小寺官兵衛祐隆[後改孝隆。氏改黒田。入道して如水といふ]、播磨國多可郡黒田村の産なり。其所の名に寄て、後、黒田氏に改て、當城に相續して居す[當城ハ姫路也]。(中略)孝隆ハ美濃守の猶子也と云々。 (心光寺旧記)

黒田家前史研究 要点十五箇条  Back    Next 
 歴史上の人物で有名な人なのだが、その人がどういう出身の人か、父母は誰か、どこの生れなのか、詳しいことはほとんどわかっていない、というケースは多い。ところが、黒田官兵衛のばあい、そうした先祖や父母や出生地について明らかであると思われている。
 ところが、それは一般化した「通説」というばかりのことで、本当のところをいえば、実はそうではない。それは江戸時代の播磨の古記録をみれば即座に明らかになるのだが、現在の通説とはまったく違うことが記録されている。
 黒田官兵衛は播磨の出身である。その播磨には、現在の通説とは違う話があったのである。とすれば、黒田官兵衛の先祖に関する通説は一度は疑ってみるのが当然である。ところが、研究者の無知か怠慢か、どういうわけか、そういう播磨の旧記、古記が無視されてきたのである。
 我々は、黒田官兵衛が播磨の出身である以上、まず第一に播磨の記録を重視する必要があると考える。ところが、今日まで通説が根拠としているのは、後世になって遠い九州筑前で貝原益軒によって作成された黒田家前史物語である。それをまともに再検証する研究者も出ず、相変わらず通説が再生産されている。
 黒田官兵衛のケースは、史料がないのではなく、『黒田家譜』のような「正史」が早々に作成されたために、かえって史実が覆い隠されるという結果になった。しかも近代に入って『黒田家譜』のストーリーを鵜呑みにしてしまうという傾向が発生し、謬説再生産に輪をかけた。この弊害は随所に現れ、橋本政次のような地元播磨の研究者でさえ、『黒田家譜』の筋書を無批判に前提にして、播磨の古記を軽視するという悪弊に陥ったのである。
 ところが、すでに二百年以上前に、黒田家中に『黒田家譜』の前史物語を疑う者が出た。その人物は、職隆廟所建設の公務で播磨へ派遣されて来たおり、地元の古記を採集して分析し、そしてどうやら播磨の古記録に書いてあることが本当らしいと結論づけたのである。
 我々の研究は、二百年前のこの福岡黒田家臣、すなわち山口武乕の仕事を継承するものである。我々の研究で得た結論は、たしかに今日の通説とはまったく相違するものとなったが、これは新奇に異説を立てたものではない。我々の論点は、すでに二百年も前に、山口武乕によって宿題として提起されていたものである。我々独自の仕事といえば、その宿題に気づいてそれを継承し、そのうえで、従来知られていなかった重要史料を掘り起こし、それを分析研究したまでのことである。
 以下に掲げるのは、我々の根本史料たる荘厳寺本系図にもとづき、黒田家前史に関する論点を要約したものである。詳しくは関連諸論文に当っていただくことにして、ここでは簡便を期すため、要点のみを示しておく。





心光寺之旧記
播州妻鹿村御塔記



荘厳寺本 黒田家略系図


  【播磨黒田氏嫡流系図】

 ○赤松円光─黒田重光─重勝─重康―光勝―重貞―重昭―重範―重隆┬治隆
                                |
                                └孝隆
                                  小寺職隆猶子



1   黒田官兵衛の先祖は、近江佐々木流黒田氏ではなく、播磨黒田氏である。
 播磨姫路の古記によれば、官兵衛は播磨国多可郡黒田村住・黒田重隆の子である。その重隆が何者かというに、同地の黒田氏系図によれば、多可郡黒田城主・黒田氏八代目である。それゆえ官兵衛の出自は、この多可郡黒田城主・黒田氏である。言い換えれば、官兵衛の先祖は播磨の黒田氏である。
 これに対し、『黒田家譜』の貝原益軒は、官兵衛の先祖を近江佐々木流黒田氏とする。これが現在通説と化しているが、そもそも貝原益軒は、この説をどこから得たか。それは播磨の古記や伝承から得たのではなく、近江佐々木流六角氏関係の偽書『江源武鑑』や、堀杏庵作成の寛永黒田系図を根拠にしたものである。つまり、貝原益軒の近江佐々木説は、その元を遡れば、近江産の説である。播磨の事情を知らぬ近江の関係者による我田引水から生じた虚説である。
 むろん伊香郡黒田村(現・滋賀県長浜市木之本町黒田)が黒田氏根本地だという話も、近江の古記にはない。地元近江の寒川辰清の『近江輿地志略』(享保十九年)の記事によれば、――伊香郡黒田村の穂先長者の墓について、これを黒田判官の墓なりという言い伝えがあり、貝原篤信翁(益軒)も、黒田元祖・佐々木黒田判官宗清の在所だというと記しているが、この墓は姓名も見えないから、これはあやしい話で、黒田「宗清」の墓とはみなしがたい、と記している。
 つまり、寒川辰清によれば、伊香郡黒田村の穂先長者の墓が黒田宗清の墓だとは同定できないというわけである。ようするに、近江黒田氏の本地をこの伊香郡黒田村にしてしまったのは、地元の穂先長者伝説からヒントを得た貝原益軒の筆先であって、もともと根拠のない話なのである。
 これは、『江源武鑑』の作者や、寛永系図の堀杏庵も言わないことだから、この伊香郡黒田村説は貝原益軒の創作新案であるが、むろん脱線した話である。近江においてさえまったく浮いている虚説である。
 ことほど左様に、たとえば『近江輿地志略』より後の、塩野義陳の地誌、『淡海國木間攫』(寛政四年田中信精序)によれば、黒田氏は元祖「宗満」以来、代々、坂田郡黒田庄本郷村(現・滋賀県米原市本郷)に在城していたとある。塩野義陳は江戸時代後期の人で、『江源武鑑』は無論のこと、筑前黒田家の系譜の内容も知っている。にもかかわらず、近江黒田氏は坂田郡本郷村の城を拠点とする一族だったとするのである。そして、貝原益軒の伊香郡黒田村説も併記しているが、これは《明ニ知レ難シ》、よくわからん話だとして異説扱いである。
 ようするに、地元近江では、佐々木流黒田氏の本地は、坂田郡黒田庄だとするのである。貝原益軒は近江の歴史も知らず、伊香郡黒田村説を創作したようである。

