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[Q] さて、官兵衛は小寺職隆の実子ではない。そうすると、官兵衛の実父はだれなのですか?
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[A] さあ、それも問題の急所だ。官兵衛の実父はだれなのか。この問題に気づくことが大事だね。姫路の旧記には、官兵衛は、多可郡黒田村の黒田重隆の嫡子(実子)だとある。姫路心光寺でも、重隆は官兵衛の父だと言い伝えていたらしい。
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[Q] 姫路の心光寺というのは、先ほどのお話では小寺氏の菩提寺だった寺ですね。
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[A] これは、天明年間姫路へ来て播磨の古記を収集した福岡黒田家臣、山口武乕という人が、姫路心光寺で確認したことだが、長政が心光寺に安置した位牌があった。重隆とその妻(松誉禅尼)そして如水、この三人の位牌だ。この中には職隆の位牌は入っていない。ここで注意すべきは、重隆と松誉禅尼は「如水公御父母」だという話が、心光寺に言い伝えられていたことだ。つまり長政は、重隆を官兵衛の父として認識していた。これも、すでに山口武乕が注目していた点だ。
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[Q] すると、長政の代には、官兵衛の実父は重隆であって、職隆ではなかったと。
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[A] それが肝腎のポイントだ。改めて言えば、姫路の古記では、
(実父)黒田下野守重隆 ― 孝隆(実子)
(義父)小寺美濃守職隆 ― 孝隆(猶子)
ということだ。官兵衛の実父は重隆で、職隆は官兵衛の義父・養父なんだ。
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[Q] その黒田重隆という人は、官兵衛の父親ではなくて、祖父だと、多くの人がそう信じていますね。
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[A] それも通説になっているが、やはりこれも『黒田家譜』『黒田系譜』の貝原益軒が書いている話だ。つまり、黒田重隆の息子が職隆で、職隆の息子が官兵衛だということだね。この「重隆―職隆―孝高」という三代嗣系説は、播磨の古記からすれば、とんでもない謬説だ。それだと、小寺職隆が黒田氏の人間になってしまう。
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[Q] 小寺職隆は黒田重隆の息子ではないのですか? 「黒田」職隆は、小寺政職から小寺姓を賜って、小寺氏を名のったというのが通説ですが。
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[A] それもバカげた話だ。姫路の古記には、そんな話はない。小寺職隆は、小寺則職の息子であって、生れたときから小寺氏だよ。だから、むろん職隆は黒田重隆の息子であるはずがない。播磨の歴史を知る者なら、小寺職隆は黒田重隆の息子だなどという、そんな奇怪な説を思いつくわけがない。
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[Q] すると、これも播磨の事情を知らない貝原益軒の臆測から出たことですか?
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[A] いや、貝原益軒以前からあった説だ。具体的にいえば、話が長くなるから、このサイトの論文集の方を見てもらうことにして、結論だけいえば、これは近江の関係者の仕業。『江源武鑑』の作者が案出した珍説で、寛永系図(『寛永諸家系図伝』の黒田系図)を書いた堀杏庵がそれに追随した。いわば近江産のフィクションだね。
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[Q] その『江源武鑑』の作者や、黒田氏の寛永系図を作った堀杏庵というのは、近江関係者なのですか?
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[A] 『江源武鑑』というのは、その名(近江源氏)の通り近江佐々木流六角氏関係文書だが、すでに近江の学者・寒川辰清が、これは信用できない偽書だと批判している怪文書。堀杏庵は藤原惺窩の門人で、当時尾張徳川家の儒官だったが、これは近江の医者の家から出た人だな。どちらも播磨には無関係な近江の関係者だ。貝原益軒はそんな近江関係者たちが考案した一連のフィクションを流用しているにすぎない。
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[Q] 黒田官兵衛の先祖は近江の黒田氏だという話もですか?
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[A] 黒田家の先祖は、近江佐々木流黒田氏で、その一族黒田高政なる人物が近江を退去して備前へ移ったというのは、『江源武鑑』のフィクションだな。
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[Q] その『江源武鑑』というのは、地元近江の学者が採用できない偽書だと断じた文書ですね?
