起訴し、各6ヶ月の禁固刑の上に、朝日新聞の発行禁止処分を求刑しました。右翼のボスの組織である大同団結浪人会は、朝日新聞を「非国民」と断じて、その処分に関して司法権を監視すると決議しました。 朝日新聞の村山社長は、当局に対して監督不行届きを陳謝し、社内の粛正を誓いましたが、9月28日、新聞社からの帰途、大阪・中之島公園内で数名の暴漢に襲われました。 乗っていた人力車は転覆し、村山は暴漢に杖でなぐられたのちに「代天誅国賊」としるした布切れを首に結ばれ、石灯籠に縛りつけられました。 暴漢たちは、「檄文 皇国青年会」と記した印刷物数百枚などを現場に残して逃走しましたが、その後の調べにより、黒龍会の所属であったことが判明しました。 結局、寺内内閣は9月のほぼ同時期に退陣し、9月29日、原敬が首相兼法相となりました。原は郵便報知新聞の記者から大東日報の主筆をへて外務省に入った経歴の持主であり、その後にまた大阪毎日から請われて契約社長に就任したことさえあるという、新聞界を熟知した人物でしたので、かえって新聞操縦術にたけていたと言えるのかもしれません。 村山朝日新聞社長は、原を訪れて寛大な処置をもとめ、編集首脳とともに自分も辞任することによって、朝日新聞は「発行禁止」、つまりは廃業をまぬかれました。 原は朝日新聞新社長の上野理一を電報で呼び寄せ、「鈴木司法次官立会にて」決意をたしかめ、起訴された社員に対して、判決には控訴しないよう説得することまで約束させました。 この会談の3日後にあたる12月4日に、2人の被告はともに「禁固2ヶ月」を言い渡されましたがが控訴せず、朝日新聞は発行禁止処分=廃業処分を受けなかったのです。 政府の理不尽を弾劾する新聞記者の大会を開催できるような社会的環境が、かろうじてでもあった時期から、ほんのわずかの間に、全国の新聞は、朝日新聞が受けた脅しに震え上がり、メディア本来の役割を放棄することになったのです。 流れは始まるとあっという間に奔流になります。甘く見ていると、いつの間にかとんでもない事態になってしまったという事例が、近現代の世界の歴史にも、わんさとあります。だからこそ、私達は実際は何があったのかをよく知るべきなのです。また世の中には残念ながら、そうした事実を多くの人には知らせたくない人々がいるのも確かなのです。 本来は、美しい、夢の架け橋であるはずの「虹」から、こんなことを連想しなければならないのは、私自身にとってもたいへん悲しいことですが、これからもこんな意識は決して捨てないつもりです。 「白虹事件」、どうかあなたもご記憶ください。あの1918年(大正7年)の「白虹」の彼方には、なしくずしの戦争と悲惨への道が開かれていったのです。でも、先日私が見た虹は、本当に美しいものでした。 |
この頃思うこと 私が終戦を迎えたのは、国民学校5年生だった。戦時中は「鬼畜米英撃滅」「撃ちてし止まむ」の軍国少年だった。もちろん、私だけではなく、友達全員がそうだった。今から思うと、当時の「一億火の玉」の教育の結果である。 現在の、駅頭宣伝でのビラ配布に対し、特に若い人たちの無関心ぶりを見ても、人を押しのけての「立身出世」と「財産獲得」が目的の人生になってしまったことも、教育の恐ろしさを感ずるこの頃です。 この久喜にも「九条の会」があり、日本各地にできたということは、日本の将来に明るさを感ずるが、でも将来を考えると、もっと若い人たちが、大勢入会するような世の中になればいいなと思うこの頃です。 |
なぜ、「九条の会・久喜」に参加したか 戦後の食料難の大変な時代を過ごした者であれば、何故こんなことになったのかを考えるのは当たり前のこと、二度と戦争はすまいと誓って新しい憲法を定めたことをすっかり忘れ、性懲りもなく憲法を改悪して「自衛軍」なるものに名をかえて、アメリカ軍と行動を共にしようとする意図には反対です。戦後の新しい憲法・教育基本法の下で教育を受けた者として、今の憲法がすべてよいとはいえませんが、(特に第1章の天皇条項は民主主義とあい入れない)それでも自民党の「新憲法案」とは違う徹底した平和指向の憲法であることに間違いありません。現憲法の前文は何度読んでも、どんな時代にも通用する格調高いものです。 第9条についても前文の理想を示しており、これをかえようとする勢力の意図は見え見えです。