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初回取材日 2006/ 4/30
最終更新日 2006/ 5/12
日影沢金山は今川、武田、徳川の三代に渡って金山として掘られ、 江戸時代慶長年間(1596〜1615)には多量の砂金を産出し、 その金で鋳造した小判が「慶長小判」「駿河小判」です。 日影沢金山の上流には梅ヶ島温泉、下流にはコンヤ温泉があります。 ごゆっくりお越し下さい。 |
日影沢金山遊歩道は、“赤水の滝”から10分ほどの処にあります。梅ヶ島街道を走ると右に、 白鳥大橋が見えます。橋を渡って、林道日影沢線を進んで下さい。途中、金山温泉と魚魚の里が あります。林道の終点に未舗装の駐車場Aと遊歩道案内図Bがあります。車はここに駐車させて下さい。 遊歩道のコースは、枝道があったりで分かりにくいです。案内図を書き写すか、下の図をプリント アウトして確認しながら歩いて下さい。1時間半ほどのコースです。結構きつい場所もあります。ゆっ くり景色を楽しみながら、歩いて下さい。 遊歩道周辺には奉行屋敷や遊女屋敷跡、神社跡などがあり、当時の繁栄ぶりが忍ばれます。 吊り橋や散策路も整備されています。 |
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遊歩道のコースは、はじめ河川に沿っています。でも数分後には山に向かって進みます。 ジグザグの山道@を歩くと、最初の道標Aがあります。更に山道Bを歩きます。結構きつい山道 の途中に休憩用のベンチCがあります。 10分程歩くと丸太橋Dがあります。正面から見た丸太橋Eです。 画像をクリックすると、大きな画像が現れます。 |
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遊歩道を歩き始めて30分。案内板Fに出会います。八幡神社跡Gです。案内板には以下の ように書かれています。 『八幡神社跡と庚申塔』 八幡神社は慶長年間の盛山時に建られたもので、志村氏の先祖が甲州より来往する 際、持参したといわれる御神体が祀ってありました。神殿は嘉永3(1850)年に、拝殿は明 治12(1879)年に、梅ヶ島新田の稲荷神社に移築されました。幕末日影沢金堀衆が新田に 移り、無住の地となったためです。 庚申塔は元禄5(1692)年に造立されました。江戸時代前期の舟型々式で、庚申講結衆 の、名主秋山氏以下5名の銘が見られ、庚申石仏一尊と書かれた両側に「願わくは此功 徳を以て普く一切に及ぼし、我等衆生と皆共に仏道を成ぜん」と、法華経化城諭品の一節 が刻されています。道教信仰に仏教的信仰が加わった見本のような庚申塔として民俗学 的にも評価される。庚申塔造立は、金堀衆の延命と招福にあったが、村の講中の人々が 徹夜で酒食をとるので、村民の連帯につながった。現在でも梅ヶ島新田では、庚申講が 行われています。 八幡神社跡と庚申塔Hの周辺には住居跡と見られる石垣Iがたくさん残っています。往時 の繁栄を物語っています。 更に、道を進みます。右に橋Jがあります。千秋橋Kです。この橋を渡ると、坑道跡に向かい ます。今回は橋を渡らずにまっすぐ進みます。 画像をクリックすると、大きな画像が現れます。 |
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| 吊り橋Lがあります。手すりが赤色のかえで橋Mです。観光用の橋なのか頑丈に出来ていて、 安心して渡れます。 かえで橋を渡った処の休憩用のベンチNがあります。景色を見ながら一休みも良いですね。 さらに進むと、長さ5m程の木の橋Oがあります。橋を渡ると左右に道があります。左に進むと、 吊り橋が見えます。ここは右に進みます。 5分ほどで、小さな橋Pに着きます。長盛橋Qです。 画像をクリックすると、大きな画像が現れます。 |
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| 長盛橋の中ほどの山側に日影沢金山の坑道跡Rがあります。見た目はたいしたことはありませ ん。近くに案内板Sがあります。案内板には以下のように書かれています。 『長盛鋪跡(ちょうせいしきあと)』 貞享元(1684)年駿府町人28名が時の代官近山六左衛門を通じ、江戸勘定奉行の許可 を得て日影沢金山の開発を企図しました。呉服町三丁目難波屋仁兵衛を筆頭に本通り敦 賀屋、桑名屋等で、その後桑名屋は後々まで日影沢金山の開発に尽くしました。修訂駿 河国新風土記には「往古より黄金の多く出したる坑は梅ヶ島日蔭沢なる長盛鋪と云る鋪 大なる坑にて桑名屋六郎兵衛が堀し所なりといふ、長盛鋪の大天井とて金体のありし所 は方二間余りの坑、今に存す」と書かれてあります。 