荘園調査日誌−真国荘・野上荘−
2005年11月9日(水)
野上町の福井・小川地区へ調査の第一歩。
これまで、車でざっと通ったことはあったが、今回は町の教育委員会の方、そして地元に詳しい方にこちらの調査の目的を伝え、その後、現地を案内してもらう。自分一人で車で通った時は、梅本川という貴志川の支流の小河川にそって段差の低いなだらかな棚田が広がっているなぁ、という印象で、それだけでも調査の必要性を感じていたけれど、いったん山が迫ると、これ以上奥には水田はないなぁと勝手に思いこんで途中で引き返していた。ところが、今日、そのさらに奥まで案内され、その「奥地」で見事な棚田とご対面。紀ノ川筋で、集落からちょっと奥に入っただけでかつての棚田が果樹林に転作されているのをイヤというほど見てきたぼくにとっては、かなり衝撃的な光景だった。しかも奥へ入るほどに、ますます棚田が増えてゆく。形状からみると、そんなに新しいニオイは感じない。中世的な、谷から這い上がる「迫田」的な景観が次々に目に飛び込んでくる。
荘園調査もさることながら、これら棚田の調査も必要だと痛感。今後の展開が楽しみ。
2005年11月29日(火)
先日、調査に同行して案内してもらった地元の方から、梅本川流域の用水堰の位置を10000分の1の地形図に書き込んだ地図を送ってもらった。こんなに早く、こちらの意図を的確に理解してもらえるとは思っていなかった。調査の先行きは明るい。お礼の電話をする。
2005年12月3日(日)
今日は、初めて本格的な調査に入る。先日の調査に際して頂いた2500分の1の地形図や、地元の方に送ってもらった用水堰の位置図をもとに目星を付けておいた3本の用水路を実際に歩いてみることに。
今回の調査地域は、近世においては、梅本川を境に東は高野山の寺領、西は紀州藩領となっている。中世ではそれぞれ高野山領神野真国・小河柴目荘と、石清水八幡宮領野上荘に分かれるが、中世では必ずしも梅本川を境にしていない。有名な「神野真国荘絵図」(神護寺所蔵)では、野上荘側が梅本川を越えて高野山領側へと食い込んで荘域を設定している。近世の境界設定は、鎌倉時代以降に、御手印縁起をかざした高野山の、寺領拡大運動の成果とみられる。
今日の調査は、紀州藩領≒野上荘側の用水路を歩くのが目的。まずは、その名称から、荘園の基幹水路であったことが想像される「大溝(おみぞ)」。急流から転じて、河道が湾曲しやや川幅の広がりはじめた位置に堰があった。堰の位置が中世以来変わっていないという保障はまったくないけれど、堰の位置としてはよく考えられた位置にある。後で述べる「小溝」と平行に梅本川沿いの低い位置を流れ、途中、奥向川という、梅本川の支流に用水を流し込み、流し込んだ位置に堰を懸け、奥向川の水を合わせて流域随一の穀倉地帯へと一気に流れ込む。穀倉地帯の入口に立つと、荘園という「人体」を動かすまさに「動脈」が、棚田となった穀倉地帯を力強く流れてゆく様が手に取るように見えて、ぼくにとってはまさに「絶景」にみえる。
この「大溝」に平行し、山際の高い位置を流れるのが「小溝(こみぞ)」。「取淵溝」と呼ぶ人もいるという。この用水路の水の取り方は独特だ。2本の河流が合流する地点において、合流点の直前で1本の河流に堰を懸け、そこで取水した水をもう1本の河流まで導水して流し込み、流し込んだ位置にまた堰を懸け水を取る。合流点より下流で堰を懸ければ堰は1ヶ所で済むのに、こうした方法を採るのには何か訳があろう。合流した後では水流がきつすぎて堰が流されてしまうとか。いずれにしても、この地域の堰は、堰といっても人工の構造物というよりは、河床から露出した自然の巨大な岩盤を利用して水を堰き分けているところが多い。人間が川から水を取るために「堰」という構造物を作り出した、その発想の源を見る思いがする。
最後は、「大溝」のところで述べた奥向川沿いの用水路。3つの堰が懸かっているが、最下流の堰が「奥向きの小溝」と呼ばれ、穀倉地帯に入った「大溝」に平行して流れ、それよりもさらに高い水田を耕作するため、山際に沿って流れている。この奥向川沿いは今はほとんど植林されてしまっているが、鮎になった気分で流れに沿ってどんどん溯って歩いてゆくと、かつての棚田の跡を窺う石積み(石垣)が随所に残っていた。地元の方に案内されるまま、水源に向かってどんどん溯りつつ険しい山道を登ってゆくと、30分ほど歩いたところで水流がほんとに細くなったと思うと、水の湧き出るまさに水源の地にたどり着いた。そこにはヤマモモの木の根元に小さな祠がまつられており、竜王神社と書かれた奉納札が置かれていた。その昔、自らの田と自らの命を潤すこの水がどこから来るのかと、ぼくと同じように水に導かれてここまで来た人が、この地で白い蛇が立ち登るのを見たのだろう。決して見晴らしが良いわけでもない、山の中腹のこの水源の地に立つ祠は、そうした素朴で自然で、敬虔な信仰のありかを物語る。自然と人間が交わるところ。いいものを見せてもらいました−−案内してもらった地元の方に、しぜんとそんな言葉がほとぼり出た。いや、険しい山道を登った後、誰かにそう言わなければ、疲れが癒されないと思っただけかも知れない。いずれにしてもすがすがしい一日だった。