この条項は私達の国が誇るべきものです。この条項、とくに第2項をかえようと声高に宣伝されておりますが、これだけの理想をかかげた条項を現実的でないと、ないがしろにする論には組みすることは出来ません。憲法「改正」に賛成する人々がかってより多くなったような気がしますが、多数の声が常に正しいとは限りません。信じたところにしたがって、出来る方法で運動を進めていくことが大切だと思います。 「九条の会・久喜」は様々な情報の飛びかう今の時代にあって、何が真実であって正しいことであるかを見極める目を持ち、時代に警鐘を打ちならす会であることを期待したいと思います。そんなことを願って地元の平和運動に無関心であってはならないと考え参加した次第です。 |
もう戦争は起こらない、 悲しい思いをする人はいなくなる 「こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことを決めました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。」「もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。」さらに挿絵が一枚。「戦争放棄」の文字がある大きな釜に飛行機や戦車が詰め込まれ燃やされ、釜の下から電車や客船や消防車が出てきます。 文部省の教科書「あたらしい憲法のはなし」(1947年8月発行)の「戦争の放棄」の一部です。当時、私は小学生ですが、中学生だった兄が見せてくれたこの教科書を読んで非常に印象深く感じました。二度と戦争をしない、軍隊も持たない、ということはよく分かりました。もう戦争はおこらない。これからは、私の家族のように、父が戦死をし、悲しい思いをする人はいなくなる。そう強く思いました。これが私の日本国憲法と9条との最初の出会いです。 実は、私の父は1945年7月2日、フィリピンのルソン島で戦死したのです。8月15日の終戦の少し前のことです。36歳でした。母と子ども5人が残されました。日本の自衛隊はいま海外派兵でイラクにいますが、憲法9条2項があるため、「武力行使」も戦争もできません。日本はまだ「戦争ができる国」になっていないのです。これが、不満なアメリカと財界、改憲勢力は憲法9条に狙いを定め、日本をアメリカに従って「海外で戦争をする国」にしようとしています。私の憲法との出会いとその思いは憲法を守るという私の原点です。 「九条の会」は、私の思いに応えてくれるでしょう。みなさんと力をあわせて、この素晴らしい憲法9条を守るために、微力ながら頑張りたいと思います。 |
憲法の精神、人と人との信頼関係 子どもが犠牲になる事件が後を絶たない。久喜でも防犯対策が重視され、親は地域に監視の目を向けざるをえなくなってきた。小学校にも警備員が置かれるそうだ。そんな雰囲気の中にいると、子どもに笑顔で近づいてくる人にも、なんとなく疑いの気持ちを抱いてしまうときがある。このままでいけば、他者との距離は開くばかりだ。親がそんな気持ちでいれば、子どもにも伝わるだろう。子どもにとって、他者が警戒の対象でしかないとすれば、悲しいことだ。そして、そんな関係の先に戦争の根っこがあるような気がする。 日本国憲法は、前文で「平和を愛する諸国民」への信頼を前提にしているから、9条で武力をもたないと宣言できる。戦争をしたがる政治家は、「あの国は信用できない」と言うかもしれないけれど、私たちはその国に住む人たちと信頼関係でつながることはできる。 そのための第一歩として私たち大人は、子どもたちに「人は信頼できるんだ」「違いを認め合えばいいんだ」ということを示してあげなければいけないと思う。それは、身近なところから始められる。自分は家族と、友人と、隣人と本当につながっているだろうか。どんな場面でも相手の存在を尊重しようと努力をしているだろうか。心の中の差別や排除、対立の意識に気づいているだろうか。そんなことを自問しながら、久喜という地域のなかで憲法9条を考えていきたい。「九条の会・久喜」が、そんなふうに地域の多様な人たちがつながれる場になったらいいと思う。 |