多可郡黒田村


*【近江輿地志略】
《穂先長者墓 観音寺にあり。土俗相傳、元弘三年、鎌倉六波羅没落の時、佐々木黒田判官、此地にのがれ來りて豪富となり、穂先長者といふ。則黒田判官の墓なりといふ。貝原篤信翁も、黒田元祖佐々木黒田判官宗清の在所なりといふと、諸州巡りの記にしるされたり。此墓、姓名も見へず、不審し。黒田宗清の墓とも極めがたし》(巻之第八十九 伊香郡第二)




*【淡海國木間攫】
《(坂田郡)黒田ノ庄
當庄本郷村ニ黒田氏世々在城ナリ。元祖ハ黒田宗満ト號ス。或ハ判官氏種トモ云、代々相續ニテ豊後守三代同號アリ。諸家ノ記録ニ豊後守事顯ハル。京極家ノ末流ニハ黒田氏、高誉ノ家ナリ。當國ノ黒田氏此一家ナリ。伊勢國三家アリ。伊勢ノ黒田氏ハ平氏ノ由。又、當國伊香郡黒田村ニ、宗満ヨリ代々居城ト云。明ニ知レ難シ。後裔國朝ニ於テ諸侯トナリ、今筑前州ニ封ヲ受テ甚榮ヘタリ》

2   播磨黒田氏元祖は、赤松円光、氏祖(初代)は、円光の子・重光である。
 では、播磨黒田氏の方はどうかというに、その起源はまったく明確である。
 すなわち、荘厳寺本系図によれば、播磨黒田氏の元祖は赤松円光である。この円光という人は、赤松円心の弟である。その子・重光が、黒田氏の氏祖(初代)である。したがって、黒田重光は赤松円心の甥にあたる。かくして、重光を氏祖とする播磨黒田氏は、赤松庶流である。
 したがって、黒田官兵衛の先祖は、播磨赤松流黒田氏である。この事実が、荘厳寺本系図によりはじめて明らかになった。
 これまで、荘厳寺本系図は埋もれたままで、不完全な異本系図(黒田区有系図)しか知られていなかった。そのため、研究者の間でさえ、播磨黒田氏が赤松庶流だとは知られていなかった。しかし、荘厳寺本系図によって、黒田官兵衛の先祖は、近江佐々木流黒田氏などではなく、播磨赤松流黒田氏であるということが明確になったのである。これが、我々の研究以前には知られなかった、黒田家前史に関わる真実の一つである。



荘厳寺本系図 冒頭

3   播磨黒田氏の根本地は、播磨国多可郡黒田庄であり、その居城は同地の黒田城である。
 黒田氏初代・重光は、観応二年(1351)多可郡黒田城に移り、黒田庄五千貫を領し、黒田志摩守を称した。これが播磨黒田氏の起源である。しかも系図には、観応二年の三月十一日とその月日まで明記する。代々黒田氏はこの日を創始記念日として言い伝えたのである。
 このように黒田氏は、初代重光が多可郡黒田城を居城とするようになったときを起源とする。かくして、播磨黒田氏の根本地は、播磨国多可郡黒田庄であり、その居城・黒田城は、現在地名でいえば兵庫県西脇市黒田庄町黒田にあった山城である。現在視認できる範囲にかぎっても、黒田城の曲輪遺構は山稜のあちこちにある。このことからして黒田城は相当規模の山城だったことがうかがえる。
 また平時に居住した構居も、その一部が「搆」という字名で残り、播磨黒田氏菩提寺・円光寺の跡地や、構居の表門その他の史跡が、江戸時代まで言い伝えられていた。
 これに対し、近江説はその根本地を伊香郡黒田村とする。そこには現在屋敷跡といっている場所があるが、むろん黒田城と呼びうるほどの何の城址もない。江戸時代の近江の地誌にも、黒田城址について何の記録もない。ようするに、伊香郡黒田村には黒田城が存在した痕跡がない。それが近江黒田村説の実態である。