2006年1月22日(日)
昨年末から調査を始めて、全体的な水利系統の把握を昨年中に終えてしまおうと思っていたのですが、年末の大寒波で気持ちがくじけました。こういう時、地元にいると、「またいつでも行ける」と思ってしまい、ずるずると後ろ延ばしになっていけません。東京から通いで紀ノ川流域の荘園調査に来ていた時は、少々のことではくじけなかったのに。。。
今回は、梅本川という、神野真国荘と野上荘を隔てる「境界」の川の東岸、真国荘側の水利系統をたどることにしました。前回は西岸を歩きましたので、その対岸ということになります。
坂本川と梅本川が合流する地点に鎮座する小川八幡宮。このお宮の脇の坂本川に「宮湯(涌)」の取水堰があります。最近コンクリートに改修したらしく、新しく、無機質な堰堤が清流を堰き止めていました。現在の宮湯は、ここを起点に県道三田・生石口停車場線に沿って北へと流れます。現在ではこの幅広の県道が山際に沿って流れていますので、道沿いにほとんど耕地はありませんが、県道が今のように拡幅される以前は、この道に沿って細長い水田が延々と続いていたそうです。宮湯はそれらの水田を灌漑し、その面積は5〜6反だったとのこと。
宮湯の途中、対岸に奥佐々の集落が見え始めた頃、「御所湯(涌)」の取水堰がありました。案内してくれた地元の方が、藪をかき分け、ぼくも必死でその後を追い、10分ほどの藪との格闘の末に、堰の水門に辿り着きました。水門はハンドル式で、用水路は取水口からしばらくの距離は砂利を敷いた素朴な形態をとどめていました。御所湯は、東福井では最大の用水路で、途中からは頑強なU字溝を入れ漏水を最小限に抑えていますが、取水したばかりで水量の多い取水堰付近は、素朴な昔の面影を残していました。ちょっと感激です。
御所湯はその後、奥谷・馬場奥・城谷・峯奥など、小字にない小さな谷をいくつも越え、清水寺という古い観音像を祀る寺の前を流れる川へと流れ込みます。流末を確認することはできませんでしたが、東福井には、現在、集落の中核的寺院として安養寺という寺が別にあり、御所湯という高野山領の村にはあまり似つかわしくない用水の名前と、村寺とは別のこの清水寺の存在との間に、何か因縁がありそうな気がするのですが、それを調べてゆくのは今後の楽しみにしておきましょう。御所湯が灌漑する範囲には、小字の土居があり、地名として、先にも述べた城谷・馬場奥があり、しかも城谷の谷の北側の峯の頂には山城跡が残る。『野上町誌』によれば、この山城跡には三段の曲輪と土塁、空堀、溜池跡があるというから、この点も、「御所」との関係でとても興味深いものがあります。なお、御所湯の灌漑面積は1町8反に及ぶということです。対岸の大溝には及びませんが、東福井ではまちがいなく最大規模の用水路です。
山城のある城谷の真ん前に「中ノ坪湯(涌)」の取水堰があります。ここも、それほど新しいものではありませんが、やはりコンクリートの堰堤です。清水寺の下を流れ、小字井堰前を流れ下ります。また、その途中に「川口湯(涌)」があり、小字井堰前のやや広い水田地帯では、ふたつの用水路が併走しています。途中の北谷という谷でふたつの用水路は合流し、北谷の水も受けて、現在、町の開発公社が宅地造成している小字樫山の水田を灌漑しています。このあたりは、梅本川の最下流にあたり、コンクリートの堰堤の手前になりますので、鮎が遡上し、夏にはホタルが舞うそうです。開発公社の造成した宅地の売れ行きはあまり芳しくないそうですが、勝った人たちにはこうした「自然」が魅力なのだそうです。
西福井に比べ、東福井は水利体系も複雑ではなく、とても分かりやすいものでした。最大の謎は御所湯の命名の由来ですが、「福井」の地名は「噴く井」から来ているそうで(『紀伊続風土記』)、この「井」は、城谷の南麓で安養寺の近くにある「弘法の井戸」にあたると考えられます。こうした高野山に連なる伝承や地名と、もしかしたらその下に埋もれた基層信仰として、聖徳太子創作と伝えられる古仏を祀る清水寺への信仰が重層的に織り重なって展開しているのかな、というのが、現在のところの仮説です。