やっぱり九条・・・年賀状に返事なんて初めて 「九条の会・久喜」では、シンボルマークをあしらい、第九条の文言をいれたハガキを作りました。そこで、今年の年賀状には、このハガキを利用して、例年のように150枚ほどを発送したところ、思わぬことに数人の友人から折り返し賛同の返事が来たのです。私は褒められて嬉しかったよりも、この賛同に励まされて、なにがなんでも九条は護ろうと再確認しました。 ●世田谷区北沢 S・Wさん 賀状を拝見してハッといたしました。一人でも多くに人に伝えたい大切なことを賀状に託して送ること!ホント!それなら宛名書きがたいへんでもがんばれると思いました。 歩を速め懸命に生きむと誓いけり S子 ●練馬区石神井 T・Hさん 練馬の「九条の会」はちょっと元気がないのですが、参加することに意義があるのですね。 ●鷲宮町 Y・Sさん 私も九条の会に参加しています。 ●日立市諏訪 S・Fさん 平和を表す母と子のすてきなおハガキありがとうございました。若くして戦争未亡人になった姑が、98歳の長寿を得て他界しました。心から世界の平和を願っています。 ●町田市玉川学園 M・Yさん (90才からの電話) 今年の年賀状では、あなたの年賀状が一番よかったよ。いい絵だ。すごい、本当にいい絵だ。私もね、頑張らねばと思った。 ●小金井市緑町 M・Tさん 「九条の会・久喜」ですね。やっぱりがんばってるんだナって、嬉しくなりました。私も、頑張ろう。 |
「諸君、死なないで呉れ!」 ここにご紹介するのは、私の母校の同窓会誌に、しばらく前に掲載された戦中派の卒業生が寄稿された一文です。なぜかこの方の文章は、私の心を打つものがあり、捨てられずに切り取って保存しておきました。1944年(昭和19年)に大学に入学された方ですので、もう80歳近い方だと思います。 私はこの方と面識はないのですが、日本国憲法を取り巻く現在の状況を見て、この一文をご紹介させていただきたく思います。 引用した文章は一部割愛はしておりますが、私がつけ加えたり、書き変えたりは、一切しておりません。ただし文中に登場するお名前だけは、イニシャルにしました。凛とした、古典的な(私にとっては)言い回しもあります。 『私は昭和19年に入学した者であるが、以下に記することは、同期の多くが共有する貴重な体験である。 昭和19年10月、戦局は日々我が国に不利に展開、軍官血道をあげての戦意高揚宣伝にも拘らず、国民に暗い影をなげかけていた。「撃ちてし止まん」が何時しか「一億玉砕」に変わっていた。 既に通達により、校内での学生の集会が禁止されているようなこの時期に、講堂において本校学生による出征学徒壮行会が開催された。前年度の学徒出陣、徴兵繰り上げによる応召、学徒動員等により、学内の学生数は激減し、校舎は閑散としていた。それでも動員先より作業衣のまま参集した学生も多数見えて、当日は極めて珍しく、講堂の座席は八割方も埋まる盛会であった。 二、三の教授の壮行の辞に続き、Y教授が演壇に立たれて、第一声が力強く放たれた。「諸君、どうか死なないで呉れ!」一瞬私は自分の耳を疑い、場内は水を打ったような静けさになった。戦場で君国のために死ぬことが、日本男子の最高の名誉と賞賛され、生きて変えるなどとは口が裂けても言えない時である。教授は続けられた。「今や世の中は真におかしくなっている。一億玉砕などと叫ばれ、街には死にたがっている者があふれている。死にたい奴は、死なせたらよい。しかし、諸君には生きていてもらわねば困る。国民が死に絶えた戦勝国など考えられるだろうか?戦争に勝っても負けても、国家が直ちに必要とするのは諸君なのだ。生きるためには、前に進めと言われたら、後ろに下がることは考えられぬものだろうか?右に行けと言われたら、左に行くことは考えられないものだろうか?どうかあと2年、いや時局下2年が無理なら、1年でも何とか生き延びる方法を考えてもらいたい。その時間稼ぎのためには、幹部候補生志願でも何でもよい、ぜひ方法を考えて欲しい。」これだけのことを言われて、教授は降壇された。会場は粛として声もなかった。 学生の答辞はなく、壮行の辞に引き続き、Hさんがピアノを演奏した。そして演奏を終えるや自ら進んで演壇に立ち「本日は思いもよらぬ、こんなすばらしい会にお招きいただき感激しております。ただいまは戦いに向かう若者の情熱を讃えたショパンのポロネーズを演じました。行く日があれば、必ず帰る日もあるはずです。ご凱旋の時には、ぜひともまたお招きいただきたい。皆様お健やかに…」と挨拶された。