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[A] 近江の寒川辰清は多数著作のある学者だが、その著『近江輿地志略』で何度もそう書いている。しかも寒川はまた、伊香郡黒田村に黒田氏元祖・宗清の墓があるという貝原益軒の説も却下している。享保年間、地元近江の学者に早々に否定されているのが、伊香郡黒田村が黒田氏本地だという貝原益軒の説だ。だからこれはもともと話にならんのだよ。
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[Q] 近江黒田村説は地元近江の学者にさえ認められていなかったのでしたか。いやはや、なんとも。で、重隆の代に黒田氏が備前から播磨へ移ったという話の方は?
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[A] 重隆の代に備前から播磨へ移ったというのは、『江源武鑑』にはない話で、こっちは堀杏庵が考案した筋書だ。堀杏庵は『江源武鑑』にある黒田高政という人物の存在を認めない。ところが、貝原益軒はそれを復活させた。貝原益軒は両方から流用していろいろ話を改竄しているが、ようするに、貝原益軒のストーリーの基本は、近江産のフィクションだね。黒田官兵衛の故郷・播磨の歴史事情に無知なんだから、もともと荒唐無稽な珍説だよ。
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[Q] すると、職隆が重隆の息子だというのは、九州福岡産というより、近江産のフィクションだったということですか?
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[A] 播磨に何の関係もない、近江原産の虚説だね。職隆が重隆の息子だと言い出したのは『江源武鑑』だが、それをもとに「重隆―職隆―孝高」という三代嗣系説を捏ね上げたのは堀杏庵だ。杏庵は、『江源武鑑』とちがって、播磨の「小寺」職隆という存在を知っている。しかし、職隆は黒田重隆の息子だという『江源武鑑』のフィクションは受け継いだから、職隆の小寺姓は小寺政職からもらったという設定にした。これは堀杏庵の創作だ。「黒田」職隆が、小寺政職から姓をもらって「小寺」を名のったというのは、『江源武鑑』にはない話で、堀杏庵が考案した筋書だ。
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[Q] 堀杏庵が考案したそのフィクションが、今日の通説になっているのですね。
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[A] 堀杏庵が考案した筋書を流用したのが『黒田家譜』の貝原益軒で、そしてそれが今日の通説の典拠になっている。したがって、職隆は重隆の息子だと信じて、「重隆―職隆―孝高」という三代の父子関係を想定する今日一般化した通説は、もとをただせば、九州筑前ではなく近江の人間が考案したフィクションだった。官兵衛が生れた播磨とは無関係の場所で捏造された虚説なんだよ。
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[Q] なるほど。貝原益軒の筋書のベースは、播磨どころか、近江産のフィクションだったと。
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[A] 貝原益軒は近江産のフィクションをベースにしてそれをいろいろ改竄している。たとえば、『江源武鑑』は重隆を備前生れとするが、貝原益軒はそれを近江黒田村生れに書き換えた。あるいは寛永系図の堀杏庵なら、職隆は播磨姫路生れだとするのに、益軒はそれを備前福岡生れに変えてしまった。これは生年との整合性を考えてそう書き換えたのだが、もともと近江産のフィクションをベースにしているのだから、恣意的な改竄だね。むしろ、重隆が備前じゃなくて近江生れで、職隆が播磨ではなくて備前生れだなんて、荒唐無稽という点では、近江原産のフィクションよりもこの筑前産の新作捏造物の方が症状が悪化している。今日の通説信奉者たちは、自分たちがそんなタワけた話を真にうけて信じていることさえ知らない。
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[Q] たしかに事態は嘆かわしいとしか言いようがありません。そういう意味では、黒田官兵衛は宮本武蔵と似た状況にありませんか?
