黒田重隆は八代目多可郡黒田城主である。もとより播磨生れの人である。ところが、貝原益軒のストーリーでは、黒田重隆は近江の黒田村生れである。しかもこれは、ネタ本の『江源武鑑』でさえ、そうは書いていないから、貝原益軒が創作あるいは捏造した箇処である。
『江源武鑑』は黒田重隆を高政の子だと設定したのだが、重隆を備前生れとする。堀杏庵の黒田系図は、重隆を高政の子だとはしないが、それにしても、『江源武鑑』の記事を流用して、重隆を備前生れとする。だから、重隆を近江産だとするのは、まったく貝原益軒の創案だったのである。
そうとは知らないのが、今日の通説信奉者である。重隆が近江生れで、父高政と一緒に備前へ移った、という貝原益軒創作の荒唐無稽なフィクションを鵜呑みにしているのである。
もっとも、その備前の住地にしても、それを邑久郡福岡とするのは、これも貝原益軒の創案である。もともと『江源武鑑』には、「備前赤坂福岡」というわけのわからぬ地名を書いているだけである。そうして寛永系図(『寛永諸家系図伝』の黒田系図)を作った堀杏庵は、これを「赤坂郡福岡」と訂正して、これまた所在不明の地名にしてしまった。それが貝原益軒以前の話である。だから、「備前福岡」といっても、元来は『江源武鑑』のフィクションから出たもので、もちろん実在の邑久郡福岡とは何の関係もない話なのである。
もっとも、備前の地誌には、黒田高政や重隆が邑久郡福岡村に居たという記事はない。『和氣絹』(宝永六年)をみると、この当時の備前では、黒田氏ははじめ小寺氏で、代々播磨の武士だという認識があったようだ。言い換えれば、黒田氏が備前から播磨へ移ったなどという話は、地元備前にはなかったのである。
備前福岡の妙興寺には、黒田官兵衛の先祖の墓所というものがある。ただしその墓碑は刻銘が磨耗して、実際には誰の墓か不明である。しかるに、『備前國誌』(元文二年)には福岡村の妙興寺にある古墓の記事があって、それによれば、妙興寺の古墓は「赤松氏族の墓」だと云われているとのことである。
この古墓が、現在黒田家先祖の墓だとされているものと同一か否か不明だが、少なくとも元文年間のこの段階でも、黒田家先祖の墓が妙興寺にあるという話はないのである。江戸時代中期に地元備前では存在しなかった話が、今日大いに興行されているのだが、これは妄誕奇怪の説と謂うべきであろう。
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*【黒田家譜】 《黒田下野守重隆ハ高政の二男也。永正五年戊辰の歳、江州黒田の邑に生れ、いとけなふして父に從ひ備州福岡にうつらる》
*【江源武鑑】 《(二月)六日。佐々木黒田下野守重隆卒ス。五十七歳。此人ハ備前赤坂福岡ニテ生ス。父ハ黒田右近大夫高政トテ、江州旗頭ノ内ナリシガ、屋形高頼公ノ下知ニ背テ國ヲ退キシ人ナリ》(卷第九・永禄三年)
*【寛永諸家系図伝】
重隆 《黒田下野守。生國備前赤坂郡福岡》

妙興寺 黒田家墓所 岡山県瀬戸内市長船町福岡
*【備前國誌】
《古墓。赤松氏族の墓と云ふ。福岡村妙興寺林叢の中に有り》(巻之十三)
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