黒田城址

4   初代重光以来、黒田氏は、多可郡黒田城主として九代・二百年余にわたり同地に存続した。
 播磨黒田氏は、初代重光以下、重勝、重康、光勝、重貞、重昭、重範、重隆、治隆と、九代にわたって多可郡黒田城の城主であった。この間、二百数十年である。
 代々当主の名をみると、重光以下「重」字を多く用いている。それが播磨黒田氏の特徴である。あるいはまた、当主だけではなく、代々その妻も法名命日が明らかである。
 このように播磨黒田氏は、代々当主が明確であるが、これに対し、近江説の黒田氏はそれが明らかではない。貝原益軒が作成した黒田系譜は、黒田宗清以下、高満、宗信、高教、高宗、高政、重隆と、一見累代が明らかなようであるが、むろん『寛政重修諸家譜』の指摘にあるように、高宗から重隆に至る代数が足りない。
 そもそも『寛永諸家系図伝』には高宗以後、重隆以前を不明としこの間を「中絶」とするし、『寛政重修諸家譜』でも、その見解を踏襲している。ようするに、重隆以前が不明で、近江と播磨の間がつながらないのである。
 貝原益軒が書いた黒田系図は、江戸時代を通じて最後まで公認されなかった。このことを明確に指摘する者は今日では少ない。だが、貝原益軒による黒田家前史代々は、もともと『江源武鑑』のあやしげな記事に依拠したもので、根拠薄弱な作物だったのである。

*【播磨黒田氏系図】
 
○赤松円光─黒田重光─┐
 ┌─────────┘
 └重勝―重康─光勝─重貞┐
 ┌───────────┘
 └重昭─重範─重隆┬治隆
           │
           └孝隆


*【筑前黒田系図】
 
○黒田宗清─高満―宗信―高教┐
 ┌────────────┘
 └高宗―高政重隆職隆―孝高

5   黒田重隆の父は、近江説のいう黒田高政ではない。播磨黒田氏七代・重範である。
 姫路の古記にあるように、播磨の伝承では、黒田官兵衛の父は重隆である。その重隆の父はといえば、荘厳寺本系図に明記するように、播磨黒田氏七代・重範である。重範は重昭の子であって、永正八年(1511)の舟岡山合戦に武勇を顕すとある。また、大永七年(1527)浦上追討のため摂州へ出向き、一族百三十騎を率い勇猛無比とある。
 重範は天文三年(1534)五月十九日卒、法名は相空院法識覚性大禅定門である。その跡目を継いだのが、官兵衛の父・重隆である。
 これに対し、今日の通説では、重隆の父を近江の黒田高政とする。これは貝原益軒が書き出した『黒田家譜』の説によったものである。『黒田家譜』は、高政が近江を退去し備前へ移ったという。しかし、貝原益軒のこの筋書の出所はどこにあるかというと、これまた『江源武鑑』のあやしげな記事なのである。
 寛永年中に堀杏庵が作成した黒田系図は、『寛永諸家系図伝』でその内容が知れるが、そこには「黒田高政」などという名はない。堀杏庵は『江源武鑑』のいう黒田高政なる存在を認めない。京極氏系図はじめ、近江佐々木流のどこにも、その存在を確認できないからだ。いわば黒田高政なる者は『江源武鑑』の作者が案出した架空の人物である。
 貝原益軒は、『江源武鑑』の作者が作り出したその黒田高政なる人物を、そのまま流用している。しかし『江源武鑑』には、その高政が黒田高宗の子だという記事はないし、そもそも「黒田高宗」なる人物が出てこない。高政が黒田高宗の子だというのは貝原益軒の創作である。そうして本来つながらない高宗と重隆の間を無理やりつなげてしまったのである。
 言い換えれば、この点では、『寛永諸家系図伝』の黒田系図から脱線し、虚構性を増大させてしまったのが、貝原益軒作成の系譜である。


