かもだより No.69  2000年5月 15日(月)

 鯉のぼり

 レンゲ畑の向こうに見える鯉のぼりや広島国際大学の校内の鯉のぼりを見ていると、子ども達が小さかった頃を思い出します。
 存は初孫だったので官舎住まいだというのに大きな鯉のぼりを贈ってもらい、山口県柳井市の海辺の風に吹かれては巻き付き、大変な思いをしながら毎年上げていました。光彦の時は小さめの鯉のぼりを贈ってもらい、官舎の手摺りに付けて上げていました。
 時代は変わっても男の子が元気に育つようにと祖父母と両親の思いを大きく受けて大空にはためいているのです。
 連休中に17才の少年達による凶悪事件が起きましたが、同じ様な思いを受けて育ったのだろうに何故だろうと、同じ年の息子を持つ母として悲しい気持ちになりました。


 乃美尾用水

 田植えが進み水田の美しい季節になってきましたが、乃美尾地区では昔から水に恵まれていたわけではないのです。
 今から400年近く前の江戸時代になった頃のこと、乃美尾地区には70あまりの家があり、ため池の水を利用して細々と米を作っていました。ある日、賀茂郡一帯をおさめるお奉行が来て、家来に「この黒瀬川にそった大草原を田んぼにすることができたら、たくさんの米が出来るぞ、そうすると年貢がもっと取れるようになる。黒瀬川から見事水をひいて田んぼを作ってみよ」と命じたそうです。
 お奉行から命令を受けた家来は、さっそく庄屋の脇・森房・土肥に相談し、乃美尾の農民らにも手伝わせようとしました。
 「もしこの工事がうまくいけば、お前たちにも新しい田で米を作ってもらうことになる、しっかり働いてくれ」と伝えたそうです。
 二男坊や三男坊の中には「わしらも米を作ることができる。そうすれば、乃美尾を離れて他の土地へ行くこともなくなる。よしやるぞ」と喜ぶ者もいたそうです。乃美尾だけでは人数が足らないのでよその土地からもいっぱい働きに来させたそうです。
 「がんばりゃあ新しい田んぼで米が作れる」と思って必死に頑張ったそうです、しかし南方の浄善坊あたりを用水路の入り口にしようと工事を進めた家来の考えは失敗し、水がうまく流なかったので、かわいそうにその家来は責任をとって切腹させられてしまい、今ではそこを「切腹の場」と言うそうです。
 次に命じられた家来は、宗近あたりに用水路の入り口を作れば必ず水は乃美尾に流れると考えて工事を再開したそうです。しかし「また失敗するわい」「あげな遠くから水をひいてどうすんな、大ごとよ」「宗近はとなりの村だから、けんかになるぞ」やる気のない農民たちを見て、その家来がみんなに「お前たちが前に掘った南方の川の水面は低くて、川の水は流れてこんのだ、宗近の川の水面なら乃美尾の土地より高いから、必ず水は流れる」この言葉に気持ちを動かされた農民らは、食べる物も満足に無い中で、その言葉を信じてまた工事を一生けん命やったそうです。
 「わしらにも田んぼで米が作れるんじゃ」と、そのことだけをただひたすらに願って頑張ったそうです。そして1611年に完成し、水は見事に流れて行きお奉行や家来だけでなく農民らも「新しい田んぼで米を作ることができる」とみんなだきあって大喜びしたそうです。
 その後乃美尾の二男坊や三男坊、よその土地から来た人達が、それはそれは一生けん命に、用水路のわきに田んぼを作っていったそうです。江戸時代の終わりごろには,むかし70あまりだった家が350位に村が栄えたということです。
 400年も前の人々の造った乃美尾用水が現在にも引き継がれ、次々と田植えが始まる約200戸の農家の田んぼに水が引かれています。