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療養所の女の子

 療養所に入ってからの1週間、俺の気分は落ち込んだままだった。正確には、療養所に入る前から、ずっと落ち込んでいた。1ヶ月前、練習中に膝を捻った俺に、医者は告げたのだった。全治6ヶ月、中学での部活動はもうできない。そして、治った後でも、以前のように運動できるかはわからないと。

 元気の無い俺を心配したのだろう。両親は俺を、入院していた病院から、療養所へと移した。世間から離れて、自然に囲まれたこの環境で、気分でも変えてくれればと思ったのだろう。しかし療養所は俺を、不安な気持ちにさせた。ここにいると、元の生活に、元の足には戻れないんじゃないかと、そういう気分になるのだった。


 少しでも療養所から離れているために、俺は良く散歩をした。足が悪いんだから程々にと言われたが、療養所は松葉杖で坂道を登るのは、予想以上に大変だった。一休みしようと、木陰に座る。体を動かしていないと、どうしてもつまらないこと……野球のことを考えてしまう。3年が引退して、俺はレギュラーになったばかりだった。エースとして頑張ろう、そう思った矢先の、膝の故障だった。

「くそっ」

 松葉杖をぶん投げる。座ったままだったが、杖は予想以上に飛んだ。離れた場所に落ちて、さらに坂をころころと転がって、ずっと下まで行ってしまったようだ。杖なしで、そこまで行かなきゃならない。自業自得とはいえ、まったくついてない。

「ま、どうでも良いか」

 その場で、ごろんと横になる。もう何もかもが、どうでも良かった。そのまま眠ろうとする。日は沈みかけていた。空気は肌寒くて、地面は冷たかったが、大して気にならなかった。

 うとうととしていたら、誰かが駆け寄って来る音がした。寝転んだまま、顔をそっちに向けてみると……

「犬?」

 犬が松葉杖を加えていた。これを拾ってくれたのか。ありがとうと言う変わりに、犬の頭をなでてやった。でも、犬がどうしてこんな所に? 不思議に思っていら、続いて誰かが坂を登ってきた。

「ミカエル、急に走ってどうしたの?」

 やってきたのは、俺と同い年くらいの女の子だった。夕日に彩られた草むらを歩いて、こちらにやって来た。

「あら」

 怪我をして以来、景色なんて目に入っていなかった。久しぶりの夕焼けはとても赤く、その夕焼けに照らされてもわかるくらい、女の子の肌は白くて透き通るようだった。女の子は微笑んで言った。

「そんなところで寝ていますと、風邪をひいてしまいますよ」

 それが、彼女との出会いだった。



 彼女とはそれからも、散歩の途中で良く会った。俺が近くにいるとわかると、ミカエルが駆け寄って来る。彼女もミカエルを追って、こちらにやって来るのだ。

「ミカエルが他人になつくなんて、めずらしいですわ」

 実はいつも、ミカエルのために食べ物を用意していたのだ。食事の際に取っておいたものや、おやつの一部を、こっそりミカエルに上げていた。そうやって、ミカエルを味方につけたのだった。

 彼女は療養所のことをいろいろ教えてくれた。彼女の療養所暮らしは長いようだ。それでもいつかは病気を克服して、また兄上様と一緒に暮らしたい。そう話してくれた。鞠絵ちゃんはお兄さんのことが好きなんだね、そうからかってみたら

「……はい、兄上様はとても素敵な方です」

 彼女は恥ずかしがりもせず、真面目にそう答えた。俺はただ、その日が早くくるといいね、としか言えなかった。



 俺が療養所を出る日が来た。療養所に来て、すっかり元気を取り戻した、そう診断されたのだ。膝の怪我も、順調に回復しているそうだ。彼女も祝福してくれた。一緒に退院できたら良かったのにね。彼女に言ったその言葉は、俺の本心だった。

「また、会えるかな」

 俺がそう言うと、彼女は少しだけ間を置いてから、こう言った。

「もう戻ってきては駄目ですよ」

「……そうだね。もう会うことも、無いだろうね」

「野球、頑張って下さいね」

「あ、ああ」



 結局療養所にいたのは、わずかな期間だった。その後の俺は、高校に入ってから再び野球部に入り、3年の時にはエースになり、県大会のそこそこの所まで行くことができた。中学で怪我した分を、十分取り返したと言って良いだろう。

 ……もし療養所で、あの犬と飼い主の女の子に会わなければ、再び野球をやっていたかわからない。そう考えてみると、女の子は俺を勇気付けるために現れた、天使だったんじゃないだろうか。それくらい、夕焼けに照らされた彼女は、とてもきれいだった。

 あれ以来会っていないが、彼女は退院できたのだろうか。今ではすっかり健康になって、“素敵な兄上様”と一緒に暮らしているんじゃないかな。だって、彼女のあの笑顔はやっぱり、好きな人に向けられていたら良いなと、そう思うのだ。