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[A] 武蔵は「五輪書」として有名な兵法書の冒頭自序で、「生国播磨」と明記している。ところが奇怪なことに、いまだに宮本武蔵は美作生れだと信じている者が多い。それは吉川英治の小説の影響だ。小説というのは世間の通説形成に大きな作用をするよ。黒田官兵衛の場合は、吉川英治の『宮本武蔵』ほど決定的な小説はないがね。
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[Q] これまでの官兵衛小説は、司馬遼太郎の『播磨灘物語』をふくめて比較的マイナーなものばかりです。
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[A] その分、武蔵の場合よりまだ救いがあると言えるかもしれないが。ただし、武蔵のケースは、近年研究が進んで次第に事態改善の方向に向っている。それに対し、黒田官兵衛の場合は、めぼしい研究は皆無だ。そのため、先祖は近江の黒田氏で、官兵衛は職隆の息子として姫路で生れた、という妄説を信じている連中が、目下圧倒的多数派だ。小説は相も変らず俗説を再生産するしか能がない。官兵衛小説はマイナーだが、塵も積もれば山となる。そうして通説化した世間の俗説はますます健在だ。
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[Q] 官兵衛さんもハライソ(天国)で苦笑い。しかし、そういう困った事態は早く改善される必要があります。どうすればいいのですか?
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[A] それは言わずと知れたことだ。黒田家前史研究を前進させることしかない。まず研究者たちが、黒田官兵衛の故郷、播磨の史料を読み直して、播磨ではどういう伝承があったのか、それを再認識する、それが先決だ。
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[Q] むろん、黒田氏や小寺氏の本国、播磨では、黒田官兵衛が姫路生れだの、小寺職隆が黒田重隆の息子だのという伝承はない?
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[A] その通りだ。播磨の小寺系図では、職隆は小寺則職の息子だ。もし職隆が黒田重隆の息子だったら、播磨の文書にそういう記録が断片でもあるはずだ。ところがそうではない。『播磨鑑』の平野庸脩は、黒田系図を知っている。この黒田系図は貝原益軒のそれではなく、むしろ堀杏庵が書き出した寛永の黒田系図の方だろうね。その黒田系図では「識隆」は黒田重隆の子だとするが、播磨の小寺系図だと、職隆は小寺則職の長子だとある。変じゃないかというわけだが、とにかく江戸中期の播磨の学者・平野庸脩は、その決定的な相違に気づいている。話は両立不可能だ。どっちが正しいんだ。ただ、少なくとも播磨には、その黒田系図にいうような、職隆が黒田重隆の息子だなんて伝承はなかった。
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[Q] 播磨の事情を知らぬ近江原産の臆説と、播磨固有の伝承と、そのどっちを信用するんだということですね?
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[A] そういうことだね。小寺職隆が黒田重隆の息子だなんて、そんな冗談、だれが言い出したんだ。『江源武鑑』の作者じゃないか。むろん播磨の事情に無知な他国者だ。『江源武鑑』のどこに播磨が出てくる? どこにも出ない。『江源武鑑』は小寺職隆ならぬ「黒田識隆」を一貫して備前の住人にしている。元亀年中(1570年代はじめ)になっても、「黒田識隆」は備前から近江へ出仕してくる。
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[Q] それだと、職隆の「子」は、備前生れの備前育ちになってしまうではありませんか。黒田官兵衛は備前生れの備前育ちなんですか。
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[A] 『江源武鑑』の記事が荒唐無稽なフィクションだというのは、そういうことだね。だから、「識隆」という名の誤記だけではない。その起源まで遡れば、黒田重隆の子・「黒田識隆」なんて人物は、本来は実在しなかったんだ。貝原益軒がいかに弥縫しようにも、それは覆い隠せない事実だった。ようするに問題は、地元播磨の史料にある話と、播磨とはまったく無関係な近江の人間が頭の中で考え出した話と、どちらに信憑性があるか、ということだ。これは議論の余地はあるまい。
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[Q] なるほど、議論の余地はありません。職隆は黒田重隆の子ではない。官兵衛は黒田重隆の孫ではなくて息子であり、そして多可郡黒田村に生れた。真実はそういうことですね?
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[A] 黒田官兵衛の故郷である播磨固有の伝承を確認すれば、事の真実はそういうことだ。ようするに、黒田官兵衛は重隆の子として多可郡黒田村に生れて、そうして姫路の小寺職隆の養子になった。再三いうようだが、これは他ならぬ姫路の古記が書いていることだ。そして言い換えれば、姫路の史料だけでも、そこまではわかる。
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