両手を前に固く結び、両眼よりとめどなく溢れ出る涙は、頬を伝って流れ落ちた。 実は、当時伝え聞いたところでは、Hさんは初め出征壮行会なら出演しないと、固持されたが、べヒシュタインのピアノ(当時日本に3台しかないといわれたドイツ製の世界的名器)があると聞き、まさかと驚き、それではそのピアノを弾かせて頂くためということで承諾されたとのことであった。当日駅に降り立った彼女は、思わず昔過ごしたウイーンの森を思い出すといわれたことが印象に残った。 中学時代に軍国少年として徹底的な教育を受け、その時1年生だった私にはY教授の壮行の辞は、非常に重大だが、翌日には、早速憲兵が来校、壮行会に出席した学生にY教授の話の内容を聞き廻っていた。 その後11月には、三鷹の中島飛行機工場が空襲で大きな損害を受け、翌日には腕章も物々しく憲兵が数人学校に現れ、続いて軍人先導で工作機械類がトラックで次々と運び込まれ、講堂は一夜にして軍需工場と化した。そこに置かれていたべヒシュタインも急遽片づけられた。 私はその後まもなく現役応召で満州国境守備部隊に配属され、20年8月ソ連軍の怒涛の侵攻に玉砕隊も出たが、辛うじて生き延び、終戦とともにシベリアに抑留され、炭坑苦役1年半、22年春に復員、母校に復学した。私は国家に必要とされた者だったかどうか、齢80歳近くになり、今も生きております。』 お読みになられていかがでしたか?こんな時代が、わずか60年余り前の日本には現実にあったのです。忘れてはいけないこと、次の世代に、きちんと伝えていかなければいけないことが、ここには確かにあります。私は母校での4年間に、たいして勉強したわけではありませんが、この文章を読んで、このような文章を書いた先輩と、このようなことをおっしゃった先生の折られた、あの学校で学べて幸せだった、とあらためて思います。そしてまた、人間の尊厳を否定し、自由な思考を圧殺した、あんな時代は2度と作ってはいけないとも。 憲法改悪は、十分にその第一歩になり得るのです。 |
戦災は一度でごめんです! 昭和20年5月の空襲で、私は焼け出されました。未だ夜の明けきらなぬ頃、けたたましいサイレンで起こされました。間もなく空を赤く染めた炎と熱風が迫ってきたのです。落下する焼夷弾は、途切れることなく雨の様でした。覚悟はしていましたが呆然としました。我が家にも火が移ってきたので、家から飛び出した私と弟二人は、池袋方面から避難してきた人達の群れに混ざって、飛鳥山に向かって逃げました。赤羽まで行った時、汽車が動かない事を知り、絶望状態におち入りました。 防空壕は皆満員で、仕方なく焼け跡の我が家に戻りました。まだ燃えきらない本の束、炭化してしまった、とっておきの砂糖、きな臭い土台の上に座って、涙も出ず無言でした。翌日、赤羽から汽車が出て、両親と妹がいる久喜に来ました。煤だらけの私達を両親は涙で迎えてくれました。命だけでも助かったことは何よりでした。連日の空襲に備えて、王子の学校へ出勤する時は、胸に名札、防空頭巾と救急袋を肩から下げたモンペ姿でした。混んだ汽車は窓が出入り口になっていました。時には貨物車のこともあり、惨めなものでした。 原爆が投下され、終戦を迎えた時、今までの国民の犠牲は何だったのか、頭の中は空になっていました。 赤紙一枚で戦地に送られ、銃弾に倒れた人、戦地で餓死した人、戦艦と運命を共にした人、特攻隊で出撃した人、夢半ばで尊い命を奪われた若者、その無念さ、遺族の悲しみに耐えた姿、涙せずにはいられません。 戦争は、「殺すか。殺されるか。」かけがえのない命の奪い合いです。何と悲しく、痛ましいことでしょう。 戦死した兄も、紙切れの入った白木の箱で21年に帰還しました・・・。 |