長盛鋪(鋪とは坑道のこと、間歩ともいいます)全長370間(約666メートル)に及び坑内に は鍾乳石化した所があり、昭和初期まで入坑できました。 金含有量1トン当り5kgという金鉱石が産出され、良質のため「江戸幕府細工所御用」と なりました。 坑道跡をそのまま進むと、先ほど見かけた千秋橋Kに出てしまいます。今来た道を引き返す事 にします。 途中で右に枝道があります。きつい坂道を登ると山神様 a があります。近くの案内板には以下の ように書かれています。 『日影沢金山の山神様』 この祠に祀られているのは、日影沢金山の山神様で、坑内作業員の安全と金がたくさん 出るようにと、村の守り神として奉納されたもので祭神は大山祇命である。この山神様には 「元禄6蔵(1693)2月吉日羽州福嶋郡大笹生村施主安田八右衛門」と刻まれている。安田八 右衛門は流浪の金堀師で、長盛鋪の上位に八右衛門造りと称される小地名があるが、八右 衛門が開拓したと思われる。 「日に一両の手間が三年続き、日に一分の手間が十年続いた」と伝承されているが、三 年間の御荷分稼行、十年間は最初の村請稼行の頃と推定すれば、貞享・元禄の活況時に、 多数の山師金堀師が入村したのは間違いない。安田八右衛門もその一人であったと思われ る。大笹生村は現在福島市の北方にあり、附近には幕府主要鉱山として稼行された半田鉱 山があった。 坂道を下り、先ほどの道を進みます。来たときに渡った木の橋Oを左に見て、進むと吊り橋 b に着きます。青色の手すりのもみじ橋 c です。この橋も、観光用の橋なのか頑丈に出来ていて、安 心して渡れます。 先に進みます。しばらく歩くと下り道 d になります。結構傾斜がきつくて、長い下りです。途中で 休みながら、進んで下さい。 画像をクリックすると、大きな画像が現れます。 |
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急な下り道が終わり、山の尾根を進みます。「塔頭の尾根」と言われています。途中案内板 e があり、お墓 f が点在してます。案内板には以下のように書かれています。 『日影沢金山 金堀衆の墓地』 「塔頭の尾根」と称されるこの地に散在する墓地群は、黄金という地宝を地上に出すた めに、情魂を傾けて掘り続けた、日影沢金山金堀衆とその家族の墓である。 苔むし雑草に蔽れた墓は、寛文(1661-73)以降のものが大部分で、あまり大きなのは ない。このことはプロの石工がいる甲州で、墓碑銘を刻して貰い、峠を越えて持って来た ためと思われる。 金堀りは、劣悪な労働条件のため短命といわれ、佐渡では25歳になると、還暦の祝い をしたという。 三十路にて生命たふるといわれたる金堀り達の苔むせし墓< 先に進みます。山道を降りると案内板 g があります。奉行屋敷跡 h の案内板です。以下の ように書かれています。 『奉行屋敷跡』 慶長年間(1596-1615)黄金の産出多く、日影沢金山の産出金をもって駿府の金座で 慶長小判が鋳造されました。金座の長官後藤庄三郎光次が墨書し、金品位を保証した ので、「駿河墨書小判」といわれています。 当時梅ヶ島村は天領(幕府直轄地)で、駿府町奉行井出志摩守正次の支配下にあり ました。その頃此処に金山奉行屋敷や、鏈御蔵と呼ばれた金鉱石の貯蔵所が建てられ ました。 その後、貞享3(1686)年遠州中泉代官近山六左衛門支配のとき、代官の自費で再 建されました。奉行屋敷には代官の手代が常勤し、梅ヶ島村の行政指導や金山の監督 をしていました。 奉行屋敷の前は河川敷です。対岸に魚魚の里 i が見えます。ここで、対岸に向かって進 む道標はありますが、はっきりした道はありません。不親切なコースだなと思いながらも河原を 進みます。結局、川には水が流れていないので対岸に着くことが出来ます。 遊歩道を歩き終えたら、魚魚の里で楽しむのもいいです。 ヤマメを釣って、釣った魚は その場で塩焼きにして食べることもできます。また、魚魚の家(食堂)では、囲炉裏を囲んで、 新鮮でおいしいヤマメ料理や地元で採れた山菜を使った料理を食べることができます。 楽しい一日をどうぞ!! 画像をクリックすると、大きな画像が現れます。 |
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| 交通アクセス |
日影沢金山遊歩道は梅ヶ島温泉の終点2kmほど手前にあります。 梅ヶ島温泉を目標にして下さい。 東名高速の静岡ICから安倍街道、梅ヶ島街道を北上します。 静岡ICから車で1時間半ほど走ります。距離的には50kmくらいです。 道が狭いところがありますが、基本的には走りやすい道です。 |