荘厳寺本系図 重範・重隆



*【寛永諸家系図伝】
 
黒田宗満─宗信―高教―┐
 ┌──────────┘
 └高宗───────―┐
        此間中絶
 ┌──────────┘
 └重隆―識隆―孝高

6   黒田重隆は、近江国伊香郡黒田村生れではなく、むろん近江から備前へ移住したこともない。
 黒田重隆は八代目多可郡黒田城主である。もとより播磨生れの人である。ところが、貝原益軒のストーリーでは、黒田重隆は近江の黒田村生れである。しかもこれは、ネタ本の『江源武鑑』でさえ、そうは書いていないから、貝原益軒が創作あるいは捏造した箇処である。
 『江源武鑑』は黒田重隆を高政の子だと設定したのだが、重隆を備前生れとする。堀杏庵の黒田系図は、重隆を高政の子だとはしないが、それにしても、『江源武鑑』の記事を流用して、重隆を備前生れとする。だから、重隆を近江産だとするのは、まったく貝原益軒の創案だったのである。
 そうとは知らないのが、今日の通説信奉者である。重隆が近江生れで、父高政と一緒に備前へ移った、という貝原益軒創作の荒唐無稽なフィクションを鵜呑みにしているのである。
 もっとも、その備前の住地にしても、それを邑久郡福岡とするのは、これも貝原益軒の創案である。もともと『江源武鑑』には、「備前赤坂福岡」というわけのわからぬ地名を書いているだけである。そうして寛永系図(『寛永諸家系図伝』の黒田系図)を作った堀杏庵は、これを「赤坂郡福岡」と訂正して、これまた所在不明の地名にしてしまった。それが貝原益軒以前の話である。だから、「備前福岡」といっても、元来は『江源武鑑』のフィクションから出たもので、もちろん実在の邑久郡福岡とは何の関係もない話なのである。
 もっとも、備前の地誌には、黒田高政や重隆が邑久郡福岡村に居たという記事はない。『和氣絹』(宝永六年)をみると、この当時の備前では、黒田氏ははじめ小寺氏で、代々播磨の武士だという認識があったようだ。言い換えれば、黒田氏が備前から播磨へ移ったなどという話は、地元備前にはなかったのである。
 備前福岡の妙興寺には、黒田官兵衛の先祖の墓所というものがある。ただしその墓碑は刻銘が磨耗して、実際には誰の墓か不明である。しかるに、『備前國誌』(元文二年)には福岡村の妙興寺にある古墓の記事があって、それによれば、妙興寺の古墓は「赤松氏族の墓」だと云われているとのことである。
 この古墓が、現在黒田家先祖の墓だとされているものと同一か否か不明だが、少なくとも元文年間のこの段階でも、黒田家先祖の墓が妙興寺にあるという話はないのである。江戸時代中期に地元備前では存在しなかった話が、今日大いに興行されているのだが、これは妄誕奇怪の説と謂うべきであろう。



*【黒田家譜】
《黒田下野守重隆ハ高政の二男也。永正五年戊辰の歳、江州黒田の邑に生れ、いとけなふして父に從ひ備州福岡にうつらる》
*【江源武鑑】
《(二月)六日。佐々木黒田下野守重隆卒ス。五十七歳。此人ハ備前赤坂福岡ニテ生ス。父ハ黒田右近大夫高政トテ、江州旗頭ノ内ナリシガ、屋形高頼公ノ下知ニ背テ國ヲ退キシ人ナリ》(卷第九・永禄三年)
*【寛永諸家系図伝】
重隆 《黒田下野守。生國備前赤坂郡福岡



妙興寺 黒田家墓所
岡山県瀬戸内市長船町福岡


*【備前國誌】
《古墓。赤松氏族の墓と云ふ。福岡村妙興寺林叢の中に有り》(巻之十三)

7   黒田重隆の母は、佐々木氏証果院である。この証果院が黒田官兵衛の祖母である。
 荘厳寺本系図によれば、黒田重隆の父・重範の妻は、佐々木高信の女とある。この佐々木高信はまだ特定できないが、その名からすれば近江佐々木流京極氏の中に対応する人物が出そうである。
 それはともあれ、重範の妻は佐々木氏で、天文十八年七月二十七日卒、法名は証果院見洪妙観大禅定尼とある。この証果院が重隆の母である。そして、彼女が黒田官兵衛の祖母である。
 証果院は天文十八年(1549)歿だから、天文十五年(1546)生れの官兵衛が四歳頃まで生きていたということになる。この官兵衛の祖母のことは、我々の研究以前には知られていなかった。これから注目されるであろう女性である。
 なお、江戸時代、多可郡黒田村の人々は、荘厳寺の麓にある経塚を佐々木塚とも呼んでいた。これは、その名からしておそらく佐々木氏証果院と関わりのある遺跡であろう。
 ところで、この証果院の実家が近江佐々木流の武家ならば、それは興味深いことである。というのも近江説の淵源は、どうやらこのあたりにありそうだということになるからだ。黒田重隆の母が近江佐々木氏だという話が廻りまわって、いつの間にか、重隆を近江佐々木流の人にしてしまう誤伝が生じたのかもしれない。それもなきにしもあらず。
 しかし、重隆の父を黒田高政とする近江説では、高政の妻の名さえ知れない。つまり重隆の母だというのに、その名すら明記できない。というのも、もともと高政なる存在の情報が『江源武鑑』の記事以外に出所がないからである。『江源武鑑』に記さない以上、その女性のことは記せはしない。
 もっとも、貝原益軒にしても、黒田重隆の父だというのに、高政の法名命日すら書けない。もともと黒田高政が『江源武鑑』の中の架空の人物だから、そんな情報はどこにもなかったのである。