老友への手紙 先日はお手紙ありがとう。お元気の様子、なによりです。 さて、このたびの衆院選、貴兄の予想は(残念にも)見事的中して、自民党の大勝。しかし、公明党と合わせ3分の2を超えるとは、貴兄も考えていなかったのでは。これで憲法改悪への第1段階は完全にクリアーできる…などとは甘い判断で、9月13日朝刊の新議員たちへのアンケート結果によれば、『朝日』では87%、『毎日』では84%の議員たちが「改憲派」とのこと。いやはや勝負はもうついたのでしょうか。選挙運動期間中ほとんど争点にもならず、自民党など、直前に発表した憲法草案など忘れたような顔をしていたというのに。 まあ、早まって、無理に憂い顔をするのはよしにしましょう。あの草案を見て、あいつらも苦労するなあ、としみじみ感じたものでした。現行憲法を叩いているだけなら気楽なものですが、実際に文章化するとなると…。 翻訳臭漂うなどと文体にまでケチをつけていたのに、草案のあのアクロバティックな文章は何でしょうか。あれは急ぎみつくろったもので、11月には、また新しい案が出てくるとか。穏健保守から極右まで混在している自民党内の主張を一つ文章にまとめるには、まだまだ時間がかかるのでしょう。 もっとも、憲法それ自体を守っていくだけでいいのか、というしんどい疑問も付きまとってきます。この夏、池田浩士氏の「虚構のナチズム」(人文書院)を読み、強い衝撃を受けたのは、ヒットラーは、当時もっとも民主的といわれたワイマール憲法の下で合法的にドイツ共和国の首相に就任し、その憲法は、ナチス・ドイツの崩壊まで実は生き続けていたことを知ったからでした。 ワイマール憲法の下に制定した「全権委任法」によって第三帝国を作り上げたヒットラーと、平和憲法の一行も変えぬまま、「イラク特措法」などによって、海外に派兵した小泉とが、どうしても重なって見えてきます。 ああ、やっぱり勝負はついたのでしょうか。少なくても、私たちが土俵際に追い詰められていることは確かでしょう。国民投票まで寝ているわけにはいきますまい。朝晩ようやく秋の気配、まずはウォーキングなどに励んで最後の一戦に備えるとしましょう。ご自愛を。 |
第2章 戦争の放棄 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 最近憲法9条、改正論が語られない日はない。しかし、9条の内容を、どれだけの人がどのように理解できているのだろうか、である。戦争中、玄関入り口に表札と並んで、「出征兵士の家」と書かれた表号札が掲げてある家が羨ましかった。「僕ん家のお父さんは陸軍で戦車隊なんだ。」「僕ん家の兄さんは予科練に入ったんだ。」などと子どもの社会でも戦争一色、家族、配偶者の気持ちをよそに、出征していることが子ども同志一気の自慢だった。 私は、身の縮む思いだった。なぜか、私の父は肺結核を患い自宅療養をしていた。当時国の役に立たない病弱者は国賊なのだ。せめての救いは母がミシンで海軍の被服を縫っていた。軍国の母としてミシンを踏みながら国民歌謡「愛国の花」…真白き富士の気高さを…と歌っていた。「災難は忘れた頃にやって来る」(60年周期説)等といわれているが、当時小学生だった私も71歳、終戦時に生まれた戦争を知らない人が60歳になり、戦争体験者は年を追うごとに亡くなり、戦争の恐ろしさ、悲惨さを体験を通じて語り継ぐ人がいなくなる昨今、60年説の不吉な世相が疑懼(きぐ)される。一度決まった法律や体制は簡単には変えられない。私は少年時代軍国主義教育で育ったせいか少年の頃は将来大人に成ったら、お国のために生命を的に戦い国を守る帝国軍人に成る事を心に誓っていた。純粋な子どもたちまでも、体制によって精神教育されてしまうことが大人になって分かった。教育の恐ろしさを日々感じている。 時代の流れとともに国民の意識も大きく変わり、政治も体制も変わる。しかし、その変遷をもたらすのは、私達国民であることを忘れてはならない。政治を司る代議士先生は、私たちの意思によって選挙された方々なので、今後の動向を見守りたい。どんな善人でも疲弊すると、鬼蛇に変わることも体験上、心すべきと思う。それが戦争の悲惨さであり、後遺症なのだ。戦争が終わっても、受けた痛手は一生涯癒えないことを申し添えたい。国民主義・平和主義・基本的人権の尊重・と9条の堅持。永遠の平和を後世に伝え断固継続したいものだ。 |
真の自衛は非武装中立である! 憲法9条と自衛権について考えてみたい。「自衛権は国家固有の権利であって、憲法以前の問題である」という主張がある。はたしてそうであろうか。おおよそ「自衛」という言葉こそ時の国家権力に都合よく利用され、戦争の口実にされるものはない。やたら「自衛」を強調される時こそ危ないのだ。イラク戦争に対する米国がそうであり、北朝鮮に対する我が国の過剰な警戒心がそれを示している。ポテドン攻撃が今にもあるかのように騒ぎ、迎撃ミサイルを米国と共に開発しようという政府の政策は、まさに、「自衛」をカサにした戦争準備である。 今日、憲法9条の精神を骨抜きにしようという勢力に打ち勝つためには「自衛」のためなら軍備を持つことも、戦争をすることも当然であるという俗論を粉砕しなければならない。「自衛」の影に『侵略』があったことは、歴史が証明しています。われわれは、今こそ徹底した非武装中立の平和国家を目指そう。政府は自衛隊を憲法の中に位置づけようとしている。この野望を打ち砕くために全力を挙げて闘おうではないか。 稿を進めているとき、衆議院選挙の結果が耳に入ってきた。なんと自公連合が3分の2に達する当選者を出したというラジオ放送である。郵政民営に問題を絞り、内容のない改革を叫び、有権者を幻惑する謀略的選挙戦術を奔して翼賛国会に導いた小泉首相は、今後、ますます危険な道へ突き進むであろう。 加えて、自衛隊を憲法の上で位置づけることを内容とした憲法改正論者である前原誠司氏が民主党の代表になったことも続いて報じられた。戦争の悲惨さを経験しない年代の者が、国の指導者になろうという時代において、われわれは、あくまでも平和憲法を守るため死力を尽くさなければならぬことを痛感するものである。 |
子どもに『日本は絶対に戦争はしないのよ』といえるように! 私は、今まで憲法のことを改めて考えてみることもなく、平和に生きることが、当たり前のこととして生活してきました。 まだ子どもが幼い頃、なぜそう思ったのかは分かりませんが、「お母さん、日本は戦争はしないよね」と私に度々聞いてきました。私はその度に「日本は絶対、戦争はしないのよ」と言って聞かせてきました。それから十五年経った今、世界に誇れる平和憲法の改正案が出されるとは、夢にも思いませんでした。 憲法の前文にもあるように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあり、その上で、憲法九条には「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、永久にこれを放棄する」とされています。 私たちは、戦争を体験した私たちの親が、子ども達のために平和を願ったように、次の子ども達のためにも平和が続くことを願ってやみません。 今の平和は当然あるべきものではなく、過去の過ちから生まれた二度と戦争は起こさないという決意と努力の上に成り立っています。憲法の中にも「主権が国民に存する」とあり、私たち自身が平和を維持することに関して真剣に学び、考えていかなければならない時期に差しかかっていると思います。 一人一人の声が「九条の会・久喜」を中心として集まり広がって大きな力になることを期待し、皆さんと共に活動していきたいと思います。 |
早乙女勝元さんのお話を聞いて 戦争はとてもひどいことだ。と私は最近改めて思いました。なぜかというと、8月6日に広島で行われた、平和記念式典をテレビではじめて見たからです。 また、戦争や原爆の被害に関する番組も、いくつか見ました。その翌日、私は祖父母と一緒に「九条の会・久喜」設立総会、記念講演に行きました。 はじめは興味があって行って見たいと思ったわけではありませんでしたが、話をしてくださっている方達の戦争で親を亡くした話を聞いたりして、本当に憲法九条は必要な物なんだなと強く思いました。 早乙女さんのお話は、実際に空しゅうを体験したことや、戦争が終わった時のことなどが、とても心に残りました。戦争が終わったときは、何が何だかわからなくても、さぞうれしかっただろうなと思いました。いまの日本は、日本国憲法第九条のおかげで60年間もの間、戦争をせずにすんでいます。だから私は、なぜこの九条を変えねばならないのか全く分かりません。せっかく60年間戦争をせず平和な国を築き上げてきたのだから、これからも絶対に九条を変えさせないようにして欲しいし、私も九条を守る活動に協力したいなと思いました。 |
先日、韓国に行って交流したが、韓国の女性が歴史教科書問題、南北統一連帯などの運動で中心的な役割を果たしている。しかも、みな若い20代の女性たちである。日本の憲法九条のことを聞いてみると、憲法九条を守るだけでなく、地域と地域の連帯を強化し、横のつながりが必要である。いま、危機感が弱く、それを超えられないでいるのではないか。と耳の痛い答えが返ってきた。 |