*【荘厳寺本系図】
重範 《妻者佐佐木兵庫頭高信女。天文十八年七月二十七日卒ス。法名證果院見洪妙觀大禪定尼》



*【播磨古事】
《則多賀郡黒田村において事の由を尋聞に、荘厳寺といふ山寺有。寺の麓に、經冢三ツ有て、佐々木冢共云由、村居の者教ける故、両人、荘厳寺に詣て住職に對面し、經冢、佐々木(冢)など云旧事を尋問といへ共、年歴隔りし事故、住僧も世俗の申傳の通り經塚とも佐々木塚共云傳へ候得共、昔誰人の古墳といふ事を不知》

8   黒田重隆の法名・卒年月日は、霊光院覚智性悟大禅定門、永禄十年八月十七日卒、である。
 江戸時代中ごろの十八世紀後期、姫路心光寺の過去帳を写した山口武乕によれば、黒田重隆の法名・卒年月日は、善峩宗卜禅定門、永禄七年二月六日卒とある。しかるに、黒田の荘厳寺本系図によれば、黒田重隆の法名・卒年月日は、霊光院覚智性悟大禅定門、永禄十年八月十七日卒である。
 このように双方の記録がまったく異なっているのが、おもしろいところである。では、なぜ、このように重隆の法名・卒年月日の相違が生じたのか。
 実はこれには決定的な要因がある。それはつまり、黒田官兵衛が高山右近らの導きで入信しキリシタンになって、以来、長年非常に熱心な信徒だとして、イエズス会報告書にも特記されており、死去に際してもなおキリスト教式の葬儀を指示したという事実である。
 官兵衛のキリシタン宗入信は天正十三年(1585)で、まだ播磨にいたころである。それから死去まで約二十年もある。官兵衛は他の大名をキリシタンに導くなど、熱心な信者であった。官兵衛がキリシタン宗に帰依して以来、黒田家は仏式を廃した。その後、黒田家が仏教に復帰するのは、官兵衛の死後、長政によってである。このように長期にわたって仏式を廃したから、黒田家が播磨を去って九州へ移ったということもあって、過去帳等、法名命日の記録が失われたものらしい。
 のち長政は仏教に復帰して、小寺氏菩提寺の姫路心光寺に、重隆とその妻(松誉禅尼)、及び父如水の位牌を納めた。おそらくその折に、心光寺で法名命日を設定しなおしたのであろう。
 心光寺過去帳の法名命日は、長い仏式中断の後に、整備されたものである。これに対し、荘厳寺本系図の法名命日は、多可郡黒田城下にあった播磨黒田氏菩提寺・円光寺の記録によるものとみなしうる。とすれば、こちらが本来のものである。


心光寺過去帳写
播州妻鹿村御塔記


9   小寺職隆は、黒田重隆の息子ではない。両者に父子関係はない。職隆は小寺氏である。
 姫路の古記をはじめ、播磨の伝承では、黒田官兵衛は姫路の小寺職隆〔もとたか〕の養子になったということである。これは荘厳寺本系図でも同じ記事がある。
 この小寺職隆は、播磨の伝承によれば、小寺則職の子である(播州古城舊跡抜書、播磨鑑、姫路考略記)。小寺氏は元祖頼季以来赤松家の重臣であり、目代として姫路城を預かった。小寺政隆の頃になると赤松被官を脱して独立勢力となり、御着城を築いてそれを居城とするようになったという推測もあるようだが、実際はそうではない。
 むしろ小寺氏は、三木城の別所氏や龍野城主・赤松政秀らとはちがって、あくまでも置塩城主・赤松氏(置塩殿)に属し、その有力な味方であり続けている。置塩赤松氏と小寺氏はいわば「中播枢軸」を形成して、別所氏や龍野赤松氏と対立抗争していた。若き「小寺」官兵衛の主戦場が、置塩城下であるゆえんである。
 小寺職隆は則職の嫡子(長子ともいう)で、生れたときから小寺氏であり、父・則職の家督を嗣いで、父と同じく「赤松目代」として置塩殿(赤松氏)から姫路城を預かっていた。
 そしていうまでもないが、黒田重隆と小寺職隆の生年は十六歳しか違わない。こんな年齢差では、いくら何でも実の父子ではありえない。この小寺職隆が重隆の実子であるはずがない。
 しかも、職隆は小寺氏の生れで、姫路城主・小寺則職の息子である。多可郡黒田城主・黒田重隆の子であるはずがない。むろん播磨の固有伝承には、職隆が重隆の子だというそんな話はない。
 ところが、『黒田家譜』の貝原益軒は、職隆は黒田氏であって重隆の子だとする。播磨からするとこれはまるで珍説だが、むろん貝原益軒は播磨に取材してそう書き出したのではない。益軒の典拠はまたもや『江源武鑑』のあやしげな記事であり、ようするに播磨の事情に無知な近江産の謬説である。

*【小寺氏系図】
 
○頼季―景治―景重―職治┐
┌───────────┘
└豊職―政隆─則職┬職隆┬則隆
         │  │
         │  └=孝隆
         │
         └政職─氏職



置塩城址 姫路市夢前町町村


*【江源武鑑】
《(八月大)廾三日。佐々木黒田美濃守源識隆卒ス。行年六十一歳。法名宗圓。下野守重隆嫡男ナリ》(卷第十八・天正十三年)

10   黒田官兵衛は、重隆の孫ではなく、息子である。重隆―職隆―孝高という三代嗣系説は、近江
  原産の虚説である。
 黒田官兵衛の故郷、播磨の伝承によれば、官兵衛は多可郡黒田村の黒田重隆の子である。姫路の古記にそう記すし、むろん荘厳寺本系図にはそれを明記している。
 したがって官兵衛は重隆の息子であって、孫ではない。ところが、今日の通説では官兵衛は重隆の孫だとする。これは『黒田家譜』に拠ったものである。貝原益軒は、上記のように『江源武鑑』の謬説をそのまま流用して、小寺職隆を黒田重隆の子にしてしまう。そのことから、重隆―職隆―孝高という三代嗣系説が出るのだが、むろん小寺職隆を黒田重隆の子だとするのは誤りであるから、この三代嗣系は虚説である。
 『江源武鑑』には黒田官兵衛は登場しない。この重隆―職隆―孝高という三代嗣系説は、寛永年中に黒田系図を作成した堀杏庵の発案である。堀杏庵は『江源武鑑』の職隆を黒田重隆の子だとする虚説を流用して、これに孝高は職隆の子だとする自説を加え、この三代嗣系説を書き出したのである。
 『黒田家譜』の貝原益軒は、この堀杏庵の創作を流用したまでのことである。つまり、重隆―職隆―孝高という三代嗣系説の最初は、これまた播磨のことを知らぬ近江関係者の作物である。
 なお、『黒田家譜』の貝原益軒は、職隆を備前福岡生れにしている。これは職隆が播磨の小寺則職の子だということからすれば、まったく荒唐無稽な妄説である。
 『寛永諸家系図伝』をみれば、堀杏庵の黒田系図では、職隆は播磨姫路の生れと記している。こちらの方がまだしもまともな話である。もともと堀杏庵が播磨姫路生れとした職隆を、貝原益軒がわざわざ備前福岡生れに書き変えたのだが、これは改竄というべきである。貝原益軒の『黒田家譜』には、しばしばこの種の恣意的な改竄操作があって、近江原産の虚説からさらに脱線する格好である。




黒田氏関係地図



*【黒田家譜】
《黒田美濃守職隆ハ重隆の子也。大永四年甲申の歳、備前國邑久郡福岡の城に生る。初の名、兵庫助と云。後に父と共に幡州姫路に移り住り》

*【寛永諸家系図伝】
識隆 《美濃守。生國播磨姫路

11   黒田官兵衛には兄があり、その兄・治隆が、黒田城主・重隆の家督を継いだ。
 姫路の古記は、官兵衛は黒田重隆の嫡子(実子)だとする。だが、これだけだと、官兵衛に兄弟があったかどうか、それがわからない。
 しかるに荘厳寺本系図によれば、重隆の息子として二人が記されており、一人は左衛門尉治隆で、もう一人が官兵衛尉孝隆である。つまり、これまであまり知られなかったことだが、官兵衛には実兄というべき人があったのである。
 この兄の治隆が重隆の世子(後継者)で、弟の官兵衛の方は、姫路の小寺職隆の養子になった。
 ところが筑前黒田系図では、官兵衛の実兄・治隆の存在は、跡形もなく抹消されている。他方、官兵衛の兄弟とされる者に、利高・利則・直之の三人がある。これはいづれも小寺職隆の息子たちであり、官兵衛からすれば義理の兄弟である。筑前黒田系図に取り込まれた職隆の、いわば「連れ子」である。
 そうして奇怪なことには、職隆の兄弟、つまり小寺高友(休夢)、井手友氏、松井重孝の三人を重隆の子にしてしまっている。これは後世の系譜操作で、小寺職隆を黒田氏の嗣系に取り込んだ結果生じた副産物である。
 ようするに、後世、しかも異国で作られた黒田系図を信じすぎると、播磨黒田氏どころか、小寺氏の系譜まで侵蝕変形することになってしまうのである。それを警告しておく。

荘厳寺本系図 末尾

*【筑前黒田系図】
 
○高政―重隆職隆孝高―長政
      │  │
      ├高友├利高
      │  │
      ├友氏├利則
      │  │
      └重孝└直之

12   播磨黒田氏嫡流は、九代目・黒田治隆の戦死により、滅亡した。
 官兵衛の兄・治隆は、父・重隆の跡目を継いで九代目黒田城主になった。この治隆が最後の黒田城主である。
 荘厳寺本系図によれば、治隆は、石原掃部助、赤井五郎と戦って打死にしたとある。ここにいう石原掃部助は、川向う近隣の石原城主である。他方、赤井五郎とあるのは、当時、加古川上流の丹波国氷上郡を拠点に勢力のあった赤井氏で、後屋〔ごや〕城主・赤井家清の子の五郎忠家であろう。当時赤井氏は、忠家の叔父・荻野直正が主導して、丹波西部に優勢を極めていた。
 石原氏は、黒田氏と姻戚関係にあったのだが、石原掃部助が黒田城の治隆と合戦したというから、昔からの黒田氏との同盟関係を断って、この優勢な赤井与党に転じたらしい。
 と、当初はそう思われたが、その後、石原氏ご子孫の過去帳を拝見する機会があって、そうではなかったことが判明した。黒田城を攻め落とした石原掃部は信州出身、赤井(荻野)直正の聟で、赤井党の人であった。したがって、黒田城を落城をせしめた石原掃部は、かつて黒田家と姻戚関係にあった石原氏とは違ったのである。
 黒田氏系図には《自是黒田城廃ス》とある。この敗戦、治隆の討死により、多可郡黒田城主としての黒田氏嫡流は滅んだ。これはむろん重隆歿後、おそらく元亀年中のことあろう。
 とすれば、黒田官兵衛は当時二十代半ばであり、すでに小寺職隆の家督を継いでいる。そうした頃、官兵衛の故郷の黒田城は落城し、兄の戦死により播磨黒田氏は滅亡したのである。


戦国末期諸城地図

13   黒田官兵衛は、小寺職隆の実子ではなく、猶子(養子)である。
 改めていえば、姫路の古記には官兵衛は多可郡黒田村の黒田重隆の嫡子(実子)であること、小寺職隆の猶子(養子)になったことを記す。これは荘厳寺本系図にも同じ内容の記事がある。したがって播磨の伝承では、黒田官兵衛は、小寺職隆の実子ではなく、養子、義子である。つまり、
  (実父)黒田下野守重隆 → 孝隆(実子)
  (義父)小寺美濃守職隆 → 孝隆(猶子)
ということなのである。
 しかるに、今日通説になっているのは、黒田官兵衛は職隆の実子とするもので、この謬説が蔓延したままである。むろん通説が根拠とするのは貝原益軒の『黒田家譜』の記事以外にあるわけではない。
 前に述べたように貝原益軒は、職隆は重隆の子であり、官兵衛は職隆の子だという堀杏庵の三代嗣系説(重隆―職隆―孝高)を流用したにすぎない。堀杏庵は官兵衛は職隆の子だと聞いて、これを実子嫡男だと錯覚したのである。むろん、貝原益軒が少しでも播磨をまもとに実地調査していたなら、まずこんな根拠なき謬説に陥ることはなかったであろう。
 江戸時代中期、天明年間に、職隆廟建設工事の役人として播磨へ来て、姫路周辺の古記や伝承を採集した山口武乕は、そんな貝原益軒の説に根拠がないことに気づいた。そうして、如水は重隆の子で、職隆の猶子というのが、本当ではないか、と註記している(『播磨古事』所収「播磨國飾東郡妻鹿村御塔之記」)。
 むろん山口は、荘厳寺本系図のことは知らない。姫路周辺の古記や伝承だけでも、官兵衛が職隆の実子ではなく養子だったことは知りえたのである。

*【荘厳寺本系図】
孝隆 《官兵衛尉。小寺美濃守職隆猶子トナリ、姫路城ヲ守ル》


*【播磨伝承黒田家前史】
 
   多可郡黒田村住
 ○黒田下野守重隆―孝隆
           ↓猶子
  小寺美濃守職隆=官兵衛孝隆
    姫路城主







*【播磨古事】
《播рノて一覧せし諸記録に、黒田官兵衛孝隆ハ美濃守職隆の猶子と記せし事見へ侍れバ、如水公ハ下野守重隆公の御子にて、職隆公の御猶子なる事、実ならんか》

14   黒田官兵衛の実母は、小寺職隆の妻・明石氏ではなく、黒田重隆の妻・比延氏懿讃院である。
 荘厳寺本系図には、重隆の妻は比延宮内少輔常範女とある。この比延氏は赤松庶流で、頼兼以下、範安―範勝―範包―範秀―資信―實範―常範、と連綿として存続し、黒田庄南の多可郡比延庄にあった比延山城に拠った一族である。
 重隆の妻・比延氏は、その法名、懿讃院霞了妙惠大禅定尼とある。これにより彼女を「懿讃院」〔いさんいん〕と呼んでおくが、この懿讃院が官兵衛の母である。母方の祖父は、これも比延常範と明らかである。
 しかるに、『黒田家譜』の貝原益軒は、官兵衛の母を明石氏とする。これは官兵衛を小寺職隆の実子と錯覚したためである。この誤認は堀杏庵の錯覚をそのまま継承したものにすぎない。したがって他に根拠のある話ではない。
 職隆の妻は明石氏だということは知られていたから、貝原益軒は、彼女を官兵衛の生母とみなした。貝原益軒は、官兵衛は職隆の実子ではなく養子だということを知らなかった。そのため、職隆の妻・明石氏を、官兵衛の実母と誤認したのである。
 播磨の伝承では、むろん官兵衛は職隆の実子ではない。重隆の子である。ようするに、黒田官兵衛の生母は、小寺職隆の妻・明石氏などではない。多可郡比延山城主・比延常範の娘、懿讃院である。

*【黒田官兵衛の父母と祖父】
 
○黒田重範―重隆  ┌治隆
       ├――┤
○比延常範┬懿讃院 └孝隆
     |
     ├好種――好冬
     |
     └好範――種述 勝岡

*【黒田家譜】
《黒田勘解由次官孝隆ハ職隆の嫡子なり。母は明石氏。天文十五年丙午の歳、十一月二十九日辰の時、孝高を幡州姫路に生り》
*【黒田系譜】
孝高 《爲職隆之家督。母、明石城主明石宗和之女也。以天文十五年丙午之歳、十一月二十九日辰時、生孝高於幡州姫路城》

15   黒田官兵衛の産地(出生地)は、姫路ではなく、多可郡黒田村である。
 黒田官兵衛の出生地について、姫路の古記には、官兵衛は播磨国多可郡黒田村の産だと明記している。その黒田村の荘厳寺本系図によれば、官兵衛は多可郡黒田城主・黒田重隆の息子だから、同地の生れである。これが播磨固有の伝承だということは言うまでもない。
 ところが、貝原益軒は『黒田家譜』に、官兵衛を姫路生れとし、また『黒田系譜』には姫路城で生れたと書いている。これはどういうことかというに、官兵衛を小寺職隆の実子と錯覚した結果生じた誤謬である。官兵衛の実母を、職隆の妻・明石氏とするのと同じ臆測である。
 つまり貝原益軒は、官兵衛は職隆の実子だから職隆が居た姫路もしくは姫路城で生れたと見なしたにすぎない。官兵衛が職隆の実子ではなく養子だとすれば、むろん官兵衛が姫路もしくは姫路城で生れたということにはならない。そのていどの根拠のない話である。
 もし官兵衛が姫路生れなら、その地元、姫路の古記にその断片でも情報があるはずである。ところが、姫路の伝承には官兵衛が姫路生れだという話はない。
 むしろここで興味深いのは、姫路の古記に、官兵衛の出生地を姫路ではなく、わざわざ他所の多可郡黒田村の産だとすることである。思うに、姫路の伝承なら、それが事実でなくても、いわば我田引水をして、官兵衛は姫路の産だとしてしまいそうなものだが、そうではない。
 それゆえ、官兵衛が多可郡黒田村の産だということは、播磨では異説の出ようのない自明の話だったらしい。いかに姫路の文書でも、官兵衛は姫路の生れだとは書けなかったのである。
 黒田官兵衛は多可郡黒田村に生れて、姫路へ出てきて小寺職隆の養子になった。――それがまさに姫路の誰もが承知している伝承内容だったのである。
 この姫路の伝承を誌す古記の記事は江戸時代以来、長く孤立したものであった。我々にしても、『播磨鑑』に平野庸脩が収録した文書の記事を見ていたが、その扱いに難渋して、四十年ばかりも判断を保留していたのである。しかし、当の多可郡黒田村には、播磨黒田氏の系図、すなわち荘厳寺本「黒田家略系図」がのこされていた。我々が近年この史料を調査分析する機会を得たことによって、姫路の古記はようやく明確な傍証を得たのである。

*【心光寺旧記】
《小寺官兵衛祐隆[後改孝隆。氏改黒田、入道して如水ト云]、播磨国多可郡黒田村の産なり。其所の名に寄て、後黒田氏に改めて、當城に相續して居す[當城姫路ヲ云]》(播州妻鹿村御塔記所収)

*【黒田系譜】
孝高 《爲職隆之家督。母明石城主明石宗和之女也。以天文十五年丙午之歳、十一月二十九日辰時、生孝高於幡州姫路城




多可郡黒田村
 以上、黒田家前史に関する諸問題の要点を十五ヶ条にわたって列挙してみたが、結論をいえば、こと黒田家前史に限っては、黒田官兵衛の地元、播磨の古記や伝承を重視し、それに依拠する必要があるということである。
 『江源武鑑』の作者や寛永黒田系図を作った堀杏庵のような近江関係者、あるいは遠い九州福岡の貝原益軒、こういう者らが頭の中で考え出したにすぎないことに信憑性があるわけではない。播磨とは無縁な近江産や筑前産の作物だからである。ようするに、黒田家前史の真実をたづねるに、播磨のことは播磨に聞け、というわけである。


[播磨黒田氏 黒田官兵衛] 関連講演

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